六、念仏していぞぎ仏になりて

『歎異抄講読(第四章について)』細川巌師述 より

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 この『歎異抄』の中で一番多く出てくる言葉は、一つは「信心」だそうです。私が数えたわけではないが、ある人がそう言われる。四十いくつか出てくるとのこと。その次が「本願」、「念仏」、「願」という言葉だそうです。「念仏して」とは、「信心決定して念仏する」といい、信心という問題がここにある。これは『歎異抄』の第一章から第三章まで度々出ているもので、弥陀の誓願が私に届く、そこに生まれてくるものが信である。その信ずるというところに私の口をついてくるのが南無阿弥陀仏という念仏であって、「念仏して」というのはこの念仏を言ってある。「本願を信じて念仏申す」、口先だけで念仏するのではなしに、信心決定して念仏申すのである。

 念仏申す身になるとき起ってくるものが二つある。一つは住正定聚(正定聚に住す)これを即得往生住不退転という。「念仏して」というところに生まれる事実は『大無量寿経』によれば即得往生住不退転といい、また正定聚に住すという。それが「念仏して」という内容である。これを本願成就という。ここに信心決定して念仏するということがある。『大無量寿経』には、
  諸有衆生
  聞 其名号
  信心歓喜 乃至一念
とある。乃至一念というのが念仏申すということ、下は一声の念仏に至るまでという。次に至心廻向、願生彼国といい、その背後に、即得往生、住不退転とある。これを本願成就文という。
 現代人には信心とか念仏とかいうことは、外国語みたいによくわからないものになった。しかしこれは大変な問題である。殻に閉じこもった存在が我々の生まれたままの状態であり、みんな皆そうである。この殻を自己中心とか煩悩とか虚栄心とか色々の言葉でいわれる。その殼が破れるということが信心の問題である。信心とはいわゆる信ずるというよりも、深い自覚、深い認識を表わしている。殻を破って出てくるところを表わしている。
 その殼を破るにはどうしたらよいか。それには三つの条件がある。一つは聞くこと、即ち聞法すること、聞いて聞いて聞きぬくことである。これが「聞其名号」の「聞」である。二つにはよき師よき友を得て、その人を通して(本当に仏道のよくわかっている人を通して)教を聞きぬくということ。これが「其名号」の「其の」であり、「名号」は南無阿弥陀仏即ち教である。教を聞いている人はたくさんいる。聞法の人はたくさんいるのであるが、誤りやすいものは何かというと「其の」が抜けやすい。即ちよき師よき友が抜けやすい。

 先日六月のある日、大阪の難波別院の暁天講座を頼まれて参りました。ちょうどその前日に私共の大阪の会があり、その次の朝でしたのでお引受けしたわけです。雨が降るのに二百人ほどの人が集まりました。こんな大勢の人に話をしますのは近来初めてで、びっくりしました。大阪の街の真中で、朝の七時から八時までという時間に二百人もの人が集まられるとは本当にびっくり致しました。これは決して私が有名なためではなくて、そのような歴史があるわけである。で、私などが参りましても多くの方が聞きにこられるというのは、十年以上も続いた会であって、毎月十日に講座があることになっている。
 それで聞いている人は沢山あるわけである。が、その人達の中でも本当に仏法のわかっている人はそう沢山はいない。どうしてわかるかというと、話していてわかる、聞く人は沢山あるが本当にわかった人はそう多くはない。
 本当にわかるためには先にも言うたように三つの条件がある。第一は聞きぬくこと、第二はよき師よき友を得て、その人を通して聞きぬく。も、一つ条件がある。それはかねて申すように「諸有衆生」、自己自身に対する深い自覚である。諸有とはあらゆる迷い、罪深いというか、罪悪深重、お粗末な私、そういう主体が私の中に確立されて、「諸有衆生、聞其名号」とならなければ「信心歓喜」にならない。これが大きな課題である。ただ聞けばよいというものではない。また、ただよき師よき友をもって聞いていればよいというものでもない。「諸有衆生」がキーポイントである。そこに「信心歓喜」が生まれて「乃至一念」となる。ただ光があればよいというのでもなく、ただ水があればよいというのでもない。光と水とを吸収して、やがて彼自身の中に熟するものがあって、彼自身が殻を破って発芽するということは、自分は殼の中に閉じこもった小さい小さい存在であり、罪深い迷い深い存在であると知ることである。それを親鸞聖人は「地獄は一定すみか」と言われた。それが「信心歓喜」となり「念仏する」ということになるのである。信心決定して念仏申すとはそのようなことである。この三つがなかなか揃わない。「聞」というのは案外多い。大分聞く人はある。が、「其の名号」ということになる人は非常に少ない。「聞其名号」という人は非常に少ない。そして益々少ないのは「諸有衆生、聞其名号」となる人である。
 諸有衆生、聞其名号のところに生まれるものが、即得往生、住不退転である。
 即とは何か。即座に、直ちにである。往生を得るとは何か。それを限定しているのは住不退転である。即座に不退転の位につくという。これを即座に正定聚に住すという。まさしく往生を得べき身に住する。即は即座であると共に即位である。位につくという。どういう位かというと、一度芽を切って出たら必ず伸びて、大さな木になるという因を得るのである。この因を住不退転という。即得往生、住不退転とは、もはや後ずさりをすることのない世界に住して、必ず仏道を成就する位置を与えられることである。
 龍樹は『十住論』の入初地品でこう言っている。「三悪道の門を閉じ、法を見、法に入り、法を得、堅牢の法に住し傾動すべからず。究竟じて涅槃にいたる」。親鸞聖人はこれを『教行信証』の行巻に引用してある。これが即得往生、住不退転ということである。誤ってはならないことは、即得往生とは即座に往生を得て仏になることとは違う。住不退転と続くということは即得往生を限定しているわけで、即ち往生を得る身と直ちに定まって、もはや後ずさりしない所に住して、必ず彼は一道を貫いていくということである。これを本願成就という。「信心決定して念仏申す」というところには、そういう事実がまき起るのである。
 「三悪道の門を閉じ」とはどういうことか。三悪道と三善道と合わせて六道という。三悪道とは、一番下を地獄という。ここは苦しみの世界で、どんな失敗をしても何の反省もなく苦しみが空しく繰返される。次が餓鬼で、いつも不平不満で足りない足りない、と言っている。更にいつも欲に引きずり廻されている世界を畜生という。これを三悪道という。このような世界がどこかにあるのでなしに、人間の状態をあらわしている。われらはそこに堕ちこんでいくのである。一歩転落すれば、ズルズルとそこに入っていくような所に人間はいるのである。
 これに一番近い所を修羅という。阿修羅の如くというように、いつも対立的な心で闘争的反抗的精神に燃えている状態を修羅という。いつも喧嘩腰である。阿修羅の上を人という。その上を天という。我々は人という所にいる。これを三善道という。考えるということのできる状態である。しかしながら三悪道との間に大きな門があって、いつでもそこに堕ち込んでゆく。それを三悪道の門という。
 仏道に立つとはどういうことか。それは大いなる世界に門が開いたこと。これを即得往生、住不退転という。涅槃への門が開いて往生を得べき身と定まる、これが即得往生。往不退転というのは、その門が開いて殼を破って一歩出たと同時に、三悪道への門は閉じられてしまって、堕ちこもうにも堕ちこめないようになった。これを龍樹菩薩は「三悪道の門を閉じ」と言われた。
 三悪道と三善道とはどこが違うのかというと、三善道の方は考える力がある。人間が人間である所以はパスカルが言うように「考える葦」であることにある。考えるというところに大きな特色がある。思慮分別があるというところに人間の意味がある。
 三悪道の方は無思慮であり、反省をもたぬ。三悪道の門が閉じるということは、自覚、に立つ主観の天地においては、自己の三悪道が自覚され明らかになってくることである。三悪道に堕ちないというのはそれが本願であり、仏によって閉ざされるのである。けれども閉ざされたというのは、私において無くなったというのでなしに、自己の三悪道がはっきりわかる、即ち主観の天地においては地獄一定のわが身であるとはっきりわかることが、三悪道を離れることである。主観的に自己において明らかになることが、客観的にはそれを超えるということなのである。そしてもはや三悪道に堕ちこむことがない。それを不退転に住すというそして必ず涅槃に入る位につき定まる。
 往生を得る身につき定まる。これを念仏する身となるという。往生を得る身につき定まるとは、法を見る、即ち仏法に本当に出遇うことである。見るというのは仏法が彼の前に現われること、「現」である。そして仏法が本当にわかってその中に入っていく、そして身につく。これを体得するという。そしてそこに住する。このような世界におかれるのである。
 それでは人間離れしたのかというとそうではない。身は六道に残っているのであるが、心は法の世界に入っていく。これを法に住するという。殼は破れたのであるが、まだ殻が身から離れない。が、もはや仏道に立つことにおいて動揺のないものとなる。そして遂に究竟じて(究はきわめる、竟はおわり)涅槃、大いなる世界に入っていくのである。これを正定聚といい、即得往生、住不退転という。これを「念仏して」という。
 従って「念仏して」というのは単に口先だけで念仏しているのでなく、進展である。世間道から大きな世界に向かって進んでいく。これを「法を見、法に入り、法を得、法に住する」、そして「傾動すべからず」、もはや傾けることも動かすことも出来ないような進展をしていくことを言っている。これを「念仏して」という。
 この前進の姿を往相の生活という。往は大きな世界への前進である。仏道に立って大きな世界を生きる姿を往相の生活という。
 往相の生活とは、彼が生活の方向を持っている、また前進力を与えられていることを言う。その方向とは彼の生活が「教行信証」という内容をもつことである。即ち教を聞いて、念仏して、信(深い自覚)を賜わり、証(深いさとり)をめざす。仏の世界をめざして教を更に聞いて実践し、深い自覚に立っていくという、教行信証という行き方をもつ。これを往相の生活という。生活の方向というと人はそれぞれに、自分の方向を持っていると考える。小学生は勉強して良い中学に入ろうと思い、中高校生は更に勉強して良い大学に入ろうと思う。が、それは方向ではない。これは目の前にぶら下っている一片の餌にすぎない。ただの目先のことである。餌を食べてしまったらまた別のを探さなくてはならない。そんなものでなしに、本当の自分の生きる方向である。それを生活の方向という。
 鉄片がある。この鉄片は方向を持っているか、持ってはいない。これが方向を持つにはどうしたらよいかというと方法がある。一つはたたく。鉄道のレールに鉄釘を置いておくと列車が通ったあと磁石になっている、子供の頃そんな経験がある。なぜそうなるかというと、鉄片の中では鉄の原子があちこちと色々な方向を向いている。そこで全体としては一つの方向を持たない。それをたたきつけるとその配列が変って、皆同じ方向を向く。統一されて一つの方向を向くようになると、磁性を持つようになる、一つの鉄片はたたけば鍛えられて方向を持つようになる。自分自身の中の雑多な方向、あれもこれもやらねばならぬと言っていたものが整頓されるのである。それには鍛えるということがいるのである。
 もう一つは、すでに方向を持っている物、即ち磁石で同じ方向にこする。こすることにより配列が変って方向を持つようになる。磁性を持つようになる。人間は本当は大きなものの名告りを聞きたい、本当の教を聞きたいという願いを潜在的に持っている。しかし実際には心の中でバラバラになっている。それが統一づけられると教行信証という方向の内容を持つようになる。それを往相という。
 われらの往相は、如来の還相によるのである。往相とは私が前進すること、還相とは向こうから働きかけてくることである。殻の中にいるドングリの往相とは何か。それは彼が方向を持つことである。そしてその方向に向かって前進することである。彼の中にある小さな胚芽が、よき師よき友という水と、教という光によってだんだんと大きくなり遂に発芽する。これを往相という。これは大きな働きかけによってできる。この働きかけを仏教では還相という。大きな世界からの働きかけがわれらの往相となる。これを「謹んで浄土真宗を案ずるに二種の廻向あり、一つには往相、二つには還相、往相廻向とは教行信証なり」という。如来の働きかけによって、信心決定して念仏申すということができるのである。
 私の所は田舎で色々の木が自然に生える。実生という。よく出来るのは杉、松、桧、楠。これらの小さな苗を集めて若木にする。それが私の楽しみの一つです。小さい杉の苗が十本も十五本も出ているので、どんな親杉があるのかと思って見ると、それはまだ若い十五年もたたないような杉である。この杉からこんなに沢山の子杉が出てきている。私はこの時、この杉に対して大変恥ずかしい思いをする。この小さな杉がこんなに沢山の杉を生産する力を持っているのに、この私は本当に力がなくて、念仏の人を育てる力を持たないことを懺悔する。しかしながら杉の苗木はひとりでに種子から出てくるのではない。必ず大自然の背景のもとに出てくるのである。杉の実自身は発芽の力がない。われらの往相も同じことである。われらが発芽して出ていくのもまた大きな働きによるのであって、それを如来還相といい、如来の廻向という。われらの往相は如来の徳のあらわれである。法を見、法に入り、法を得、法に住し、伸びていくままに如来の徳があらわれ出るのである。人は自分自身の中に深く三悪道にいる自分を見出して、ただ念仏して進んでいくというスタートを切ったのであるが、そこに香り出るものは如来の徳である。如来の還相によって彼の往相が始まっているからである。彼には力と方向がある。その力と方向は彼自身の上にあるままに、それは彼自身の背景の働きである。如来の働きが彼からにじみ出ている。この往生浄土において人は伸びてゆく。そこに、同時に人生への深い愛情を持つ、その愛情も如来の徳である。親鸞聖人は、念仏の人は常行大悲の徳を持つと言われた。「念仏の人は常に大悲を行ずる人である」とある。それは意識的にやっているのでなしに、無意識の底に動いている如来の徳がそのような働きをしてくるのである。信心決定して念仏していく者の上に慈悲があらわれ出てくる。
 聖道門は、我こそは愛の行者であり、慈悲の実行者とならねばならぬという立場である。浄土門はそうではない。自分自身には深い限界、固い殼に閉じこもっている冷たい自己を深く認識しながら、殼を破って一歩の前進をしていこうとしているままに、却ってそこから愛情が沁み出るようになっている。従って浄土の慈悲は、自分では愛情を肯定できない。私は慈悲をもっているなどとはとても言うことはできない。
 還相とはかえってくるということである。「いそぎ仏になりて」の仏となるとは、大きな天地、即ち涅槃の世界に至って覚者となること。我々の人生を此岸といい、此岸のかなたを彼岸という。また涅槃といい、大いなる世界という。此岸にいる者を凡夫といい、彼の世界にあるものを仏という。人生から彼岸へという進み方を往相という。小さな殼の中に閉じこもっている世界が人生である。それから一歩出た世界を彼岸といい、仏の世界という。
 往相とは、念仏していそぎ仏になる道に立つこと。人生にあって凡夫であったものが、正定聚不退転の世界に出される。殻が破れて芽が出た。これが正定聚である。すると必ず涅槃に至るべき出発点におかれる。これを即得往生、住不退転という。体は人生にいながら、芽はこれを超えて出ている。肉体がなくなった時に全体が彼岸に入るわけで、これを仏となるという。
 仏になったならばその世界にとどまっているのでなしに必ず還ってきて、人生に生きて働きかけようとする。それを還相という。涅槃に生まれた者は必ず人生に還って、人生において大慈大悲心をもって働きかけをする。これは仏の願いであって、これを還相廻向の願という。還相の道に立つ。それは我々の人生の果てる所、此岸から彼岸に往生極まって仏となったとたんに、また還ってくるのであるという。それを第二十二願という。
 還相の働き、還相の徳を普賢の行願という。『華厳経』に普賢の行願を説いている。
1.敬礼諸仏 彼の世界から此の世界に還って、この人生にたちかえってきて働きかけをする。その人は諸仏を尊敬し合掌礼拝する、人生に還ってきて沢山の人に働きかけるのかというと、さにあらず。先ずすることは諸仏の世界に向かって深い尊敬と礼拝をささげるのである。
2.称讃如来 称も讃もほめたたえる。如来をたたえる。称名念仏である。
3.修供養 供養とは仏の召しあがるもの、必要なものを供える。必要なものとはお花、お香、音楽、打敷、この四つをお供えする。も一つは仏の説法を深く聞く。これを供養諸仏という。物をさしあげることとお話を聞きぬくことである。
4.懺悔業障 自分の罪業、自分のあやまりを仏の前に投げ出してお詫びを言う。彼の対象はことごとく仏である。
5.随喜功徳 仏の徳を共に喜びほめたたえる。
6.転法輪 法輪を転ずるとは私に説法をして下さること。仏法を私のためにわざわざ説いて下さること。それを請う。仏よ、どうぞ私のために法を説いて下さいと願う。
7.請仏住世 仏の世に住したまわんことを請う。如来よ、どうぞ末長くわれらのために此の世にとどまりたまえと願う。
8.常随仏学 常に仏に随って学ぶ。以上の八つは還相の人の自利である。供養諸仏である。仏に対する自己の姿勢の確立である。彼が仏の方を向いているということである。
9,恒順衆生 衆生に常に従っていく。従っていくとは随順ということ。その人達を引っぱっていこうとするのでなく、随っていこうとする。随っていくというのを現代的に言えば、友よ!と呼びかけてどうか仏法を聞いてくれよと願いながら彼に順じていく。彼をおさえつけ、命令して聞かせるのでなく、彼について離れない。そういう姿を随順という。
 私の寮に神経質の人がいる。だんだんよくなりつつある。仏法が耳に入って少しずつなおってきた。新しく寮に入れたいとお母さんが神経質な子供をつれてきた。しかし子供の方は厭で厭でしょうがない。念仏だとか信心だとかいう話がわからないし、仏法は聞きたくないという。私は子を預かる時には親も一緒に聞法しないといけないことがわかった。親子共々に仏法を聞くというのでないと、なおるものもなおらない。で、親子共々に聞くようにと言う。初めは親子で聞いても、そのうち子が聞かなくなる。すると親が愚痴を言う。なかなか聞いてくれないと。首に縄をつけて引っぱって来てもつまらない。仏法を聞くようになるのには時間がかかる。これを知っていなければならない。自分自身を考えるとよくわかる。子には、友よ聞いてくれよと願うしかない。これが随順衆生である。
10.普皆廻向 自分の持っているものを与える。私の得たもの、人から讃められたことばを仏にお返しをする。
 この十の行願をみると、彼のやっていることの殆んど全部は仏に対する往相の道である。それは往相である。還相の人はこの人生においては往相の人である。従って往相の中に還相があるといわねばならない。還相の働きとして説かれる内容は、実は往相の働きの中にある。自分自身が前進し仏に向かって生きているままが、往相即還相である。往相がそのまま還相である。往相を除いて還相はあり得ない。「いそぎ仏になりて大悲大慈心をもて思うが如く衆生を利益する」といってあるが、仏となってそれから此世に還ってきても、往相の働きをするほかないのである。この文章は自己の主観の中に還相の意識がないことを示している。自己の中に還相の意識をもたない。主観の中に全くないものが現われてきているのが還相である。
 還相の道に立つということは、自ら前進することである。還相の道は往相の道である。この世において本当に世のため人のために働きかける人には、働きかけるという意識はないのである。
 還相の菩薩とは往相の人である。還相の人がもし現われたとしたら、彼は往相の姿をとるのである。
 ここに一台の電車がある。電流が流れてパンタグラフを上げたがまだ動かない。これはスイッチが入っていないからである。スイッチが入ると進みはじめる。進みはじめると電車の前のライトがつき、同時に後のライトがつく。前のライトを往相という。往相とは、教を聞いて念仏して、更に自覚を深めて本当の世界に立つという方向を持って進んでいくこと。この「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という方向が生まれてきたら、彼はその前に一つの電車を発見する。その電車には後の方にライトがあり、私を照らしておられたということがわかる。それを還相の人というのである、私の前に行く還相の人を発見する。それが往相である。この人がなければ私はなかった。私のためのよき師よき友は、人間の姿をとり、煩悩をかかえた人であるが、私のために本当に働きかけて、友よ!と私を呼んでいて下さる還相の菩薩である。そういう還相の人を発見する。
 前を行く人自身はどうかというと、自分自身には往相の意識しかない。私から見れば還相の人、即ち大慈大悲心をもって私に働きかけ愛情をかけて下さる人であるのに、その人自身には自分の後に還相のライトがついているという意識はない。自分には往相のライトだけが目についている。往相の人は前進しかない。そしてこの人は更に、前にもう一台の電車を発見して、その人が自分に大慈大悲心を注いでくれたもう還相の姿を発見するのである。
 私が私の前を進む人を発見して、その人に導かれて進んでいく。よき師よき友を発見して進んでいく時に、不思議にも私の後に灯がつく。それを還相のライトという。しかし私自身には全く還相の意識がない。自分では後のライトはわからないのである。
 親鸞聖人は「小慈小悲もなき身にて、有情利益は思うまじ」と言われた。「智慧光の力より、本師源空あらわれて」とうたわれた。もしも源空上人に遇うことがなかったならば、「この度空しくすぎなまし」と言われた。自分は「小慈小悲もなき身」と言われ、還相の意識はないのである。前を行く人を尋ね拝んでいくしかないのである。「ただ念仏して」と念仏して前進するところに、知らずしてこの世において大慈大悲心が流れ出るのである。このことが示されている。
 浄土の慈悲とは何か。慈悲は私の自意識でない、自分が慈悲をもって人のために働いている、愛情をもって働いているという自意識をもたない。これを浄土の慈悲というのである。自分の自意識は往相であり前進である。その前進は如来の廻向である。愛情についての自意識がない。かえって自己以外の人に大慈大悲の人、愛情の人を仰ぐ。これがこの世に成立する最も純粋な慈悲の姿であり、愛情の姿である。自分自身は小慈小悲もないという深い自覚のところに、かえって如来の大慈大悲が生まれて来ている。これを「大慈大悲心をもて思うが如く衆生を利益するをいうべきなり」と言われた。それは、浄土に行って帰ってきて人々に働きかけるというのであるが、往相の中に無意識に一部分が発揮されていくのである。


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