三、往生極楽の道

『歎異抄講読(第二章について)』細川巌師述 より

歎異抄講読HP / 目次に戻る

 「身命を顧みずして尋ね来らしめたまふ御こころざし、ひとえに往生極楽の道を問ひ聞かんがためなり。」

 第二章は前書きもなければ説明もない。関東の国から来られた人達を前にして、聖人のお答を言われているのである。今、みんなが出てきたその気持ち、みんなが色々申したり、思っていることをまとめ整理されて、それは「ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり」といわれている。
 先ず往生とは何か。往生とは、ゆきて生きるということである。世の人は死ぬことを往生という。隣のおばあさんもとうとう往生したかというと、それは死んだということを言っている。また、大変苦労したというのを往生したという。が、そうではない。往とはゆくということである。前進、進展である。前進、進展とはどういうことか。反対からいうと往の反対は停滞、流転、退歩である。
 とどまっている人がある。何年たっても同じことばかり言っている人がある。大体三年たっても同じことを言うようではいけない。私は大抵のことについては物覚えが悪いのですが、仏法についての感想はわりに覚えています。あの人は二、三年前にもあのようなことを言ったがなあと思い出すことがある。ということは、この人はここ二、三年進展していないということである。流転とは、ぐるぐる廻っていて結局その人は同じ所にいることである。往とは前進である。前進するには、一つには方向がなければいけない。方向がきまったということが大切である。方向がないのに前進はあり得ない。も一つは前進力即ちエネルギーがあるということである。例えば船でいうと羅針盤がしっかりしていて、進むべき方向がはっきりしているのが往である。はっきりしているだけでなく、エンジンがかかってスクリューが廻って、波をけたてて走っているというのが前進である。そこで方向の確立と前進のエネルギー源を持っているということが往である。
 今、仮に椰子(やし)の実があって大海の中に浮かんでいるとする。この椰子の実が風に吹かれながら西から東に、潮に流されて北から南へ動いているのは、前進でも進展でもない。それは流転である。これが前進するとはどういうことか。この椰子の実における前進とは何か。それに必要なものは大地である。依り処である。依り処がなければ前進は決してあり得ない。彼を支える大地がなければならない。大地があって、太陽の光と水とが働きかけて彼が発芽をすると、初めて方向がわかる。一方では深く大地に向かって根をおろし、他方では太陽に向かって伸びていくという方向がきまる。方向がきまるためには依るべき大地がなければならない。そしてそこに光と水の働きかけがなければならない。それが方向の確立という問題である。
 今ここに磁石がある。磁石が北と南をさすというのが方向がきまることである。それは地磁気の方向、即ち地球全体が磁石であって、それが引っ張っているからその方向を向いているのである。何かが働きかけねば方向というのはあり得ない。今、光がさすからその方向にいくのである。前進力とは何か。伸びてゆく。力はどこから出てくるのか。それは大地が与えるのである。大地が水を、光がエネルギーを与えてそれらが前進せしめるのである。従って往ということは必ず彼が大地をもつことによって成り立つのである。
 生とは何か。仏教では、生は非常に大事な意味がありまして、生とは生きるということ、いのち、生命を与えられるということである。今ここにドングリがあるとする。これは生きているか。生きてはいる、死んではいない。が、いわば凍結されたような状態で、生き生きとはしていない。本当に生きているとは living リビングという、躍動しているという。英語で言えば actual アクチュアル、活動的。ドイツ語ではビルクリッヒカイトというものである。躍動している。これをいきいきと生きているという。ドングリは生きているが生命の躍動はない。ドングリころころで転がっている状態である。芽を出さなければ躍動はない。
 宗教というのは必ず躍動である。親鸞、法然の書かれたものを読むと、ビリビリ身が震えるようなものを感じます。それは生きているのです。物凄い生命力を持っている。どうしたら躍動するようになるか、それは大きなもの、生きているものにふれて生命を与えられるからである。生きているものの一番根本は何か。太陽、これがあらゆる生命の根源である。太陽こそ躍動し、生き生きしているものである。その太陽即ち生命の根源、このいのちの根源にふれていのちを与えられる。いのちに触れなければいのちは出てこない。本当の躍動は、躍動しているものに触れなければ出てこない。それに触れるということは、その光を受けるということである。も一つ躍動しているものがある。それは水である。即ちよき師よき友である。本当に躍動している人、躍動しているものの根本、それを光といい水という。それを受けとめて発芽する。そして殻を破って出てくると初めて躍動となる。生きているのである。これを生という。
 宗教というものを聞いて暗くなる人がある。わかったかどうかわからんような顔をしている人がある。私は見なかったが、前進座で「親鸞」という劇をやった。それを見た人が言った。「地獄は一定すみかぞかし」、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と、親鸞になった役者が言った。淋しい顔、憂鬱な暗い顔をしていうたそうな。わかっていないですね。わかっていない人がやるのだからどうにもならない。「地獄は一定ずみかぞかし」、「いずれの行も及び難き身」などというのは淋しい顔をしていうのではない。明るい顔をしていうのです。生き生きとして言うのですよ。「道光明朗超絶せり」です。躍動して言うのです。この点は誤解のないようによく前進座の人に言っておかねばならない。暗い顔をして言う宗教なんて何の役に立つものですか。生き生きしているのです。躍動して生きているから「地獄は一定ずみかぞかし、南無阿弥陀仏」と言えるのです。いのちに触れているから生きているのです。真実を生きていた時、初めてそう言えるのであって、それを往生という。前進座によく言うておかねばならん。一ヵ月ばかり僕を雇うて、僕の講義を受けたら大分違うのだがなあ。ま、これはいらん話ですが、いくら芝居でもこんなに全然違ったことではいけない。
 次に往生極楽ということ。極楽とは言葉がよくないですが浄土といいましょう。浄土とは何か。この太陽の世界を清浄真実という。清浄にして真実、それが浄土、その世界に生きていく、それを往生浄土というのである。
 親鸞聖人の和讃の中に「道光明朗超絶せり」とある。道光は道の光、道とは清浄真実の世界。その世界からの光はまことに明るくて朗らかで、何物をも超え離れている。これを「道光明朗超絶せり」という。その世界を生きることを生という。従って必ず明るいのである。暗さを持たないのである。但し、初めからそうはいかん。長い求道が要る。それはちょうどドングリが固い殻の中で、水を吸収しながらもなかなか発芽せず、光を受けながらもなかなか伸びない、久しく時間がかかるように。けれどもこの殻が破れたら「道光明朗超絶せり」である。
 その出た世界を浄土という。浄土とは死んでから先ではありません。それでは此世が浄土か。そんなことを言っているのではない。太陽は、はるか彼方にあるのに太陽の光は届いている。今太陽の光を生きているのであるが、決して太陽そのものには達してはいない。しかし無関係ではない。浄土の光、浄土の先端に我々は触れているのであって、そこに顔を出した。それを往生浄土門という。それは此の世のことである。
 往生浄土は死んでから先でなしに、此の世から始まるのである。殻が割れて「道光明朗超絶せり」という世界に生まれた。そこに往生浄土という世界が始まったのである。スタートした。これから一歩一歩伸びていくのであるが、我々のいのちのある限り、太陽まで届くということはあり得ないのである。浄土に行きついたということはない。一歩一歩の歩みが往生浄土である。殻の中を出て進む、その前進である。そのことを言っておきます。


ページ頭へ | 「四、親鸞におきては」に進む | 目次に戻る