その一

『歎異抄講読(第三章について)』細川巌師述 より

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 「善人なおもて往生を遂ぐいわんや悪人をや。しかるを世の人つねにいわく、『悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや』と。」

 善人でさえも往生を遂げて本願に救われ浄土に往生をしていく、まして悪人が救われないということがあろうか。これが親鸞聖人の仰せである。しかしながら常識的に人々が言っているのは、「悪人でさえ往生するのに、まして善人が往生を遂げない筈があろうか。悪人でさえ仏から救われるのに、まして善人が救われないことがあろうか」という。この言い分は一応道理があるようにみえるけれども、本願他力の如来のお心にそむいているのである。そのわけは、自力で善をしようとする人、または善人意識の人は全く他力をたのむ心が欠けているので、弥陀の本願ではない。これが文の意味である。

善人意識

 善人意識の人、これを自力作善の人ともいう。善人意識の人とは現代流に言えば、理想主義の人であろう。理想主義というのはどういうものかというと、人間はすべて善を行う力、可能性を持っている。従って努力し、お互いに励ましあっていくならば善ができる。こういうのを理想主義という。言い換えると、善と悪の区別、判断は誰にでもでき、みんなに可能であると思う、これが基礎になっている。また、人はみな生まれながらに理性の持主である。この理性によって善を行いぬくことができるという思いが一番根本にある。それを理想主義という。この考えは誰かが考えたというようなものではなく、みんなが持っているものである。「どうしてお前はそんなことをするのだ、悪いということはわかっているではないか、わからない筈はないではないか」と責めていくことは皆がやっている事である。
 嫁を貰う。嫁がいくら若いといっても善い事と悪い事の区別ぐらいはわかっている筈じゃ。それなのに実行しない、横着な、ということになってくる。このような考え方の根本を理想主義という。善人意識という。教育はすべて理想主義である。幼稚園ぐらいからこういう教育をやる。「悪いことをしてはいけませんよ、人をいじめてはいけませんよ、わかっているでしょう?」というように。このように、善と悪の区別は誰にでもできる、実行できると思う。その根本を善人意識という。
 この考えはどこが違っているのか。どこか文句をいうところがあるのかというと、どこにも文句をいうところはない。この通りである。しかしながら現実の世の中で、そのような理想が達せられたことは一度もない。色々な人が色々にやってみたけれど、一つも達成されなかった。だがみんな今でもこう思っている。もしそれが本当にできるのならすべての家庭はみな立派な家庭であり、立派な人のみであり、政党と政党の争いなどなく、悪い人間などいる筈がないということになるが、そういうことができたためしもなければできる見込みもない。そういう世界はついぞなかった。これは一種の楽天主義である。現実離れがしている。かえって理想主義で押していくと、文句ばかり言う人ができて、実際はさっぱりよくならない。架空のものである。
 真の宗教は、理想主義の夢を打ち破って現実人生に人を立たせるものである。理想主義は子供の考え方である。必ずしも間違いというわけではない。しかしそこから脱却して人はも少し大人の考え方にならなければいけない。これが精神文化の進展というものである。ここが大切なのである。
 では理想主義からの脱却とは何か。人間は善と悪を区別することができ、悪をやめて善を実行することができるという考え方は、自分が神様になっているのである。深い深い人間の思い上りである。人間がオールマイティであり、人間が全能だと考えている。それを理想主義という。人間が神になり、人間が絶対者になる。それは人間が自己の分際を知らないのではないか。人間存在というものが真にわからないのではないか。それを善人意識という。理想主義者という。その理想主義者がいる所に、かえって家庭は冷たくなり、その団体は批判者ばかりになる。
 現代の問題は、人間が自分の理性に自信を持ちすぎることにある。即ち科学的な考え方でやっていくと必ずうまくいくんだという。科学的なやり方は合理性と実証性。合理性とは色々な問題の中に流れている一つの道理、法則を見つけ出して、それによって色々な実験をしてみる。そしてその通りにいったならば、その時はじめてそれが正しいということを知って、応用していく。科学的な考え方で、その法則の正しさを証明し、これを応用していくならば、人間はそれで幸せになれると思う。このような人間の考え方に基盤を置くものを、人本主義ヒューマニズムという。
 五十年前には、この考えに対し誰もそれを危ぶむ人はいなかった。ところが今は、非常に悪い影響が出ている。科学の進歩によって、三つのことが出てきた。資源枯渇、即ち次々と物がなくなる。石油はあと三十年たつと無くなるという。エネルギー資源がだんだんなくなると、あとはどうなるか。人間が機械を次々と作ってきたことがかえって人間を苦しめる。も一つは食糧難。現在三十数億の人口があと三十年すると七十億を突破して八十億になるだろう。その時には必然的に食糧が足りなくなる。人が長生きし、人口がふえるとそれがひどくなる。次に公害と環境破壊。公害で一番こわいのは遺伝性ということである。現在一番打撃を受けているのは鳥である。鳥が卵は生むがそれを育てる能力がなくなった。鳥があまり巣を作らぬようになった。巣を作っても卵を抱かない。抱いても子がかえらないようになった。世界中に色々なデーターがある。なぜそうなったかというと、PCBやBHCのために性ホルモンの調節が狂ってきて、卵の殻がこわれやすくなった。同時に親自身の巣を営む能力がガタ落ちしたといわれる。で鳥が非常に減ってきている。こういう現象が人間にも出てくるのではないか。このように科学の進歩そのものが人間自身を痛めつけている。このような問題が明らかになってきた。
 結局、科学が発達すればするほど、その事が人間自身を痛めることになってゆく。この元はみな関連がある。理性でやっていけば間違いないんだ、そこに人間の思い上り、自己過信がある。自分で判断してこれはよい、これは悪い、こうすべきだ、ああすべきだと言って、神や仏を無視して生きている。ここに現在大きな行きづまりが来ているわけである。人間の理性に根本をおいてその可能性を信じその力を信じているのを理想主義という。今は、それでよいのかという問題を考えなければならない。科学的な考え方というものについて深い反省を要求されている時代である。

 科学的な考え方というのは、理性の上に立って外部の条件を調べるものである。これは平面的な思考である。宗教というのは、人間理性の底にあるもの――人間を支えているも――根源に対する深い考えを教えるものである。これを垂直思考という。人間を支えているものが考えられなければならない。これが本当にわかると、人間が外を見る目が変ってくるのである。どのように変わるか。人間を本当に支えているもの仏や神がわかると、友よ!というよびかけを外に持つようになる。友よという叫び、よびかけが根本になる。
 現在、魚をとる人は魚を金もうけの種と思うている。鶏を見るとブロイラーにして肉にしようと思う。出来るだけ安い飼料で出来るだけ早く大きくして商品として売るように心がける。卵を産ませる場合は、夜も昼も電灯をつけて一つでも多く産ませようと考える。そして産み上ったならばすぐ廃鶏にして処分する。鶏という生き物ではない。卵を産ませる道具である。商品である、このように理性というものは外を道具として考える。あわれ、鶏という物質である。理性は物質化する働きである。
 理性は鶏に対する深いよびかけを持たない。山陰のおばあさんが言う。この人は鶏の卵を売って小遣いにしているが、餌をやる時、「この次に生まれてくる時は人間に生まれてこいよ、そして仏法を聞いてくれよといって餌をやります」という。それがなければならない。それは平面思考からは出てこない。根源につながらなければ出てこない。物に対する姿勢がはっきりしてくると科学というものはもっと生きてくる。結局、物としてだけ見ると経済的価値だとか、もうかるか損するかという考えしかなくなるのである。
 福岡に博多湾の海水を浄化する委員会がある。福岡市がつくっている委員会であるが、その委員長に私がまつり上げられた。博多湾というのはもう半分死んでいる。とても大変な状態に落ち込んでしまっている。それを市側はひたかくしにしていた。が、何とかこれを元にもどす方法はないだろうかと考えた。昔のことですが、私が小さい時は住吉小学校に通った。四年生以上は七月になると須崎の浦というところで泳いだものである。今は文化会館など建っているが昔は浜だった。その頃はきれいな海だった。それを埋め立てて競艇場か何か出来てだんだん汚くなってしまった。博多湾できれいな所なんかありはしない。今宿という所も汚くなって、もうゴカイもとれなくなった。漁師の人は人工餌にたよらざるを得なくなっている。現在ゴカイは大半を朝鮮から輸入している。このようにだんだん汚くなっているのである。
 なぜ汚くなるか。たれ流しするからである。物の捨て場所になっている。海よ、わが海よ、友よというものがなければ決してよくはならない。物質的に見たならば海は水の集まった物にしか過ぎない。科学的な考え方は子供っぽい考え方である。どこが子供っぽいのか。それは人間過信。科学的であればよいと思うのは人間自身の高い思い上りの考えである。どうして我々は善と悪の区別をする力を持っていよう。また善を行いぬくことがどうしてできよう。できることはないではないか。芝居で見ると、石川五右衛門が釜茹(かまゆ)でになって死ぬ。はじめは子供を自分の頭の上において自分だけが釜の湯の中にいるが、だんだん熱くなってどうにもならなくなると、とうとう子供を自分の足の下に敷いてしまった。これが人間である。それが人間だということがわからねばならない。
 この現実を宿業という言葉で表わす。この現実を知る時に、宿業に目覚めるという。人間が、自分は一体何であるのかがわかってくることである。
 善人ということについて『十住論』の序品にはこう言っている。「善人とは略説するに十品あり」。この十が備わっている人を善人という。一つには信、二つには精進、三つには念。仏法で善人という時には信の人、信心の人を言うのである。また、精進をおこたらず、憶念するものを持っている。
 先ず善人という場合、考えねばならぬことは、主観的と客観的ということである。主観とは私の思いである。客観というのは、はたから見た客観性をいっている。正確に言うと仏から見た思いである。善人というのは、私の思いからいうと必ず悪人となるのである、善人は主観の思いでは善人ということを自己肯定できない。悪人という思いを持つのである。それが客観的には善人なのである。昔、物理学ですぐれた業績を立てたニュートンという人が言った「自分は真理の大海を前にして、浜の真砂の貝殼をひろった子供に過ぎぬ」。実に謙虚な姿勢である。しかしながら客観的には彼は大変にすぐれた学者であるといわねばならない。彼の思いでは自分は子供であるといい、客観的に見るととてもすぐれた人である。自分の思いでは美人だと思っている人は、他の人から見るとそれほどではないのである。自分ではまだまだ不充分、あれもこれも足りないと思っているところに、却って善人というのが成立している。主観と客観とはそういうようになるのである。
(1)    とはめざめ、悪人という自覚である。即ち罪悪深重というめざめである。親不孝者、冷たい人間であるということのめざめである。信とは、自分を人と比べているのでなしに、大きな大きなもの――これを仏と言おう、神と言おう――その前に立った時に私がはじめて目がさめるのである。仏の前に立つと罪人である。神の前に罪人であるということが明らかになる。この自覚を持つ者を仏の眼から見るならば善人の誕生である。
(2)  精 進  主観的な悪人には必ず精進がある。その反対は放逸懈怠(けだい)である。放逸とは口からは言い放題、悪いことはし放題、やりたい放題のことをやっているのをいう。仏の前に生きる者は常に仏の教を頂いていこうとする。それを不放逸という。懈怠とは(おこた)(おこた)る。いわゆる読書、勤行などを懈り怠っている。精進とは純粋に教を頂いて進んでいこうとするものである。実践し勤勉につとめる。
(3)     憶念である。心の世界を持っているということ。何を憶念するのか、彼は人生にあって仕事をする中で憶いを持つ。仏を憶い法を憶い僧を憶う。法は南無阿弥陀仏、教。仏は如来、僧はよき師よき友。教を憶い如来を憶いよき師よき友を憶う。心の中に憶うものを持っている。それを憶念という。「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定」という。
(4)    心の安定をいう。
(5)  善身業  行いを正しくする。年と共に行いが善い方向に変わるようになる。
(6)  善口業  正しいことば。
(7)  善意業  こころ、大きな世界との交流を持つから、行い、言葉、心がだんだん変ってくる。
(8)  無 貪  貪欲が打ち砕かれる。
(9)  無 瞋  腹立ちが打ち砕かれる。
(10)  無 痴  愚痴が打ち枠かれる。
 腹が立たないのかというとそうではない。欲が起らないのかというと欲は起る。愚痴も出る。それは習気(じゅっけ)といって、根本は打ち砕かれたのであるが、まだそのにおいが残っている。ちょうど魚を籠の中に入れておくと、その魚を取り出したあとでも魚のにおいが籠について離れない。そのように、我々は殻を打ち砕かれて広い世界に出る時に、貪欲、瞋恚、愚痴は絶ち切られるのではあるけれども、しかしながらその習気は残って腹が立つたり欲が起ったりする。が、根は絶ち切られているのである。
 『十住論』のこの言葉を見ると、善人ということの根本は信心である。
 私は、信心がだんだん進んでいく多くの人を見る機会を与えられている。若い人の進展は特に速い。私が大学で仏教研究会を開いて以来三十年近い。会に入るとだんだん変ってくるですね。自分ではわからない。自分では変ったとは思わないが、私から見ていると様子が違ってくる。動作が軽やかになり、やる気が起ってくる。しかし起伏があって、沈んだり張り切ったりしながらだんだんと変っていく。気候がだんだん暖かくなる時でも、ズーッと毎日毎日暖かくなるのではない。暖かくなってはまた寒くなるという具合にしながら暖かくなっていく。人の進展もその通りである。
 善人とは何か。信心というのが根本である。信心の人こそ善人であるというのが結論である。しかしながら我々は、信心の人が善人であるということがよく納得できない。いま問いを出してみよう。「耳四郎は善人か悪人か?」。耳四郎とは、平安末期に京都を騒がせた大泥棒である。彼は盗みに入って、縁の下にかくれておった。ところがその上で法然上人の御法座がはじまった。彼は縁の下から這い出して念仏のお話に聞き入った。これを機縁にして非常に有難い信心の人になったという。だが彼は泥棒をすることがやめられなかった。念仏しながら、ご法を聞きながら泥棒をくり返しておった。ただし、盗った物はあとで返すようになった。だが泥棒はついにやめられなかった。
 この耳四郎は善人であろうか悪人であろうか。この耳四郎の信心は本物であったと思う人?間違いと思う人?わからない人?悪人と思う人?善人と思う人? ……ま、あまり答を出さないで考えてもらうことにしましょう。考えるポイントは私、自分です。自分はどうか。仏法を聞いて何か悪いことがやめられたか。耳四郎は泥棒であった。我々は泥棒ではないが、何か悪いことがよくなったか。耳四郎を向う側において批判的に考えているのが理想主義である。おれは間違いないという善人意識である。考える基礎は自分である。しかし自分が出来ないことを人に強要するのはよくないから妥協しなければならないのか。そういうことを言っているのではない。そういうのは宗教ではありません。自分というものがわかるということが理想主義を超えるということである。現実がわからねばならない。耳四郎は泥棒をしておったが、彼は本当の信かどうか、善人か悪人か。常識的に言うのか、信仰の上で言うのかを区別しないと言えませんね。念仏を喜ぶといいながら泥棒をしているのではいけないと思う。しかし考えるポイントは自己。ここが中心。それが第三章「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」、「他力をたのみたてまつる悪人もとも往生の正因なり」の中心。われらは如来の前に罪人ではないのか。キリストは「罪なき者、この女を打て」と言ったが、誰も石を投げる者はいなかった。我々は、石をもって悪人に投げ得る者であるのかどうか。
 第三章のアウトラインを申しました。善人と悪人の区別が明らかになることが大事です。


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