二、不顧身命(不惜身命)

『歎異抄講読(第二章について)』細川巌師述 より

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 本文に入りまして「身命を顧みずして尋ね来らしめたまふ御こころざし」について申しあげます。不顧身命、或いは不惜身命というのは、本文の中ではあまり大事な言葉ではありません。しかし先ず「身命を顧みずして尋ね来らしめたまふ御こころざし」ということについて申します。求道の段階からいえば、五つの段階で言いますと、第一の段階は先ず資糧位、第二は加行位という。資糧とは資はもとでであり、糧はかてである。従って先ず初めはもとでを集め、糧を集めなければならない。聞いて、読んで、考えて、わからないところを尋ねる、これが第一段階であります。第二の段階はこれを実際に実行する。聞思修となるのは第二の段階でありまして、第二の段階は非常に高いわけです。
 そこで今申しあげたいのは、求道の段階を考えていくのにそれぞれの段階、ポジションで大事な問題があるのです。それは注意しなければならない。どういうことかというと、資糧位、加行位で特に大事な問題は、求道の姿勢ということである。我々は方法を問題にするが、姿勢は、問題にしない。方法とはやり方、どんな本を読んだらよいのか、誰の話を聞いたらよいのか、どんな読み方をしたらよいのかというように、何を、どういうふうに、どの位、というような方法を知りたく思う。しかし大切なのは姿勢である。その姿勢は何か、それは不顧身命というのである。身命を顧みずという姿勢が必要なのである。これは仏道の一番初めに必要な姿勢なのである。やり方だとか、或いは何を読んだらよいかというよりも、不顧身命が大切です。これが仏道の一番初めに要求されることであります。
 先ず求道の姿勢である。資糧位、加行位では、求めれば求める程ぶつかる、行きづまるのである。何にぶつかるのか、それは絶壁にぶつかるのです。絶壁にぶつかって頭を打ちつける位でなければ求道にならない。世には仏教とは弱い人、老人、病人、意志薄弱な人、不幸な人、そういう人が避難する避難場であり、或いは他によるべのない者が宗教を柱にするのだと思っている人がいる。そういう宗教もあるかも知れないが「仏教はそういうものではない。これは物凄い力を要するのです。しかしこれをあまり強調すると、それならやめておこうという人があるかも知れないので困るのですが、実は大変な力がいるのです。親鸞聖人にしても法然上人にしても、物凄い迫力がある。外側には軟らかさが出ておりますけれども、物凄い迫力を持っておられる。例えば法然上人に弟子が言った。「今はもはや朝廷の厳しい裁きを受けて、あなたは島流しになるという時勢でございますから、どうぞお念仏申すことをも少しお控えになったらどうでしょうか。少し世のほとぼりのさめるまでは、念仏を派手におやりにならない方がよろしいのではないでしょうか」と弟子が勧めた。すると上人は「たとえ死罪に行わるともこのこと(念仏)言わずばやむことあるべからず」と言って、切実の色、人の心を打ったといわれている。「私はたとえ首を切られようとも念仏だけはやめられません」と言いきられた。偉い人である。命を賭けたお方である。これが要るのです。不顧身命、不惜身命ということが要るのです。
 絶壁になぜぶつかるのか。それは自己の現実、私の実際の姿と、教の示す世界との間には絶壁があり、大きな隔たりがある。これが資糧位、加行位の大問題である。この絶壁を超えたところに通達位というものがある。通達位とは信心の決定、信の成立である。この絶壁を超えるのに必要なものが不顧身命ということである。
 通達位、修習位、究竟位、これが仏教の段階です。資糧位、加行位は世間の段階です。殻が破れて脱皮して出てきたところが通達位、だんだん大きくなっていくところが修習位。資糧位、加行位の段階で大事なものは求道の姿勢であり、通達位、修習位で大事なのは生活のあり方というものである。生活のあり方とは、私共が一日一日気をつけていかねばならぬこと、それは言葉、行動、思いを一日一日しっかり考えていかねばならない。これが通達位、修習位の問題である。
 言葉をかえていうならば、脚下照顧ということである。足もとを見て行けということである。これは禅宗の言葉であるが、足もとをしっかり照らされて、一歩一歩よく見ながら進んで行けということである。これが生活のあり方です。

 求道の初めの人にはこういうことはなかなかわからない。初心の人には求道の姿勢の方が大切です。自分のことで申し訳ないが、私が三十才になった年の正月に、亡くなられた先生の所に御注意を頂きに参上した。「私は三十才になりましたのでいろいろ御注意を受けて、どう進んで行ったらいいかお教え願いたいと思います」と申しました。すると先生は「三十代の勉強が一生を決定するのである。大いなる進展を遂げよ」と言われました。大いなる進展を遂げよとは何かというと、私は資糧位、加行位から通達位へということだと思いますね。なるほど、小さな所でぐずぐずせずに、どうしても大きな進展を遂げなきゃならん、これが三十代の私の責任だという気がしました。我々は方法論やテクニック、或いは具体的なことを問題にするが、初め大切なのは姿勢です。これについて不顧身命といってある。これについて例をあげるならば、善財童子の求道があります。
 善財童子は『華厳経』入法界品の主人公であります。この『華厳経』というのは非常に大部なお経でありますが、その中心をなすものは十地品と入法界品であります。入法界とはどういうことかというと、弥陀の浄土に遂に往生していくということです。一人の少年が遂に通達位、修習位、究竟位と進んでいく。それを入法界という言葉で表わしている。この中に大事な問題として、第一の求道と第二の求道というものがある。
 第一の求道とは、この善財童子がいかにして仏法を聞くようになったかということである。それは全く偶然であった。まず土徳であった。土徳とは善財童子の生まれた覚城という土地が、非常に仏法に因縁の深いところでそこに次々と菩薩が来られて修業され説法されておった。彼はそういう土徳のある所で生まれた。そこに文殊菩薩という人が来られて偶然その説法に出遇った。覚城の町の人達は老いも若きもこの説法を聞きに行く。その時たくさん子供がついて行った。その子供の中にこの善財という子供がまじっていた。そして文殊菩薩の語を聞いて非常に喜んだ。それを文殊菩薩が「よいかな、よいかな」と言って大変ほめられた。
 その次を第二の求道という。その説法を終えて文殊菩薩は南の方に旅立っていく。善財はその後を追って行って問うのである。どういう質問をするかというと、「私は御法によって深く照らされて、まことに自分自身のお粗末なところを十分知らせて頂きました。私は今から、いかに生くべきか、いかに修行したらよいか」と質問する。第一の求道は受け身であった。彼は偶然因縁に恵まれて聞いた。が、いまは立ち上がって後を追っかけて問うた。そういうのを座を立つ、腰を上げるという。いわば積極的に聞く、そして尋ねた。これが大切である。何を尋ねたか。それは、いかに生き、いかに行ずるかという根本的な問題を尋ねるようになった。ここに消極的な立場から積極的な立場に立ち上がった。偶然ではなく自分が立ち上がって問うた。文殊菩薩はこれを大変喜んで言われるには「お前は、われいかに生くべきか、われいかに行ずべきかという問いを持って歩んで行け。善知識を尋ねて問うて行け」と教えるのである。そして初めに南の方の功徳雲比丘を尋ねて行けと教えられる。こういうことが入法界品に出ている。
 受け身、即ち消極的な求道から積極的な求道へ、これが先ず大切である。も一つは求道を一貫すること、即ち教えられ、更に尋ね、更に教を受ける。そしてとうとう最後に弥陀の浄土に往生していくという、一貫性というものがここに出ている。
 私において不顧身命とは何か。こういう問いを自分に問わねばならない。単に物語として聞き流すのでなく、私において何が身命を惜しまないということなのか、こういう問題は非常に具体的です。こういう問題を考えないと力がつかない。仏法が表面を流れてしまう。不顧身命とは私にとって一体どういうことだろう。これが求道の姿勢である。この求道の姿勢の確立が一番大事である。私の処に学生寮があって、二十名位の学生と一緒にいますので色々考えるところがある。学生に注意したいことが沢山ある。それは生活上のことが大部分です。目につくのは生活のことである。今の学生は夜が大変強くて朝が弱い。機動隊等が来る時は朝の寝込みをおそうという。その代り夜は大変おそくまで起きている。「健康上悪いから早く寝て早く起きなさい」と言いたい。が、私はこれは言わぬことにしている。これは彼等にまかせておく。生活のことは言えば数限りないが、今大事な問題は何かというと、それは求道である。求道をしなければいけないということを言う。社会人になったら純粋な求道は出来ません。必ず打算的になる。聞法をすればどういう利益があるのかという。私は大阪にも行きますが、大阪というのは大変な所ですね。「それをやったら儲かりまっか」という。こういう所には親鸞聖人の「ただ念仏して」という教も受けつけないですね。求道の姿勢を確立するということは、若い時でないとできにくい。
 求道の途中に曲り角がある。それはマンネリ化である。惰性である。何を言っても同じ事を聞いているようで少しも響かない。単なるくり返しのように思われる。そのマンネリ化を超えなければいけない。それは教える方が悪いのではないか、もう少し違った教え方をすればいいのではないかも知れないが、そうではない。教えることは一つです。例えば音楽というのは同じものを何べんも聴くのがいいですね。初めはメロディーを聴いているだけであるが、だんだんと第一バイオリン、第二バイオリン、打楽器と聴き分けられるようになると、また受けとり方が違ってくるわけです。ずっと何べんも聴いていると、初めわからなかったことがよくわかるようになる。曲は同じだが、聴く自分の耳が肥えてきて教育されていく。従って、マンネリ化ということがあるのは、自分自身が進展しないということである。
 マンネリ化を超えて進展するその秘訣は何か。それは、「私においてそれは何か」という問いを持つことである。いまの求道の姿勢として大切なことはよき師、よき友に親近することです。それは師に尋ねることです。質問することです。発言する、尋ねること。何を尋ねるか。尋ねることは色々あるでしょうが、一番大切なことは、「私の姿勢はこれでよろしいでしょうか」ということです。私の姿勢について正して貰わねばならない。それには発言することが大切で、そのためには親近ということが大切である。親近、恭敬、供養は、よき師よき友に対する我々の姿勢を言っている。私を励まし、本当に正しくしてくれるのはよき師よき友である。その人達に対する姿勢をいう。この人達に頭を下げて近づいていくのが親近、恭敬である。そして自分の時間をさき、供養してゆく。供養とは法を聞きぬく、説かれる教を徹底的に聞こうという姿勢です。
 『蓮如上人御一代記聞書』がある。(聖典の30)三百何十条があるが、大体半分は求道の姿勢を教えられてある。求道の姿勢を確立せよということが言われている。「蓮如上人仰せられ候。『物を言え』と仰せられ候。物を申さぬ者は恐ろしきと仰せられ候。物を申せば心底も聞こえ人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候」。これは実にねんごろな、御親切な仰せである。また「私の聞法は籠の中に水を入れるような聞法です。仏法の座敷では有難くも尊くも存じ候が、やがてもとの心中になされ候」と言われた。それに対して上人は「その籠を水につけよ」と。これはまた姿勢を言ってある。「その籠を水につけよ」。求道の姿勢を仰せられたのである。

 やがて聞法が進むならば、生活の姿勢が正されなければならない。これがまた非常に大事なことである。法敬坊という人が言われた。「陰にてなりともわが悪きことを申されよ、聞きて心中を直すべき」と。「世の中の普通の人は陰口を言うといって腹を立てるが、私は決してそうは思いません。私の悪いところは陰でなりと言って下さい。それを聞いて改めたい」と。これは生活の姿勢についての教えである。
 不顧身命ということについて、本文の中ではあまり大切なことではないが、少し申しました。


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