その六

『歎異抄講読(第三章について)』細川巌師述 より

歎異抄講読HP / 目次に戻る

 「他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」

 先ず言葉の意味から申しましょう。
 「他力」とは「如来の本願力」という。他力という言葉を使ったのは曇鸞大師である。曇鸞大師は、自力、他力ということを言われた。自力とは、自らが身をよしと思う心、深い自己肯定に立って、修行し努力していくという人間の知性的立場を言う。その自力の果てるところに成立するものを他力という。
 「他力をたのむ」とは、依頼する、懇願するという意味ではない。憑依(ひょうい)という。よりよるという。名詞にすると、たのみとなる。あて字みたいであるが、たのみは田の実である。『大言海』には、田の実即ち米であり、人間の命を支えるものとある。自分を支えるもの、これを憑依(ひょうい)、たのむという。如来本願をわがよりどころとし、わが命とするということである。これを他力をたのむという。
 「たてまつる」とは敬語であり私がそれを命とさせて頂くということ。
 「正因」正しいたね、本願のおこる正しいたね、他力をたのみたてまつる悪人が、本願の本当の対象である。

如来と人間の関係

 如来即ち仏と、私の関係にはいくつかの段階がある。

1 対象化
 対象化とは向こう側に見るということ。私がこちらにあり、仏が向こう側にある。向こう側にあるとは、私が知性で考えると、仏は全く向こう側にある。仏は西方浄土にある。また仏壇の中にある。仏は我々を包んでいるのだといってみても、みな頭の中で考えたことであることを、これを対象化という。これを仮仏という。本当の仏ではない。私の心に思う仏、考える仏である。親鸞聖人が初めてこの仮仏ということに関して深い解釈をされた。仮仏として先ず仏は存在する。これを観仏ともいう。観想の仏という。本を読み、話を聞き、人から教えられて、仏を考える時、それを観仏という。心に思い浮かべ、頭の中で考えてみるのである。これが第一の出発点である。我々の考えでは、仏はあってもなくてもよい。しかし仏教の教を一つの理想として持って、私がしっかり頑張って仏のような世界に到達しようとする、このような目標として我々の心の中に思うのが対象化である。現在の私は理想的な状態にはない。不完全な状態にある。そういう私の状態を仏法では三悪道(地獄、餓鬼、畜生)という。苦しみがいつまでたっても消えない、くり返しくり返し起こってくる、そういう苦しみの中にある。それが地獄である。餓鬼とは自分の心の中に不満が多く満たされないものがあって、あれもこれも欲しいと思う。畜生とは、独立できないで色々なものに引きずりまわされている。内面的に言えば色々な煩悩に引きずりまわされ、外から言えば、何か私の鼻面をつかんで引きずりまわしているものがある。こういう状態の中にいるのを地獄、餓鬼、畜生の三悪道という。
 その原因は何か。まず自分の内面に問題がある、それを四暴流(しぼる)という。私の中に流れている暴流がある。
(イ)欲暴流(よくぼる)。深い五欲の心。眼、耳、鼻、舌、身体の五欲を求める意識があって自分を引きずりまわしている。それが自分の苦しみのたねとなる。
(ロ)有暴流(うぼる)。物に執われる。小さい事と分っていながら、それに執われてふりまわされる。大した事ではないと分っていながら、それを離れ得ない。
(ハ)見暴流(けんぼる)。自分の考えに固執している。考えに執われる。これらの底にあるものを、
(ニ)無明暴流という。無明とは愚痴。智慧のなさが闇になっている。事が起こってきた時にその意味がわからず、どう対処していいかわからない。で、押し流されていく。
 これらを四暴流という。現在の私において、苦しみがくり返され、不平不満を止めることができない。考えてみると周囲に引きずられ、また自分の内から引きずられている。
 原因の一つは内側であり、その激しい流れに押し流されているのである。それが四暴流である。
 また外側にも強いものがあって、それが私を誘う。それを異学、異見、別解別行という。異見とは私と違った考えであり、仏教以外の人のことを言う。違った学問、違った考え方、違った解釈、違った行を持って道を歩み進んでいる人が居て、それに引きずりまわされる。原因は外にありまた内にある。そういう私を確かなものにするために仏を考える。その仏を仮仏という。
 私の思いとしては、こういうものに引きずられないで何とか自分の行き方進み方を確立したい。そのために仏教を求めていこうという。これを対象化という。これが第一の出発点である。これは仏教を手段化し道具化している。それは仏法を、仏を自分の確立のための、また幸せを得るための手段とし道具として考えている。この関係を、人間と如来の第一のつながりという。仏法を求めていく出発点は、誰もこういう立場からである。親鸞もそうであり、道元もそうであったに違いない。すべての人がこのような立場から出発していくのである。これは、善いとか悪いとかいうものではない。これから出発するしかない。しかしながらこれは、手段としての仏教、方法としての仏教、道具としての仏教である。その時の仏を仮仏という。仮仏とは、内的要求をかかえた私が、仏というものを対象として、その教を聞いて進んで行こうとする第一の段階での仏をいう。ここでは「他力をたのみたてまつる」ということにはまだならない。この立場を自力という。自力の立場の特色は、仏を対象化し手段化しているというところにある。
 この自力の立場を資糧位、加行位という。資はもとで、糧はかてという。先ず私を充実するために仏の教を聞いて考えていこう、そして私がだんだんと充実していくもとでを仕入れていこう、かてを集めていこうというのが資糧位である。だれもここから出発するのであり、求道の初めを資糧位という。人は、聞いて考えていこうとするまでは行くが実行となると更に飛躍を要する。この実行の段階を加行位というのであって、資糧位からはかなり高い段階である。
 実行するということは大変難しいことである。何を実行するのかというと、例えば先ず勤行である。これはおつとめとも言う。善導大師は「往生」という書をつくった。礼は礼拝であり合掌である。讃は讃嘆である。ほめたたえるのである。称名念仏である。
 善導大師の『往生礼讃』をいただくと、善導は昼夜六回礼拝をされた。これを六時礼讃という。昼夜六回とは、日没の時(午後四時)『大経』の十二光仏のみ名を讃えた経文をあげて仏に礼拝をする。そして初夜(午後八時)、中夜(午後十二時)、後夜(午前四時)、晨朝(しんちょう)(午前八時)、日中(十二時)の六回に亘ってそれぞれ別の偈文を読み、仏に向って勤行された。先ず頭を下げて拝む。それからお経をあげる。日没の時は『大経』十二光仏、初夜は『大経』、中夜は龍樹菩薩の『十二礼』、後夜には天親菩薩の『願生偈』、晨朝は彦琮法師という人の作った偈、日中には自分の作った『往生礼讃』をあげる。礼拝は二十回あるいは二十四回頭を下げては合掌し、頭を下げては合掌し仏にお礼をする。これが日本に伝わって、法然も親鸞も六時礼讃をされた。それが蓮如上人になって朝夕の二回にされた。在家の者、我々のことを考えて朝晩二回に正信偈と和讃をあげることにされた。それ以来、浄土真宗では朝夕二回の勤行をつとめるのである。我々には二回だけでも大変なことと思うのに、昔は昼夜六時に勤行されたのである。
 我々は知的欲求を持っている。何とかして現在の自分を脱却して本当の自己を確立しよう、本当の幸せを得よう、そのためには仏の教を聞いて実行していこうとする立場をとる。これが出発点である。これを自力の立場という。自力から出発するしかない。問題は、その自力から出発したものが、他力をたのむということになるかどうかということである。自力の立場から出発する時、仮仏が私の前面にある。仮仏は何の働きもしない。働いているのは自分である。私が聞いて考えて実行して……というのであり、仏は何の働きもしない。これが対象化の仏の特色である。しかし、仏が働かなければ仏教にならない。
 仏の働きとは何か。その働きを他力というのである。自力とは、人間自己が深い殻の中にとじこもって自己中心の立場にあり、自分ひとり働いているのである。今、ここに水車がある。この水車がまわるということが大事なのであるが、この水車が自分でまわろうとする。これが自力である。自分でまわろうとしても少ししかまわらない。まわるのには水が要る。水の流れによってまわる。自分の力で手でまわそうとするのを自力という。この自力ではどういうことが起こるかというと、その失が三つある。
 龍樹はそれを、「諸久堕の三難」という。一つは、「」やる事が多すぎること。やらねばならぬ事が沢山ある。人間の知性から見たならば、たとえば布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という六度の行、あるいは正見、正思惟、正語、正業というような八正道、あるいは念仏そういう中でどれが一番大事なことかということは言えないのであって、人間から考えるとどれも皆大事なのである。あれもそれもやるべきで、やるべき事が非常に多い。従って続かない。
 次に「」、時間がかかること。やってすぐ効果があがるということにならない。これが久の難である。で、そのうちに「」、堕落する。ある所まで続けると一休みする。分ったと腰をかけるということがある。これを諸久堕の三難という。
 曇鸞大師はいう。自力の立場の行き詰まりは、
(1)まず外の人の善にふりまわされるからである。自分は仏教をやっているがキリスト教の方がどうもよさそうだ。あるいは念仏よりも禅の方がいいのでないか、と他の人の善が羨ましくなる。なかなか自分が進展しない。やらねばならぬ事は沢山あるのになかなか進まない。あっちの方がいいのではないか。という具合に他の善に引きずりまわされる。このことは『浄土論註』の初めに言われている。
(2)顛倒の善果にふりまわされる。顛倒とは、ひっくり返っている、間違っていること。間違っているのに幸せになる人があり、善い事をしているのに必ずしも幸せにならない人がある。また、善い事はちっともしないのに順調にいっている。そういうのを顛倒の善果という。迷った間違った善果、即ち道理に合わないよい結果である。そういうのを見ると、自分がこつこつと求道していくのは馬鹿馬鹿しくなる。この顛倒の善果にふりまわされて、真面目にやっていくことについての自信を失ってしまう。これらの心は打算的であり、自力である。仏法が道具化されており手段化されている。
 これらの難点を超える道はたった一つ、決心である。「自分はどんな事があってもやりぬくぞ」という決心である。従って仏教をやる人には非常に強い土性骨を要する。言葉は悪いが、執念がなければやれない。世の中の人は、宗教に進む人間は弱い人間であろうと思う。自分でやれないので神や仏をたのみ、それにすがっているのであろうと思うが、必ずしもそうではない。宗教とは非常に強いものが要る。内からどんな心が起こってきても、たとい心はそんなものはやめておけと言っても、それをふり捨てる力が必要である。外から人が、もうやめておきなさいと言っても、やりぬくぞという決心が要る。
 禅宗の祖師、達磨大師が印度から中国に来られた。時の皇帝の武帝の請をふりすてて山という所にこもって面壁九年の行を始めた。壁に向って九年間、ものを言わぬ。そこへ慧可という人が来て、弟子にしてくれと頼む。しかし全然相手にせぬ。そこで慧可は左腎を断ち切ってそれを大師にさし出す。でやっと許されて弟子になることができた。このように何としてもやりぬくぞというものがなければできない。「他力をたのみたてまつる」というような事はできない。続ける力である。継続は力なり、継続一貫どうしてもやりぬくぞということが、大事な問題である。
 諸久堕の三難を超える道は決心であり、もう一つは友である。それは私を勧め励ます。こんな所でへたばってはどうしようもないではないかと励ましてくれる人を持つということである。難関を突破する道はこの二つであろう。
 私自身も何辺やめようとしたかわからない。やめようと思えば、いくらでも理由はある。が続けられたのはこのような二つがあったからであった。やりかけたからには止めてはなるものかと思う。先生は必ず出来るのだと言って下さる、それを心にひめて続けていこうと思った。よき師よき友を得るということが大事である。
 仮仏では続くはずがないのであるが、よき師よき友の励ましによって続いていくのである。

2 背叛的関係
 背とは背中、叛とはそむくことである。私の知性で考えている限り、私の目標として前面に仏があり到るべき対象として仏があるのであって、対象化である。で、この場合、私の前面に仏はある。向こう側にある。背叛とは、仏は私の後にあるということが判るということである。後というのは背中であり、私が仏にそむいていることをいう。
 私が目指していたものは実は私の幸福や人生の充実であって、本当には仏の教、よびかけというものに叛いている。人生の幸せを考えて仏法を求めていることは、仏に背を向けそむいている形で居るのではないのか。このことがわかってくるのが次の段階である。背中というのは自分では見えない。後といえば、後を向けば見えるのであるが、背中といえば後を向いても見えない。背叛とは、見えないままでそむいている。自分は仏の教に対しては背中を向けていて、自分の幸福というものを目標にしているのではないか。仏に真向きになっていたのではない、ということに気がついてくる。自分が向いていたのは仏の方向ではなく自分の幸福の方向ではないのか、という事に気がつく。これがわかるということが大変なことである。これを五逆という。五逆がわかるということである。
 五逆の自己の発見である。逆は反逆、背叛。五逆とは「父を殺し、友を殺し、師を殺し、仏身より血を出す」という。五逆とは小乗仏教と大乗仏教とで少し違うが、これは小乗仏教の五逆である。大乗の五逆には譜法も含まれている。親鸞聖人は『教行信証』に大乗の五逆と小乗の五逆について述べられている。これが自己への深い内省である。その深い内省へのきっかけは、聞法である。教を聞いていってはじめてわかってくるものである。聞法によって何がわかるのかといえば、ついに自分自身である。父を殺すとは武器をもって殺すのではなくて、口で死んでしまえと言い、心で思い、目で殺すということ。恩を受けている存在に、深い反発をもっている。そういう自己である。父母なしに私が大きくなるはずもないのに、恩を感ずるどころか深い反発を感じている。
 私の寮に若い人達がいる。若い連中に共通な点は何かというと、親を馬鹿にしているということである。全部とは言えないが、大体はそうである。自分は何も産んでくれとは頼んだ覚えはないのに、親が勝手に産んだ。だから育てるのは親の義務であって、大学へやってくれるのも金を送ってくれるのも当たり前だと思う。恩などわからない。恩というものは言うて聞かせてわかるものではない。目覚め、自覚しかない。教を聞いていって、仏の本願にぶち当ったら、わかるようになる。かなりの時間がかかる。しかしながら中々わからない。こういう時に言う言葉がある。「君は親に何をしてあげたか」という言葉をぶっつけておく。あれも足らないこれも足らない、と言うが、君は親に何をしてあげたか。これはかなり痛烈にこたえる。人のことでなく我々自身そうである。その時に我々は、自分勝手な所に居て、親に色々言ったりし思ったりしているのが自分の姿ではなかろうか、と考えるようになる。痛烈に一度考えねばならない。何をしてあげたか、ここから出発するのである。自分自身が自己中心でばかり見ていて、反逆的な立場にあるのではないか、ということがでてくるのである。ここが大事である。仏教は仏の教であるからそれがわかればいいではないか、と思うがそうではない。一番具体的なものは、この親の恩ということである。ここが出発点となる。友情をふみにじり、友が偉くなるとそれに嫉妬心を抱く。師を凌いで師より高い所から見下して師を殺すということである。そして遂に仏身から血を出すという。こういう処に帰ってくることを転回という。それは仏の方を本当に向くことによって転回されるのである。背叛的関係というのは仏は背中の方にある。これがわかることが大事である。これを五逆の自己の発見という。

3 根元的懺悔
 いわゆる信心という問題、あるいは他力をたのみたてまつるという問題を、物理的に皆に納得して貰うように話すということはできないことである。しかしながら筋道をたてて話さなければわれらは納得できない。けれどもよく説明ができない。なぜかというと、断絶があるからである。資糧位、加行位と進んで行くのは連続である。ここまでは頑張れば、必ず行ける。次の本当の天地を通達位という。これを信心決定という。そこから本当の生活、仏法が身についた本当の生活ができるようになる。これを修習位という。更に最後に究竟位といい、これを仏の位という。
 この加行位と通達位の間に断絶がある。高い高い絶壁がある。エレベーターに乗って一階二階と上っていくのは連続である。が、そうはいかない。加行位で行き詰まるのである。絶壁がある。高い高い絶壁とは、私の現実、実際の姿と、教の示すところ、仏の世界との間に大きな大きなギャップがあって、それがどうにもならないことである。加行位までは説明できる。また通達位、修習位も説明できる。けれども加行位から通達位に至る所は説明できない。なぜかというと、人間の努力の及ばない断絶があるからである。世界が違うのである。何とかこれを言おうとすれば、根源的懺悔とでもいうほかない。これはなかなかわかりにくい。どう言ってもみても説明が無理であるが言わねばならない。これを根源的懺悔という。
 根源的懺悔とは何か。資糧位、加行位の最後に人間が絶壁にぶつかることが大事である。絶壁にぶつかるとは、私自身の座の決定、居り場所がわかるということである。自分の居場所がわかるということが大事である。それがわかる時、それが本願を聞く座である。その時に「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と、たすけんとおぼしめしたちける本願を聞くのである。
 先ず私がわからねばならない。仏に背いている自己。もう一つ、仏をふみにじっている自己。これを謗法の自己の発見という。私が仏に背を向けていると思っていたが、実は仏を自分の足の下にふみにじっているのだということに目が覚めることである。これがわかるにはなかなか大変な求道が要る。そこにはじめて「他力をたのむ」ということがある。仏に依頼するのでなしに、他力を命とする、他力に帰命するということがある。
 如来と人間の関係とは、はじめ如来は向こう側にある。そして次に、如来に背を向けているのだということがわかるようになる。そして遂に、如来を足の下にふみにじっているのだということがわかる。これが如来と人間の関係である。この時、これを真仏という。
 真仏とは私を照らすものである。本当に働きをもつもの、私によびかけるものを真仏という。それを南無阿弥陀仏という。たのめ、共にあれとわれによびかける。阿弥陀仏は永遠なるもの。「永遠なるものと共にあれ」これを南無阿弥陀仏という。真仏といい他力という。働きをもっている実在である。どんな働きか。それは私に対するよびかけである。それを本仏という。仮仏は働かない。仮仏は私が考えているだけで、じっとしている。真仏は向こうから働きかけ、よぶのである。それを他力という。何とよぶか。この絶壁の下にいる私に「われと共にあれ」とよんで私を照らすのである。それによって私の上に「南無阿弥陀仏」と答えざるを得ないものが生まれる。その時はじめて高い高い世界におかれるのである。それを「他力をたのみたてまつる」という。
 「たのむ」とは私が依頼するのでなしに、答える、応答する、呼応する、仏のよびかけに呼応することを「たのむ」という。これを帰命という。即ち命に帰すと申す。私に対して「共にあれ」というよびかけに応えていく。それを「たのむ」という。これを一心帰命といい、信心という。たのむとは、他力を信じ奉るということである。信じこむのでなく、応えるのである。
 「ヨハネ伝」は「はじめにコトバがあった。コトバは神と共にあった。コトバは神であった」というところから始まっている。実にこれはすぐれた表現であり、キリスト教の最も大事なところを言っていると思う。人間のあるところコトバがあった。コトバとは、人間のはくコトバではなく神であった。よびかけであった。しかしそのコトバをキリスト教ははっきり言い表せなかった。が仏教はそれを南無と言い表すことができた。人間のあるところ、南無阿弥陀仏と私をよぶものがあるのである。それが本当にわかり、その命に帰すというためには、深い深い自覚の成立がなくてはならない。その自覚の成立とは、仏に対する私の姿勢の確立である。仏と私の関係が明らかになることである。はじめ、対象化され道具化されていたのである。それが、私が仏に背いているということがわかり、遂に私がふみにじっているということがわかる。そういう自覚が人間の上に生まれてきてはじめて、このコトバを聞くようになっている。そのコトバが南無である。コトバをもってよびかけるものが神なのであって、それが働きをもっている。これを南無阿弥陀仏という。
 そこに生まれてくるものは私をよぶものであり私を照らすものである。私の姿を悪人と自覚することであり、五逆謗法の自己とわかることである。謗法の自己を照らし出されるのである。ここに至るのは大変なことである。これを「他力をたのみたてまつる悪人」という。これが根源的懺悔である。

 他力をたのみたてまつる善人というのは一人もいない。人間の深い深い自覚において、如来はそこに本当の力を発揮して働いている、そこに照らし出される自己は、逆謗の自己であり悪人である。従って他力をたのみたてまつるのは必ず悪人である。そこに大いなる世界に生きていく正しい姿、正しい因が生まれる。これを「他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」という。

 第一章(弥陀の本願)、第二章(弥陀の本願はよき人の仰せを被るところに私に生きてくるということ)の帰結、結果が私においてこのような自覚を生むのだというのが第三章である。で、この第一章、第二章、第三章を、了祥という人は「安心訓」といわれる。
 安心とは信心を申す。信心とはどんなものか。それが第一章、第二章、第三章で表わされている。弥陀の本願が根本である。それが第一章、私に本願が届くというところに信心が生まれる。しかしながら本願が直ちに届くのではない。それは第二章、即ちよき人の仰せを被りて届いてくるのである。届けばどうなるのか。他力をたのみたてまつる悪人が生まれる。これが第三章。従って、第一章、第二章、第三章は続いているのであり、全体が信心、安心ということを表わしているのだということを安心訓という。第一章、第二章の結論が第三章に出ているといってよいであろう。
 これで第三章を終わります。


ページ頭へ | 「あとがき」に進む | 目次に戻る