六、信の無功利性

『歎異抄講読(第二章について)』細川巌師述 より

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「たとい法然上人に(すか)されまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候。」

 「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」即ち、なくなられたよき人法然上人のその教を被って信ずる他に別の子細なしという、それがお言葉の中心である。それを更に「たとい法然上人に賺されまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」と明らかにされています。そこでいくつかのことを申しあげなければならない。先ず信の無功利性ということです。
 本当の信心は功利的なものではない。功利性というものを持たない。それをここで強く言ってあると思います。もし万一法然上人に賺される、すかされるとは言いくるめられる、或いはあざむかれることである。たとい法然上人に言いくるめられ、だまされて、念仏して遂に地獄に堕ちましても決して後悔はございません、そういう内容であります。
 関東からまいりました人達と親鸞聖人とはどこが違うか。関東の人達も、やはり聖人の教を被ってそれを信じて今までやってきた。その教の内容は念仏申すということであり、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」ということであった。本願を信じて念仏申すということである。ここらはすべて同じである。けれども関東の人達が動揺をきたしたのはなぜか。それは念仏というものは「念仏無間(むげん)」、これは日蓮上人の折伏(しゃくぶく)です。念仏は無間地獄の中に落ち込んでいく行であるというのが日蓮の折伏の文句なのです。今まで念仏を申していけばたすけられると思っていたのに、念仏したら地獄に堕ちるのではなかろうか、そんな疑問がおこってきた。これは「たとい法然上人に賺されまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」というのと、非常に大きな違いがある。即ち念仏無間という言葉で驚いて、それでは念仏申しても助からんのか、地獄におちる行なのかという所には、根本に深い功利性がある。役に立たなければやめようという功利性がある。それに対し聖人は無功利性というところが違う。本当の信というものは無功利である。念仏に何ものも期待しない。何らの代償を求めない。これを亀井勝一郎氏は『信仰について』の中で「信仰の無償性」と言っている。信は何も代償を求めない。「無償性」とはなかなかすぐれた言葉です。
 我々の心、わが心というものは全く功利的である。エゴであり、功利主義である。私の幸せということにひどく執われている。たとい小さな幸福でも何でも、とにかく幸せでありたい、それが私の偽らない心である。それが先ず出発点である。そういうわが心が教を聞いて深まってゆくと、どうなるか。何もしないで幸せになるということはできない。よい事を実行し、そして悪い事をやめていこう、そういうところに思い至るのである。それを第一の信という。それには教を聞くということが必要で、教を聞くということがあってはじめて「このままではいけない」悪いことをやめ、よいことをする、善を修め悪をやめる、廃悪修善と申しますが、それがわかって第一の信が出てくるわけです。
 今の時代の特徴というのは、ここらへんがまだはっきりしていない。幸せでありたいという心はものすごく盛んでありますけれども、そのためには自分がよい事をする必要があるということには抵抗を感ずる。或いは悪い事をやめねばならぬというのには抵抗を感ずるという時代である。幸せになるのには自分がよい事をするとか、悪い事をやめるとかではなしに、社会或いは政府が、或いは人々が、色々やってくれなければいけないじゃないかという気持ちの方が現在は強い。社会の方がもう少しよくならなければならん、我々が幸せにならないのはみんな政府が悪いんだという。たとえば福祉政策が貧困なのだという。自分でやらねばならないのだというところまで行くのは大変なことなのです。自分自身をかえりみる、自分自身がやるべきものがあるんだ、そういう考えが出るというのは中々たやすいことではないのであります。仏法を聞く人にはなる程と思って頂けると思いますが、仏法を聞かない人達は、やはり資本主義や社会体制の矛盾なんだと、そのへんの所でもたもたして中々ここまでこない。ここのところまでくるのに一悶着あるのでございます。やはり教を聞くということがないとこれはできない。現在はこれが大切な時代です。それはそれとしまして、一応我々自身もやらなければならないことがあるのではないか。社会の体制というものにも問題はあろう、それは認めなければならない。しかし社会の体制を変えたからといって、必ずしも我々がすぐに幸福になるわけでもない。我々自身がまず築きあげていかなければならないものがあるんだということを言わねばならない。これにはかなり説得力が必要でありましょう。

 私は昨年の四月から、岡山県の奥の津山というところの大学から頼まれて、「宗教の時間」というのを受け持つことになりました。毎週一回行って学部の方の二年生と短大の方の二年生を教えています。この「宗教の時間」、そのものに対する学生の反発はなかなかです。なぜ我々は宗教なんか聞かなければならないのかという。「宗教の時間」という名前があまりよくないんではないかとも思いますが、とにかくそういう名前の時間で毎週二時間ずつ二クラスについて話す。その時に痛感しました。学生はそんな時間はいらないという。宗教なんてものはいらないという考えが強いですね。神とか仏とかに対する拒絶感というものが非常に強い。自分たちは専門の勉強にきているのだという。
 そこで、どういうところから話を始めようかといろいろ考えました。一年間やってきた。で、この四月からはもう少しうまくやれると思うのですが、今まで私が話したのは、先ず友情という問題、これが第一。友情というもの、友がなければならないが、友というものはどうして持つことができるか、友を得るには自分がその人の友としての資格を持っているかどうか、そういうところから考えなければならないのではないか。これはなかなかアッピールしましたね。第二は劣等感、人間は劣等感をぬぐい去らなければならない。その劣等感とは何か、ぬぐい去るにはどうすればいいのか。第三に幸福とは何か、幸せというのは何なのか、このような項目で色々十項目ほどやりました。学生は自分の身近な問題には非常に関心があります。従って宗教への入口はここらあたりから入ることが大事であると思いました。
 我々は功利的なのである。みんな幸せを願っている。この幸せのためには友達が要るんだ、友達があるということが幸せの第一歩である。いやこれが幸せの全部かも知れない。友を得るためには私自身の生き方ということが大切なのではないか。そういう話は割とわかるわけです。そういうのを第一歩という。それが出発点でこれからもう一つ進まないといかん。それには教を聞かないといけない。これをとおして次に自覚というものが出てくるわけで、それは念仏するという問題です。これはなかなかむずかしいことです。大学ではとうとうそこまで行けなかった。一年間では出発点で終ったわけです。どうも残念だという気持ちが強い。なにしろ先に申しますように、聞こうという気のないそういう連中が大部分であって、それらを前にして何とか、宗教へ方向づけるというのは大変な話である。とうとう念仏までは話が行きつけなかった。

 さて、関東から来た人達は、念仏申すということまでわかっていたのです。親鸞聖人の教を聞きぬいたのです。念仏申すというところまできた。よい事を行い、悪い事をやめるという第一段階を超えた。廃悪修善は人間の能力以上のことである。ただ私自身の愚かさというものに目が覚めると、念仏申すしかない。これは非常にわかりにくい。わかりにくいが関東の人達はそのところまでいったのである。そこに最後の問題は信、これを真実信心という。これを無功利という。「たとい法然上人に賺されまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」、これを真の自覚という。本当に目が覚めるということである。関東の人達はこれになることができなかった。
 初めは私の幸せを求めている。念仏申していくことが私の幸福のためなんだということになっている。念仏して地獄に堕ちるなどとはとんでもないことで、何とか幸せになりたい、そのための宗教である。これらを人生成就の宗教、或いは道具としての宗教、人生を幸せに楽しく生きるための方便としての宗教という。人生の方が大事だ、わが人生わが幸せのために法を聞いていく、宗教の意義はこういうところにある。私が幸せになるための道具として仏がある。これが普通の考えです。
 しかし親鸞聖人はそうではない。私のための道具、私のための仏ではなしに、仏のためのわが人生わが生涯という。これを無償性という。何もいらないということだけではない。わが人生をひっさげ、わが生涯をささげて仏のためにつくす。大いなるもののためのわが小さないのちというめざめが、わが身の上に生まれてくるところに信の無償性がある。
 聖人の天地では私の幸せを求める心が無くなっている。仏法の言葉でいえば、我見が打ち砕かれている。我見を心理学の言葉でいうとナルシシズムであろう。ナルシシズムの克服、ナルシシズムというのは功利主義と少し違うかも知れないが、根は同じでしょう。克服では少し足りないけれども、それを超えるということです。ナルシシズムというのは心理学や精神分析学で使われている言葉ですが、もとはギリシャ神話に出てくるナルシッソスという美青年にはじまっている。彼は水に写っている自分の影をじっと見つめて、そしてそれに見惚れてとうとう水仙になる。そういうふうなことから出てきた言葉でナルシシズムという。大体自己陶酔とか、或いは自己関心、そういうふうに訳されている。功利主義とは少し違うおもむきがありますが、根は同じである。ナルシシズム、自己陶酔とは、自分のことだけに打ち込んでいるわけである。いまここに写真がある二百人か三百人写っている。そういう写真を見るのは大儀なもので、他人だけの写真を見はしないのだが、この中に自分が写っているということになると、どれどれと老眼鏡を取り出す。どこらへんだったかな、このへん、あ、ここにいるということになる。人の顔なんて少しも見はしない。必要がない。自分の顔だけじっと見る。これは少しネクタイがゆがんでいたなとか、もう少し右肩を上げておけばよかったとかですね、自分のところだけよく見るわけです。
 自己関心、たくさんの子供が運動会で走っている。マスゲームで体操をしている。子供はたくさんいるのだけれどもよその子は関係ない。うちの子はどこにいるか、今走っているあのビリが自分の子だと、そこだけしか見えない。そういうふうになります。これは非常に強い主観である。これがナルシシズムである。ナルシシズムの一番極端なものを精神病患者という。いわゆる神経症というのがある。ノイローゼという。その神経症が近頃非常に多いですね。私は実はそういう人を何人か預からざるを得なくなって、何とか治ってもらいたいと思って考えているところです。幸い一人治りました。勿論私の力でなしに病院と連絡を保っています、今度四月から復学することになりました。それは大学の学生です。あと少しで卒業出来るのに、もたもたして長く学校を休んでいました。こういう人にはどこか偏ったところがある。それがナルシシズムである。気に入らなければ何もしない。じっと朝から寝ている。タバコを吸うか、コーヒーを飲むか、そこらへんをうろうろするだけである。「何かやったらどうか」と言っても何もしない。自分の気に入らねば何もやらない。主視的で自分の殻に閉じこもっている。まさにナルシシズムです。しかしこういうことは誰にもよくあることで、神経症といっても大体は普通人とあまり変らない。しかし一つだけ違うところがある。それは「私は病気だ」と思い込んでいる。私は病気なのでどうも勉強が出来ないという。病気ということに執われている。他は変らない。君は病気じゃない、大したことはないと言っても、いいや私は病気なんだというところがある。じっと水に写っている自分の姿を見ているナルシスのようにこの一点から目をはなさない。そういうふうに思い込んで客観性を持たない。
 我々はみなナルシシズム的なところがある。自己陶酔、自己関心、主観性に閉じこもる。これが打ち砕かれて真の客観性、広い世界というものに目が開く。それがナルシシズムの克服である。これは宗教でなければできない大きな役割であると思います。小さな自分の主観を超えるには広い広い世界を知るしかない。それが教である。人は教によってはじめて広い世界に出る。そうするとやがて自分の命を捧げるような世界を知ることができる。何もいらないんだということがわかります。いやいやこれはとてもむずかしい話です。
 私は大学を卒業する時に、亡くなられた先生におたずねしました。私には色々やりたいことがたくさんあります。戦争中でしたから技術将校というのがあった。海軍兵学校や陸軍士官学校の教官になる道もあるし、或いは特別幹部候補生という道など色々あった。いろいろ書きたてて先生にどの道がいいでしょうかと尋ねた。返事が来ました。「右するのがよいのでもない、左するのがよいのでもない。細川巌が細川巌になること、これが一番大事である」とありました。何のことかさっぱりわからんが、要するに自分の言っていることは低い次元のことだったなあとわかりました。そして軍隊関係はすてて、師範学校の教師になりました。今から考えてみるとナルシシズムというのか、要するに自分が星一つの兵隊にならないで、はじめから将校になるような道を考えていたのである。自己中心である。発想が自己中心というものをはなれない。そして本当に広い世界があることがわからない。わが身を捨てて託し得るものがあるということなどわからない。小さな所にとどまっているわけであります。幸せにならねばいけないと思い込んでいるが、広い世界、客観界というもの、広い広い真実清浄の世界、仏の世界がある。人間の心の転回というものはナルシシズムの克服である。そこに開かれる世界が真実の信というものであります。そこに自己中心の持つ功利性がたたきこわされる、即ち克服されていくのである。それを「仏法は無我にて候」というのであります。仏法は無我であります。無私である。自分のポケットをこやそうとする精神は打ち砕かれてしまう。そういうものを求めない、これを無償性という。
 関東から来た人達はどうしても念仏によってたすかりたい、たすかるための道具として念仏が利用されてきた。そういう道具としての宗教を超えた、それが「たとい法然上人に賺されまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」という聖人の天地である。信の無償性というのはこういうようなものであろう。


 これについて関係のある『大経』の言葉がある。「一切は電影の如しと知れども菩薩の行を究竟す」、『大無量寿経』にはそういう言葉がある。一切のものはどれ程やってみてもむなしいものであり、まことにはかないものである。電影、電とは稲妻のこと、影というのは光と申します。稲妻のようにぱっと輝いてはすぐに消えてゆく、そういうほかないものである。菩薩はそれはよくわかっている。よくわかっているけれども、それならやめたというのでなく徹底して力の限り菩薩行を実行してゆく。菩薩行というのは供養諸仏、仏のために報いようとする、それを供養諸仏という。また開化衆生という。この両者を励むことを菩薩行という。諸仏というのは一切の仏です。仏にわが力を捧げ、わが生涯を捧げて仏の御恩に報いたい、そこにわが力を尽すということである。それを無功利性といい、無償性という。学校の先生にはそういう一面がありまして、新しく大学を出て教職につこうという人達は、張り切ったものを持っている。一生懸命に、たとい僻地(へきち)や離島へ行ってでもしっかりやろうと元気よく卒業していく。しかし大体三年ぐらいすると、くたびれてしょぼしょぼしてくる。五年ぐらいすると精彩を失って色あせた花のようになってしまって、やれやれというような顔をしている。やってみても効果があがらないのです。一生懸命やっても思うようにいかない。大風の中で灰を()くという言葉があるが、全く風の中で灰を撤くようなものである。努力の結果はどこにも出てこない。やってみるとわかりますが、三年や五年で本当の効果はあがるものではありません。効果をねらってもくたびれるだけです。まことに教育ほど収益の悪いものはないと思います。
 収率、イールドという言葉があって、原料をこれだけ使うとこれだけの製品が出来る。理論的には、原料を何グラム使えば製品が何グラム出来る筈だとする。それが実際は少ししか出来ない。理論値の半分も出来ない。それを収率が悪いという。教育は収率が非常に悪いんです。一生懸命やるけれどなかなかできない。今度創価学会で創価大学というのをつくって中々盛大にやっているが、大学を経営したら創価学会もわかってきましょうね。教育というものは収率が悪いですからね。たくさんの所が大学をつくっているのですよ。東本願寺が大谷大学をつくり、西本願寺が龍谷大学をつくり、天理教は天理大学をつくって、一生懸命やっている。しかしどこも収率は悪いんです。信心の人はなかなかできません。必ずしも大学のやり方が悪いのではないが、信心の人は大学でできるというものではない。所詮、教育というものはすごく収率が悪いのです。そこを知っておかないといかん。創価大学もこれがわかっていれば大したものだ。
 一切の法は電影の如しと知らなければならん。けれどもそれでもやるんだというのがなければとてもできない。無償性です。従って結果を期待しない。何らの結果も期待しないということがなればできないのです。本当の信心というのはそうなっている。それを無功利性というのである。いろいろの話になりましたが、そこにいわば結果を期待しない、自己の努力の代償を求めない、それがあってはじめて本当の教育がなされていくものである。それを菩薩行という。
 たとえば親鸞聖人、この人は七十六才になって和讃というものを書き始められた。むずかしい仏法の心を仮名にあらわし、七五調四句の歌をつくった。数百首の歌をつくった。これは原稿料をくれる人もなければ手当をくれる人もない。それを十年かかって一生懸命書かれた。なんとかして漢字の読めない、従って学問のない人達に仏法を聞かせたいという一念である。これを信という。関東の人達と親鸞聖人との相違点はどこにあったか。「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という教を聞きぬいたのであるが、違っているところはどこか、それは純粋な信、即ち無功利の信、無償性の信と、そうでない信との相違である。それではそういう功利性をぬぐい去る、そして本当の信というものが生まれるとすれば、どうして生まれるのだろうか。そのことが明らかにならねばならない。

1 よき人との出遇い

 こういう無功利性への転回はどうしてできるのであろうか。それはよき人との出遇いである。本当の人に遇うたということである。この文章の前に「親鸞におきては……()()()の仰せを被りて」とある。そのよき人に出遇うということである。
 「よき人」について曾我量深先生は次のように言われています。「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、()()()()の仰せを被りて」と言われなかった。ただ「よき人」と言われた。名前を出さないで、ただ「よき人」とだけ言われた。ここで法然上人の教を被ったと言えば、法然上人を味方にして自分の言っていることを権威づける。上人を盾にとって自分の言葉の正しいことを主張する。そこに(すぐ)れた人をひきあいに出して、その権威に屈服させようとする。そういうものではない。このお心を表わしているのだと言われています。よき人というのは自分の盾になり自分のいうことを権威づけるものでなく、親鸞においては「ただよき人」であった。それは上人の偉い所にひかれていくというだけでなく、愚痴の法然坊、十悪の法然坊と自ら言われる法然上人の全体にひかれてゆく、それを「よき人」というのである。そこに権威への屈服でなしに本当の信順というものが表われている。信順とは何かというと、その人のいうことを本当に理解してそれに従っていくということである。そうでなしにただ、偉い人である、傑れた人である、自分の及ばぬ人である、その人のいうことなら間違いないということで従っていくのならば、それはいわば権威への屈服である。しかしそうではない。そこを曾我先生は言われているのであります。
 聖人は法然上人に何を見なさったのかというと、法然という「人」に遇われたのである。それがいわゆる無功利の信、信の無功利性ということに至りなさった大きな理由である。それを信順という。曾我先生の言葉を借りれば、法然という人は愚痴にかえって如来の教を説いて下さるよき人である。
 聖人が法然上人を見られる見方は、いわゆる権威として私の及びもつかぬ信心と識見、そして人格をもつお方としてではない。そういうものではない。権威への屈服ということについてエーリッヒ・フロムという人が『自由からの逃走』という書物でいっている。宗教というのはとかく屈服になりやすい。屈服というのは向こうの方が力がある。向こうがオールマイティである。そのオールマイティなものに従っていく、そういう宗教がほとんどである。そこには本当の自由がない。『自由からの逃走』の中でこのように言っている。自由とは何か。それは自らによるということである。自らによるということがなければならない。それが宗教で一番大事な問題であります。宗教は屈服になり束縛になりやすいという一面がありますが、本当の宗教はそうではありません。自由である。ただしかしながら、自由とは自らによるのではあるが、その自らが問題である。その自らが何であるのか、生まれたままの私であるのか。いわゆる自分自身のナルシシズム、即ち自己陶酔、自分の幸せだけを考えている自らか。自己関心、自己主張、そういうものの自己によるのか、も少し深まって、いわば純化していって、そういうものを洗い去った自己によるのか、そこが問題である。本当の宗教というのは、真に自らに覚めて、無私という広い天地に出されてそこに生まれたその自己による、そういう自由でなければならない。
 法然上人は権威の立場の法然ではない。愚痴の法然坊、十悪の法然坊と自らを告白していなさる。それを聞いて普通の弟子は、上人の謙虚なお言葉である、法然上人が謙虚にへり下って言われる言葉だとして理解した。多くの弟子達は、それで上人をいよいよ奥ゆかしいことであると考えた。
 親鸞聖人は、そうではない。法然上人は愚痴にかえり十悪にかえり、本願の前に、み仏の前にひれ伏して自分自身にめざめ、愚痴無智の人になって、そして私に「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と言って下さるのである。上人の学問が偉いから従うのでなく、権威に従うのでなしにただ「よき人」として従ってゆく。曾我量深師はこのように言っておられる。まことに傑れたお示しであると思います。
 よき人との出遇い、このことについては何回も言ったが、マルチン・ブーバーはなかなか素晴らしいことを言っている。それは私をDuとよぶもの、私を汝とよんでくれるものである。大抵の人は私をEsという。即ち私を道具として扱っている。そうではなくて愚痴無智の立場に立って、私を友と言ってくれる。切っても切れない深いつながりにあるものとして私をよんでくれる。よき人とはそういう人であろう。この人に遇うそこから信が生まれてくる。法然という人が私に高い所から「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と言って聞かせているのではない。そうではなしに法然自身が大きな世界に向かって「ただ念仏して弥陀にたすけまいられまいらすべし」とひれ伏している。それを「よき人」という。法然上人は自らを「十悪の法然坊、愚痴の法然坊」と、仏の前に我々と同じ罪人としてぬかずいている。こういう人に遇うた、これが法然上人に対する見方です。「よき人」というところに法然の権威化はないんだということを申しました。

2 主観を超える

 信の無功利性はどうして開けるか。それは主観の克服、主観を超えるということである。これはあいまいな題ですが、十分に言い表せないので一応こういうことにしておきます。主観を超え客観的になりたい、客観性、普遍性、そういうものを獲得したい。けれども人間には最後まで譲れないものがある。それがいわば最後の主観である。何が譲れないのかというと、たとえば親子の間でも大抵のことは許すことができるが、一つだけ許せないことがある。譲れないことがある。親鸞聖人もわが子善鸞の異義については許せなかった。それが義絶となりました。我々にはまだまだ小さい問題で譲れないものがある。この譲れないものが最後の主観である。だんだん年と共に譲れない問題が出てくる。親を馬鹿にしている、言うことを聞かない、子供として当然こうあるべきなのに親に対してそれをしない、等々がこれです。
 先に申したように人間の宗教はどこかに一つ功利性を持っている。人生を幸せに過していくための道具として、手段として宗教を求めている一点がどこかに残るのであります。最後の功利性ですね。これが打ち破られねばならないということを話しました。この最後の一点が打ち破られる、それを二十願の問題というのでありましょう。その解決の引き金になるものは何か。それが最後の主観を超えるということである。
 譲れないものを譲っていくことである。譲るとは私の業として担うということである。大変むずかしい言葉ですが、私の業として担うということ、それは「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」ということ。譲れないものを譲るとは、その譲るとは、その譲れない一点が私の業として担うべきものとわかる。そしてそこに「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」ということが領解されるのである。そこに無功利の信が成立する。

3 それは盲目的ではないか

 「たとい法然上人に賺されまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず」というところには、深い人間法然への信頼がある。しかしそれは(おぼ)れる者は(わら)をも(つか)むというような盲目性の表現ではないか。鰯の頭も信心から、溺れる者は藁をもつかむというように、親鸞は法然上人に打ち込んで傾倒してその最後に「たとい法然上人に(すか)されまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」というような盲目的な、狂信的なものになっているのではないかという疑問です。
 盲目性というのは無明といい、迷いをあらわしています。無明には明りが無いと書いてありますが、別の言葉でいうと疑惑という。疑惑とは道理がわからない、智慧というものを持たない。智慧の無い姿をいうのであります。智慧とは何か、これこそ仏教の目的としているものであります。智とは世間に処する道、世間の生き方がはっきりわかっていることを智という。これを仏法の言葉では俗諦という。俗とは世間、人在ですね。諦とはさとりという。慧とは出世間、大いなる世界を知るということである。それを真諦という。
 今ここにドングリがあるとする。ドングリは固い殻の中に入っている。このドングリの世間はこの固い殻の中しかない。しかし、もし水に恵まれ光が与えられて、さらに適当な時に恵まれるならばドングリは発芽をする。殻を破って出てくると根をおろし、芽が伸びて広い世界に出る。この殻をナルシシズムといい、自己中心といい、自己関心という。ナルシシズムの殻を出たところを智慧の成立という。そこにはじめて大地の中に根をおろし、広い空間に枝を幹を青葉を伸ばしていく。こうして一本の木が生まれる。この木は必ず二つの世界を持つ。上に伸びる方を人生とするとこれを俗諦といい、根の方を真諦という。いうなれば人生を生き、また大きな世界を生きる。この二つが成り立つ、これを智慧という。小さな殻の中に閉じこもっている時は、自分のために生きるしかない。それは殻の中にいる者の考え方である。しかし殻を出たならば違ってくる。盲目とは智慧のない姿である。法然上人という人に今遇うた。そして信というものを得る。そこに生まれるものが智慧である。無明が打ち破られて智慧が生じた。智慧のない世界、殻の中に閉じこもっているところでは真諦も俗諦もない。それを盲目という。盲目の者が何かにすがっていくのが盲信、狂信である。
 その智慧のない姿を『大無量寿経』には「其の胎生の者は皆智慧なし、五百歳の中に於て、常に仏を見ず、教法を聞かず、菩薩、諸の声聞衆を見ず、仏を供養するに由無し菩薩の法式を知らず、功徳を修習することを得ず、当に知るべし、此の人は宿世の時、智慧有る事無し疑惑の至す所なり」とある。人間の智慧のない姿とはどんなものかということが、『大経』の終りに述べられている。
 先ず仏を見ずということ、仏を見るとは仏に遇うということである。たとえば春を見るとは、春をじろじろ見るというのではない。それは春の世界に出たということ。今は冬で寒いですが、南の方へ行けば暖かい国がある。そこに行けば春に出遇うわけである。それを、春を見るといいます。仏を見るとは仏の世界へ出るということ。仏の世界へ出るとどうなるか。春は鳥が鳴き、花が咲き、春風が吹いている世界である。仏の世界とはそこに教があり、その教を生きている人がある。即ち仏を見ずとは、教法を聞かずということである。教法を聞かずとは、教を本当には聞かない、受けとめない。善導大師は「教は鏡である」と言われた。我々は自分の顔を見るのに鏡が要るわけで、鏡の前に立ってはじめて顔の汚れがわかり、顔の形がわかる。教を聞いてはじめて自分を知る。教を聞いて自分を知るということがない、それを智慧がない、盲目というのである。更に「菩薩、声聞、聖衆を見ず」という。略して「菩薩を見ず」という。よき師よき友を見ない、即ちよき師よき友が私を励ましているのがわからない。これを「菩薩を見ず」という。「仏を供養するに由無し、菩薩の法式を知らず」。法式とは、とるべき姿勢、やるべき行動、言うべき言葉、そういうものを法式という。きちんとした寺というものは、たとえば勤行する、お経をよむ、そういう時、とても法式が整っている。素人の我々にはとても真似のできないところがある。お経をあげましても、私達は体を動かしますね。立派な人は、しゃんとして動きがない。始めから終りまで。そしてその態度が荘重である。丁寧である。仏の前における姿勢を法式という。菩薩というものは仏の弟子である。仏弟子としての行動、それは仏中心の生活である。これが法式の根本である。そういうのがわからない。それを智慧がないというのである。も一つ功徳を修習せずという。即ち何ら実行、何ら徳を積むということがない。これを盲目という。智慧がないという。法然上人に従ってその権威、言葉をただ信じているのであるならば、それは盲目である。
 親鸞聖人は法然上人の教に従いながら、法然上人をつきぬけて仏を見、弥陀の本願にぶつかり、そして教によって照らされ、よき師よき友を戴き、わが生涯を捧げて仏のために尽し、菩薩の法式を守って大勢の人々のために働いてこられたのである。盲目でない。智慧の姿が輝いている。

 盲目とは無明であると申しましたが、も一つ言い変えると盲目性とは、心の底に疑いを持っていることです。疑惑というものを持っている。人間はどれ程信じようと思っても、人間の心で信じようとするならば、必ず底には疑惑というものがある。しかしながらこの疑惑は非常に底の方にかくれている。善導大師は疑惑ということを言う時に、疑いというものと(おもんばか)りというものと二つに分けられた。疑いと慮りという。疑いとは、本当にそうなんだろうかと思うことである。盲目的に信じた場合は、この疑いはない。しかし心配はある。ひょっとしたら欺されているのと違うかな、ひょっとしたらというものがある。それを慮、惑という。人間は誰でもそういうものを持っていて、これはなくならない。今、新幹線に乗って行くと、東京から大阪まで三時間半で着く。これを疑うものはいない。しかし実際に自分が乗った時は、三時間半では着かないかも知れないと誰も思う。私もいつも思います。なぜかというと関ヶ原のところに雪が積ると、新幹線は雪に弱いから大体二十分以上遅れる。今日はひょっとしたら遅れるかも知れないと思って乗る。人が私を自動車に乗せてくれた。こんなにとばしたら事故を起こすかも知れんなと思いますね。この人を信用して車に乗っているのですが、何か心配が残る。こういうのを慮りといわれた。そういうものをみんな持っている。
 ところが本当の信は無疑、無慮である。それを「疑いなく慮りなく」と善導大師は申された。どういうことかというと、全部おまかせして何もあとに無いのである。それを「地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」。おそるべきもの、心配すべき何物もないというところを無疑、無慮という。それを疑惑なしという。疑惑とは、相手が本当にはわからないとき、どこか一つ心配が残ることをいう。本当にわかると疑惑なしである。本当にわかるとは何か。仏の働き、即ち仏智、或いは仏の慈悲が本当にわかる。法然上人の教が本当にわかる。ことごとくを了知したところには殻はやぶれてしまう、これが疑惑なしである。「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」ということが了知されるのである。
 大切な点は「かくの如きのわれら」ということがわかることである。「われら」とは、音は謙遜の意味で「ら」といったので、今の言葉では私ということである。「このようなていたらくの私」というものがわかる。それを了知する。これを自覚という。それを疑惑なしという。そこに本当の信がある。

 功利性とはエゴといい、自分自身のために幸せを求めること、無功利とはそういうものの全くないことをいう。「地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず」ということ、何の算盤(そろばん)もはじかないことをいいます。私共は人生という道を進んで行く手に幸福というもの、しあわせというものを期待している。しかしながら一歩誤れば不幸せ、或いは苦しみというものに落ち込む。この幸福に対する深い期待、希望と共に不幸せに対する不安、恐怖、おそれを持っている。そして何とかしてまっすぐ幸せに進んで行きたいと思う。こういうものを根本に持ちながら生きている。一方、善でありたい、悪を避けたいと思う。幸せを求めると共に善でありたい、不幸を除き悪を避けたい、こういう行き方を六道輪廻という。六道とは六つの世界ということで、三悪道と三善道によって成り立っている。その三悪道のうち一番下を地獄という。次を餓鬼道といい、上を畜生道という。
 地獄とはどういう世界かというと、いわば苦しみの世界である。第一の地獄を等活地獄という。これは互いに鉄の爪を持っていて相手を見れば突き刺す。そして自分も突き刺され遂には二人とも倒れてしまう。このように相手を傷つけ相手を責め、また自分も傷つけられ両方ともに倒れてゆく。そして一陣の風が吹いてくると、共に起き上がってまた突き合いを始める。つまり苦しみの連続、繰り返してあります。ここでは前の苦しみがなんらの役割も果さない。無反省のままに繰り返されていく。これを地獄という。地獄というのはどこかにあるのではなくて、人間の堕ち込んでゆく世界をいうのである。即ち人間は生きながらにして地獄という状態に堕ち込んでゆくのであります。
 『地獄の思想』という書物、これは梅原猛という人の著書で、日本文学を貫く考えは地獄の思想であると述べています。それは死んで地獄へ行くというものではなくて、人間の堕ち込んでゆく状態を言っています。最初は『源氏物語』、最後は太宰治の『人間失格』があげられています。この人間失格というところに地獄があるのです。

 修羅、人間、天上、これら三つを三善道という。この三善道と三悪道との境に大きな門がある。三悪道への門があるのです。この門は大きくていつでも堕ち込むようになっている。人間失格とは何かというと、考えるということを失ったことをいうのです。反省、思索、決心を失ったとき、ずるずると堕ち込んでゆくその世界を三悪道という。善導大師は、大きな大きな火口が我々の足もとに開いていて、いつ堕ち込むかわからない危険な状態にあると述べておられます。我々の心に起ってくるものは、何とかして幸せの天地に出たい、不安と恐怖からのがれて、上へ登っていって下へ堕ちたくないと思う。ここに生まれてくる宗教が、地獄恐怖教というものでありましょう。また幸福期待教と言えましょう。普通の宗教は大体こういう宗教であります。人は宗教とは幸福期待教であると考える。裏返していうと地獄恐怖教である。もし新しい宗教を作ろうと思うのなら簡単なのであります。先ず病気をなおしてやる、これが第一番でしょう。そして天地の間に大きな大きな真理があるというのです。もし私が宗教をつくるとするならこんなものをつくるでしょう。宇宙真理教といったようなものです。宇宙の真理はこの石の中に詰っている。この石を前にして精神統一して祈る、そうすれば幸せになれる。こういうようにすると大体の宗教はできる。石の代りに、なんとかの神様でもよい、なんとかの法則でもよい。要するに、それを信じて拝めば幸福になれるという宗教ができる。
 この考え方の根本を、邪見というのであります。邪見とは自己中心の思い、我執をいう。エゴ、利己性、何とか幸せにならねばならないという考えが中心になっている。これをエゴ教というのである。エゴ教が即ち地獄恐怖教である。およそほとんどの宗教がこのような宗教なのです。地獄が恐ろしいという宗教、幸福が得たいという宗教、これを功利的宗教という。これでない宗教、そうでない天地を「たとい法然上人に賺されまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」というのであります。それは無功利の宗教、エゴというものをはらまないものをいうのです。
 さて、我々は六道輪廻の世界におるわけであるが、これを自己中心の世界、一次元の世界という。親鸞聖人の世界は高い広い世界なのです。それは地獄、餓鬼、畜生という世界を遠く離れ、遠く超えている。そして大きく包んでいる。これを仏の世界という。自己中心の世界を超えて大きな仏の世界に生まれ出る。これを信の成立という。信は必ず無功利である。それはエゴの上に成り立つものでなく、仏の心の上に成り立つものであるからであります。
 三悪道と三善道の間に門があると同じように、仏の世界と三善道の間にも門がある。この門はキリスト教で言えば天国への門です。キリスト教では天国へ入る門が狭いというが、仏教ではこの門は閉じられているという。仏への門は閉じられ、地獄への門だけが大きくあいている。したがってわれらは落ちて行くしかない。しかし、もし仏への門が開かれたなら、この門から大きな世界に芽を出すことができる。同時に地獄への門はたちまちぴったりと閉じられてしまう。これを三悪道の門を閉ずという。もはや絶対落ちることのない立場に立たされてしまう。仏の世界に通ずる門が開くところに「悪趣自然に閉ず、道をのぼることきわまりなし」ということが生まれる。
 地獄恐怖教、幸福期待教、それらの根本を邪見という。自己邪見を中心の思い、自力と言います。また、ナルシシズムという言葉に該当するのではないか。ナルシシズムの訳語を見ますと、自己陶酔または自己愛着というような言葉が書かれてある。ナルシシズム、ナルシスというのは実際はナルシッソスのことでありますが、ギリシャ神話に出てくる美青年である。愛の神ビーナスから憎まれて術をかけられる。なぜそういうふうに憎まれたかというと、曰く因縁がある。しかしそれはともかく、ナルシスは、ビーナスによって呪われて、自分しか愛することができなくなった。彼は水の上に自分の姿を写してじっとそれに見惚れていた。他のものは何も目に入らない。そしてみとれたその自分の姿を愛しようとして近づいてゆくのですが、水のところまで行くとそれ以上に近づくことができない。それをむなしく繰り返しているうちにとうとう痩せ細って死んでしまう。死んで水仙の花になった。水仙の花というのは下を向いている。これが水にわが顔を写して愛着したそのナルシスのなれの果てであるという。
 我々は皆このナルシシズムを持っているわけであります。自己正当化、自分の主観の中に閉じこもり、私のひとりぎめの中に閉じこもって、私は間違いないという考えに固執し、じっと自分に見惚れて他の意見が耳に入らない。即ち客観性というものを持たない、いや持とうとしない。自分の考えが客観的なものかどうか考えようともしないところに、ナルシシズムというものがあるわけであります。ナルシシズムは他人のことではありません。我々全部が持っているものである。
 新幹線が出来て非常に便利になりましたけれども、あの新幹線で困るのは降りた時の出口の混雑である。改札の方はよいが出口の方は大変です。なぜかというと何千人という人が降りてわっと押しよせて出て行く。しかし出口の数が少ない。小倉で降りた場合、鹿児島本線に乗りかえなければならない。連絡時間がないのに出口がもたもたする。よく見ると改札口の方は人がいない。そこで改札口の方から出て行こうとしたら押し戻された。「もしもし、ここは出口ではありません」。それはちゃんとわかっている、だが時間がない。ちょっとごめんといって出て行こうとしたら押し戻された。こちらの論理ははっきりしている。あいている時には改札口の方から出たっていいじゃないか。いつもストばかりしておって少しくらいサービスしろという。しかし向こうは出口じゃないところから出てはいけませんという。どちらも自分の論理が正しいと思っている。そういうことになりまして、私もつくづく「ああ、おれのナルシシズムも大変なものじゃー」と思いました。
 こういうように自分の見方や論理に愛着を感じ、じっと自分に見惚れて自分の考え方に執われている。即ちエゴですね。それを我見といい、邪見という。それをナルシシズムという。このナルシシズムにもとを置いた宗教を幸福期待教、地獄恐怖教というのであって、これは地獄が恐ろしい、不幸になりたくない、苦しみはおことわりだ、幸福でありたいという宗教、これらはナルシシズムの上に成り立っているのである。そこでは「たとい念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」ということは出てこない。聖人の教はいわばナルシシズムを打ち砕かれたところに開いてくる宗教である。これは大変な宗教だということがわかる。
 それではナルシシズムを超えるとはどういうことか。打ち砕かれたというのはどういうことか。
 我見をこえるということは客観性の成立である。客観性の成立というのは、自分の小さな殻を出て広い世界に出る。あるいは大きな生き方というものを持つようになることであります。自分の幸せというものの中にだけ閉じこもって、ちょうどナルシスが池の水に写った自分に見惚れてとうとう水仙になった、そういうものでなしに眼をあけて広く客観的に見ることができる。そういう世界に出ることを言っている。真の客観性の成立を信の成立という。本当の客観性の成立、それをナルシシズムの克服というのであります。
 信は菩提心です。菩提心とは何かというと、仏の世界を菩提といい、この菩提を求める心、あるいは菩提を生きる心それを菩提心といいます。菩提心については道綽禅師のお言葉を親鸞聖人は『教行信証』に引かれている。「この心広大にして法界に周徧し、此の心長遠にして未来際を尽す」。この心、菩提心、これが我々の上に生きる姿を信心という。広く大きく、小さなナルシシズムを超えてそこに大きなものにふれる。それを広大無辺という。全世界を包むようなものである。いや全世界どころではない、三千大千世界、全法界を包むようなものである。
 ナルシシズムの一つをせまい愛国心という。ナショナリズムと申します。ナショナリズムとは、「我々の民族は大変立派なものだ。一番すぐれている。わがグループだけが立派なものである」というのである。そこには自分の国を愛し、自分の民族を愛し、自分の郷土を愛する強いものがありますが、逆の方からいいますと排他的である。他のものはつまらん、なっとらん、うちだけが偉いんだというものを必ず持つのである。排他的な考えを持っているのが狭い愛国心の特色です。強い団結心を持っているが、同時に他のものに対する強い排他性を持っている。日本は戦時中、万世一系の皇統をいただいて世界の最優秀民族であるといった。ドイツもそういった。ヒットラーはあらゆるものの上に卓越したドイツ民族というものをうたいあげた。ゲルマン民族の優秀性を謳歌して強いナショナリズムをあおった。そこには非常に危険なものがある。どこが危険かというと、ナルシシズム、自己陶酔、ひとりぎめというものは排他性に通じている。客観性をもたない。広くものを見る力がない。「この心広大にして法界に周徧し」というものがない。共に同じ人間だというものがない。ナショナリズムでは大きな心で相手を包むとか、相手と手を取り合うとかいうことができない。
 もう一つ「この心長遠にして未来際を尽す」。長遠というのは時間的に長い長い先、遠い遠い彼方、そういうものを考える。先ずそれは自分の過去である。もう一つは御苦労の歴史、本願の御苦労の歴史というものを長く考える力ができる。また遠く未来を考える。それを未来際を尽すという。我々は長い時を考えるとか、大きいものを考えるとかができない。ナルシシズムというものは短いことしか考えることができないでしょう。そういうふうなものを超えるのを客観性普遍性の成立という。それがナルシシズムの克服という問題であります。そこにあるものを無功利という。何らの代償も求めない、いわゆる無功利の信という表現でいわれている。これを「念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」という。このことが中心問題である。どうしたらこれができるか、それが大事な問題であります。
 客観的にものを見ることができないと、人を歪曲して見る。必ず相手を曲って見る。いや私は正しく見ているんだというけれども、間違って見るのです。これがナルシシズムであります。私の例をあげてお粗末なところを披露しましたが、私の言い分からすれば国鉄の方が悪いわけである。混雑している時には出口からでも入口からでも出すべきであるという、これは乗客の側の論理です。ナルシシズムの極限を精神病という。精神病の人は主観の中にたてこもっている。自己陶酔、自己正当化、自己主観という中にたてこもって、自分の思いでみんなを見ている。従って、「あれが私の悪口を言っている」「これが私をいじめる」というふうに思い込む。ある患者は、こうなったのはみんな周囲のせいなんだという。精神病の軽いのは神経症というのだそうですが、ノイローゼともいう。しかし重いのも軽いのもみんな主観に閉じこもっているところは共通している。或る人はいう。私がこういう病気になったのは、私は森田式療法でなおしたいと思っていたのに、おやじが他の医者にかけた。その医者は森田式療法に対して無理解で反対だった。だから薬を飲ましたり色々なことをやったけれども結局なおらなかった。あの時に森田式でやっていたらなおったのにという。自暴自棄になって医者のいうことを聞かなかったことはたなに上げて、そういうふうに言う。主観に閉じこもって他の人を歪曲して考える。これは全部そうである。他の人やいろいろの事実を客観的に理解できない。

 真の理解とは何か。本当に人を理解し、現実を理解するとは何か。反対からいうと、理解の反対はよしあしをいうことであります。真の理解の反対は、よい悪いときめつけていくことです。自分の判断でよしあしということをきめつけていく。あいつは悪い、あいつは…という。真の理解とはその人を受けとめることである。その人の気の毒な業であると受けとめる。業とは何かというと、それはどうしようもないものであります。どうしてこんなに背が高く生まれたのか、そういわれてもどうしようもない。お前はなぜそんなに色が黒いのだといわれてもほどこす道がない。そうなっているのである。カニは横に走っていくようになっているのです。蛇はにょろにょろするようになっている。蛇にお前まっすぐに歩けといっても「はい、まっすぐに歩きます」といっで、曲りくねって歩むにちがいない。それが蛇というものです。あるがままの人生をあるがままに受けとめる。これをナルシシズムの克服という。それはどうしてできるのか、それが大事な問題であります。

4 ナルシシズムの克服

 ナルシシズムは精神分析或いは心理学の方面にたくさん取り扱われている問題ですが、ナルシシズムの克服ということが大切です。私は心理学の専門ではないので、あまりよく知りませんが、エーリッヒ・フロムという人の『愛するということ』という書物を読みました。フロムの本は沢山ありますが、その中でこの本ではナルシシズムの克服ということを突っ込んで触れていると思います。いかにしてナルシシズムを克服するかという問題です。

 『愛するということ』という本を読んだのは、五月に青年部会の講師を引き受けて若い人達に三日間話をすることになりました。そのテーマとして「愛」を考えていたのです。青年部会では現代という時代に特有な問題を考えたい、時代の課題についての仏教者というか、仏教に育てられた者の考え方を明らかにしたいと思いました。今までの青年部会では『友について』、次に『劣等感について』を話しました。そこで今度は『愛するということ』ということにしました。ちょうどフロムのこういう本がありましたので、これをよく読んでみました。その中でフロムはこう言っている。愛というのはナルシシズムの克服だと。これは大きな着眼ですね。非常にすぐれている。

 フロムによるとナルシシズムを克服するにはどうしたらよいかというと、(一)黙想する。フロム自身も朝晩静かに座って考えている。精神を統一して考えると言っている。そして自分を反省する。(二)謙虚さを持つ。(三)自分の信頼し得るもの(それは師であり友であろう)に色々話を聞き、その人によって自分の間違っているところをなおしてもらう。信頼し得る者によって自己を正す。こういうことを言っている。そういうのをフロムは強調しています。
 三木清は『人生論ノート』の最後「個性について」というところで次のように言っている。「本当に人を理解することを妨げるものが三つある。それは怠惰と傲慢と我執である」。これも非常に聞くべきものであろう。フロムとよく似たところがある。怠惰というのは自ら反省しようとしない。傲慢とは謙虚さを持たない。我執とは自分自身にとらわれていて自分を正そうとしない。こういうように共通なものがある。問題はどこにあるかというと、自分のナルシシズムというもの、仮にこれを汚れとするならば、この汚れを拭い去ろうとするにはきれいな布がいるわけである。窓ガラスが汚れているのをきれいにしようとするならば、きれいな布でないと窓ガラスはきれいにならない。その布自身が汚れているならば、払えばぬぐうほどますます汚れるばかりである。自分の心で自分のナルシシズムを取り除こうとすれば、ナルシシズムを取ろうとすることがいよいよナルシシズムを内向せしめる。汚れ雑巾で窓ガラスをふくようなものではないか。ここが問題である。
 ナルシシズムの克服はフロムによれば(三木清も同じですが)、我々の理性をとぎすまして理性的な生き方をする。そこに本当の愛があり、ナルシシズムの克服があるということを言おうとしている。が、この理性の中にナルシシズムは無いのか、そのものの中に汚れはないのかということが問題であろう。
 仏法はこれをついている。そういうことをやっていくこと自体が、ナルシシズムを克服しようとするそのこと自体が自己愛着ではないのか。例えば仏教によって自分を本当の信念のある人間にしたい、腹のすわった人間になりたいと思う。なりたいというところに実は功利というものが入っているのではないかという疑問がある。純粋な理性というものがあるのかということが問題であろう。仏法は純粋な理性が人間にあると言わない。理性そのものが汚染されているという。これを詳しくいうのは『成唯識論』であります。
 理性の持つ汚染というものは何か。仏法では理性といわないでマナ識といいますが、マナ識の中には我痴(自分自身を知らない、自分が何であるかがわからない)、我愛(自己愛着)、我慢(自分自身をたのみにして人を見くだす、或いは人と比較して自分がいつも高いと安心している)、我見(自己中心の思い)、がひそんでいるというのが仏法です。そこに深い釈尊のさとりがある。人間自身を内側に自己追求して、最後にあらわれるものを無明という。無明の上に理性は成り立っているのだと申します。フロムのいう心理学的ないき方では、人間は理性をふるい立たせて、それを根拠にして何とかして欲を離れるところまでいかねばならんと考える。それしかありません。
 仏法の世界では、もう一つ別の道があるという。卵を親鶏が抱いであたためて、遂に目玉がつき(くちばし)ができ、ヒヨコになっていく。殻の中の世界を人生という。私の人生は何のためにあるのかというと、卵の中にいる限り、即ち小さな世界に閉じこもる限り、私が幸せになるための人生というしかない。これは皆がうなずく論理である。幸せを得るためには理性をしゃんとしてやっていかねばならない。これが心理学、精神分析の拠点である。これでは三悪道の門は大きく開いているからストンと落ちる危険性をもっている。そこにはいつも不安がつきまとう。手をひろげて「地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」という、(おそ)れなしというものは出てこない。
 仏教では天人五衰という。天人五衰とは、人間はどんなに幸せな所にいてもいつも苦しみがあるということです。畏れ、落ちはしないかという不安、その不安が五つの(おとろ)えとなって出てくる。どんな衰えになるかというと、頭の冠に飾っている花がしぼんでくる。着物に汚れがついてくる。脇の下から冷汗が出るなどという。要するに三塗の門がしまらないのである。これは理性では解決できない問題である。静座と思索、反省と謙虚さを持つようにやっていっても、最後まで人間には不安感がつきまとう。それを超えるには三悪道への門を閉じてしまい、遂に六道を輪廻する門が閉じられてしまうことがなければならない。そして仏の世界の門が開かれて遂に大きな世界に出ていく。仏法とはそういう世界を目標にしているのである。

 仏法の方法論とはなにか。先ず方法論ということについてよく考えねばならない点が一、二ある。その一つは、方法論というのは相手が決めるのであって、自分の決めた方法論ではいけないということである。高尾山に登る方法は高尾山が決めるのである。ここならズックをはいて行けるかも知れない。ヒマラヤの山に登ろうとするならばズックばきでは行けない。私は高尾山に登る時はこういう恰好でいつも登る。だからヒマラヤもこれでと頑張ってみてもつまらん。高い山に登るのならば、その高い山が山登りの方法を要求しているのである。方法は相手によって決まるのです。仏法はどういう方法論をきめているか、それは本願成就によるのである。大きな世界からの喚びかけ(大きなものの願い、本願という)を本当に聞きぬく、即ち「聞其名号」というのである。「聞」は聞き開く、「其」はよき師よき友、「名号」は南無阿弥陀仏。よき師よき友を通して南無阿弥陀仏の本願の名告りを聞きひらく、これを本願成就という。そこに信心歓喜がある。この信心歓喜というものをナルシシズムの克服というのである。そこに無功利のものが生まれる。それを「聞其名号 信心歓喜」という。
 「聞其名号 信心歓喜」は直ちにできるものではない。その第一段階を資糧位という。これは一番初めの段階です。もとでになり糧になるものを集めるということである。この中に四つある。因力-もとの力、宿善ともいう。我々の血の中に流れる先祖の徳、我々が育てられた風土の徳、そして今まで聞いてきた資糧。それがだんだんと発酵してきて彼を育ててくるのである。さらによき師よき友、決意、しっかりやろうと決心する、これが非常に大事である。こうして第二の段階に進む、これを加行位という、これは非常に高く進んだ段階であります、(だん)-だんだんと燃え上がってくる。頂-だんだんと高くのぼってくる。忍-だんだんとわかってくる。世第一-すぐれた自覚を持つ。これが加行位の内容で、四つの段階があるといわれる。これらに共通なのは考えるということであり、尋、たずねるということである。尋ねるのは資糧位でも尋ねるわけであるが、加行位ではさらに深く尋ねるようになる。尋、思、推求という。尋ね、考える、そして推求とは「それは私において具体的に何か」とおしはかり尋ねる。
 先ず資糧位では先の四つのもので支えられて、もとでを集め糧を集めてよく聞き考え質問し実行する。加行位では更に深い質問ができるようになる。深い質問とはなにかというと、単に言葉の意味や読み方というのでなしに、も一つ深くわが身を考えながら尋ねることができる。そして尋ねっ放しでなく聞きっ放しでなく考えるようになる。特に大切なのは推求である。「具体的に私においては何か」ということを考える。それがだんだんと深まっていくのを世第一という。世間第一である。だんだん頂上まで来た。そこに見道が成り立つのである。即ちこの加行位の果てに聞其名号ということが成り立つのである。
 それはどうして成り立つかというと、大事なことは「諸有衆生 聞其名号」である。諸有衆生とは迷いに満ちた自己、罪悪深重の私というものである。そのめざめを言ってある。深いめざめを言ってある。深いめざめが私の上に生まれて自己自身を本当に知る。これが加行位の果てに生まれる。それを見道というのである。それを「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜」という。ここに仏法方法論がある。仏道が成り立ち、信が成立する。
 本文に「よき人の仰せを被りて信ずるほかに別の仔細なきなり」とあるが、親鸞においてはどうであったか。親鸞においては「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と法然の仰せを被り、そこに本願成就、仏法の方法論、ナルシシズムの克服があった。この法然をよき師よき友という。その法然はどうしたのかというと、法然は源信和尚という人を経て善導という人の仰せを被ったのである。それをさらにさかのぼると釈尊がある。その釈尊はどうして生まれたのかというと「弥陀の本願まこと」という本願、これを法という。この本願が出発点となって、そこに釈迦、龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、法然がある。この仏法僧の三宝、南無阿弥陀仏の教に本当に触れてきた人に触れる。そこに聞其名号がある。この一河の流れに私が立たして頂く。その聞きひらく一番はじめが資糧位である。そこに必要なものは、最後までやりぬくぞという決心であり、またそれを励ましてくれるよき師よき友である。そしてその教は具体的には何かと、だんだんと自分で深く考えるようになる。遂に最後に深い自分へのめざめに立つ時、はじめてナルシシズムの殻が破れて深く私の中にこの教が諸有衆生、聞其名号と届いてくるのである。これを通達位という。

 今まで三悪道の世界(地獄、餓鬼、畜生)の中を右往左往していた者が、仏の世界からの御苦労の歴史が響いてきて、遂に自らに届いた時、私はこの地獄、餓鬼、畜生の中に沈んでいるという自覚、めざめを得るのである。これを「地獄は一定すみかぞかし」という。その時大きな世界に出て、三悪道の門が閉じられる。三悪道とは絶縁される。しかし私のめざめとしては「地獄は一定すみかぞかし」という諸有衆生のめざめを持つ。絶対矛盾の自己同一という言葉がある。これは西田幾多郎という人が言われた言葉であるが、全く相反して相入れないもの、仏の世界と地獄とは全く矛盾したものであるが、それが、自己において同時に成り立つ。自己において矛盾なく成り立つ。「地獄一定」というものが、「心は浄土に遊ぶなり」というものと一緒に成り立つのである。それを絶対矛盾の自己同一という。ナルシシズムの克服ということについて、方法論というものを申しあげました。

5 本願に遇う

 最後に「無功利」ということであるが、これは本願に遇うということである。それは原点の転換ということであろう。
 ナルシシズム、自力、我見というものの原点はもとより私自身あるいは私の主観である。ナルシシズムとは自己原点である。それから出発してよき師よき友の世界へ原点が移る。フロムの言葉を借りれば、自分の信頼し得る者を発見することによって自分自身を正してゆく、これが第一。ナルシシズムからよき師よき友の世界へ、そして遂に本願に出遇う。そこに自己自身を発見する。自己自身の発見が最後の問題である。自己自身が明らかになるところに、本当の原点がある。自己自身の発見を仏法の言葉でいうならば「機の深信」という。そのこと自身が法を知る、本願を知るということである。
 自己自身の発見とは何か。これを根源的懺悔という。懺悔という言葉と、反省、後悔、慚愧という言葉とは違う。反省とは後から考えてあれば悪かった、今度はこうしよう、再び繰り返してはならんと反省するのである。後悔とは、しまったと(くや)むのである。われとわが身を呪うような悔みをいう。自分のしたことを憎むという。
 慚愧(ざんき)とは恥ずかしいということである。世間に顔向けならんという。これらを人間の世界という。世間道とは六道輪廻の中でなされるものである。これらは世間道である。なぜかというと相手は自己または世間(ほかの人)である。世間が対象である。根源的懺悔とは何か。これは諸有衆生ということである、仏のみ前にわが身を投げ出してお詫びするというのを根源的懺悔という。私のあれが悪かった、これが足りなかったというのを枝葉末節という。私自身というのを根源という。私自身、私全体が問題である。仏のみ前に全てを投げ出してお詫びをすることを根源的懺悔という。これを原点の転換といい、仏を原点とするという。そういう世界が生きてくる。そこにかえって自分自身の姿がわかってくるのである。その表現を「たとい念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」。何となれば「地獄は一定すみかぞかし」という深い根源的懺悔の上に立つが故に、「念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」といえるのである。私の本当の姿がわかるところに根源的懺悔がある。そこに原点の転換があり、無功利の信が展開する。それを仏の前なる生活、報謝の生活というのである。
 これを修習位という。本格的な人生々活が展開してゆくのである。


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