その二

『歎異抄講読(第三章について)』細川巌師述 より

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 「善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや」

 『歎異抄』第三章の初めの一句は非常に多くの人達の心を動かして、『歎異抄』を忘れがたい大きな感銘の書としたのはこの一句に負うところが大きい。親鸞聖人が書かれた主論文は勿論『教行信証』であり、そのほかにも『唯信鈔文意』とか『和讃』とか、仮名聖教とかあるが、それらの中に出てこない言葉が『歎異抄』にはある。その一つがこの「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉である。また「親鸞一人がためなりけり」「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」「よき人の仰せを被りて信ずる他に別の子細なきなり」もそうである。これらは珠玉のような価値のある言葉である。
 『歎異抄』はカミソリ聖教ともいわれる。カミソリとは小さいものだが非常に鋭い切れ味を持っていて、赤子のうぶ毛もそることが出来る。けれども、もしこれを誤って用いるならば危険な害を及ぼすものともなる。気の狂った人がカミソリを持ったら危険極まりない。このような意味で、『歎異抄』は小さな聖教であるけれども一刀両断、われらの迷いを鋭く絶ち切る力を持っている。しかし使い方を誤ったら非常な誤解を招くことになる。どこがそれに当るかというと、この第三章である。第三章の解釈を誤ると非常に困ったものになる。
 「善人でさえも往生を遂げる、まして悪人が往生を遂げないことがあろうか」。この一句を誤って解釈すると、どんな悪いことをしてもかまわない、悪い者こそ助かるのであるということになって、造悪無碍、悪無碍という誤解を生む。何をしても差支えないのだということになる。そしてお寺の説教を聞いて涙を流して喜んでいたその人が、帰りには他人の良い下駄をはいて帰るということにもなりかねない。そういう誤りが大小さまざま出てきて、カミソリ聖教という名前がつけられたのである。
 蓮如上人はこの『歎異抄』に封印をして本願寺の書庫深くしまって公開しなかった。『歎異抄』の最後に蓮如上人の奥書がある。
  右斯聖教者為当流大事聖教也、         (右この聖教は当流の為に大事の聖教なり、)
  於無宿善機無左右不可許之者也 釈蓮如判  (無宿善の機において左右なく之を許すべからざるものなり、釈蓮如判)
 こう書いてしまいこまれた。この『歎異抄』は浄土真宗の親鸞の教を伝える法流の中で大変大事な聖教である。まだ時機純熟しない、まだ仏法がわかる段階に達していない人にむやみに見せてはならぬ」といって封印をして、本願寺の書庫の奥深くしまいこまれた。従って明治時代まで『歎異抄』は公開されなかったが本願寺関係の人は読んでおった。幾つか講録が出ている。その中に香月院深励という人の講義があり、その弟子である了祥という人の講義も出ている。しかし『歎異抄』が一般に公開されたのは明治になってからである。清沢満之という方が『歎異抄』を広く世に出された。しかしこの聖教が広く読まれるようになったのは大正以後のことで「出家とその弟子」なども『歎異抄』によるのである。『歎異抄』で大事なところの一つは「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」というところの意味を誤らないということである。

一、二つの世界

 人間の世界に二つの私がある。マルチン・ブーバーの『我と汝』という書物(1928年)がある。一つは「私-それ」という私、も一つは「私-汝」の私。

1、「私-それ」の私

 私がいて、人や事や物を見るのにそれらを対象化して見る。そういう私を「私-それ」の私という。対象化とは向こう側において見ることである。私の知性中心で見る見方、対象化とは物質として見る。物質化である。血も涙もない立場で冷ややかに見ると、物になる。現在は特にそういう時代である。一人の人を見るのに、どれだけ役に立つか、良いか悪いかと見る、こういう見方を対象化という。
 今、嫁を貰おうと思う。その嫁はわが家の為にどれだけ役に立つか。多少の収入もある方がいい、親に財産があったらなおいい。何かと役に立つからである。そのように嫁を物として見る。現代は非常に物質化している時代である。こういうのを「私-それ」の世界という。何でも物のねうちがわからない。お歳暮を頂いたことに感謝するという気持ちよりも「これいくら位するかな」「二千円位でしょう」というふうに、贈物が物にしか見えない。そこには冷たい心しかない。連帯感、感謝というものを持たない。しらじらしく対象化して見る。「私-それ」の世界である。対象化して見るとき我々は善し悪しをいう。善し悪しで見る時、自分は善人の立場で見るのである。善人意識の上に立って見ている。これが知性のとる立場である。知性というのは自分は高い立場に立って、いつも人を批判的に見るのである。
 仏教ではどういうか。曇鸞大師は『論註』に、「衆生邪見を以ての故に心に分別を生じ、もしは是、もしは非、もしは善、もしは悪、かくの如き分別をもっての故に分別苦、取捨苦を生じ深く三塗に沈む」と言っている。『論註』では人間の知性を邪見、間違ったものといっている。邪見から分別心を生ずる。分別心とは自分と人とを分けて考える、そして是だ非だ、正しい、いや間違っているという。善し悪しを考える。それがなぜ邪見なのか、それは本当の物の考え方、見方でないからである。その見方は間違っている、自分は善人意識の上に立ち、無意識のうちに自分の考え方は正しいという根拠に立って善い悪いと言っている。役に立つ、立たないと言っている。その一番根本は深い自己肯定にある。自分が本当に正しいのかどうかを吟味しないで、正しいときめてこれを前提にして他を見ている。自意識過剰であるとも言える。ここから出ているから邪見という。仏教はここを問題にするのである。自分が本当に正しいのかどうかを問題にするのが仏教である。
 自分は正しいという基盤でいった場合、結果がうまく行かない。どうしょうか、こうしょうかと迷いながら三塗の中に堕ち込んでいくのである。現代はジャーナリズム、マスコミをはじめとして子供に至るまで皆邪見である。自分が正しいということを前提としている。そういう時代である。今こそ仏教の必要な時代であると思う。
 対象化という見方は自分の子供、自分の身内に対してはどうか。自分の子供の場合は向こう側において善いだ悪いだと言えない。自分の娘と嫁とは違うのではないか。善いとか悪いとかは身内の者に対してはあまり言わない。が、よその者になら言える。赤の他人という言葉があるが、これは非常に冷たい言葉であって、こういう考えそのものが邪見である。「私-それ」の世界である。本来はわれも人も人間として一体であって強い結びつきを持っている。この世の中に共に人間として生まれ、縁あって今一緒に生きているのである。強い連帯をもって生きるならば赤の他人も何もない。共に人間であるという広い世界があり、そこには温かいものが流れてくる。そういう世界に立つと、善いとか悪いとかではなく、善人意識は打ち砕かれる。

2、「私-汝」の私

 これは友よと呼べる世界である。全ての人を道具とし、手段とし、物として考えていくのでなしに、常に連帯を持ち一体となっていく。『バイブル』では「兄弟よ!」と言っている。こういう世界をもつのを「私-汝」という。
 汝(Du)とは、切っても切れない関係、深い結びつきにあるもの、親子、兄弟、夫婦というように離れることの出来ない相手に対していう言葉である。日本語でいえば「友よ」、「兄弟よ」という呼びかけである。
 我々は小さな殻の中にいる。その殻を分別心という。それを自己中心、自己肯定という。その上に立って善い悪いと言う。その殻の中にいる限り「私-それ」の世界であり殻の中の人生である。必ず相手を対象化し、向こう側において冷たく裁く。しかしながらこの殻が破れると我々は初めて大きな世界に出ることが出来る。これを第二の世界という。それは、私を「汝!」と呼ぶ人、よき師よき友の仰せを通して私に届けられるのである。
 第一章では弥陀の本願というところに「汝!」というものがある。私に「汝帰れ」と呼びかけるものがある。小さな殻を出でて大きな世界にかえれという、南無という。それをブーバーは「汝!」と言った。
 具体的には「よき人の仰せを被りて」、釈尊-善導-法然-親鸞のよき伝承を通して私に届いてくる。これが第二章である。よき人を通して「汝!」とよびかけているのである。それが届くとはじめて私において「汝!」と呼ぶものが出てくる。これが第三章。
 この種子が芽を出して殼を破って発芽した時、友よ!というものが出てくる。芽が大きく伸びる時、他の世界に対してDu、友よ!と呼ぶのである。この世界では善し悪しで裁かない。善し悪しでなしに宿業と知るのである。背の高い人、低い人に対して我々は善し悪しを言えない。それはその人の業である。
 業とは何か。現代の言葉で言えば現実ということだろう。現実とは現前の事実である。背が高いのも低いのもその人の現前の事実であり、どうしようもないものであって、その人の個性である。それを業という。気が長い、仕事がのろい、やり方が手荒いなどということになると我々は彼に対して、役に立たない、好きだ嫌いだ、善い悪いと決めつける。だがそれらはみなその人の個性である。業がわかるとは、それらがその人の現前の事実なのだ、その人の個性なのだとわかって、善し悪しで裁かなくなる。
 好き嫌いでなく、自分に都合がよいか悪いかでなくなる。前にも言うように自己中心の殻の中で善し悪しを言い、対象化するのを善人意識という。この自己中心の私が「汝!」と呼ぶものによって育てられて、遂にその殻を破られたならば相手の業がわかるのである。人はみなそれぞれの現実を背負っている。善し悪しでなく業なのだとわかる時、相手を受け入れ、認め、包んでいるのである。これをDu!という。友よ!兄弟よ!というもので包んでいる。そのためには私の殻が破れなければならない。
 殻の中にいて善悪で裁く世界と、殻が破れて芽が出て伸びていく世界の二つがある。我々ははじめ第一の世界の中にいるのである。善人意識をもって相手を殻の中から裁いているのである。しかるに広い世界に出た人は相手を包んでいくことができる。自分も業を抱き、相手もまた業を抱いているのだというところに、「友よ!」「兄弟よ!」という深い呼びかけがある。

二、善人と悪人

 悪とは何か。罪悪とは何か。嘉祥の『百論疏』によると、「罪は摧折の義、悪を行ずれば心三塗を感じ摧折す」という。摧折とは、摧は砕ける、折は折れる。心がくじける、弱くなる。悪い事をやったら三塗(地獄、餓鬼、畜生、三悪道)の苦しみを心に感じて摧折する。罪とは心がくじけ折れることである。心の折れるようなことをすることを悪という。
 人間は、いや動物でも悪いことをすると、何か心にショックを感じるものである。私の家には小さな雑種の犬がいる。忠実な犬でよくほえる。夜は11時になると離してやり朝は早くつなぐ。よく寮生のスリッパとかサンダルとかをくわえて来る。それで犬をつないでそのサンダルを見せてやる。「なぜこれを持って来たか」と言うと、かしこまって耳をたれて何ともいえぬしょげた顔をして私を見る。「こんなことしてはいかん」と言ってそのサンダルで叩く。かしこまっている時に叩く。あとからではなぜ叩かれているのかわからなくなる。「これを持ってきてはいかんぞ」と言って叩く。それでもまた持っては来るが大分こたえている。それを見せただけで悪かったという顔をする。心を折られたのである。心に罪悪を感じとったのでしょう。人間も同じで、悪いことをすると大抵の人はショボショボする。悪いことをすれば心が摧折する。人から問いつめられても一応「俺は悪い事はしておらん」と言うが、何となくショボショボしている。人の悪口を言う。色々言う。が、そのうちに「しまった、どうしてあんなこと言っただろうか」と思うようになり、心がショボショボしてきますね。心が折れてしまう。
 自己の悪を感じ取ると心が摧折する。それを良心とかいう。今は智慧という。智慧がなければ感じ取れない。悪というものは有るとか無いとかいうものではない。感じ取るものである。法律的に悪いことをしても「俺は悪いことはしていない」といってつっぱねる人は、まことに智慧のない人、精神的深さのない人、表面的な人である。責任を転嫁して自分の言い分を言いはっている。まことに智慧が無いと言わねばならない。
 また、そのような智慧を出させないものに覆われている。それは強い自己主張、責任転嫁の心が妨げとなっているのである。また、イズム(主張)にかぶれてしまうと、その執われが厚い厚い壁となって罪を感じ取る力を失ってしまう。革命のためには人を殺してもかまわないという。革命主義のもとでは人を殺すのはやむを得ない、あたりまえのことなのだという。人を殺しても罪悪と思わない。それはイズムに執われているからである。三木清の『人生論ノート』の最後に、「人間についての本質的な理解を妨げるものは、怠惰と傲慢(ごうまん)と我執である」とある。

 善とは何か、さきにも述べたように『十住論』によれば、善人とは客観的善人である。即ち(1)信、(2)念、(3)精進の人。
 信とは信知、信受、信順。信知とは認識、本当にわかったということ。自分の罪悪が本当にわかった、お粗末さ愚かさがわかった人。自分がわかったと共に大きな世界を知ることが出来た。これを信知という。信受とは受けとめるということ。受けとめるとは現実を受けとめる力を持っていることである。はねのけない。現実に二つある。一つは内なる現実、一つは外なる現実。内なる現実とは私の心の中の現実である、時に悲観し、時に絶望し時に腹を立てる。雑多な心がおこる。あるいは火のように燃え上り、あるいは氷のように冷酷な心になる。「このようなていたらくの私」、人には言えないようなお粗末な愚かな私の現実に出逢うと我々はそれを受けとめることが出来ない。これでは恥ずかしい、これではいけない、つまらないとなって、こんな私を切って捨てたいと思う、が、そうではない。受けとめるとは「こういうていたらくの私」と懺悔する。懺悔するとは頭を下げて念仏すること、それを受けとめるという。内なる私を受けとめて懺悔する、それを信受するという。信心とはここである。
 私自身をしっかり教えられ見せられて「これではいけない」となるか、「これが私、南無阿弥陀仏」となるか、どちらかである。受け取るのを信受という。外なる現実とは色々の人、色々な事。たとえば病気、事件、火事などが現実に起ってくる。これらが念仏で受けとめられることを信受という。現実が私の念仏になることである。
 親鸞聖人は二十九才で法然上人のもとに行かれて深い信を得られ、三十五才、越後の国に流されて苦しみを受けられた。ここが御一生の大きな谷底であろう、聖人はここで大きな現実に逢われた。その現実とは、比叡山あるいは奈良の、宗教を理解しない人達が朝廷に讒言(ざんげん)して誤った裁判を強いたわけである。そして正しい者が罪に処せられ、間違った者には何のとがめもなかった。聖人は越後へ流され法然上人は土佐に流された。中には首を切られた弟子もある。このような、実に受けとめることの出来ないような現実である。大変なことである。これが外の現実である。
 また内なる現実として色々な心が聖人の内に燃え上ってきて、おのれ憎きあの輩という怒り腹立ちを消すことが.できなかったであろう。そういう内と外との現実を親鸞は「これなお師教の恩致なり」といわれた。これぞよき師を通して私を教えて下さる御恩であるといただかれた。これを「現実を受けとめる」という。どうしてそのようなことが出来るのか。それはたただ一つ信である。「これなお師教の恩致なり」といただき、「地獄は一定すみかぞし」、このような現実の私こそ本願の対象であることを知られたのである。
 私がいる。この私がどうしても受けとることのできない現実がある。その現実に対して文句を言いたい。けしからんことだと深い反撥を感ずる。この現実を信受させるものは、大いなるもの南無阿弥陀仏である。私という存在は仏にとって到底うけ入れることのできない現実である。なぜなら私の心は仏を思わず仏を無視して生きているのが現実である。仏のことなど考えないで自分中心でしか生きていないその私を、受け入れずんばやまずと、私を「汝」と呼んで私を許し、私を大いなる世界に南無しようとするのが仏の大悲本願である。その本願に出遇った時、私は私の立ち向かう現実に「汝!」と呼びかけてこれを受けとる力を与えられる。「汝!友よ!」と呼びかける力を仏によって与えられる。これを他力廻向という。
 外の現実を受けとめるとは具体的には、許せるということだと思う。現実を受けとめられないということは、許せない人を多く持っているということである。現実を受けとめると許せない人は一人もいない。誰に対しても友よと呼べる。心の底でどんな人にも「友よ!」と呼べる。私のような者を友よ!と呼んで下さる本願に遇うて、はじめて人に対して「友よ」と呼べるのである。「私のような者」ということが出てこなければならない。仏に受け入れられようのない無資格の私、仏を無視する心しか持たない私を受け入れずんばおかずという大いなるものに出遇うた時、私の心の中に起ってくるものは懺悔であり、やがて「友よ!」というよびかけである。それを信受という。
 信順とは教に随順するということ。教の如く生きていくことを信順という。教とは「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という。この教を被りて「信ずるほかに別の子細なきなり」となるのを信順という。ただただ信ずればよいというのではない。教の如くに従わさせて頂くのである。大きなものに出遇うことによって私自身の殻が打ち砕かれると、み教の如くに生きる身となる。「南無」と私を呼んで下さるそのお心が私の心を打ち砕いて、遂に私が受け取ることのできないような現実に「南無」と呼びかけていくことが出来る時、ただ念仏となる。これを信順という。このように自己を本当に知り、現実をうけとめて、教の如くに生きていくのを信という。
 龍樹菩薩は善人ということで先ず一番先に信をあげられた。聖徳太子は『三経義疏』の中で「行善之義 本在帰依」(善を行ずるという本当の意味はもと帰依にあり)と言われた。善を行ずるということは根本的には、自分が帰依するものを持つこと、そこからはじめて善がなされるのである。信という心がなくては善にならない。善は善でも信がないのを雑毒の善という。毒の入っている善である。毒とは貪欲、瞋恚、愚痴の三毒である。
 あるお婆さんに娘が三人いて、一月ずつ娘のところをまわる。三カ月に一遍、娘の処にまわってくる。娘は親切にしてくれる。だが何となく「早く帰ってくれ」という心が入っているとお婆さんが言う。善ではあるが何か入っている。代償を求める心など色々なものが入っている。雑毒である。本当の善は大いなるものに帰っていって、大いなるものに報いなければならないという心、いわゆる報恩謝徳という心から起ったものである。
 念とは何か。憶念である。心の世界、仰ぎみる世界。善き人は心の世界を持っているのだという。心の世界とは仰ぎみる世界である。それを念、憶念という。何を仰ぎみるのか。一つは大いなる世界、仏。一つは法、教法。もう一つは僧、僧伽。よき師よき友を憶う。よき師よき友は私を勧証護讃してくれる人である。
 人はおべんちゃらの世界にとじ込められ、また無知の世界にとじ込められていて、誰も自分に本当の事を言ってくれないという中にいることが多い。家族は多少本当の事を言うてくれる。徹底して本当に言ってくれる人を僧伽(サンガ、ソウギャ)という。それを略して僧という。僧といえば我々は坊さんと思うが、本当の意味はサンガである。僧伽とはよき師よき友の集いを言うのである。このような仰ぎみる世界を持つ。これを念という。
 我々が考えている善人、悪人はこの第三章には通じない。「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という善人、悪人は、常識的な善人悪人ではなしに、深い自覚的な世界をあらわしている。この善人は主観的な善人、即ち善人意識の人で、真の善人ではない。真の善人は主観の思いでは悪人である。真の善人とは信と念の人であるが、信と念をもっている入は、自己は悪人と言わざるを得ない。真の善人は大きな世界、仏から見られた善人、客観的善人であり、主観的には悪人の自覚に立つ者である。これが第三章の悪人である。


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