その四

『歎異抄講読(第三章について)』細川巌師述 より

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「自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつる悪人。」

 第三章は第一章、第二章の延長であり、或いは第一章、第二章の具体化である。第一章が中心である。第一章は弥陀の本願であり、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」というところに『歎異抄』の全体がこもっている。この一点が明らかになるならば、『歎異抄』全体が明らかになるのである。『歎異抄』全体はこの展開であると言える。『歎異抄』は「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」であり、一言で言えば「弥陀の本願」である。この弥陀の本願が私の上に成立する、私の上に明らかになるということが中心である。この本願がいかにして私に届くかということを明らかにしたのが第二章である。「親鸞におきては『ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし』とよき人の仰せを被りて」とある。そのよき人の仰せというところに本願の具体化がある。よき人の仰せとは「弥陀の本願まことにおわしまさば釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば善導の御釈虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば法然の仰せそらごとならんや」。法然の仰せがよき人の仰せであるが、それは本願の歴史的な伝承である。第一章の本願が電流であるならば第二章は、電流が電線を通って伝わってくることを明らかにしている。
 具体的ということが大事である。具体的にわかるとは、
(1)私において。職業、年令、男女など色々の条件下にあるこの私において。
(2)この現実において。色々な環境、色々な問題をもった現実の中で。
(3)実際には何か。この私が一体何をしたらいいのか。
がわからなければいけない。これが具体的ということである。具体的の反対は観念的。頭だけでわかっている。これは何の役にも立たぬ。本願が具体的にわからねばならない。本願が具体的になるとは、私において、この現実の中で、実際には何かということが明らかになることである。
 いま、既成宗教が役に立たぬというのは何故か。それはこの現実の中でどうしていいかがわからないことである。これを宗教の無力化という。現在は、鎌倉時代の祖師たちがぶつかった以外の問題がたくさん出てきている時代である。鎌倉時代の祖師たちとは道元、日蓮とか、法然、親鸞である。その頃になかった問題というのは、事件ということから申せば公害があり人種差別問題あり、科学の進歩があり社会の変化がある。色々と変った。日蓮にも、道元にも、思いもかけなかったような事件が起っているのである。
 この時代に生きている私、こういう具体的問題を悩んでいる私が、一体どうすることが救われることか、どうしたらいいのかということがわからねばならない。そういうことは日蓮、親鸞、道元が既に言っているというのではない。具体的にこれを我々は明らかにしなければならない。これを推求という。推はおしはかり、求はもとめる。祖師たちは基礎だけははっきり言ってあるのである。しかし現代において実際にはどういうことなのかを、我々はおしはかり求めねばならない。この推求ということを忘れてきたところに、既成宗教の無力化が生まれてきたのである。推求する力こそ信心である。しかしながら、基礎がはっきりわからないと推求もできない。その基礎は第一章、第二章である。第一章は如来の本願こそが人間の迷いを断ち切る力を持っているということである。その本願が私にかかわり合いをもってくる具体的な道が第二章である。
 その本願が私において成り立った事実が第三章である。よき人の仰せを被って、私に本願が至り届くところには悪人の誕生がある。「他力をたのみたてまつる悪人」である。これが一番根本である。この根本が成り立った上に、現実問題への対処が推求されていく、そこに宗教の現代化がある。

一、自力の心

 自力の心ということについて、別の角度から申してみよう。
 自力、他力というのは仏教の言葉である。常識的に言えば自力とは、人の力を借りないで自分でやることを言うのであるが、仏教ではそういうことではない。自力ということについて親鸞聖人は四つ言われた。これは前に申しました。
 自力の心を『歎異抄』第十六章から引いてみると、「本願他力真宗を知らざるひと弥陀の智慧を賜りて『日ごろの心にては往生かなうべからず』と思いて本の心をひきかえて本願をたのみまいらすをこそ『廻心』とは申し候へ」とある。「日ごろの心」とは常の心、いつも持っている心、人間の基本的な心であり、これを本の心、本心といい、自力の心という。その自力の心がひるがえされるところを廻心という。廻心というのが信心の一番はじまりである。あるいは一念という。その前の心を日頃の心といい、本の心といい、人間の根本的な心といい、これを自力というのである。従って小さい子供も年取った人も皆持っている。あなたも私も、皆々持ち合わせている心を自力の心という。
 第十六章には更に言ってある。「口には『願力をたのみたてまつる』といいて、心には『さこそ悪人をたすけんという願不思議にましますというとも、さすが善からん者をこそたすけたまわんずれ』と思う」心を自力の心という。「さすが」は、とはいうものの、「よからん者」は善人、心の正しい者。弥陀の本願では、悪人をも助けるとおっしゃるけれども、そうはいうもののやっぱり善いことをする人間、心の正しい人、行いの正しい人こそ、宗教的な助けにあずかるのであろうという意味である。これを人間の根本的な心という。善いことをする人間こそお助けになるのに違いない。悪い人間を助けるとおっしゃるものの、やっぱり善いことをする人が助かるのであろう。これを本の心という。仏教の言葉でいうとこれを、定散二善(定善、散善)に執われる心といい、仏智疑惑という。定は正しい心、散は正しい行い。そういうのをやらねばならない、やらない者は助からないと思う心。この定散二善のはからいの心、人間知性の心を自力の心という。人間が頭で考えて、善い事をやったら善い報いがあり、悪い事をやったら悪い報いがあると考える、その心を自力の心という。我々は善い心、善い行いに囚われている。ふりまわされている、この心を理性といい、知性という。
 知性がなぜ問題になるのか。それには二つある。一つは、知性は理想主義である。理想主義とは理想を追い求めて現実を包めない。理想主義には次のような仮定がある。全ての人には善い事と悪い事との区別をつける力がある、そして誰でも善を行い悪をやめる力を持っているという仮定がある。これが基本となって、かくかくあらねばならぬと思う、それが理想主義である。しかしこれは人間過信、深い自己陶酔ではないのか。人間は善いと悪いがわからないのである。善いと悪いを見極める力は無いということを知らねばならないのではないか。善いと思うことが悪にひっくり返る事があるのである、戦時中、我々は善い悪いどころではなく、ここに命の捨てどころがあると思って、戦争のために力を尽してやって来た。ところが今思うと、戦争を拒否して刑務所にでも入っていた方がよかったかも知れないと思うことがある。善いと悪いがわかるか。また善い事だけして悪い事がやめられるか。やめられるなら神様である。
 理想主義をよく物語っているのは、耳四郎の物語である。何度も申すようであるが、耳四郎というのは法然上人の時代の大泥棒である。盗みに入って床下にいたところが、その上で法然上人の御法座がはじまった。耳四郎はそれを聞いて心を打たれ、縁の下から這い出て聞いた。これを機縁として法然上人のお弟子となり、念仏申す身となった。しかしながら彼は一生泥棒をやめることはできなかった。この耳四郎の信心は本物であろうか。彼の申した念仏は本当の念仏であったろうか。こういう問いを出しておきました。これは本物ではない、もし本物なら泥棒はやめられた筈だ。こういうのを理想主義という。
 善い事をやらねばならん、悪い事をやめねばならぬ。善い心で善い行いをやる者をこそ助けたまわんずれ、悪人を助けるという本願であるというが、しかし善い者が助かるのであろう。こう思うのを本の心、自力の心、理想主義の心、自己過信の心という。我々は一人残らずことごとく耳四郎ではないか。私自身は何であるのか、これが具体的にものを考えるということである。私において具体的にならねばならない。たとい仏法を聞いて念仏を申し信心を深く頂くとしても、毎日毎日腹は立たないのか。腹を立てるという事はよい事ではない。が、それがやめられるか。我々は泥棒はせぬかも知れない、が、やってはならぬ事でもやめられないのではないか。こういうことがわからないのを自力の心という。
 人間知性の迷いは、一つには深い自己過信、即ち理想主義の段階にあって、人間を本当に理解していないところに問題がある。もう一つは対象化、物質化(道具化)である。相手を向こう側において考えるのである。自分の子供を見る時でも、子供を対象化し道具化している。これが人間の本の心、常の心である。対象化、物質化の反対は一体化、連帯という。つながっていてよそごとでない。別な言葉でいうと、友よ!というよびかけを持つということになろう。わが子を私の持ち物として考え、自分の欲求を満たす道具となっている。知性は相手を自分の外側に見て、かくあれ、かくあってはいけないというままが道具として扱っている。相手を本当に尊敬しいたわっているのでなく、子供が悪いと私が困るのだ、だからしっかりしてくれ、ということになる。
 ある先生のお話に、奥さんが言われたという。「お父さん、もう飛行機には乗らないで下さい。速いのはいいが、もし事故でもあったら困る。お父さんに万一のことがあったら困る」と。どうして困るかというと、父親が死ぬと残った者が困る。特に私が一番困るということである。相手の事を思って困るのでなく自分の為に困る。相手を道具として考えているのである。また子供の出来が悪い。これは困る。私の体裁が悪い。この子にかかろうと思ったのにそうもいかない。財産もどうなるかわからない。こういうように困るのである。物質化であり対象化である。相手を血も涙もない立場で見ている。自己中心的な立場で見ている。これを人間の持つ自力というのである。

二、他力の心

 他力の心とは何か。「友よ!」である。私が得しようと損しようとどうでもいい、「友よ!」である。わが子が、「友よ!」にならなければ解決がつかぬ。子供よりも親の問題である。しかし、親がしゃんとしなければ子供がよくならないという語をしているのではない。親の自力の心に問題があるのだ。親の自力の心が打ち砕かれねばどうしようもない。それがひるがえされたら子供に対する考え方が違ってくるのである。それが出発点である。子供に対して「友よ!」とよびかけて、お前が地獄に堕ちるならば私も地獄に堕ちようという心が親に出てこなければ親にならないのである。子供を道具として扱っているのだということがわからねばならない。人のことではない、私のことである。我々にはいつもいつも自分のことしかない。それが我々の本心である。これを自力の心という。
 (まわ)す。()という。()という。ひっくり返えされる。たたき(くだ)かれる。打ち砕かれることを廻すという。廻心という、私の自力の心が転回されることを廻心という。
 次に、「他力」とは他の人の力を借りるというようなものではない。他力とは如来の本願力である。これは仏教における定義であって、「他力とは如来の本願力なり」と教行信証に出ている。他力がなければものは育たない。ここに種を()く、この種は自分で発芽するということはあり得ない。燦々(さんさん)たる太陽の熱と、彼を潤す水とによって発芽するのである。そのような他の働きかけを他力という。如来の本願力という。
 如来の本願力とは何か。我々は今、知性という大地に立って、知性というものの上で色々なことを考えている、世間を考え、世界を考え、商売を考え、家庭を考えている。知性を基盤にしている。そして一つの結論を見出す。こうしたらこうなって……というように結論を見出す、これを外道という。我々は全て外道の立場に立ってものを考えている。外道とは外側に結論がある。どうしたらよいかと外に条件を考え、こうしようと外に結論を求める。世界は平和でなければならない。年とってくれば社会福祉というものがなければならない。このような条件が備わらないと幸せにならないと思う。
 如来の本願はどこから私にかかってくるのか、どこから呼ばれているのか。それは私の地盤の下からである。内側からのよびかけである。南無と私を呼ぶのである。私が私自身にかえっていって、外に向いていたものが内に向くようになる。これを如来の本願力にかえるという。それでは、そのようになったならば外側のことは考えないのか。家庭とか環境とか政治とかは関係ないのか。そうではない。内に帰っていくことによって本当に外が成り立つのである。
 どんぐりがある。堅い殻の中に入って大地の上にいる。その限り自己中心であり、どんぐりころころである。風の働き、水の流れによってどこまでもころがっていく。それが如来の本願力に帰るとはどういうことかというと、彼を支えている大地に根をおろすということである。根をおろすと彼ははじめて大地(地下)と虚空(地上)という二つの世界を生きる。如来の本願に帰るままが、外の世界を成就する。あなたは外の問題ばかりを問題にしているけれども実はころころ転っているだけではないか。固い殻の中に閉じこもって、相手を道具化して、ひとりよがりの所にとどまっているのではないか。それが破れて大地に根をのばし、深い深い呼びかけに応じていくと、外に対して本当に生きることができるようになる。外に生きる姿を「友よ!」という。「友よ!」という姿をもって生きてゆける。外に本当に生きるには、内に本当に生きなければならない。外だけならばどんぐりころころである。内面の大地に生きるということが外に生きるということになる。従って社会、家庭等を決して無視するのではなく、そこに対する深い生き方を持ってくる。他力という言葉の意味を申しました。
 「たのむ」とは憑依(ひょうえ)という。よりよるという。また帰依ともいう。大きなもののよびかけに帰って、それをよりどころとして持つ。これをたのむという。
 真実報土。報土とは本願によって成就した仏の世界。往生とは、往いて生きるという。死んでから往くのではない。大きな世界に出ることを言っている。即ち今まで殼の中に閉じこもっていたものが、殼が破れて大きな世界へ芽を出してきた。それを報土往生の第一歩という」。

 次に、内容に移る。
 「自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつる」、これが中心である。「自力の心」とは自己肯定、我々の本の心である。それがひるがえされる、廻心、転廻、打ち砕かれる。そして如来の本願に帰依していく。言葉の意味はそうである。しかし内容はどういうことであるか。そしてそれはいかにして可能であるか。具体的にわかる必要がある。
 世の中には説明のつく事とつかぬ事がある。たとえば砂糖は甘いと言っても、砂糖をなめたことのない人にはどれ程説明してもわからない。それと同じで、自力をひるがえすということはなかなか説明はつかぬが、言わなければならない。

1、問い
 先ず問いを出す、「君はそれでよいのか」。私はこれでよいのであろうか。ここに自力であろうと他力であろうと、あらゆるものの出発点がある。私は幸せであると叫んでいる人がある。しかし「君はそれでよいのか」と問われると、これでよいのだということを言い切れないものがある。そこが出発点、自力からの出発である。そこで何をやったらよいのか。我々はやらねばならないことがある。それは廃悪修善の道と至心発願である。まごころこめてやろうと決心する。このことである。まごころこめてというのは、続けてやろう、やりぬこう、諸々の功徳を修してやりぬこうということを決心して実行することが大事である。この前にも一つ大事なことがある。「君はそれでよいのか」と言ってくれる人がなければならない。
 しかし下手に言うとおかしなことになる。今頃は父親が息子に向かって「お前はそれでよいのか」というと、反撥(はんぱつ)して「お父さんはどうなんだ」ということになる。息子や娘の方が親を批判し、「お父さんやお母さんはなっとらん」ということになると、この問いが成り立たない。この問いが成り立つためには、この問いを問うにふさわしい威厳を持った人、力を持った人がなければならない。そこに先ず必要なものは、よき師よき友である。さらにも一つ前を考えると、言ってくれるよき師よき友がいても、必ずしもそれを聞くとは限らない。今までの子を育ててきた歴史、わがまま放題に言いなりに育てていると、その子供はどんな人に逢っても、言うことを聞かないことがある。それを宿善の問題という、長い間の歴史である。子供を育てる時に是非守らねばならない、子供にやらせねばならないことがある。それは、人に迷惑をかけない、自分のことは自分でやるということ、これは当然のことである。転んだら自分で起き上らせる。それを子供の言うなりになり、甘やかしていると、いざというときどうにもならない。
 先ず、よき師よき友に逢うて、この問いをこうむって、よしやろうということにならなければ、自力の心をひるがえすということにはならない。「至心発願修諸功徳」これが出発点である。しかしながら、この道は必ず行き詰まるようになっている。なぜならば矛盾があるから。矛盾があるから、途中で空中分解してやれなくなる。たとえば六度の行は仏教の基礎的な行である。布施 持戒 忍辱 精進 禅定 智慧の六つ。度とは渡すという。世間を渡って彼岸に至る、これを六度の行という。この迷いの世界を超えていく道を教えている。この順番で教えている。
 「布施」とは、自分の持っているものに囚われないで出来るだけ与えなさい。あなたの持っている力や物を尊いことのために寄附し、困っている人の為に与えていく、これが大切だという。生活の上でやってはいけないことをやめ、やるべきことを励んで生活を正しくしなさい。これが「持戒」。はずかしめにおうても(のの)しられても怒られても、じっと忍んでいくことが大事である。これが「忍辱」。次に努力「精進」。そして「禅定」、深い心の平静を保ちなさい。そして「智慧」に至る。
 何をやるべきかというと、布施、持戒、忍辱、精進である。だがこれは矛盾をはらんでいる。布施、持戒……とやっていったら智慧に至るというのであるが、実は智慧がなければ布施も持戒も忍辱も成り立たない。出来ないのである。本当に智慧が成立しなければ、誰に物を与えるべきかがわからない。(まむし)の子がいる。それに食物を与えて育てていけばかえって害になる。従って本当の布施にならない。育てれば大きくなって人を()み、かえって人を困らせるということになる。それでは布施にはならない。また、はずかしめを忍ぶという。歯をくいしばって耐えるというが、そんなことをしたら胃が悪くなるか心臓が悪くなるかどっちかである。自分が参ってしまうということになる。やはり言うべきときには言わねばならない。これも智慧の問題に帰る。
 私は学生部長を二年やりました。学生部長というのは、あまりなり手がない。なぜかというと、学生問題で振り回されて血圧が上がる。学生は腹の立つような事ばかり言う。それを受け流していても、いつの間にかカッカして、血圧が上がり寿命が縮むですね。だからやる人が少ない。命と引きかえである。だが智慧が本当に成り立つと、やり甲斐のある仕事である。これは歯をくいしばって忍ぶのではない。そこに起ってくる問題が南無阿弥陀仏になる。それが私にとっての深い念仏の種になる。忍ばんでもよい。(そば)から見ると忍んでいるように見えても、本人は受けとめているのである。受けとめるには智慧がなければならない。信心の智慧が成立しなければ六度の行はやれないのに、智慧を得るためにこういうものをやれと書いてあるところに矛盾がある。それは自力をひるがえすための方便である。それをしっかりやっていくと、絶壁にぶつかるようになっている。何にぶつかるのかというと、思ったように出来ないというところにぶつかる。これが、他力をたのむという世界に出るための次なる段階である。
 その時発せられるべき問いは、「如来ましますか」である。この問いもまた、痛烈なものである。普通の人はこの問いに答え得ない。「如来はいると思います。そういうふうに本に書いてあります」とか、「と、人が言っています」という程度にしか答え得ない。「如来まします」と言い切れない。これが問題点である。それでは信じなければならないのか、そうではない。
 信ずる、と普通言う時には向こう側に如来をおいて、私が決心してこれを信じよう、疑うまいというのを、信ずるという。そういうものではない。一般に人は信ずるということは、何を、どのように、信ずるかということが、問題と思う。従って信心の問題は、何を信じたらよいでしょうか、ということになる。キリスト教でしょうか、観音様でしょうか、仏教でしょうか、生長の家でしょうかということになる。どのように信じたらよいかということは、人があまり問いません。信じ具合のことである。こういうのをすべて対象化という。あなたの信じようとしているものは向こう側にある。そしてあなた自身は信ずるというだけで少しも変らない。何を信じたらよいかということを求めている。こういうのを物質化という。道具化という。あなたは結局、何かを信じて助けてもらって実利を得ようとする。道具に使おうとしているのである。あなた自身の内面化、あなた自身が自分自身に深く目がさめるということはないではないか。「如来ましますか」というこの問いに真に答え得る時、「自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつる」ということが出てくるのである。
 このためには、よき師よき友をもって聞きぬくということが大事である。教を聞きぬく。他力の心、如来の御意を聞きぬく、「聞其名号」という。「聞」とは聞きぬく、聞いて聞いて聞きひらく。「其」は前の言葉をうけるのだが、よき師よき友である。「名号」とは南無阿弥陀仏、如来の名告りである。
 如来とは何か。如より来たる。如とは大きな大きな世界で一如という。私の世界に如より来たる、これを如来という。南無阿弥陀仏という。これは仏の名前、名称ではなしに名号という。号は名告り、呼びかけをいう。名告り叫んであるのである。南無(帰れ、来たれ、出でよ)と私によびかけている。阿弥陀とは大いなるもの、永遠なるもの。「大いなるもの、無限なるものわれに帰れ」というよびかけを名号といい、南無阿弥陀仏という。その名号を聞きぬく、聞きひらくことが、「如来ましますか」という問いに対する答である。
 ヨハネ伝には、「はじめにコトバがあった。コトバは神と共にあった。コトバは神であった」とある。コトバとは何か。呼び掛けであり語りかけであり、私に対する深い深い名告りである。これを指摘したのはキリスト教であった。しかしその真意を明らかにしたのは仏教であった。「はじめにコトバがあった」、そのコトバは何であったかを、ヨハネ伝は遂に明らかにしなかった。仏教においてそれは明らかである。そのコトバ、よびかけが南無阿弥陀仏である。「大いなるものに帰れ」というよびかけである。それがわかるということが、教を聞きひらくというのである。普通の信ずるというのではない。信じようとしても信じられるものではない。それは深い根源から我々によびかけてきて、固い固い殻の中に閉じこもって自己中心の思いにとどまっていた私が、だんだんと育てられて、遂にそのよびかけを明らかにする。これが自力の心をひるがえすということであり、「如来ましますか」という問いに対して「如来まします」と言い切れるのである。「如来まします」とは、南無阿弥陀仏ということである。これは一度でわかるという問題ではありません。何遍も何遍も聞いて貰わねばならない。聞きぬかねばならない。

2、廻心、懺悔
 自力の心をひるがえす、即ち廻心といのは必ず廻心、懺悔である。懺悔とは仏の前に自己をあやまるということである。自己をお詫びすることである。我々は残念ながら小さなことに対して仏に詫びることしかできない。今日はバスの中で席を譲ってあげることが出来なかった。今日は子供に少し言い過ぎた。その程度のことしか詫びることができない。これは枝葉末節の懺悔である。そうではなしにもっと根本的な、根源的懺悔が廻心心懺悔といわれるものである。
 根源的懺悔とは何か。私の存在そのものが仏の前に詫びねばならぬ、そういう存在であるということである。『涅槃経』の言葉を借りると、私が難治の三病をかかえている。治らない病をかかえている。難化の三機である。まことに申訳のない存在であるということ。このことを仏の前に謝するということである。これを懺悔という、三病、三機とは何か。謗法、五逆、一闡提という。謗法とは謗大乗といい、仏法をそしるという。仏説無視である。仏法無視ということを口でも言わない、心で思ったこともないかも知れぬが、実際の生活では仏法を無視して生きているのである。それが問題になるのを根源的懺悔という。これがなかなか問題にならぬのである。五逆とは恩知らずという。一闡提とはやる気のない私である。私の本来の心では三日でも十日でも仏の前に合掌するということがない。全然やる気のないお粗末な私を一闡提という、一闡提はサンスクリットで訳すると断善根という、善根の絶えはてた私である。
 そういう自己にぶつかりこれが明らかになる。なかなかわかって頂けないかも知れない、しかし皆さんがわかろうがわかるまいが言っておかねばならない。ここが明らかになることが大事なのである。これが「自力の心をひるがえす」ということである。ひるがえすということは自分でひっくり返るのではない。教を聞いて、教えてくれるよき師よき友に遇うて聞きぬくというところに生まれてくる結果である。その時「如来ましますか」という問いに対して、「如来まします」と廻心懺悔していくということが、他力をたのむということである。そうなるのである。自力の心をひるがえしてそこに生まれてくるのが悪人というものである。

三、自力の心をひるがえす

 親鸞ご自身は、『教行信証』の化土巻に「建仁辛(けんにんかのと)(とり)(れき)、雑行を棄てて本願に帰す」と言われている。これは、「自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつる」ということを、このような言葉で言われているのである。
 「建仁辛の酉の暦」親鸞聖人は二十九才であった。比叡山にのぼられたのは九才であったから、ちょうど二十年間、聖道門の修行をされたのであるが、遂にそれがかなわず山を下りて、吉水の法然上人の処に行かれたのが建仁辛の酉の暦であった。ただ単に法然にお遇いしたということでなしに、「雑行を棄てて本願に帰」したのである。自力の心をひるがえすということは、第一の壁、第二の壁を突破して更に進展することである。

1、第一の壁 「世間心」
 現在、我々が社会人として、また一箇の人間として存在しているのに対して壁がある。それは我々の進展を妨げる壁である。我々人間はドングリとして存在している。小さな殻に閉じこもっているが、その殻を超えていくのに壁が二つある。これを突破しなければならない。
 第一の壁を「世間心」という。世間心とは名聞、利養、勝他をいう。名聞とは名誉心である。世間の評判、よく思われたい心、そういうものに執われる。世間体というものがどうしても気にかかる。それを世間心という。利養とは損得、打算である。勝他は競争心であって、いつも誰かを意識していて、負けてはならぬ、人におくれを取らじというものである。そのような世間心で生きている。これが第一の壁である。一言で言うと外にとらわれている。外にとらわれないためには熾烈(しれつ)なる求道心が要るのである。求道心とは、外は如何ともあれ自分を何とかしなければならぬということである。いつも言うように「君はそれでよいのか」ということ、これが第一の壁の突破口である。世間体ばかり考えてこれでよいのか。打算ばかり考えてこれでよいのか。競争心に引きまわされているがこれでよいのか。これが突破口である。ここから求道がはじまる。

2、第二の壁 「(とら)われ」
 現在は少し下火になったが、何年か前まで学生運動が盛んでした。今は大半の学生は興味を示さなくなった。学生運動というのは片寄った考えの、何か異常な者がやっているように思うが、実は案外まじめな学生が多い。しっかりした学生が多い。それは名聞、利養、勝他に追い廻されて受験勉強をし、大学に入学して、これでよいのかという思いから学生運動に入っている。従って、これでよいのかという問題は必ずしも求道だけでなしに、イズムというものに入る動機になるということもある。
 世間心を第一の壁とすれば、第二の壁は「執われ」である。イズムに執われ、主義に執われる。その執われというところに壁がある。この執われは法執とでもいうか、かくあらねばというものに執われる。現在の社会体制を打ち砕かねば幸福な社会はできないということに執われるのである。
 執われは、かくあるべしという理想主義の形をとる。また、善悪の批判となる。仏教の言葉で言うと定散二善に執われる。正しい心、正しい行いにとらわれて、かくあらねばならぬというところに縛られる。是非こうしたいという願いを持っていて理想主義的になる。すでに名聞、利養、勝他の心は捨てているが、自己の考えに執われている。
 第二の壁は、自分の行き方は正しいのだという根性に立って、理想主義や主義主張に執われる。また自分の可能性に深く執われている。そこに生まれてくるのは雑行雑修である。あれもこれもやらねばならないと思う。「雑行を棄てて」の雑行は、この雑行雑修である。
 かねて申しましたが、私は化学の教授でして、化学実験を学生にやらせる。一年生が入ってくると、定量分析、定性分析というのがある。先ず基本をしっかり教えておかねばならない。そこで見ていると、初心者に共通なことが幾つかある。一つは聞いたことを聞きっ放しにする。大事なことを言っているのだがノートを取らぬ。これが素人の特色です。何を聞いてもぼんやりしている。ノートを取るというのは実験では特に大事なことで、どんどん記録をしておかないとあとではわからない。もう一つは、やりっ放しであること。実験をしようとするのに掃除をしない。これが初心者の通例です。実験の机はきれいがどうかわからない。実験をする時には科学的にきれいかどうかが大事である。物理的にはほこりがあるというように目に見えるけれども、化学的な汚れは目に見えないからわからない。机もよくふき、試験管もよく洗って汚れていないことを確かめてから実験するようにならなければいけない。第三は物を沢山とる。これが初心者の一番の特徴ですね。試験管に水を入れなさいというと、水をいっぱい入れる。薬品をとる。時でも沢山とる。初心者ほど沢山いると思っている。あれもこれもいると思う。実際には少ししかいらない。試験管というのは、三分の一以下しか入れてはいけない。なぜなら、振っても混ざらないから。初心者ほど沢山の物がいると思っている。そう思い込んでいる。それが執われである。本当は少しあればよいのである。もっともそれが始めからわかっている人は一人もいないわけであるが、それが壁である。
 今、井戸を掘るとするならば、あそこにもここにも掘る必要はない。水の出る井戸を一本掘ればいい。掘りぬけばいいのである。水の出ない井戸をあちこち堀ってもつまらない。一つでよいのであるが、それがわからない。それを雑修という、それが壁である。
 その壁はどうして打ち砕くことができるのか。これはまた、なかなか大変なことである。その壁を破ったところを、雑行を棄てたという。それを自力の心をひるがえすというのである。この壁の突破とはどういうことか。それは自己自身を知るということである。問いとして言い直すと、「如来ましますか」という問いに答えるということである。この問いが、人間の執われを引きちぎる問いである。如来とは本願、私に深い願いを持つ如来、それを知る。このことが自分を知ることである。如来の本願を説くのは『歎異抄』第一章である。それが私に本当にわかるというところが第三章である。わかった姿を「他力をたのみたてまつる悪人」という。悪人が誕生するのである。如来の本願が私に本当にわかる、それが「如来まします」ということである。そのためには第三章が必要である。第二章は「よき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」である。これが第二章の中心である。よき人、それは親鸞においては法然であり、法然においては善導、更に釈迦というように、釈迦、善導、法然という長い歴史、伝承を通して流れてくる具体的な本願がある。具体的な如来の働きがある。これが私にわかるというのが第二章である。第二の壁を突破することは、本に返せば本願、そしてよき人、それがわかって悪人という自覚に立つことである。
 自己自身を知ることと、「如来ましますか」の問いに答え得ること、この二つは同じことなのである。自己自身を機といい、如来を法という。自己がわかることが如来がわかること、如来がわかることが自己を知ることである。法がわからなければ機もわからない。機がわからなければ法もわからない。私がどんな顔をしているか、わかるためには鏡がなければならない。鏡が先か顔が先かというと、鏡の方が先である。電灯をつけるのに、スイッチを押すのと点灯するのとは同時であるが、しかしスイッチを押すのが先である。如来の本願が鏡である。それがよき人を通して私に鏡としで与えられた時に、自分自身がわかるようになっている。よき人の仰せが先で、私があとである。
 この第二の壁を打ち破ること、即ち本願がよき人の仰せを通して私の処に届いて悪人が誕生する。そこに生まれてくるものが念仏である。南無阿弥陀仏である。私に届いてくるところを本願名号という。南無は帰れ、阿弥陀仏とは無限なるもの、永遠なるものである。南無阿弥陀仏とは名称でなしに名告(なの)りである。大いなるものわれに帰れ、阿弥陀仏われに南無せよという。それが私に届いて私が目覚めて、南無阿弥陀仏と念仏申す。如来から届けられるものは名号、名告りであり、私から出てくるところは称名念仏。名号が念仏となるのである。
 雑行を棄てて本願他力の念仏に帰する。これを「ただ念仏して」という。遂に雑行から念仏一つになる。このためには、砕かれなければならないものがある。私自身が本当にわかるということがなければならない。教を本当にわかるということがなければならない。そのためには教を本当に聞きぬかねばならない。教を聞きぬくということが、私自身が本当にわかるということである。そしてたった一つ、念仏というものが頂けるようになる。これを第二の壁を超えるという。執われが砕けるのである。

3、進展(信力増上)
 第一、第二の壁を超えたところに広い天地がある。そこから本当の進展が始まる。それを信力増上という。禅宗では大悟一番という。それまでは小さな悟りを幾つも幾つも開いてきたのであるが、ここで大きな悟りが開いた。それで終りかというとまだ終りとは言わない。進展し進展し、一生通していくのである。殻は破れたら芽が大きく伸びるのである。殼が破れるのにかなりの時間がかかる。それがようやく芽を出した。芽を出してからが出発である。宗教では悟りを開けばもうそれで終り、ゴールインと考えられやすい。それは誤りである。それが出発点である。ドングリの種が発芽したのが始めであって、それから芽が伸びていくのである。伸びて苗になり若木になるのが本筋である。卒業のない進学である。その進展の途上で考えねばならないことがある。「如来いずこにましますか」ということである。
 如来はどこかにいて私を護って下さると思う。しかし如来は我等の大地となりたもう。我等の大地となるとは私から言うと、仏様を足の下に踏みにじっているということである。あるいは、如来を尻の下に敷いているということである。それがわかることが進展の鍵ではなかろうか。
 進展を妨げるものは何か。それは憍慢(きょうまん)、邪見憍慢というが、それこそ人間の進展を妨げるものである。邪見憍慢とは、得た、わかった、皆はまだわからないのに私はわかったということである。この邪見憍慢を知らされると、毎日生活の中に、今日の一日も私は仏を足の下に踏みにじっていて、仏は私の足下から私を呼んで下さっているのだということがわかる。その時我々は、自分の邪見憍慢を「邪見憍慢悪衆生」と、仏に懺悔するしかない。それを念仏の行者という、いよいよ本願に帰するのである。そこに謙虚な人が生まれてくる。これが悪人である。遂に極重悪人である。
 自力の心をひるがえすとは第一の壁、第二の壁を突破して殼を破っていくということである。

 上 善人 正人 是人 実人 真人 浄人 利人 促人 豪人 明人
 下 悪人 邪人 非人 偽人 虚人 穢人 鈍人 奢人 賎人 闇人
  善人と悪人とある。 正しい人と間違った人 是人と非人 まことある(誠実な)人とない人 真の人と偽りの人 清浄の人と汚れた人 利根の人と鈍根の(ものを受け取る力のない)人 はやい人と遅い人 徳をたくさん持っている人と何も持たない人 明るい人と暗い人

 ここでもう一つ問いを出そう。この問題がどのように解けるであろうか。『教行信証』の行巻の終りの方に、「又()について対論(たいろん)するに信疑(しんぎ)(たい) 善悪(ぜんまく)対 正邪(せいじゃ)対 是非(ぜひ)対 実虚(じつきょ)対 真偽(しんぎ)対 浄穢(じょうえ)対 利鈍(りどん)対 奢促(しゃそく)対 豪賎(ごうせん)対 明闇(みょうあん)対あり」とある。「機について」とは求道していく人、本願を本当にわかる人をいう。対にしていってある。
 問題というのは、本願の行者、念仏の人は上欄と下欄とどちらに属するのかという問いです。簡単だがむずかしい。親鸞はどちらとも書いていない。どちらが念仏の人か。どう答えたらよいだろうか。
 自覚の天地で私自身の主観的な考えからいうならば、下が自己である。しかしながら仏から見れば(客観的天地でいうならば)、上が私である。両方正しい。法によって本当に自分が徹底した悪人とわかる。それは自分の悪非人、いつわり、汚れ、鈍根、賎、闇、全くかたなしである。悪人の内容である。第三章からいうと下こそ私である。法のわからない人ほど自分を善とうぬぼれ、正しいと思っている。しかしその人は客観的には下欄である。信が成立すると仏の眼に善人なのである。客観の天地、仏から見れば上である。上を自己と見るのが自力の心であり、自己肯定の世界。他力の人は自己否定であり、自己を下と知る。
 親鸞聖人は、『一念多念証文』(略して『一多証文』)の中にこう言われている。「是人というは真実信楽の人をば是人と申すなり。虚仮疑惑の人をば非人と申す。非人というは人に非ず悪きものというなり。是人というは善き人と申す」と。真実信楽とは真実信心の人。その人が善人である。
 仏の側、客観の側から見れば信心の人が是人である。虚仮疑惑の人が非人である。非人とは、人間の顔をしているけれども人間でない。ドングリである。是人とは信心の人であり上欄の人である。
 『教行信証』の行巻に、『安楽集』を引いておられるところがある。そこに伊蘭(いらん)林の(たとえ)が出ている。人間われらの心をたとえて伊蘭の林という。伊蘭というのはサンスクリット語で、この木は花がとてもきれいな紅色であるが、臭いが悪い。死臭であってしかも強烈である。この伊蘭の林が九十里四方にびっしり生えている。びっしり生えた伊蘭が強烈な死臭を放つ。これを人間の心にたとえてある。その実を食べた人は発狂する。伊蘭は我々の心であって、それを三毒、三障、無辺の重罪という。三毒は「貧欲 瞋恚 愚痴」であり、三障は「惑 業 苦」という。障りとは我々の前進を妨げるもの。更にほとりなき重い罪を合わせ伊蘭の林という。我々の心の現実を言っている。九十里四方の伊蘭林が人に限りなくくさい臭いを与える。においというものはどうすることも出来ない。
 顔色の悪いのは化粧して直すこともできる。白髪が出たのは染めればいい。が、においはどうすることもできない。それをその人の持っている雰囲気という。それが人を発狂させるようなものである。我々の内なるものをたち割って人に見せたならば、まことに人を発狂せしめるものがある。
 この伊蘭林の中にたった一本、栴檀(せんだん)の芽がようやく一つ出てきて、それがよい香りを放って伊蘭のにおいかき消す。伊蘭は生い茂っているのであるが、たった一つの栴檀の芽のために伊蘭のにおいは全く除かれてなくなる。これを香光荘厳という。香光荘厳とは、念仏の人の徳の香りを言う。念仏が伊蘭林のにおいを打ち消して、全くかぐわしい徳の香りを出していくという譬である。
 念仏の人、信心の人は自分が伊蘭の林であるということが本当にわかる人である。自分は人を発狂せしめるようなものしか持たぬ。その自覚の中から出てくるものは念仏の徳のもつ香りである。自分の中に見出せるものは下欄の自分である。それが信心の人である。自分では下欄を自覚するが、客観的に見ると上欄の人である。伊蘭林の譬からいうならば、行者自体の姿は自覚的には伊蘭である。下欄である。栴檀の香りというのは自分にはわからない。香りを肯定することはできない。しかしそのままが徳の成立している姿である。
 だんだん歳を重ねると人は、役職についたり、あるいは長になったりする。その時に自分の胸をたち割って見ると、色々な思いで一杯である。あの人はできる、この人はできない、あれもして欲しいという思い等々、色々ある。で、それを全部出して見せるとしたら伊蘭林そのものである。年取ってくるとよくわかる。年の多い人が若い人に自分の思うままを言ったら、若人はどれ程苦しむことか知れない。我々はどうしょうもない伊蘭林を内に持っている。伊蘭の林であることが自分にわかる時に、その働きはとまる。わかる時にそのにおいいが変わる。伊蘭林がわかるということが自覚である。自覚は必ず懺悔である。申し訳ないことである。そうすると栴檀の香りが出てくる。なくすることではなしに、自覚するのである。悪人とは自覚の姿である。それを仏の側から見た客観的な評価は善人であり是人である。しかし自分では善人を自己に肯定することは決してできない。
 「自力の心をひるがえす」とは、突破しなければならない壁があるということ。雑行を棄てて本願に帰すということがなければならぬ。この事は本当に教を聞きぬいて自己を知るということ。伊蘭林の自己であるとわかること。悪人と自覚することである。これを「自力の心をひるがえす」という。
 第三章は第一章の展開であり、また第二章と関連がある。第一章の初めには「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」とある。先輩の教によると、そのあとの「摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」が、第三章の「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と関連するのである。また、第三章の「自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつる」が、第二章の「…と信じて『念仏申さん』とおもいたつ心のおこる時」と関連する。このように第一章、第二章の文を、もう一度別の形で言い直してあるのが第三章であるといわれる。

四、他力をたのみたてまつる

 「自力の心をひるがえす」ということと、「他力をたのみたてまつる」とはイコール、即ち内容が同じである。先ず自力の心をひるがえして、それから他力をたのみたてまつるというのではなく、「自力の心をひるがえす」そのことが直ちに「他力をたのみたてまつる」ことであり、「他力をたのみたてまつる」というそのことがそのまま「自力の心をひるがえす」ということである。同時であり内容が同じである。またこのことが、「…と信じて『念仏申さん』とおもいたつ心のおこる時」と同時である。
 言葉の意味を少し申しましょう。「たのむ」とは「信ずる」ということ。単に信ずるのでなく、「信じて念仏申さんと思う心のおこる」ということ。「他力」とは「弥陀の誓願不思議」である。この第三章は第一章の展開、第一章を言い換えられたものである。従って「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」というのが「他力」である。「…と信ずる」とうのが「たのむ」ということであり、「自力の心をひるがえす」ということである。第一章には「自力の心をひるがえす」という言葉はない。が、「おこる」ということがそれと同じ意味である。

1、出発点
 我々の行動や実践の出発点は何か。私の思い、決断が出発点になる。自分の考えがきまらなければ人に相談したり本を読んだりして、決断し実行するということになる。私の思い、決断、これらが実行の出発点となる。こういうのを自己をたのむという。自力の心という。
 しかし出発点は自己決断しかない。大事なものは、方向づけである。どの方向に進んだらよいか、どんな方法をとったらよいか。自己の向上こそ大切な方向である。同時にだいたい名聞、利養、勝他というのが方向の決め手である。名聞とは世間体であり、利養は算盤(そろばん)勘定であり、勝他とは競争心である。あまりひどく人から負けてもいけない、算盤勘定を無視するわけにもいかない。世間体を気にしないわけにもいかない。名聞と利養と勝他をある程度満足する方向、これを一言でいうと幸せ、幸福という方向をとるのである。
 この方向に進んでいくエネルギー源、前進する力は何によって出てくるか。それは自分でやり初めたのだからやりぬこう、到達点に達するまではやめまいという決意である。そして書物によって激励され、身内の者や友達や先生の勧めによって進んでいく。
 このように出発して進んでいくのを資糧位、加行位という。資糧位は、もとでになり、かてになるものを聞いて考える。自分自身の向上をめざして、聞いて考えるのである。
 なぜ出発しなければならないのか。そこには、どうしてもこのままではいけないというものがあるからである。これは若い人ばかりではない」。老人も自分自身を考えると、だんだん年を取り子供も大きくなったが自分はこのままではいけないと思う。ここが出発点となる。出発点は現実である。「これではいけない」という現実を皆がかかえているのであるが、一日一日を何かでごまかしている。いま決心して、方向を持ち、進もうとする。その第一歩を資糧位という。どういうようにやっているかと人に聞き、自分が進んでいくもとでになるものを集めていく。そして実行する。これを加行位(修)という。聞いて考えて実行する。その時我々は当然、自己の思いと決断と実行力をもとでにして、幸せにならねばならぬ、しっかりしなければいけないと思う。これが中心である。とにかくやってゆけばどんどん前進するのではないかと思う。が、どっこい、そこに大きな壁があってそれ以上進まない。前進どころかずるずると後退する。
 資糧位以前を外凡という。外凡を信外(しんげ)軽毛(きょうもう)という。善導大師は「余が如きの信外の軽毛」といわれた。資糧位の外側ということである。資糧位をのちに大乗仏教では二十段階に分けて十信十住。加行位も、十行十廻向と二十段階に分ける。はじめの行は自分が前進するために生活を正しく、戒律を守り自利を実行する行である。あとの行は廻向である。この廻向とは他のために働く、布施や働きかけである。資糧位、加行位で四十段になる。その十信の外側を信外という。軽毛とはちょうど鳥の毛のように風が吹けばどこまでも飛んでいくような、とるに足らぬ存在である。外凡とは煩悩に迷わされそれに引きずり回されて、やろうと思うが方向がわからず、やり始めても続かないのをいう。凡は凡でも外凡という。やった、始めた。が、ずるずるとすべり落ちて一番下までもどってくる。元の木阿弥になってしまう。そういう事実がある。みんなは、やりさえすればどんどん上がっていくと思うが、資糧位、加行位まで行っても、あとはずるずるである。これではいけないと思ってまたやるが、同じことを繰返すだけである。大きな大きな絶壁がある。他の宗教はその絶壁を言わない。わからないのかも知れない。しかしそれをはっきりしなければならない。ここから先に進めない。ここから出られない。出られないから行きつ戻りつ、行きつ戻りつである。途中で穴を堀ってもぐり込んで休んでいる人もある。これを小乗二乗という。ある自己満足の穴の中に入っている者である。要するにそこから先へ進めない。断絶がある。そのためついに外凡にかえるのである。
 絶壁の先には何があるのか。それを通達位という。これを信心決定するという。ここまで来ないといけない。ここに到達するのを「他力をたのみたてまつる」という。ここまでこなければ人は一生、行きつ戻りつで終るしかない。断絶を超えて信までこなければならない。世の中の宗教はどれもみな言う、「しっかり頑張りなさい。そうすれば必ずできますよ」と。しかし頑張ってもできないのである。頑張ってもこの壁の下まで行って終わる。進展しない。
 どんぐりがある。どんぐりの殻自身が自己原点である。殻の外へ出られない。いつまでたってもついに殻の中で終る。殻の中を資糧位、加行位という。そこから出なければならない。遂に殻を破って発芽をした。これを通達位という。そうすると広い天地に出る、これを親鸞は「他力をたのみたてまつる」という。これを信心決定といい、更に修習位に立つという。「自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつる」という。こういう処に出るということが大事である。
 この断絶という事が大切である。一階から二階、二階から三階というわけにはいかぬ。壁にぶつかって先に行けない。自己決断という殻の中では先に行けないのである。自力の心のままでは行けない。自力の心をひるがえし、他力をたのむということがなければ行けない。
 自力の心をひるがえすというと、自分の持っている心を投げ捨ててと思う。そうではない。自分で今いる場所を飛び上ったものは自分の重さで落ちてくる。眠たい者が自分の手で自分をつねっても、なかなか目を醒ますことは出来ない。昔はお寺に行く時は年寄りの人達は飴玉を持って行ったものです。今でいうチューインガムのようなもので、ねむくならないようにそれを口に入れている。昔も今も同じだが、話の時に眠っている人がある。眠るために来ているのではないから、自分でつねって目をさまそうとしているが、それでも眠っている。なぜ眠るか。つねる手も眠っており、つねられる方も眠っているからである。隣に覚めた人がいて、ちょと(たた)いたらハッと目が醒める。人が叩くから醒める。眠った手で眠った自分をつねっても、どっちも眠っているからめざめない。自分自身でどれ程やってみてもひるがえされない。覚めた者がいなくてはならない。目が覚めている人に叩かれねばならない。
 信心決定して修習位、究竟位となる。覚めた人の世界を究竟位といい、仏陀の世界という。如来の世界である。その如来の世界からの呼びかけが届くという以外に、我々は覚めようがない。この断崖絶壁の下まで来てはじめて、覚めた人の働きかけが届くのである。断崖の下に来るまでは、何回も行きつ戻りつを繰返し、遂に断崖の下にひざまずいて、どうしたらよいかと更にぶつかっていくところに道はひらけるのである。
 仏教も何事もそうであるが、本当の道は一遍でできるものではない。苦労して苦労して苦労しぬく、自力の限りを尽し、自己決断と、前進力と、継続一貫最後までやりぬくぞという意地でもってやらないと出来ない。自力を難行道という。難行道の限りを尽したところに他力の易行道の世界が開けるのであって、資糧位、加行位のところをしっかりやらない人には道は成就しない。従って仏教ほど根性を要するものはないと言える。根性とは、それが男性であろうと女性であろうと、最後までやりぬく気慨がなければならぬ。その事が大切である。行きつく所まで行きつかなければ自力の心をひるがえすということにならないのである。
 出発し継続した者において、行き詰りということがある。行き詰りとはやってもやっても解決しない、そのような現実。親鸞聖人は九才で比叡山に登られて修行をはじめ、二十九才まで二十年間やりぬかれた。法然上人は十一才の時父親が殺されて、それから出家して四十三才まで実に三十年余、わからないわからないと頑張った。遂に断崖絶壁の下にひざまずくしかなかった。曇鸞大師は五十才まで頑張った。大変な人である。それまで「わからない」と言えるところに、この人たちのすぐれた所がある。我々は大抵の所でわかったことにする。わからないのにわかったふりをする。いい加減のところでごまかしてしまう、やめてしまう。それを「わからない」と言いぬいて、求道を継続一貫した。しかしその行き詰り、わからないという現実、それが解決されなくてはならない。すべてものの進展は、わかったところとわからないところをはっきりするというところから始まる。何もかもわかったふりをするのが一番いけない。言葉や外見でわかったふりもできるが、本当にわからない限り一生悔いを残すであろう。蓮如上人は偉いお方で「信心治定の人は誰によらず先ず見れば即ち尊くなり候」(『御一代記聞書』)、本当の信心の人は尊い人であることが一目見てわかる。そこまでなるという人も偉いが、そこまで見ぬく人もまた偉い。我々にはなかなか判断がつかぬが、見る者が見れば本当の人はすぐ見分けがつくといわれる。

 信のわからない人は次のような特色を持っている。
(1)雑縁(ぞうえん)乱動して正念を失す。
 雑多な縁が色々と乱れ動いて、私を引きとめて求道が出来にくい。そして次第に正しい思いがなくなっていく。雑多な縁というのは、雑多な人や事件である。また色々な思いの人が私を引きとめる。雑多な場所、雑多な事件に引きずり廻されるというのが特徴である』人間は社会の中に生きているのであるから、色々な人に逢い、色々な所に行き、色々な事に出遇うのは当然である。それなのになぜそれが雑縁乱動となるのかというと、価値判断がつかぬからである。とらねばならぬ事がはっきりせぬからである。葬式と求道を同じ価値に見る。葬式に行くのは大事なことである。が、求道がさきで、その後で行ってもかまわない。どちらが先で大事かがわからない。
 私は仏法の会の日程が決まっている。それに私が聞法する会がいくつかある。その日程を先に入れて、仏法を優先している。世間の事はあいている日だけしか出ない。一般の人には通用しないと思うが、私が不義理をする時は仏法に出ていると思ってもらうようにしている。出来るだけの事はつとめるが大抵家内に代りに出てもらう。

(2)恩ということがわからない。
 御恩を知らない。恩という文字の意味は一応知っている。が、御恩ということがわからない。これが特色、自力の特色である。自分でやっていると思っているから御恩だとわからない。宗教の最後は御恩である。何の御恩か。如来大悲の御恩である。如来の御恩徳というものがわかるようになる。さらに、よき師よき友の御恩が身にしみてわかるようになる。それがわからないのが特色である。

 それでは、そのような行き詰まり―雑縁乱動して正念を失す―やってもやっても行きつ戻りつする、その行き詰りを打破するのにはどうしたらよいか。それには名案がない。この問いは、本当に解決したい問題である。けれども、その発想自体が自己中心である。発想自体が…のためにというところから出ている。なぜ打破したいのか、それは今のままでは困るからである。折角やったのに幸せにならないから幸せを得るために打破したいという。行き詰りの打破を求めることも自力。従って答はない。問い自身が間違っている。

2、本願成就
 そこに本願成就ということがある。本願とは仏のよびかけ、南無阿弥陀仏である。南無は帰れ、共にあれ。阿弥陀仏は無限なるもの、永遠なるものである。無限なるもの、永遠なるものわれと共にあれという本願。その本願が届いて下さる、成就するということしかないのである。それが届いてくるところを私において「他力をたのむ」というのである。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信ずる」ということである。
 本願成就文というのは『大無量寿経』下巻にあり、親鸞聖人の『教行信証』もこれが中心である。
   諸有衆生
   聞
   其名号
   信心歓喜

これを本願成就文といい、本願成就の姿を述べてある。信心というのはどうして起るのかということを、これ程適切に書かれた言葉は、他にない。信心、即ち「他力をたのみたてまつる」ということが起らなければならない。自力の心をひるがえすということがなければならない。それが可能なのは本願成就によるものである。
 「聞」とは聞き開くということ。「其」はよき人の仰せ。「其名号」はよき人を通して語りかけられる南無阿弥陀仏の教を開きひらく、それが信心歓喜である。何遍も申すのであるが、何遍申しても申し足りない。
 で、どうしたらよいかという問いに答えるとすれば、聞きひらくということ、よき人の仰せが届くことが大事である。
 『歎異抄』の第一章は、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」、つづめて言えば本願を聞きひらく、そして「信じて念仏申す」、本願成就しなければ信心は出てこないということが出ている。これを具体的に言ったのが第二章である。本願が届くとはどういうことか。「……とよき人の仰せを被りて信ずる」ということなくしては、本願を信ずるということはあり得ない。そのよき人とは、釈尊の説教、善導の御釈、法然の仰せ、親鸞と続いて、その中を一貫してくる具体的なもの、それが届いたところを第三章という。それが「他力をたのみたてまつる悪人」という。悪人という自覚が大事なのである。従って第一章、第二章、第三章で信心成立、本願成就という具体的な姿が出ている。
 諸有衆生というのが悪人であり、罪悪深重の自己である。迷い深い私、諸有衆生というのが第三章。本願名号という第一章、よき人の仰せというのが第二章の問題。「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜」が第一章、二章、三章になって、本願成就の姿が出ている。
 今一つ譬を出してみよう。電車がある。電車はパンタグラフを上げて線路の上にあって、すぐにでも動きそうなのに動かない。電流が流れているのに動かない。何故かというと、スイッチが入っていない。スイッチを入れたらこの電車は動く。そのスイッチとは何か。求道におけるスイッチは何であろう。なかなか難問である。これは第三章でいうと「自力の心をひるがえす」ということである。これを第一章でいうと「他力をたのみたてまつる」という。二つ一緒に「自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつる」と言っている。これがスイッチである。

 「自力の心をひるがえす」というスイッチは、具体的には、どういうことか。
 自力の心をひるがえすとは廻心(えしん)(回心)である。廻心とは、廻思向道という。思い、心をひるがえして道に向かうという。自分で自分の思いをひるがえすということは、我々にはとうてい出来ないことである。眠っている自分を眠っている手でつねって起すようなものである。それは如来の廻向によってのみできる。他力廻向、本願力廻向によって廻思向道が成り立つ。廻向によって廻心が成り立つ。自力は如来に反撥している。如来を無視している。自己中心であり、自己原点である。他力は、衆生に働きかけてこれを如来の方向に向きを変える力をもつ。これを廻向という。この廻向によって私の方向が如来に向かう。これを私において廻思向道という。向かわしめる力を如来の本願力という。
 今、一本のさびだらけの磁石がある。この磁石を強い磁石にする方法は一つしかない。それは錆を落してこれに磁力を与えることである。この磁石をよく磨いて、親磁石をもってきてこすると、子磁石の内部の鉄の小さな粒子が向きを変えて磁性を復活する。そして南北を指すようになる。なぜ南北を指すのかというと、この地球全体が大きな磁石だからである。地球全体の磁力に引かれて、南北をはっきり指すのである。それを廻思向道という。自力の心をひるがえすというのは、大きな力のために自分の向きが変ってくるのである。フラフラするのは錆がついて自己原点に陥っているからである。それを叩きのめされる場が断絶の壁である。ここまでしっかりやらねばならない。それが錆が落ちること。ここまでやってみるとはじめて、大きなものの力が働きかけてくる。その時人は直ちに南と北を指すようになっている。そして如来の方に向きが変わるのを往相という。往という姿勢ができるのである。はじめてそこに自分自身の方向を持ってくる。それは自己決断ではない。自己の決断の上にでてくるのではあるけれども、大きなものに引かれているのである。私の知ることの出来なかった大きな世界、如来の働きかけが私の上に生きて、私をひるがえした。具体的にはよき師よき友の仰せを被りて、真に聞きひらくことができたのである。
 廻心は必ず廻心懺悔となる。「お粗末な私」というものを如来の前に懺悔していくという姿勢が生まれてくる。
 「ひるがえす」というためには場所が要る。その場所は行きつ戻りつの果てに到りつく。行きつ戻りつしたことのない人に廻心ということはあり得ない。廻心するには座がいる。座の決定がいる。自分の居り場所がはっきりわかるということが必要である。自分の居場所のわかる時、そこに大きなものが働きかけてくる場があるのである。その居り場所、座り場所が「お粗末な私」すなわち「悪人」である。


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