四、慈悲(真の愛情)

『歎異抄講読(第四章について)』細川巌師述 より

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 慈悲を現代の普通の言葉で言えば、真の愛情ということであろう。本当の愛情である。この問題は人生に生きていく我々にとっては根本的な問題である。というのは、真の愛情がなければ人間として成り立たないからである。
 たとい学歴があり地位があり金があっても、無慈悲ならば冷たい人である。学歴はなくても金や地位はなくても、愛情のある血と涙の遇う人間ならば、この人は人間として十分な資格がある。人間として成り立つかどうかということは、愛情をもっているかどうかというところにあるのであろう。
 また宗教が愛ということを教えない、ただ単に自分だけが悟りを開き、自分だけが苦悩を解決して喜んでいるだけで、他の人に対する愛情を説かないものならば、その宗教に入ったためにかえって自己中心的になってしまう。それは本当の宗教とは言えないであろう。真の宗教はその人を愛情のある人にするというものでなければならない。このように慈悲という問題は人間形成の中心点ということになりましょう。
 大乗仏教は自利々他、あるいは認識と実践という二つをはらんでいる。自己の確立と共に他への働きかけをもつ。こういうのが本当の仏教である。孤独の世界から大きな世界に出ると、その時必ず自覚と覚他の二つの世界を持つ。このようなことが一人々々の上に成立することが、『歎異抄』を読む目標である。一応文章の筋道もわからなければいけないが、最終的にはこのような人が生まれなければならない。そうでなければ『歎異抄』を読む意味はない。

(1)三縁の慈悲

 慈悲という問題をいう時に、三縁の慈悲というのがある。
 三縁という、縁とは何か。よるという。縁起、よりておこるという。何かを縁として慈悲がおこるのである。そこに三つの縁があるから三縁の慈悲という。
イ、衆生縁の慈悲
 衆生を縁として起る慈悲である。衆生とは生きとし生けるもの皆を衆生という。人間だけではない。広く言えば動物、植物、山川草木ことごとくをいう場合もある。これらを有情といい、また衆生という。衆生を縁として起るのが衆生縁である。悲しんでいる人、困っている人を見て起ってくる慈悲、従って同情心である。これは大切なものである。
 ナイチンゲールの話を昔教科書で聞いたことがある。彼女は女性の身で戦場に出て、傷ついた人の看護に挺身した。そこに広い愛情がある。自分一人でなく看護隊を組織して活躍したという。同情心というのは大事なことである。
 私の所で小さな保育園をやっている。現在七名いる。子供を相手に毎週一回話をしています。今まで中学生や大学生には話をしたが、三、四才の子に話をするのは始めてでとても難しいです。とまどいながら話をしている。子供はなかなか面白い。飼っていた小鳥が死ぬ。そうすると「お墓を作ってやろう」という。誰が言うともなく言う。そして皆で小鳥の墓を作る。人間にはこういう働きがあるのだなあと思う。命あるものが死んでいった。それを痛み悲しんで、お墓を作って埋めてやろうという、そういうのが衆生縁の慈悲というものである。困っている人に、ご馳走をしてやれなくても一杯の水、一杯の温いお茶でも「おあがりなさい」とさし出せば、言われた人はどれ程うれしいかわからない。このように困っている人を見てじっとしていられないというのが慈悲である。衆生の苦しみを見て、それに同情をして起ってくる愛情、それが衆生縁の慈悲というものである。
 しかしながらこれを小慈悲ともいう。小さいからである。これは困っている人を見る時起るが、困っていない人を見たときは必ずしも起らない。幸せな人を見ると同情心どころか却って嫉妬心などが起ってくるのであって、小さいといわねばならない。困っていない人に対しても起るというわけにはいかない。それが小さいという理由である。これは『大智度論』(略して『大論』という)の中で龍樹菩薩が説いている。小慈悲がつまらぬのではない。慈悲は、困っている人を見ておこす衆生縁から出発しなければならぬのであるが、更に普く諸々の衆生にまで展開せねばならぬ。その意味で小慈悲というのである。しかしながらこれは大事なことである。
口、法縁の慈悲
 これは法を縁として起す慈悲をいう。法というのは難しい言葉であるが、まず教をいう。教に照らしてそれを縁として起る慈悲をいう。たとえば、ここに外科の医者がいて苦しんでいる人を見る。盲腸が悪いということになると、腹を切開することになる。我々が考えると、腹を切開して血を流して……というのはむごい気がする。が、たとえ血が流れようとそれを切開して治さなければ、苦しみは治らないのだということであるならば、切開手術をして解決をしなければならない。痛みに対する単なる同情ではなくて、深い教に照らしてその人の問題点を探し、法を縁として教、法則にかんがみて起ってくる慈悲を法縁の慈悲という。宗教家が相手の一番深い迷いを解決していこうとするのも法縁の慈悲という。叱ることあり、厳しく批判することありで、単なる同情でないもの、これを法縁の慈悲といい、またこれを中慈悲という。深い病根を解決しようとする行き方をいう。
ハ、無縁の慈悲
 これを大慈悲という。無縁とは相手が困っているいないではない。苦しんでいるいないではない。そういうものを超えて、何物をもよりどころとしない。慈悲そのものをいう。たとえば仏法を聞いて下さる方に深い関心を持つ。一人々々顔を見ると、この人には何か問題があるなということがわかる。これはお医者さんも同じでしょう。最近お医者さんは、色々検査をしないとわからないと言われる。昔は検査法がなかったせいもあるのでしょうが、見ただけでわかるという名医があった。顔を見ただけ、あるいは一言聞いたらわかるということがある。ここが悪いということがわかる。たとい本人は今困っているということがなくても、法とか医術とかを縁として深い関心を相手にもつということがある。けれども、医者も診察を受けに来ない人には関心を持たないであろう。宗教家も仏法を聞かぬ人には関心がないということになりやすい。悲しいことである。学校の先生も自分の学校の生徒となると関心がある。担任でないとなると縁がうすいので愛情が起らないということがある。しかるに大慈悲というものは、自分に縁があろうとなかろうと、衆生縁があろうとなかろうと、それらを超えて人々に対して深い愛情と関心を持っている。これを大慈悲という。
 「仏心とは大慈悲是れなり」という。『観無量寿経』の大事な言葉です。「光明徧照十方世界」とあって、あらゆる人に対し、あらゆる縁を超えて、縁があろうとなかろうと、そこに注がれている愛情というか関心というか、それを大慈悲という。このように大智度論では衆生縁の慈悲、法縁の慈悲、無縁の慈悲といい、また、小慈悲、中慈悲、大慈悲という。

 慈悲あるいは愛情というものは、慈悲を受ける立場から考えると、慈悲は感得するものである。従って自分に感じ取る力がないと慈悲にならない。慈悲を感じ取るには力がいるのである。小慈悲というが、これは慈悲が小さいというだけではすまされない。受けとる方の側に立っていうと、人間が小さいと衆生縁の慈悲しか受けとれない。これさえも受けとれなくて、いらぬことをしてくれるなということがある。わしはわしでやるのだということになるかも知れない。
 ジャンバルジャンは牢獄を出てたまたま泊めてくれた司教に遇った。司教は深いキリスト者としての愛情をもって宿無しの彼を教会に泊める。が、ジャンバルジャンにはその心がわからない。ただ泊めてもらったということだけがうれしい。しかしその背後に大きな慈悲のあることはわからない。彼は教会の銀の食器を盗んでゆく。大慈悲は、具体的には法を縁じ、どうか法を聞いてくれよと願い、それが衆生縁の慈悲となって具体化するのである。衆生縁の慈悲ならば、どんなに小さな存在にでも受けとめられる。これが大慈悲の具体的な姿である。従って小慈悲はつまらないのではなくて、そこに大慈悲の具体相がある。しかし受けとる力がないと大慈悲はわからない。衆生縁の慈悲にとどまってしまう。
 慈悲の具体相は衆生縁の慈悲なのである。これを無視して慈悲は語れない。衆生縁の慈悲は具体的には四摂事(ししょうじ)である。摂とは人々を受けとめる、人々に働きかける姿をいう、一つは布施。与える、物をさしあげること。物でも力でも何でもよい、与えることである。二つには愛語。やさしい言葉。やさしいとはその人のためになることを言ってあげる。あるいは言葉をかけてあげる。三つには利行。これは役に立つことをやってあげる。四つは同事。協同、力を合わせてやることである。これが衆生縁の慈悲の具体的な姿である。このことがなければ法縁にならない。仏法を本当に聞いていく人は生まれない。従って大慈悲を頂くことにならない。やはり衆生縁の慈悲から入らねばならない。
 我々は先ず仏法を聞きなさいという。が、人はなかなか聞かない。聞くことをすすめるよりも先ず共に語ることです。一緒に話し合い、一緒に仕事をすることである。またその人の役に立つことをしてあげるということである。我々は人から何か貰うことばかり考え、何か言うてくれないかということばかり考えているが、そうではない。本当は仏法を聞いてくれというのが願いではあるが、四摂事となって出てきてはじめて具体化したのである。

(2)真の愛情

 愛情を持たねばならないということを力説した人の一人はトルストイである。青年期には是非一度彼の作品を読んで欲しい。青年には特に役立つものがある。トルストイは広い人類愛を説いた。人間は小さな自己愛に執われることなく、広く人類を愛する心に立たねばならないということを説いた。が、実際に彼自身はどうであったか。彼は自分の妻を愛することができなかった。妻と色々な問題を起し、とうとう最後には妻と別れ、家出してシベリアの小さな駅で雪の中で死んでしまう。人類愛を説いて広く人を愛せよと叫んでいる人が、自分の妻をも愛せなかった。何という悲劇であろうか。しかしこれはトルストイだけの話か、人間全体の現実ではないのか。
 ルソーの『エミール』、教育を語ろうと思えばぜひとも一遍読むといい。ルソーの『エミール』は古典として長く後世に伝わっていくものであろう。子供の教育ということを考える者は是非一度読まねばならぬ書であろう、子供の教育を論じ、子供に対する深い理解と愛情を語ったルソーの『エミール』は人々の心をまことに潤すものである。けれども彼自身は、その妻を長い間内縁にして正式の妻としなかった。妻を女中同然に使って、生まれた子供は全部里子に出した。教育は論じたが自分の子は育てなかった。これはしかし他人のことであろうか。そこに我々は、愛情というものは本当に成立するのであろうか、ということを考えざるを得ない。
 E・フロムの『愛するということ』もなかなか面白い書物です。愛するということは、誰でも対象さえあればできると思う。が、そうではない。できないのだ。愛するためには身についた教養がなければできないのだ。それは何かということをフロムは説いている。精神分析の大家であるがなかなか偉い人である。
 ある福祉法人の施設があって、身体障害児などあずかっている。そこの園長さんが次のような話をした。「ここへ来て子供達を世話したいという希望者がたくさん来ます。自分はクリスチャンだとか仏教をやっているとかいう人が多い。障害児の子供達に愛情をもって、世話をしたいと言ってくる。だが、そのような人達はあまり長くは続かない。愛情をもって来る人は続かない。それよりドライに割り切って、「月給はいくらくれるのか、休みは何日あるのか、待遇はどうなのか」と、職業として割り切ってくる人の方が続く」という。慈悲は義務感や責任感ではない。犠牲的精神を発揮して……と思ってやってきた人達は続かないという。これはまた宗教団体でも同じである。報酬は何もいらないといって奉仕の精神でくる人は案外長くは続かない。初めからははっきり割り切って、期間や手当などきめておくがよい、先ず期限をきめる。一年間働いてくれというと、途中でやめることは殆んどない。一年間ならやろうということになる。毎月三万円、それ以上は出せないと始めにはっきりしておくがいい。義務感や責任感や犠牲的精神で始めたものは続かない。これは愛情も同じですね。愛さなければならないんだ、私に愛する責任があるんだ、私が犠牲になっても……というようなことでは続かない。それを聖道の慈悲という。聖道の慈悲というのは、こうしなければならないのだ、こうするのが当然だ、こうあるべきだという人間の考えで始めたもので、結局続かない。「しかれども思うが如くたすけ遂ぐること極めてありがたし」という。できないのである。
 なぜできないか、なぜ続かないか、一言で言えば対象化しているからである。対象化とは相手を向こうに見ているからである。向こうとは何か。私という主体が客体(相手)に対して、まごころを捧げていかねばならぬという思いを持つ。それを対象化という。対象化の反対は一体という。対象化とは、一体になっていないのである。向こうに見ているのである。
 対象化というとき、ブーバーは「私-それ」と言った。「私-それ」の私である。私が未熟であり殼に入っているのである。知性という殻に入っている。この知性をもとにしている私がブーバーのいう「私-それ」の私なのである。これについて、も一つ話をしよう。
 天人五衰という物語がある。天人とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上といい、欲界の一番上にいる存在である。天人は十善業を修して善を行じぬいた人である。しかしその天人もやがての時には、五衰という状態に陥って、とうとう地獄に堕ちてゆく。どんなに善い事をした人も最後はみんな哀れなことになる。その前兆を天人五衰という。『涅槃経』の梵行品に出ている。
 五衰の最初は身体臭穢という、体が臭くなる。悪臭が出てくる。人はみんな何かを発散しているわけであるが、それが臭くなる。第二は着物が汚れる。何となくうす汚れてくる。第三は頭上の花がしおれる。第四には脇下に汗が出る。五番目には本座を楽しまずという。こういう状態に陥ってくる。帝釈天がこの五衰の相に堕ち込んで、釈尊をたずねて行く。今までよい事をやってきた。そして天人にまでなったのであるが、続かない。そしてみじめな形になり、遂には地獄の底にまっさかさまに堕ちてゆく前兆があらわれる。なぜそうなるのかと問う。
 釈尊は答えた。「あなたが慳貪嫉妬をもつからである」と。この慳貪嫉妬こそ無慈悲であり、自己中心の相である。義務感、責任感、犠牲的精神などやろうという気持ちは尊い。が、続かない。遂には馬鹿々々しくなり他の方へ目が移っていく。そして自己中心にかえる。釈尊は、五衰の相は慳貪嫉妬によるのであると言われた。
 それでは「慳貪嫉妬はどうして起るのか」「それは無明から起る」「無明はなぜ起るのか」それは放逸であるからである。言いたい放題のことを言い、したい放題のことをし、思いたい放題のことを思い、要するに自分の思う通りにしたい。教がない、あるいは教を聞こうとしない。ではなぜ放逸なのか。それは顛倒であるからである。顛倒とはひっくり返っていること。何がひっくり返っているのかというと、根本にしてはならぬものを根本にしているからである。私共の根本にしてはならぬもの、それを知性という。人間の知性を根本にしているのをIch-Esという。私-それの私である。知性というものは相手をすべて対象化する。知性が正しいのだと思っているところに問題がある。だから続かない。相手を客体視する限り私の思う通りならないと慳貪嫉妬が起ってくる。そして自分で崩れていくようになっている。対象化が必ず慳貪嫉妬を生んで自己崩壊するようになっている。
 それでは顛倒はなぜ起るのか。それに答えて最後に釈尊が申されたのは、「疑いがあるからである」と。疑いとは何か。それは仏陀というもの、大きな世界というものがわからない。大きな世界がわからないと必ず対象化となり知性中心になる。大きな世界がわからない限り、自分の知性でいくしかないのである。これを顛倒といい、顛倒は必ず放逸、慳貪嫉妬を生んできて崩れるようになっている。大きな世界がわかるには、大きな世界から私に対して「汝」とよぶよびかけにふれることである。それによって私が遂に「私-それ」の私の穀を打ち破られる。ここに生まれるものを「私-汝」の私という。「私-それ」の私が「私-汝」の私になる。その時、私はすべてを「汝」と呼べるようになる。「汝」と呼べる時一体という。「汝」とは、日本語でいうと「友よ」「兄弟よ」ということであろう。「友よ」と呼べるようになる、それが慈悲である。
 我々は慈悲というものを考えると心に負担を感ずる。親として、子供のことを思わなければいけない。夫として、妻として、愛情が必要である。だんだん年をとってくると、自分の所で働いてくれる部下に対しても思いやりがなければならない。これがともすれば心の負担になる。私一人が進むのが精一杯である。それであるのに他の人にも愛情を持たなければならないというのは、いつしかに心の負担となる。求道においてもそういうものがある。あの人を導いたり、忠告したりせねばいけないと思うと心の負担に耐えられなく、遂には逃げ出したくなる。仏教においても同じであろう。ある時期までは、私も心の負担を感じました。子供が四人いる。この子供を、それぞれに立派に育てなければならないと思うと負担である。こういうと何か無責任な親父ということになり相済まぬことであるが、実際にはそうである。しかし、このような心の負担から解放されなければいけない。仏法であろうと教育であろうと、最後にあらゆる負担から解放されるということがなくてはならない。他への働きかけが心の負担になるようでは本物ではない。
 他への働きかけが負担になる。このように心の負担になるのを聖道の慈悲というのである。責任感、義務感、犠牲的精神でやっていこうとする。それを聖道門という。これはわれらが皆経験することであって、遂にその負担に負けて続かなくなるのである。
 この心の負担から先ず解放されなければならない。そこに浄土の慈悲という問題は、聖道の慈悲のその問題が解決するところにある。浄土の慈悲というのは、友よという呼びかけを持つようになることである。これを還相の廻向という。
 還相とは利他、即ち他への働きかけである。廻向とは私の上に与えられること。私自身が努力して他への働きかけが成就するのでなくて、仏の力によって浄土の大慈悲の働きによって成就する。私はただ自己の確立に向かって進んでいくままが、他への愛情、働きかけとなる。ここに我々はあらゆる心の負担をとり除かれて、自己が前進するままが他への働きかけとなっていく。これを浄土の慈悲という。これを還相の廻向という。
 還相とは他への働きかけ、即ち慈悲である。慈悲というものは私が責任感、義務感、犠牲的精神でやらねばいけないと思い、そしてそれが重い心の負担であった。が、本当はそのような聖道の慈悲では末通るものとならない。そうではなくて慈悲は私が往相という生活を続けていくところに、如来によって与えられるのである。これを還相の廻向という。慈悲の働きかけを私に与える、それは如来の本願によるのである、それを第二十二願と申します。
 二十二番目にあるので二十二願という。第二十二願文は略しますが、「わが国に生まれん者は、必ず一生補処(ふしょ)に至らしめん」という。一生補処というのは次の生に仏陀となる、即ち阿弥陀の次の位をいう、これを五十一段の大菩薩という。これは弥勒菩薩と同じ立場にある。その世界を一生補処という。二十二願とはどんな願であるのかというと、わが国に来生する者即ち往相の菩薩、往生浄土の菩薩、即ち仏法を聞きぬいて本当に道に立つ人、その人を必ず一生補処に至らしめるという願である。我々人生にある者は仏法を聞きぬいてどこに至るのかというと、必至滅度といい必ず仏の世界に生きるのである。これを往相といい、往生浄土という。往相の者は必ず仏果に至る(これを十一願という)その者を必ず五十一段に下げて一生補処の菩薩たらしめようというのが第二十二願である。
 なぜ一生補処の菩薩たらしめるのかというと、それは人生に働きかけしめんがためである。仏法を修する者は仏陀になるという、即ち大涅槃の悟りを得る。これは十一願にすでに誓ってある。二十二願は大涅槃の世界に出た者を、そこにとどまらせずに還相の菩薩たらしめて、人生にかえらしめ普賢の徳を展開させるという願である。それを還相廻向の願と申します。進む者には還る力が与えられる。往相の人は還相の働きをするために、如来の悟りを開きながら菩薩の世界に降りる。この菩薩は不動徧至といって仏の前を動かない。必ず仏に向かって真直に教を聞きぬきながら、しかも徧く人生に働きかけてくる。不動徧至の徳を持つのである。これを還相の働きを持つという。
 仏法を本当に聞きぬいて仏道に立つ者には、必ず人生に働きかけていく還相の働きを成就しようという本願を還相廻向の願という。
 我々は心に重い負担を感じておった。何か自分を犠牲にしても人のために働かねばならんのではなかろうかと考えていた。しかるに私がやるべきことは往相一つである。その中に還相の働きが与えられる。しかし還相の働きは、我々の現在において全現するのではない。分現である。浄土に至って全現する。それを浄土の慈悲という。「急ぎ仏になりて大慈大悲心をもて思うが如く衆生を利益する」のである。我々は、この表現を何か気の抜けたような感じで受けとりやすい。が、決してそんな間の抜けたものではない。誰が他への働きかけというものを思わない者があろう。しかしそれが心の負担になることも事実である。けれども還相の廻向というものは、我々の心の負担をすべて解消して、ただ私が前進していきさえすれば、それによって他は必ず前進せしめられるのだ、仏の働きによって必ず前進せしめられるのである。そうあらせずにはおかぬ、それが仏の本願である。この願が私の上に生き、我々は心の負担から解放され、自己が前進していくそのままが、他への働きかけになるということを知らされる。これを願作仏心即度衆生心という。願作仏心がそのまま自然に他への働きかけである。それを浄土の慈悲という。ここで我々は腹が決まり、自分の道をはっきり知る。それを願往生の一道に立つというのである。
 それでは人のためには何も働きかけはしないのかというとそうではない。義務感や責任感ではなく、いわば自然というか、知らず知らずのうちに出てくるようになる。自然とは何かというと、それを報恩行といい、「友よ」というものである。「友よ」と呼びかけざるを得ないものがある。やめるわけにはいかない。が、それは責任感でも義務感でもない。友と一体になって、私の中からほとばしるようなもの、そうせざるを得ぬものが生まれ、何の負担も感じさせない。
 私の事になりますが、仏法の話をすることは何の負担にもなりません。喜びにたえぬというところです。非常に嬉しいことであり、自分自身のためになる。もし皆さんに聞いてもらわないと自分自身がはっきりしない。皆さんに話すから非常にはっきりする。話しながら、あるいは準備をする時に、また話してしまってから、よかったなあと思う。人のためにやっているという気持ちは毛頭ない。しかし私の中に、ほかの人に呼びかけざるを得ないものがある。まさに還相廻向である。他の人のために働かざるを得ない身となる。それがこの第四章の中心題目である。


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