その五

『歎異抄講読(第三章について)』細川巌師述 より

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「他力をたのみたてまつれば真実報土の往生を遂ぐるなり」

真実報土(真土、真仏土)

 この第三章の中心は「他力をたのみたてまつる悪人」という言葉である。この短い文章の中にこの言葉が何回も出ている。はじめは「ひとえに他力をたのむ心欠けたるあいだ」とあり、次に「他力をたのむ」とあり、更に「他力をたのみたてまつれば」とある。
 今は「他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり」というところに進みたい。
 「真実報土」は真土、あるいは真仏土ともいう。先ずその意味を申しておく。

1、 土(国土、世界)
 土(ど)は世界あるいは国土である。土には二つの意味があると思う。一つは物を生み出す、そこで生活が成り立つ。もう一つは、そこにおいてものがはじめて成就するという意味がある。生活が成り立ち成就がある。これを土という。今ここに一つの椰子(やし)の実がある。歌にもあるように、「名も知らぬ遠き島より流れ」。海の上をプカプカ漂っている。流れている。この限りこの実は椰子の木になれない。潮が来れば潮に流され、風が吹けば風に流され、海の上をさまようだけである。海の上にいる限り、椰子の実がどんなに頑張ってみても発芽が出来ない。椰子の実は一生椰子の実で終るしかない、椰子にはなれない。自己を完成しない。これを流転空過という。椰子の実は椰子になれなくて、押し流されて転がされて、そのままで一生を空過する。空しく過ぎるのであってどうしようもない。それでは椰子は死んでいるのかというと、死んでいるわけではない。実の中に小さな胚芽を持って、いて、腐ってはいない。傷ついたわけでもなく、椰子の実の形をしてはいるのだが、ただおし流されているのである。人間も人生という生死海をあちこち動きまわっているというだけである。その一生は空しい。結局何の意味ももたなかった。あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、何の成就もなかった。この流転と空過しかない椰子の実が本当に椰子になることが出来るとするならば、何が必要かというと、それは土である。大地である。大地がなければならぬ。それを問題にしたのを浄土門という。浄土とは天国というものではない。土ということ、大地ということである。大地を得たならば始めて発芽が成り立つ。大地から水を得、光が得られる。光を教という。光は常に注がれている。流転の時にでも光はある。しかし光だけでは発芽は出来ない。大地があってそこから水が与えられねばならぬ。そこではじめて発芽が出来るのである。そして椰子の実が椰子の木になる。これを彼が彼に成るという。卵がひよこになる。誕生し成長していく。それを卵の成就という。卵がひよこになり、種が苗になる、それに必要なものを土という。
 生活が成り立つとは、この大地において発芽することによって、苗となり生きていくということが成り立つ。そして一歩一歩伸びていく。そこに生きるということがある。椰子の実では生活ということがない、ただ転がっているだけである。
 生きる、生活というためには、何のために生きているのかという生きる方向と、その方向に向かっての前進がなくてはならない。本当に生きるとは、無自覚に、ただ昨日のくり返しで生きるのでなく、一つの方向を持っていて前進することである。そこに使命感がある。そして感謝と、喜びがある。方向と前進があり、使命感と感謝と喜びをもって生きていくことを生活という。
 たいていの人は方向を持っているという。進学、就職、結婚、子育てというような方向を持っている。しかしながら、それらが終ったらどうなるか。定年退職し、子供は育て上げてしまったらその後の方向がない。やる事がないから盆栽でもやろうかということになる。「あなたは何の為に生きているのか」と問われても答えようがない。若い人はまだ答え得るだろうが、それでも年とってしまったら答えようがないに違いない。そういうのは方向とは言わない。それは餌である。エスキモーの犬に、お前はなぜ走るかというと、餌が貰えるから走るというだろう。餌を貰ったら終りだが、次にまた餌を貰うために走るということになる。いわゆる餌としての目標はある。これは方向とは違う。
 本当に生活が成り立つためには大地がいる、この大地というのは単なる地ではない。砂漠のように土があるだけでなく、島のように単に陸地があるだけではない。その土の中に人がいる。人とは教を説く人、即ち仏。それと法。更によき友、僧伽。仏法僧の三宝があるのを土という。これを浄土という。
 浄土とは死んでから先に行く処ではない。生きている人間を支える大地である。しかし、この大地はこの世に存在して人間を支えているというものではない。あの世のものである。あの世というのは、死んでから先ではなく、高次元の世界ということを言っているのである。
 高次元とは何か。高次元に対して我々の住んでいる世界は低次元という。我々の住んでいる世界を仮に一次元とする。二次元という世界は一次元より高い。二次元の世界は、一次元の世界に住んでいる人には理解出来ない。一次元とは直線の世界。一方向だけである。二次元とは平面の世界である。一次元の世界は直線の上だけである。一本の針金の両方からアメーバーが進んで来てぶつかったら、勝つか負けるかということしかない。押すか押し返えされるかである。平面の世界では、ぶつかったら譲るという事ができる。勝ったのでもなく負けたのでもなく、譲ったのである。高い次元の世界には勝つも負けるもない。
 浄土とは死んでからの世界ではない。この世の世界である。それではこの世が浄土かというと、そうではない。この世界を包む世界である。高い次元とはあなたが殼の中に入っていたのではわからない。殻から出たらわかるのである。これを浄土といい、高次元という。従って仏教はわれらを高い次元に出そうとしているということができる。殻を破って出てきた所に、認めざるを得ない、明らかにならざるを得ない仏法僧まします世界がある、これを浄土という。ここが浄土だ、あそこが浄土だというような地理的なことではなくて深い自覚の世界である。人間は因縁によって結ばれている、因縁が尽きれば離れてしまうし、因縁があれば逃げることはできない。従って因縁次第ではどんな場所でうろうろしなければならないかも知れない。嫌いな人と一緒にいなければならないかもわからぬ。その時こんな世界をぬけ出したいというしかし、椰子にとって問題の中心は穀を出るということである。発芽をするということが一番大事な事である。発芽をするには土がいる。それを浄土というのである。死んでから先ではない。生きている人間の問題である。

 土というのを国土という。国土には主人公がいる。その主人公を仏という。私の為に教を説く人である。その世界に教が流れている、そして教を行ずるよき友、僧伽がある。僧伽とはよき師よき友の集り、教の説かれる世界である。よき師よき友の共なる世界、これを土という。
 人はなぜ明るく生きることができないか。意気消沈して生きなければならないかというと、それは友達がいないからである。聞く教がないからである。又、教を説く人に遇わないからである。これを土を持たぬという。従って人間喪失、人間失格、深い苦しみ悲しみは、土を失っていることから生まれる。失っているというよりは、まだ見つけられないからであろう。見つけ得ぬとは言いかえると、まだ殼の中に閉じこもっているということである。土がない。従ってまだ人間でない。種のままである。発芽していない。発芽をするということが土をもつということである。

2、 身土(仏身、仏土)
 身土とは仏身、仏土ということである。
 身は、主体をいう。土はその環境をいう。主体と環境を合わせて身土という。身土不二という。
 身はからだである。我々はからだを考える時、体躯を考える。耳あり五体あり、いわゆるBodyを考えるが、そうではない。身とは機能、働きをいう。働きを含めた全体、生きているこの身を身という。この私全体である。
 たとえば胃という時、食道から胃袋へ行き小腸へ行く。消化器の働きの中の部分である胃のことである。胃がきり離されて存在しているのではない、また胃があるということは食べ物があるということである。食物がなければ胃は胃にならない。生きている胃という主体は、たべものと相応している。人間という主体があって、その主体に対応した相手がある。それを環境という。主体と環境を身土という。
 木がある。木があるところ必ず土がある。木が主体であり、土が環境である。これを身土といい、身土は離れない。食物があればこそ胃があり、胃があればこそ食物があるのである。身と土、両方合わせて一つである。土は大地という物質ではない。身と一つのものである。身があって土が土としてあり、土があって身が身としてある。
 仏とその環境があるのではない。仏の世界を土、浄土という。仏を身という。磁石があればその磁石の世界、即ち磁場がある。目には見えないけれども、磁石があればその働きの場がある。世界がある。磁石をとれば磁場もなくなる。磁石が身で磁場が土である。
 今、環境問題が色々とり上げられている。環境といえば物質だと思うが、そうではない。人は環境によって育てられるのである。人間と切り離せないものである。それなのに人間が殻の中に入っていると、景色なんてどうでもいいんだ、それよりもいくらいくらで売った方がいいと考える。このような考えそのものがアニマル化した考えである。そのようにしか物が見えない。博多湾でもどんどん埋立てる。埋立てて何々に役に立つというが、埋立てるほど風景はなくなる。景色は買えない。しかし平気でそういう事を言う人が多いのは情けないことである。市は景色のいい所にごみ処理場を作るという。後始末をきちんとやるから水も汚れない。高い煙突を立てるから煙害も大丈夫。においもしないという。それでは反対する理由はなくなるようだが、いい景色の中に高い煙突が立ち煙が上がるのでは、人々の心をどれ程傷つけるかわからない。景色のことなどを言っても誰一人相手にしない。淋しい話である。
 身と土は離れない。仏と土は離れない。浄土は金銀珊瑚綾錦と思うかも知れないがそれは徳の象徴である。仏の働きの世界を浄土という。そこでは仏によって教が説かれ、それを聞く人(僧伽)があり教を行じている人がある。それを仏土というのである。
 我々が浄土に生まれるとはどういう事か。死んでから先のことではない。我々が仏に出遇うということがなければならない。殻が破れて発芽するところに、太陽の光を受け取るということがあるのである。私が仏の本願に出遇うということがなければならない。太陽は地球から遠い所にある。が、光はこの地球に届く。太陽の場の中に地球があり、太陽と地球は離れない。仏の世界のあらわれとして、この世に仏の教を説く人が居り、仏教が説かれ、仏教を行じている人がある。それを三宝という。その世界に我々が出遇うということが土を持つということである。浄土と仏は離れない。仏の世界を浄土という。これを身土不二という。ちょうど磁石と磁場の関係である。仏がなければ浄土もない。浄土があれば必ずそこに仏があって働き、法を説いているのである。この世におけるその先端を僧伽という。この人生においてよき師よき友をもって教を聞いていく世界を持つことが殻を出るということ、高い世界に出るということである。つまり土を持つことである。
 書物だけを読んで仏教をわかろうとしている人には仏教はわかりにくい。それは僧伽をもたぬからである。お寺にだけ詣って仏教をわかろうとする人も同じである。いずれも僧伽にあうことが大切である。僧伽とは本当に教を聞きぬいて教を生活している友である。僧伽を持たぬことが現在の仏法求道者の一番の弱点である。書物はたくさん出ていて読む人もたくさんいる。が、なかなかわかる人が出ない。頭でっかちで、あれもこれもよく知っているが、仏教がわからぬ。なぜか、土を持たぬからである。お寺もおしゃべりの場になって、土をもたぬ処が多いのではないか。本当によき師よき友の世界でないからである。土を持つことを毛穴仏法という。毛穴というのは体の表面にあって、そこから色々なものを吸収している。我々が吸収するのは目や耳やからであると思う。そう思うのは概念的である。仏法は毛穴から入る。体全体から入るのである。子供達が育っていくのも毛穴教育である。親の後姿で育つという。親が面と向かって言うたことは耳を通してわかるが、それだけでは教育にならぬ。後姿というのは感じ取るものである。感じとるとは、生活を共にしてその生活の中から感じとる。我々は世界をもたねばならない。その世界を身土という。真実の仏身と仏土である。

3、真仏と仮仏
 真実報土とは真仏の身土である。報はむくい、酬報である。本願酬報という。弥陀の本願に報いて現われた世界という。本願によって成り立った世界をいう。
 真実は真仏である。本当の仏の世界でなくてはならない。本当の仏の世界即ち真仏と、その反対に仮仏とは何か。
 親鸞聖人は真仏と仮仏ということを『教行信証』の真仏土巻に出しておられる。「真仏とは『大経』には無辺光仏、無碍光仏とのたまえり」と言われた。天親菩薩は尽十方無碍光如来といわれた。仮仏とは『観経』の真身観の仏といわれる。真身観とは本当の仏のお体、それを観ずる。観ずるとは心の中に思い浮かべる。心の中に思う仏、あるいは拝む仏である。それを仮仏という。仮仏とは何の働きもない仏をいう。真の仏は働くものである。それを真仏という。無辺光仏、無碍光仏という名の示すように、それはわれらの心の闇を照し破るのである。仮仏とは、こちらが心に思い浮かべる仏であり、働きがない。対象化された仏である。対象化とは向こう側に仏をおいて私が見ている、考えているのである。私がどれ程語りかけてもじっとしているし、私がどれ程泣いてみても何も言わない。何の働きもない。それを仮仏という。悲しいかな我々の考えている仏は仮仏である。仏というものである。これを物質化された仏、対象化された仏という。真仏は仮仏ではない。仏は生きたものである。しかし我々が頭の中で対象化するため仮仏になってしまっている。私自身がまだ殻の中に入っていて、そこから眺めている。思うている。そのため物質化されて何の働きもしない仏になっている。この世界を仮土という。仮仏仮土という。一緒にして化身土という。親鸞聖人の偉大さは、化身土巻というものをあげられたことである。仮仏仮土にいる私はまだ殻の中に入っている。この殻は前に言う殼と少し違う。
 この殻を分別心、定散心という。分別とははからいである。正しい心で正しい行を行じてはじめて仏の世界に行くことが出来ると思う。前に言った殻は自己中心という殻であった。今の殻は分別心、はからいという殼であり、宗教的には前のよりも深い殻である。この分別心のある限り仏は働きをしない。
 この仮土を懈慢界(けまんかい)という。仮仏の世界にある者は懈怠憍慢を免れない。精進しない。憍慢な心を持っている。また辺地という。広い世界から言うと、片ほとりである。また疑城、胎宮という。仮仏仮土というものをこのように言われた。「しかれども自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつれば真実報土の往生を遂ぐるなり」。その殻が打ち破られた時に、広い天地に出るのである。私が正しい心をふるい起して、行をしっかりやらねばならぬというのが仏法の入り口である。ここでは、やればやったといって憍慢になり、出来なければ出来ないで懈怠になり、いつまでも片ほとりにあり、なかなか中心に進まない。なくならねばならぬのは、分別はからいの心である。この殻が打ち砕かれねばならぬという問題が残っている。
 あるお爺さんが言う。「私は仏様を見る」と。向こうから七色の光を放った仏様が現われるという。こんな事はあり得ない。これはおかしいと思わねばならない。姿が見えるというような仏はない。この世の中は、常識ではあり得ないような事が、常識的に考えられている。葬式は友引の日にしてはいけないという。友を引くからだという。友引の日は葬式がないから、お寺はいつも空いているそうである。私が死んだら友引の日に葬式をしてもらったがよい。何の日だってかまわない。このように迷信だらけである。結婚式は大安の日に、という。聞いていて恥ずかしい。その大安の日に結婚した新婚の人達が何時か松山沖で全日空機の墜落で死んだのは何年か前のことである。話にならぬ。心の殼が開けなければならない。仏は目で見えるのではない。心で遇うのである。
 人が死ぬと葬儀屋が来て、すべて形式的にやってくれる。私の母が死んだ時、すぐ来ていくらといくらのがあるという。そして、先生ならこれ位がいいでしょうと一番高いのを指す。結局私は断ってお寺さんに頼んだ。このようにすべて物質化、営業化である。高く出せばいいお葬式ができると思う。少し余談になった。
 要するに仮仏というのは観の世界である。これがはじめであるが、観ずる限り働きをしない。本当の仏とは無碍光である。闇とは私の心の壁である。心の殻である。仏とはあるとかないとか、見えるとか見えないとかいうものではない。働きである。太陽の光が闇を破るように、仏の教を聞きぬいていくならば、必ず私の殼を破る。その光を真仏という。
 闇を破るとはどういうことか。『大阿弥陀経』を引いてみると、「諸々の無数の天下幽冥の処を炎照す」とある。聖人は『教行信証』の真土巻に引かれている。仏は闇を照すのであるが、物理的な闇でなしに、我々の心を照し破る。諸々の=すべての。無数の=数限りない。天下=心の内。幽冥=幽はかすか、冥はまっ暗。私の中の迷いの闇を明るく照し出す。これを闇を破るという。私が自分で反省し、足りないところがあったということは我々にわかる。しかし私に今まで全くわからなかったものを照し出し明らかにするのである。それを無碍光如来という。無碍光如来だから破るのではない、破るから無碍光如来なのである。真仏である。南無阿弥陀仏のお徳を讃えて言ってある。働きをもつというのが仏である。働きをもたぬのはあなたの方に問題がある。あなたが仏を対象化、物質化しているからである。あなた自身が分別しているからである。
 天下幽冥の処、かすかに、あるいは全くわからなかった処とは何か。色々に言えるであろうが、『涅槃経』に難治の三病ということが出ている。これが天下幽冥の処ということの代表的な表現であろう。難治の三病とは、不治の病根をかかえている、死ぬしかない病身である。これがわからない。何となく体の調子が悪いなあとかすかに思っていた。それが不治の病とわかった。思いもかけなかったことがはっきりわかった。私の不治の病根がわかった。私は助からぬ人間だということがはっきりわかるということが、天下幽冥の処を照すということである。その光の根源を真実報土という。
 不治の病とは謗法、五逆、一闡提という。謗法とは仏法をそしるという。口で言わなくても、心の中や生活の中で仏法を無視して生きている。それを謗法という。仏を仏とも思わず、自分自身の経験と自分自身の思いで動きまわっているのである。この自己は救われない自己であり、仏法に入れない存在である。それが自分だとわかる。これを、天下幽冥の処を照すという。
 五逆とは恩知らずである。親の恩を知らず、よき師よき友の恩を知らず、仏の恩を知らない。それを五逆という。これは仏法の座から払いのけられなければならぬ存在である。一闡提とは断善根という。いわゆる根腐れ病である。全くやる気のない私である。仏法からしめ出される存在である。謗法、五逆、一闡提の不治の病根をもった者が私であるということを本当に明らかにするのを真仏という。ここにはじめて人間の上に廻心ということが起るのである。
 不治の病根を持つ自己が照し出されて、はじめて廻心懺悔がおこる。懺悔とは仏に対するお詫びであり、これを「他力をたのみたてまつる」という。仏法は最後は謗法ということがわからねばならない。ここがどうしても他人事のように思えてならない。我々は現実問題にぶつかると、夫に問題があるとか、妻の問題だとかいうが、そうではない。そういうことを言っている限り流転の椰子の実である。真仏土の光にあなたが照されるということがなければならぬ。深い自己自身へのめざめ、自己自身に徹底していくということである。そこから発芽がなされていく。そこからはじめて何が起ってきても、相手がどうあっても生きぬく力を与えられるのである。


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