九、真実は伝承となる

『歎異抄講読(第二章について)』細川巌師述 より

歎異抄講読HP / 目次に戻る

 真実は伝承してくる。伝承を生んでくる。「弥陀の本願まことにおわします」それに触れたものが釈尊であった。釈尊がそれをよろこんで教に説かれたものが『仏説無量寿経』である。『仏説無量寿教』は、また『大無量寿経』という。上下二巻あります。五存七欠といって、中国において十二回にわたって翻訳されたそうであります。時代を異にして、中国の長い歴史の中で十二回も翻訳された。現代でも日本のベスト・セラーズの中には、翻訳がいくつもあります。同じ原書を幾通りか翻訳したものもあります。たとえばゲーテの『ファウスト』は森鴎外という人を含めて二、三通りの訳がある。大正、昭和と、時代をおいて訳されてきた。他にも色々な書物が何通りか訳されてきている。しかし十二通りも訳されたという書物は聞かない。こういう意味でも『仏説無量寿経』が非常に注意をひいていたということがわかる。この中に何が説いてあるのかというと、四十八願(本願)が説いてある。如来の本願を説いてあるお経が、十二回も繰り返し繰り返し人を異にして訳されだというのは、大変な話であります。その中に魏訳というのがあってこれを『仏説無量寿経』といいます。これは康僧鎧(こうそうがい)という人が訳されました。この人はこれの他には訳した経がないと言われており、いわばこれ一つを訳した人である。仏教の原書はパリー語、あるいはサンスクリットあるいは西域のものなどがあるわけですが、大体もとからいえばサンスクリット、それを翻訳、つまり中国語に訳すということは非常に力の要ることでございます。どういう力を要するかというと、第一にサンスクリットというのがよくわかっていなければならない。これはまあ当然な話である。先ずサンスクリットに通じていると共に、仏教というものがわかっていなければいかん。仏教の心というものがわかっていないと訳しようがない。そしてその上に中国語というものに熟達しておらねばならん。それには中国の精神文化、文芸、そういうものに精通していなくては中国語による適切な表現ができない。翻訳には少なくとも以上のような素養が要るわけであります。
 私が大学に勤めておりました時には、一年生には原書に親しますという意味で、理科の学生にはやさしい原書をテキストに使っていました。そういう原書の文法は大体中学二年位のもので、そう難しいものではありません。単語は中には専門的なものがありますけれども、辞書をひけば載っていないということはない。けれども学生、即ち高校を卒業して入学試験をバスしてきたそういう学生に、化学や物理のやさしい外国語の原書を訳させると、始めのうちはチンプンカンプンである。何を言っているのかさっぱりわからない。「君はわかっとるのかね」と聞いてみると、訳した本人が「わかりません」という。英語はよくわかっている。日本語もよくわかっている。けれども訳せない。何を訳したのか訳した本人がわからない。それは内容がわからないからです。内容がわからないのだから、正確に辞書を引いて訳しても意味をなしていない。サンスクリットと中国語だけ知っていれば仏典を訳せるというものではない。最近『浄土三部経』とかいう題で岩波文庫から出ている中に、漢訳とサンスクリットから現代語に直接訳したのがついている。なかなか良い試みですが全然なっていないところがある。仏教がわかっていないんですね。なるほど日本語もサンスクリットもわかっている優秀な人が訳したのであろうけれども何しろ仏法がわかっていないものだから、全然意味をなさない所がある。その点からいうと康僧鎧の訳というのは実に名訳です。名訳というのはどういうことかというと、現在残っている五つを較べ、そしてサンスクリットから直接日本語に訳したものを較べてみると、これが一番よくできている。
 このお方は本当に仏教がわかっている人です。親鸞聖人はこの康僧鎧の訳したものを採用しておられます。これを魏訳という。親鸞聖人はいつも五つを並べて思索している。この翻訳を中心に一つは呉訳というものがあります。これは時代の少し早いもの、もう一つは漢訳、もう一つは唐訳、もう一つは宋訳といって、これらの時代は後のものです。それぞれ『大阿弥陀経』、『無量寿平等覚経』、『無量寿如来会』、『無量寿荘厳経』と題号に言ってあります。これを五存という。ここに釈尊の説法というものがある。翻訳には上巻と下巻とあり、その上巻に如来浄土の因果が説かれているという。如なるものはなぜ如来となったのか、そういう因果、そこに如来の世界が説かれる。それを浄土と申します。如来とその世界、その成り立ちを説いたものが上巻、下巻には、この私という存在がいかにして如来の喚びかけを聞いて、それに答えていくか、そういうものが説かれている。これを衆生往生の因果という。この二つで一つのものができるようになっている。如来浄土の因果というところに、四十八願(本願)というものが説かれています。それを本願の生起本末と申します。本願が成就していくところに衆生往生がある。本願の生起と本願の成就ということが上下二巻に説かれている。これを『仏説無量寿経』と申します。そこに真なるものが実になり、如なるものが如来となる。南無阿弥陀仏が私に届く、これが本願の成就ということである。南無阿弥陀仏の内容を本願の生起という。如なるものが如来となる。如来とは南無阿弥陀仏という本願の名告りである。それが私に到り届く。真なるものが実になる。実とは事実である。先ず釈尊において事実となった。それを真実と申します。この真実を説いたものを『仏説無量寿経』と申します。これが伝わってきた。「仏説まことにおわしまさば善導の御釈虚言したまふべからず」ということが、真実は必ず流れてくるのだということを言っているわけであります。

1 預言(懸記)

 預言は仏法の言葉では懸記という。懸とははるかという。はるか後のことを書き残しておる、それを懸記という。また普通は預言という。
 今、『楞伽経(りょうがきょう)に次のように載っている。「わが乗、内証の智は妄覚の境界に非ず。如来滅世の後誰かたもちてわがために説かん 未来にまさに人あるべし 南天竺に大徳の比丘ありて龍樹菩薩と名づく。よく有無の邪見を破してわが大乗無上の法を説かん」
 真実は伝承となるということですね。これが『楞伽経』の懸記といわれるものです。意味はどういうことかというと、わが乗(私の乗りもの、私の悟り)であるところの深い深い智慧は妄覚(人間の間違った考え、即ち世間心)でわかるものではありません。如来(釈迦、私)が亡くなった後、誰が人々に説いてくれるであろうか。「未来にまさに人あるべし」。私が亡くなった後、南印度に徳のすぐれた出家者が現われる。龍樹というであろう。その人が、有る無しに執われずそういう考えを打ち破って、わが乗大乗無上の法を説きあかしてくれるであろう。と、『楞伽経』の中に預言をしたというのであります。

 そもそも預言とは何か。普通は予言と書きます。予はあらかじめである。何月何日に地震が起きるとか、事件が起こるとか前もって知らせることを予言といいます。預言と予言とは違う。キリスト教では預言と書く。預かるというのである。預かるとは神にあずかる、神を深く信じ、神を深く敬うている者を通して神が名のるのである。それを神の言葉に預かると申します。神の言葉を代言するということを預言という。預言者エレミヤなど有名です。これは必ず信心の深い人ですね。この人が神の言葉に預かることを預言という。
 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて……摂取不捨の利益にあずけしめたまふなり」のあずかるがこれである。自分はいやしい者であるにもかかわらず、私の口を通して神の言葉が出て下さるというのを預言という。それは確信である。大いなる確信を言っている。それは自分勝手な予言と違う。真実というものは必ず預言するようになっている。預言とは深い深い願い、即ち喚びかけである。真実を生きる者は必ず喚びかけを持っている。それは「未来にまさに人あるべし」というよびかけです。パウロでしたか、彼の表現でいうならば「われ言うにあらず、神われにあって言わしめたまう」である。自分が言うのではない。言わしめられるのである。大きなものが働きかげてくると、そこにその喚びかけに答えると共に、自らよびかけざるを得ないものが生まれる。それは「どうかこの道に立ってくれ」という願いであり、「必ず立つ者があるに違いない」という確信である。「未来にまさに人あるべし」そう言わざるを得ないものがある。こういうのを懸記といいます。実に釈迦が亡くなられて七百年後に南印度に生まれた者、龍樹であった。この預言通りこの人は大乗仏教を説いて第二の釈迦とうたわれた。龍樹という人は預言に答えた人である。真実はこういうように伝承してゆくものである。
 伝承とはどういうことであろうか。ここにドングリは地上をころがっている時は流転である。風に吹かれ、水に押し流されるようなものである。これが水と光を受けとめてとうとう発芽して根をおろし、だんだん空へ向かって伸び、深く深く根を張り一本の木になっていく。その時に確信というものが出てくる。どんな確信か。地上をさまよい歩いてドングリコロコロであった私が一本の木になることが出来た。もはや風にも吹き流されず、水にも押し流されないような木になって深く大地に根を張り、光をあびて地上に一本の木となっていく。そして地上と地下を一つに生きるということになって、たくさんのドングリを見出す。ドングリが地上にたくさんある。その中から次々と発芽するものがある。そういうものを見て、必ずこの道は続く、この道のほろびることは決してあり得ないという確信が出来る。「未来にまさに人あるべし」。何百年後にも何千年後にも必ず後を継いてくれる者がある、という確信を持つようになる、釈尊は深い内証というものを持っておられた。それは自分自身がドングリから木になった。更に自分の弟子の中から次々と発芽して生まれてゆく。先はどうなるかわからないというのではなくて、「未来にまさに人あるべし」と確信せざるを得ないものが生まれてくるわけである。それは自ら発芽し、人の発芽を見ないとわからない。そのような姿を拝むことのできる立場に立ってみるとよくわかるのである。
 今、浄土真宗という宗門にしても、その他の色々な仏教の宗派にしても、中にはひどい状態のものがある。ある宗派は管長派と総長派に分かれて大喧嘩をし、裁判沙汰になり財産争いになっている、そういう事件が大小さまざまある。こんなことでは仏教も地に堕ちて、今からどうなることやらと歎く人も沢山あろう。こういう状況の中で「決して心配は要らん。仏教は必ず続くんだ」という人はあまりいないかも知れない。しかし心配はいりません。そのような争いはドングリの状態の者がうごめいているにすぎない。そういうことは何千年の昔にもあったし何百年過去にもあったことで、今更驚くにはあたらない。本当に発芽して深く大地を生き、光の中を生きている者には、大きな確信がある。一本の木になるということは、わが力によるにあらず光と水によるのである。光は教であり、水はよき師よき友の働きかけである。それらによって本当に殻を打ち破られて、南無阿弥陀仏と叫ばざるを得ないものは、必ず次なるものが生まれてくる事を疑わない。信ぜずにはおれない。私のような者でもドングリから発芽して大きな世界に出させて頂いたのだ。如来真実があるのだ、真は必ず事実になるのだ、如来は事実として生きてくるのだ、そこにまさに「未来に人あるべし」と預言せざるを得ない。預言というよりはむしろ深い喚びかけであり確信である。釈尊の説かれた教の中から喚びかけているものがある。釈尊は「未来にまさに人あるべし」と呼んでいる。それを真実のよびかけという。それに対して答える者が必ず出てくるのである。これを伝承という。その伝承は単に受け継いだというものではない。いわば呼応したものである。「未来にまさに人あるべし」という喚びかけを南無阿弥陀仏という。この喚びかけにめざめる者は「南無阿弥陀仏」と呼応して立ち上がる。彼もまた喚びかけを喚びかけざるを得ない。それが又「未来にまさに人あるべし」である。この彼のよびかけを貫くものは、如なるものの喚びかけである。これを神の言葉に預かるという。大いなるものの声を代言しているものである。釈尊に伝わった弥陀の誓願は、必ず次なるものを生むようになっている。龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導という歴史を生むのである。
 釈尊が七百年後の龍樹という人を名前まで預言したということは、実際問題としては奇妙なことです。『楞伽経』の中には「南天竺に大徳の比丘ありて龍樹と名づく」というのは、実は無かったのかも知れない。龍樹の徳をたたえるために後に入れたのかも知れない。が言わんとするところは、その預言に答えるものがあるという事実である。即ち「未来にまさに人あるべし」という預言が、龍樹において答えられたということである。『楞伽経』では龍樹であるが、龍樹を継ぐ者がまた次々と出てくる。そして更に未来に必ず預言に答える者が出てくるのである。

 和辻哲郎氏の『孔子』という本がある。もとは岩波の教育学全集でしたか、これを後に文庫本に納めたもので、この中に言ってある。現在人類の教師といわれるような人々、キリスト、釈迦、ソクラテス、孔子などに共通な事実が一つある。それはこの人達はすべて、ごく狭い範囲の土地で教を説いて、従容として死んでいった。満足して死んでいった。それを遺弟達が更に広い範囲の土地に詳しく説いてまわった。その遺弟達が死んでしまった後に、次なるものが出てきて更に広い範囲に説いてまわった。次々とあとを継ぐ者が出てきて、一代二代でなく何十代という間に広い範囲に広まってきた。
 キリストはイスラエルの小さな範囲で、わずか三十年の生涯で死んでいった。その弟子は十二名しかなかった。しかも皆がしっかりした者ばかりではなかった。ペテロはキリストが処刑された時、問いただされて「私はキリストの弟子ではない」といって逃げて行った。けれども何代も何代も何十代もかかって、弟子達が遂に全世界にキリスト教を広げた。そういうことをあげている。

 伝承の人達は預言に答えた人々である。預言に呼応するもの、それに答えて立ち上がる者が生まれた。そこに伝承ということがある。「未来にまさに人あるべし」。龍樹はこの預言に答えて立ち上がった人である。釈尊から龍樹まで七百年の時がある。その間はブランクであったのか、いやそうではない。その間は歴史に残らない人、即ち名もなき民という遺弟があったに違いない。それが次々受け継がれて七百年の後、大きな大きな花を咲かせた。それが龍樹であった。龍樹こそは預言に答えた人々の一つの集積であるというべきであろう。そこに真実の伝承ということがある。

2 七高僧の伝承

 仏教の伝承は七高僧によって印度、中国、日本と続いてきた。そのことを親鸞聖人は『正信偈』の中に「印度西天之論家、中夏日域之高僧、顕大聖興世正意」印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意をあかすとうたわれた。釈尊が生まれて沢山沢山の経典をこの世に残された。その真意は何かを尋ねていった人達がある。龍樹は釈尊の真意を『大無量寿経』に尋ねて弥陀の本願を戴いた。そして『十住毘婆娑論』を作った。更に二百年後に天親が顕われて、釈尊の真意を『浄土論』に述べた。「明如来本誓応機」如来の本誓、機に応ずることを明かす。このように伝承を明らかにしたわけであります。


 真実は必ず次なる者を生み出す力がある。これを言い換えると、次が生まれてこないならば本当のものではないのである。次なる者を生み出すということが、真実なるものの働きである。真実は必ず次を生むようになっている。なぜ生むかというと、真実とはいのち(無量寿、生命)であるから。いのちは必ずいのちを生む。しかしすぐに生まれるかどうかはわからない。さきの『楞伽経』の懸記には「未来にまさに人あるべし」となっている。ずっと後であるかも知れないが、必ず生まれるようになっている。いのちは必ずいのちを生み伝えるのである。


ページ頭へ | 十、善導の御釈」に進む | 目次に戻る