五、浄土門(往生浄土門)

『歎異抄講読(第四章について)』細川巌師述 より

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 フロムのいうようなナルシシズムの克服はどうしたらできるのか。ナルシシズムとは自己愛着であるが、これを仏法では我見という。あるいは我愛という。我見と我愛とは離れないものであるが、それをどうしたら打ち砕くことができるのか。ナルシシズムを克服することによって謙虚さと客観性を獲得することができると言っているが、それはどうしたらできるのか。こういうことになるとさすがのフロムもあまり触れていない。なかなか大変なことなのである。彼は言っている。ナルシシズムを克服するには必須条件として信仰が要求されるということを言って、宗教に触れている。これは仏法に依らねばはっきりしない。ナルシシズムを超えるための信仰とはどんな信仰か。これを往生浄土門というのである。往生浄土門とは何か。浄土とは清浄真実の世界をいう。それが浄である。土といえば大地である。土とは支えとなりそこから始めてものが生まれてくるというような大地、それを土という。その大地を持つということを往生浄土門という。その大地に向かって進んでいくことによってナルシシズムを超えることができる。これを往生浄土門といい、略して浄土門といいます。

(1)第一の段階

 往生浄土門への第一段階は何かというと、それを聖道門という。聖道門とは自分で努力精進してゆく段階である。それを此土入証という。自らの努力と精進によって発芽をしょうという世界である。これが第一の段階で、あなたも私も君も僕もみんなここが出発点である。自己の知性を原点として、あらゆる誘惑を払いのけて努力し精進していこうという場が第一の段階であって、はじめから往生浄土門というのはありません。たとえ往生浄土の話を聞こうとも、先ず我々は自分の力でやろうとする。これを自己原点といい、知性を原点とするという。
 この第一の段階が変わっていくのはどうしてかというと、破綻がくるからである。この破綻は実際にやってみないとわからない。やらない人にはわからない。どんな破綻かというと、続かないのである。ゆきつもどりつという。これは知性そのものに問題がある。我々の知性を完全なものと考え、知性を原点にしてやってゆけば必ずできるのだという想定を我々は持っているが、その想定そのものが十分に吟味されていない。出来るだろうというだけで、本当にそうかと問われてみるとよくわからないのである。しかしながらなお我々はできると思っている。そこに問題がある。
 も一つの理由は、知性というものは常に対象化する。対象化とは向こうに見ることである。向こうに見る限り人はよしあしという分別、冷たい批判の立場に立つことを免れない。この対象化というのが知性の問題点である。
 先ず私共人間は大きな世界を知る能力を持たない。知性に立つ限り知性は分断化である。分断化とは、小さくひきちぎってしか考えられず、大きなものを知ることができない。
 私の処に鶏がいる。今三代一緒にいて、一番上はおばあちゃん。もうあまり卵を生まなくなったので人にやったりしているが、おばあちゃんが三羽残っている。次のがおばちゃんで、去年ひなを買って育てたもので卵をよく生む。これが八羽いる。また、この四月に四十日びなというヤングが十羽来てピヨピヨいう。これを育てると十月頃には卵を生むようになる。それぞれ別室にいる。彼等に草をやると大きいままでは食べきれない。嘴で少しずつちぎって、それを小さくして呑み込む。親鶏も同じ。このように彼が食べ、吸収し、知り得るためには小さくしていくしかない。これを分断化という。
 ヤスパースはその著書『哲学入門』で、知性の分断化によって二つの問題がおこるといっている。
(イ)小さくひきちぎることによって、そのひきちぎられたものは、大きなものとの関連、つながりが断ち切られる。
(ロ)また相互の関係が打ち切られてしまって、全体と似ても似つかぬものになる。
 知性では本当に全体をとらえられない。鶏が葉をつつく時でも、つつかれた葉は全体のごく一部であって、そのちぎられた小さな葉からはキャベツの葉全体をつかむことはできない。また、ちぎったもの同志の間に関連がない。これが知性という立場に立って大きな世界を知ろうとする危険性である。
 母の涙というものを考えるとき、涙の科学成分を分析したらどんなものになるかというような化学的知識、涙はどこからこぼれてくるかというような生理学的な知識、涙の一滴はどれだけの重さがあるか、比重はいくらであるかというような物理学的な知識をいくら集めてみても母の涙にならない。
 今「大きな世界」それを仏教といおう。キリスト教といおう。あるいは宗教の世界といおう。そこで、キリストはどこどこの国で何年に生まれ、どんなふうに育ったか。弟子は何人いてどういうふうな生活をしたか。このようなことをいくらつなぎ合わせてみてもキリスト教にならない。仏教も同じ、釈尊は何年頃生まれてどういうふうな生活をして、こういうお経を説いて弟子はどうであって、弥陀の本願というのはこういうもので……と、いくらつなぎ合わせてみても仏法にならない。人間の知性では大きな世界を知る能力をもたぬと言わねばならぬ。
 これを非常にうまく言ったのはアリストテレスである。彼は「大いなるものは常に主語であり、述語にならない」と言った。それはどういうことか。「私が如来を信ずる」というと私が主語であり、如来を信ずるは述語である。私が「如来を信ずる」というのはちょうどひよこが草を小さな嘴でつついて自分ののどを通る大きさにしているようなものであって、その如来というものは私に適応した小さいものに分断されているといわねばならない。私の方が大きいのである。「私が信ずる」限り、私の方が大きいのである。「私が信ずる」限り、私の方が大きくて向こうの方が小さい。知るということは全部そういうことであって、知っていることは分断された小さいものである。そこでアリストテレスは、主語と述語に分けて、大いなるものはいつも主語であって、述語にならないと言った。それでこそ大いなるものである。従って「私が如来を信ずる」ということは成り立たない。なぜなら大きいのは私であって、そこに考えられた仏は小さいのである。こういうのを対象化という。「私が如来を信ずる」という時には如来を分断化しており、我々は大きなものを考え、自分で努力してその世界に行こうとし、あるいはその世界を造ろうとするけれども、知性を原点として考えている限り、その世界は私より小さい。本当は「如来われを知ろしめす」でなければならない。如来が主語となり私の方が述語となってはじめて彼の方が大きいのである。しかるに我々の知性は「私が如来を信ずる」という立場をとっていくのであって、それを聖道門という。聖道門の立場は、自らの努力精進によって進んでいくというところに、非常に大事な行き方があり、けなげな行き方がある。即ち大きな世界をめざすといいながら、その世界は実は私より小さいのである。
 往生浄土門は自分の小ささに気がつく。これが浄土門のはじめである。知性を原点とするのでなしに、自己の小さなことに目がさめて、第二の原点、新しい原点、即ちよき師よき友の教、勧めを原点として進んで行こうとするのが往生浄土門のはじめである。

(2)第二の段階

 五重の義という蓮如上人の教から言うならば、一つには宿善、長い長い過去の因縁が働いてきてよき人に出遇う。二つには善知識、その教を蒙る。そしてそこに私の原点をおいて、その教によって育てられる。三つには光明。その光によって照らされ遂に深い信心という世界に出る。四つには信心、五つには名号、これを五重の義という。浄土門というのはどこから始まるかというと、よき人を得てその教を聞いていくところから始まる。そして本当に光に遇うて自己を照らし出される。それが「三つには光明」である。よき師よき友によって自己を照らし育てられ、教に照らし破られる。そこに大地を与えられる。
 親鸞聖人はこの大地を無量光明土といわれた。光の大地といわれた。光を大地とすることによって我々は照らし護られ摂取される。具体的には、仏まします大地、即ち仏法僧の三宝があって、それによって私が照らし育てられていくのである。法が中心である。法は南無阿弥陀仏の本願の名号である。その法を説く人が仏であり、それを行じている人が僧である。この三宝ましますところを浄土といい、無量光明土という。この世界を大地として育てられ、この中に摂取されていく。これを往生浄土門という。
 この私をナルシシズムの殼から大きく進展させるものは何かというと弥陀の本願である。この弥陀の本願の成就している天地を浄土といい、無量光明土という。その本願の世界から私に働きかけてくる。その本願にたすけられるとは具体的には第二章である。「よき人の仰せを被る」である。無量光明土といい本願の世界というのが具体的に私とつながるのは、「親鸞におきては『ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし』とよきひとの仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」という、よき人の仰せである。更に「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず」「仏説まことにおわしまさば、善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや」というように、よき人の仰せが深い深い伝統となって私に届いてくるということを示している。浄土は具体的にはよき人の仰せ、これはよき師よき友を得て伝わってくる。私に関係交渉をもってくる。かくして私に「ただ念仏」という教が生きて、そこに生まれるものが「他力をたのみたてまつる悪人」という自覚である。これが浄土門である。そこに他力をたのみたてまつる悪人という姿があらわれて、それを往というのである。往生浄土門というのである。はじめは自分一人で努力していこうと頑張っておったのであるが、遂に大きな大地を与えられた。その大地によき人の仰せを被りて進んで行こうというところに往生浄土門がある。そこに浄土の慈悲という問題が出てくるのである。
 浄土に対して、現実人生が私の住んでいる世界である。私が無量光明土という世界にふれるということが私的なものであれば、ただそちらを向いて進むというだけで、現実人生には無関係である。しかしそうではない。よき人の仰せを被って深い天地に進んでいくままが、人生に対する働きかけとなる。それを浄土の慈悲という。また還相という。往相即還相、往くままが人生にたちかえる、それを往還二廻向の働きという。それが与えられるのを浄土の慈悲という。
 その点から言えば聖道の慈悲は、人生に働きかけていこうとする一面しかもたなかったのである。それに対して浄土の慈悲というのは、自己自身は大いなる世界に向かって生きようとする往生浄土門に立つことが、深く人生に働きかけて還相の働き、即ち他への働きかけを自然に与えられる。即ち二面性をもつのである。
 還相の廻向とは、人生にたちかえって人生に働きかける働きを与えられる。それを廻向されるという。自分自身は大きな世界に向かって伸びていこうとするだけであるのに、はからずも人生に働きかける力を与えられるのである。往相はわれらの意識界である。一道を貫いて小さな殼を脱して大きな世界に生きるということが、私の意識の世界である。これに対し人生への働きかけは無意識界、私にはそれを意識することができない。即ち自然に他への働きかけが成り立つ。それを如来廻向という。
 親鸞聖人は「小慈小悲もなき身にて、有情利益は思うまじ」と言われた。自身は小さな慈悲も持ち合わせない。人々への働きかけや愛情などとても考えられる身の上ではない。たった一つ「弥陀の誓願、不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」ほかにない。聖人の意識の中には人のために働こうという思いはなかったし小慈小悲もなきわが身ゆえである。けれども実際は、この人の一生を思うと実に大きな社会的働きがなされている。七十六才から五百首に余る和讃をつくり、仮名文字さえ読めれば仏法がわかるように十年の年月をかけてつくられた。実に深い深い働きかけと言わねばならない。この和讃がどれほど人々の心をあたため、仏法に寄与したかはかり知れない。しかし親鸞御自身の意識には還相の意識はなかった。それは聖人の無意識界における自然の働きであった。
 一隻の船が全速力で走っていくならばその後には大波小波がたって皆をゆり動かす。その船自身は人をゆり動かそうと思っているのではなく、前進あるのみである。が、その前進が同時に他をゆり動かすような働きを持ってくる。彼自身には意識はなかった。還相の働きは無意識界での事実である。浄土門における慈悲は、自分自身が「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という教を蒙って、新しい原点をもって一道を真直に進んでいく。急ぎ仏になろうという願いをもって進んでいく。自分は今、力がないということに目覚めて、大きな世界に入って大慈大悲心を得て衆生を利益したいと、自分自身は唯進んでいるだけである。しかしその時無意識界裡に大きな働きがまき起って「末徹りたる大慈悲心」が現実にまきおこってくる。私の前進、往生浄土そのままが人生への働きかけとなってくる。それは本願によって与えられるからである。それを還相の廻向という。与えられているということが大変なことである。
 ここに小さなドングリの実がある。この実はドングリころころであったが、今大地を持って光と水を得てようやく発芽した。どんどん大きくなり根を張っていくそのままが、小鳥に巣を作る場を与え、人々に休む木蔭を提供し、人々はその緑を見て心慰められ、雨が降ればその水を根に吸収し、地下水に供給していくことができる。彼自身は伸びていくだけであるが、その伸びていくままが他への働きをするようになっている。伸びていくままが働きを備えてくるのである。それを与えられた力という。即ち身に備わってくる力である。努力して備えたのではない。作ったのではないが備わってくるのである。それを浄土の慈悲という。浄土門における慈悲というのは、自分自身においては「ただ念仏して弥陀にたすけられまいすべし」というしかない。それが同時に他への働きかけをはらんでいる。身についているのである。それを本願力廻向という。
 我々は大いなる世界を知る能力を持たぬ。しかし、遂に大いなる世界を認識し得ないならば、その世界は我々と無関係ではないのか。大きな世界を生きるという以上、その大きな世界がわからねばならない。それは我々の力ではわからないが、しかし遂にわかるものでなくてはならぬ。
 大いなる世界を知る力は、大いなる世界そのものの力である。大きなもの自体が大きなものを認識する力をわれらに与えるのである。
 ここに卵がある。その卵は白味と黄味と胚から成っていて、小さな殼をかぶっている。彼は外の大きな世界を知ろうにも知る力がない。しかしその卵に外からの大いなるものの働きかけ、今は具体的には親鶏である。親鶏が抱いてやると、卵に目や足や嘴が出て毛並みが揃って、そこではじめて認識能力というものが出てくる。それはどこから出てきたかというならば、与えられたというほかない。あるいは付与されたといわねばならない。その力は私の身について、もはや絶対に私を離れない、私の力となった。私に大きなものを見る目、大きなものを讃える口が付与されたのである。これを廻向という。一面から言えば自己形成であるが、それは大きな世界からの付与である。このような働きかけを如来の行という。この働きかけはよき人の仰せを被りて、即ち十七願海からの働きかけを通して私の上に生まれてくるものであり付与されてくるものである。それを私においては他力の行という。大いなる能力を知る力は、大いなる世界からの付与である。
 如来が具体的に我々の世界に生きてくる姿をよき師よき友という。親鸞聖人においては法然上人であった。法然においては善導というお方であった。本願はよき師よき友の働きを通して出てくる。その働きが至り届いて、私の上に生まれるものが信である。この信はどのような姿で成立するか。前にも述べたように蓮如上人は御文章に、一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号といわれている。宿善開発して善知識に遇う。しかしそこで信心ではない。善知識に遇うて信心とは言ってない。三つには光明がなければならない。これが大切なことである。
 光明とは何か。それは私を照らすものであって、私の姿を明らかにするのである。そこに生まれるものが信である。即ち自らにめざめるということにおいて信は成り立つのである。それを機の深信という。機の深信というものが成り立つところに、法即ち本願が届いている姿がある。即ち法の深信と機の深信は不離である。これを光明に照らされるという。
 大いなる世界を知る力は如来にある。大いなる世界を知る能力が我々に生まれてくるのは、光明のお照らしに遇うからである。光明のお照らしに遇うと、如来の眼にうつる私の姿が、私において「これが本当の私」とわかる。そこに仏の智見が私に成立しているのである。大いなる世界を知る能力はただ仏のみである。唯仏独明了である。この仏の智見が私の知見として成り立ってはじめて、我々の上に大いなる世界を知るということがある。
 光明の光に照らし出される姿とはどういう姿か。如来の眼にうつる私の姿は、それを五逆謗法という。涅槃経には更に厳しく謗大乗といい、五逆といい、更に闡提といって、難化の三機、難治の三病と言われている。『大経』においては、五逆とは父母を殺し、師、友、仏に大きく反逆している者、恩知らずという。謗法とは仏法を謗る。自分の生活の中で仏法を無視して生きている自己。我々はそういうのは何とも思わず過してきた。それがあたりまえだと思っている。自己肯定の我々である。が、如来の眼から見るとそれを五逆と言われ誹法正法といわれ下々品といわれる存在である。それが私において、よき人の仰せを被りお照らしに遇って「これが本当の私」とわかるところに生まれている私は、如来の眼にうつる通りの逆謗の自己である。如来の眼にうつる私の姿が我々の認識となっている。それを如来廻向の信という。仏のみ知り給う、仏の智見が私の智見として自己を知る。これを機の深信という。わが機に目がさめていくところに法即ち仏の智見が生まれてきている。そこに私の上に本当に思いもかけない如来の智慧が生まれて下さった。「これが私」と、私が私の姿にめざめ懺悔するままに、如来が我々に生きて私となっている姿がある。
 私に生きるこの如来の成立が、人生に働きかけていく徳をもっている。それを現生十種の益(やく)という。益は利益である。その一つを常行大悲の益、常に大悲を行ずる益という。親鸞聖人はこれを『教行信証』信の巻の末にあげられている。それは働きをあらわす。私が働くのではない、私の上に成立した如来の能力そのもの、如来の力そのものが私の無意識界裡に働いて、常に大悲を行ずるという働きをする。
 浄土の慈悲というのは浄土門における慈悲である。私においては大いなる世界に進んでいこうという願い(これを願往生という)が与えられている。信は往という働きを与えられていて往相の信心ともいう。しかし同時に信の中に還というもの、即ち人生にたちかえって、他への働きをなしていくというものが与えられている。信は私のうちに生まれながら、私を超えた如来の廻向のものがらであり、智慧である。それが自ら働いていくのである。これを還相廻向という。
 ナルシシズムを超えるには大きな世界を知るしかない。大きな世界を知ることを信仰というのである。E・フロムもナルシシズムを克服するには信仰が必須条件だと言った。信仰というけれども、我々は大きなものを信ずる力を持たない。我々の力では信ずることはできない。信ずるというのは大きな世界からの働きかけによって私の上に生まれてくるものである。
 彼来って我となるのである。それは仏の眼に映じた衆生われの姿を、私において「これが本当の私」と知らせて頂く、そこに成り立つ。それを懺悔、廻心懺悔という。如来廻向とは私において廻思向道である。自力の思いをひるがえして道に向かう。自力の思いとは深い自己肯定であり、対象化して考えることである。対像化という考え方をひるがえして道に向かわしめられる。それを廻心という。自分自身の中に五逆謗法の姿が映るとき、「これではいけない、何とかこれをたたきこわして……」と思う。それが対象化である。向こうに見ているから善いとか悪いとか、直さなければならないとか、このままではいけないとか思う。教によってだんだん照らされていくと、心の一番奥に生まれてくるものは、金色まばゆい信心というものではなしに、まことにお粗末なものが現われてくる。これを見て「これではいけない、もう一遍やりなおし」というのが自力の力、対象化である。そうではなしに「これが本当の私」と頭を下げるところには仏の智見が届いている。如来の眼にうつる私の姿が私の自覚として表われる。これが機の深信である。そこに私の上に如来を知る力が与えられている。その姿が同時に如来大悲の恩徳を知る姿である。まことにありがとうございますと、恩徳感謝の心となってあらわれる。それを法の深信という。
 相済まぬことであると懺悔するこの廻心懺悔は「これが本当の私」と頭を下げて、南無阿弥陀仏と念仏せざるを得ない心である。それを「念仏申さんと思いたつ心」という。
 如来の光に照らされて私自身がわかる。そこにおいて機の深信が成立する。仏の心が我々の上に成り立つことによって、大きな世界を知るのである。大きな世界を知るということは恩を知ることであり、小さな私を知ることである。これを如来廻向の信、他力廻向の信という。そこに常行大悲の徳が与えられる。従ってナルシシズムが克服されるには往生浄土門しかない。如来の本願しか我々のナルシシズムを打砕くものはない。彼来って私の心となって大いなるものを知るところに、ナルシシズムを超えて本当の愛情が成立してくる。それは私の無意識界においてである。それを「念仏して急ぎ仏になりて」と表わす。自分には念仏しかないんだというところに、却って無意識界に念仏自体の徳としてあらわれてくるのが、まことにフロムの言うように、謙虚な、そして相手に対する尊敬と配慮と責任と理解とを伴った本当の愛の成立である。これが第四章の「念仏申すのみぞ末徹りたる大慈悲心」である、浄土門における慈悲である。
 さきにもいうように、慈悲というのは現代の言葉で言えば本当の愛情というもので、人間存在の根本にかかわる問題である。どのように学歴がありどのように地位があっても、その人に愛情がなく冷たい。ならば、人間存在としての意味はまことに乏しいのであって、おそらく人の上に立つことはできず、一家の主人としても、また主婦としても破綻者といわねばならぬ。このような問題が慈悲の問題である。
 「慈悲に聖道浄土のかわりめあり」。我々の考えている慈悲は聖道の慈悲といわれるもので、理想主義の立場に立ってものをあわれみ悲しみ育むというものである。真の愛、一貫してつらぬく愛というようなものは、まことに言うべくして実行することは難い。それでは我々には愛憎の問題の解決はないのかというとそうではない。ここに浄土の慈悲という天地が開かれているのである。「浄土の慈悲というは念仏していそぎ仏になりて大慈大悲心をもて思ふが如く衆生を利益するをいふべきなり」。この心をいただきましょう。


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