十五、愚身

『歎異抄講読(第二章について)』細川巌師述 より

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 「愚身の信心におきてはかくの如し。」

 「愚身の信心」というのは面白い言葉です。今までは「親鸞におきては」とか「親鸞が申す旨」とか「親鸞」という言葉を使っておられました。大事なところにはすべで御自分の名前をあげて言っておられる。非常に強いひびきがある。今その「親鸞におきては」とは「愚身」なのだという。愚身とは愚かな身ということである。愚禿といわれる。

 愚かとか愚禿とはどこからくるのか、愚かとは、素裸にならないと出てこない。とりすましているところには愚身ということは出てこない。とりつくろうところには出てこない。仏の前に立つ時、師教の前に立つ時にはじめて素裸になるのである。素裸になるとき愚身愚禿というのである。
 すべて人は何物の前に立って生きているかが問題でありましょう。我々は人の前、世間の前に立っていて、常に世間体を考える。世間とは、不特定多数という。誰ときまったわけではないが、とにかく大勢の人を頭に浮かべて、不特定多数の前に立ってとりつくろっている。不特定多数の前に立つ時に、見かけをよくするということが生まれ、偽善というものが生まれる。とりつくろって恰好をつけねばならない。しかし不特定多数を対象とするのでなしに、対象がたった一人になると、その人は非常に強くなる。愛する一人の人を対象として、その人の気に入るようにしようとするとき、それを愛という。その一人の人が親であるならば孝となる。その一人が師であるならば、教を奉持することになり、その教を頂いてゆく身となる。遂に仏を対象とするならば、そこにはじめて本当の信心の行者が生まれる。
 本当の人、即ち仏を相手にしてその前に立つと、私は愚身となる。そこに素裸の私がある。懺悔が生まれてくる。懺悔とは「このようなていたらくの私」「相済まないことでございます」というのである。これを愚身の信心というのである。素裸の自己、仏の前に立つとは懺悔の私の誕生であります。弥陀の誓願、釈尊の説教、善導の御釈、法然の仰せ…と頂いてくる時、愚身の信心といわざるを得ない。それは深く仏前に立ち教の前に立つからである。「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」。これが親鸞の信心である。けれどもそれは、まことに愚身の信心といわねばならない。教を頂くほど「このようなていたらくの私」と言わざるを得ないものを人間は持つのであって、それを懺悔というのである。「愚身の信心」と懺悔せざるを得ないのでございます。

 以上で第二章を終ります。


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