十三、真実(まこと)の表現

『歎異抄講読(第二章について)』細川巌師述 より

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 自分の語ることの真実性、それが本当にまことであるということを言うためにはどのような条件が整わねばならないか。或いはどのような内容があったならばまことの表白と言えるか。まことと言い得るにはどういうことが整わねばならないか。まこととはとても大切なことで、永遠であり、普遍性を持つものそういう言葉を語り得、表現し得る条件は何か。

1 自証

 先ず大切なのは自証である。自証とは、自分が本当にわかる、体験する、まことに触れることである。火は熱いと言っても、自分が火に触れたことがなければ熱いということがわからない。氷が冷たいとは触れてみないとわからない。
 そういう自証はどうしてできるか。触れればいいではないかと思う。ところが簡単にはいかない。まことというのは我々にわからないものである。わからないまことに自ら触れるためにはどうしたらよいのか。自証は何から生まれるかというと、火に触れた人に先ず触れなければならないということがある。仏法ではそれを就人立信という。

就人立信

(イ)よき師よき友に随って前進する
 よきひと即ちよき師よき友を得て、その教、その勧めに従って、自らも進んで行ってはじめて自証が得られる。案内者なしに山に登り得る人は誰もいない。登れる山もあるかも知れないが高い山になると、よく様子のわかった人がガイドになってくれなければ登れない。このように私を導くものがよき師よき友である。よき師よき友に従って進むということを就人立信という。これが第一である。
 仏教は、釈迦の教を本当に受け継いで来た人達、即ち伝承の人達によって、更に明らかにされ具体的にされてきた。そういう伝承の人達に従って教を聞いていく、これを就人立信という。これが第一。こうしてある所まで連れて行ってもらうのである。
 ここで大事なのは「私において」教を聞く、考える、思うということである。教を聞いて「それは私において具体的に何か」ということを考える。この姿勢が大事です。
 一般に宗教では「信ずる者は救われる」という。そこで何でもかでも信じなければならないと思うが、それは間違いである。そういうのは狂信といい、盲信といわねばならないだろう。自分で考えねばなない。
 聞いて考えるだけでは充分でない、更に修即ち実行ということが大切である。この聞、思、修というのが前進ということの内容である。一歩の前進をするためには、先ず自分の内に吸収せねばならないものがある。それを教という。その教を聞思し、更に聞思修と進む、それが前進である。

(ロ)私における廃立
 前進と共に大事なのは、私における選択という問題である。それを廃立という。廃とは捨てる、立は立てるということである。捨てるとは何か。我々はよい事を皆やらねばならんと思う。あれもよい事であり、これもよい事である。すべて正しい心であらねばならない、すべて正しい行をしなければいけない、それが我々の心です。それを捨てるということが要るのです。あれにも価値があり、これにも価値があると思うが」実はその中に捨てねばならないものがあるのです。それはおかしいではないか、全部やっていいではないかと思うが、よき師よき友に従って、聞いて考えて実行するというところには、そこに捨てねばならないものがある。それを廃捨という。
 何を捨てねばならないのか。法然の仰せは非常に厳しい。先ず聖道の教(聖道門の行き方)を捨てよと言う。聖道門の行き方とは、自己の理性を原点として考えていく行き方である。これを捨てよという。これはなかなか厳しい、理解のいかぬことでございます。自己原点を捨てよ。私においてそれを受けとめて進んでいくことを就人立信という。そこに自証というものがでてくるのである。これが仏教における行き方である。

 仏教以外の普通の行き方では、色々な課題即ち大きくは社会問題、国と国との問題即ち世界的な問題、小さくは家庭の問題、愛情、職場の問題などについて、どういうふうに取り組んでいくかというと、先ず自分の理性をしっかりとうち立てて、その問題について原因と経過、そしてどのような結果が出るかを追求する。そしてトラブルの原因を無くすることにより解決しようとする。つまり問題を分析して、その中から取り除くべきものは除き、加えるものは加えて、問題の解決に努力するというのが普通の行き方である。
 仏法はどういうのか。仏法は違う。仏法は自己自身を追求せよという。問題は内にあるんだという。ここが仏法の大きく違う行き方ですね。で、これが消極的と言われ、具体性を持たぬ、抽象的な行き方と言われ、観念的と言われて誤解されてきたのである。しかし今やこの行き方しかない。全世界にこの行き方しか残っていない。問題を外に見る行き方は行き詰っている。三千年間やってきて何も解決しなかった。現在の時勢にみるように、いわゆる超大国というものが対立して、事実上世界を牛耳っている。もしそれらがぶつかったら全世界は破滅するという状況になっている。一時的に今は平和が保たれてはいるが、どうなるかわからない。
 昭和十六年の終りのことである。日本はやってゆけなくなった。何故かというと。アメリカ、イギリス、中国、オランダなどが日本に油を売らぬという。あげくの果ては鉄屑も売らないという。どうしようもない。このままではジリ貧である。これを解決する方法は一つしかない。戦争だ、やっつけろ、という結論を出した。外の障害を分析してそれを解決する行き方で、結論は戦争ときまった。そして最後は無条件降伏に追い込まれるような負け戦になって、かえって前よりもずっとずっと悪い結末に落ち込んでしまった。
 今や、やってみるべき道は一つしかない。仏法の道しか残っていない。それは我々自体を問題にしてみよう。外の問題を理性中心に考えるのでなしに、その理性の根源にあるものを考えよう。理性というものは本当に正しいのか。この理性の根源にあるものを追求する行き方を内観という。内を考えて遂に人間の根源を明らかにする。そこに根本的な解決があるのではないか。
 根源とは何か。根本である。人間を支えているものといってもいい。人間を人間として成り立たせるものといってもいい。もしこれに触れ得ると、この根源からの喚びかけというものを知るのである。その時に私自身が外の問題にぶつかっていく心根、姿勢というものが全く変ってくる。そして外の問題に本当に取り組むことが出来る。たとい外の世界は行き詰っても決して絶望しない。又、世界がどんなに平和になっても決して安心しない。この現在の世界を結論としないで、世界を縁として自分自身を追求して根源というものを知る。根源とは我々を支えているものであり、これによって我々が成り立っている。これを明らかにする時に、外の問題に取り組むその取り細み方が違ってくるのである。これを一口でいうと、友よということになろう。ドイツ語でいうとDuという。Du!とよびかけるものを持つ。問題を外に見る取り組み方をEs化という。物質化しているという。物質化とは、血も涙もない立場で考えている。その心の中は、自分が幸せでなければならない、私が困るような事になってはいけないという深いエゴの立場に立っているのである。結局あなたがうまくやってくれなければ私が困るという立場に立っている。これが理性中心の行き方であり、今までの取り組み方である。そうではなしに、友よ!、Du!というよびかけがでてくるのである。そこに問題に取り組む姿勢の転換がある。
 私は色々な人に接する。この間、八月末に九州で三日間の会を開きました。その時に一人のおじいさんが来て、二泊三日泊り込みで聞いてくれた。その人が最後の座談会の時に言われた。自分には息子が一人いて嫁が欲しいという。どんな女性かというと、相手は彼よりも年上でバーに勤めている。そういう人を貰わなくてもいいではないかというけれども、どうしてもその人と結婚するという。私はどうしても賛成する気になれない。どうしたらよかろうかと思って、この会に来て三日間考えた。そしてその人を嫁に貰おうと思いました。その嫁が来たら友よ!というよびかけでもってやっていきたいという決心がつきました。と、おじいさんは言いました。これには皆非常に感銘しました。友よというよびかけがなければ「けしからんことだ、こんな女ではいけない」と言わなきゃならん。我々は自分の理性や体験を元にして、結局利害打算で、血も涙もない立場で終ってゆくのであるが、友よ!ということになって変ってきた。今はこのたった一つの行き方しか残っていないのである。
 自己の根源に至る至り方は自分の理性、自分の体験、自分の考えを原点においていく行き方ではない。これが法然の仰せです。これがよき師よき友の仰せである。そこには私が正しい心をふるい起こし、正しい行いをやっていこうという行き方を捨てよといわれるとても厳しい言葉がある。これを浄土門という。浄土門に立てといわれる。
 浄土門とは何か。深い深いわれらの根源から喚んでいるものがある。これを本願という。本願の教を聞きなさい、これが私における廃立である。よき師よき友について前進して行く者は、この廃立がなければならない。その一番初めが本願の教を聞けということである。本願の教を聞いて、友よ!というよびかけを持っていこう。そこに捨てねばならないものがある。捨てるということは廻心である。私における転回である。自分の持っておったものを投げ捨てる、それには先ず深い決断を要する。「浄土門のうち、雑行を捨てて正行をとれ」という。正行とは、弥陀の本願をしっかり頂いていきなさい、弥陀以外を全部捨てて、弥陀一仏に集中していこうという。従って仏教には深い決断と根性がいる。先ずバックボーンがしっかりせねばいかん。聞いて考えるというバックボーンである。そして捨てるべきものを捨てるというものが要るのである。

(ハ)念仏一つと決心する
 南無阿弥陀仏、弥陀の本願、念仏一つと決定する。それを就人立信という。念仏一つという教に帰着する。なぜそういうことができるか。それは自己を知るという一点から生まれる。自己を知るには、私が何者であるかがわかるということです。私は何者であろう。『涅槃経』の現病品に難治の三病ということが出ている。この世の中に治らない三つの病気があるという。また難化の三機ともいう。教えても教えてもわからない、教化できない人がいるという。一つは謗法、仏法の悪口を言う。仏法なんか役に立つものか、仏なんてあるものかという。次を五逆という。恩知らずはどうしようもない。も一つを一闡提という。全くやる気のない人である。このような人には教はどうしても届かない。それを死ぬしかない病気にたとえられる。
 はじめこれらは他人のことだと思う。なぜかというと、こうして今仏法を聞いている自分は、以前はともかく今は聞いてみようという気になっている。従って謗法とは他人のことである。私と関係ないと思う。が、そうではないのですよ。なる程口では言わぬ、心でも謗法は思わぬ、が、実際の行動はどうかというと、生活の中では全く仏法を無視している。言葉には出さぬ、心では思わぬが、実際の行動は自分の体験や自分の考え、自分の理屈中心でやっている。仏とも法とも思わず全く仏法を無視して生きている。それを深い深い謗法という。
 また五逆という。反逆である。強い強い反発を持っている。人間は父、母、師、友、仏の五つに対して強い強い反発を持っている。小さい時は別だがだんだん大きくなると、自分を本当の意味で大きくしてくれた人、それは身体からいうと父母であり、心の方からいうと師や友であるが、そういう人に強く反発し、近づこうとしない。これを恩知らずという。
 更に一闡提という。一闡提とはサンスクリットで、断善根という。これは根腐れ病である。煎った大豆を播いても芽の出ようがない。これを断善根という。やる気のない人のことである。これらを難治の三病、難化の三機という。
 難化の三機、難治の三病とは他人のことであろうか。人ごとでなくもし自分のことであるならば、こういう存在に何が可能であろうか。そういう存在にたった一つ届くものは、念仏申せ、南無阿弥陀仏という喚びかけである。それがよき師よき友の教である。釈尊の教であり、浄土門の教である。私というものがわかった時にそれが届く。即ちそれを就人立信という。よき人に就いて本当に深い信というものが生まれてくるという。
 自分というものがわからないと仏法はわからない。ソクラテスは「汝自身を知れ」という神の言葉を深く戴いて、自らが何であるかということを究めた。汝自身を知れ、自分が何であるかがわかること。これが就人立信の鍵である。そこに自証ということが生まれてくる。

推求(すいぐ)

 どうしたら自証が生まれ得るかということについて、就人立信ともう一つ推求という問題があろう。推はおしはかる、求は求める、追求する。就人立信とは教を聞いて念仏、本願を聞きぬくということを教えられたのである。そして遂に親鸞においては「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と、師法然の教を戴きぬいたのである。これが「親鸞におきては、よきひとの仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」である。これは深い就人立信をあらわす。それは頭からそれを信じ込んだのとは違う。推求である。
 『涅槃経』に「信に二種あり、一つには信、二つには求なり。かくの如きの人、また信ありといえども推求するあたわず。この故に名づけて信不具足となす」とある。信とは、よき師よき友の仰せを聞いて信ずる、即ち就人立信である。しかしながら自証、本当にまことに触れるということは、よき人の仰せをただ信ずるというだけでない。推求するのでなければいけない。それが本当の立信である。
 推求とは私の現実に取り組むということである。私の現実に取り組むとは何か。親鸞聖人で申すならば、三十五才で越後に流されなさった。それまで法然の教をしっかり聞いておられた。その中心は「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」である。これはよくわかりなさった。即ち「建仁辛(けんにんかのと)(とり)(れき)」親鸞二十九才、法然にお遇いになった時に「雑行を棄てて本願に帰す」とあって、この仰せを頂いて深い世界に出られた。けれどもそこで留まるならば、更に深い本当の展開というものはなかったであろう。しかし三十五才で流罪にあいなさった。その越後の国で起ってきたものは、時の政府に対する激しい憤りと、比叡山の悪僧達に対する深い憤慨であったろう。流し人としての苦しみの中でそれらを強く批判されたに違いない。「おのれ憎い悪僧ども」という思いが出たに違いない。怒り腹立ちが出たに違いない。それが現実です。その現実の中でどう生きていけばいいのか。法然上人はおっしゃった。「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と。この私の現実の中で「ただ念仏して」とは一体何であるのか、これを明らかにする。それを推求という。現実に取り組むという。現実に取り組むとどうなるか。これが大変な転換である。現実と取り組んではじめて宿業というものを知る。宿業の身と知る時に「ただ念仏して」ということの意味が本当に深くわかるのでございます。
 宿業とはこの現実が私の取り組まねばならぬものとわかる。我々は現実に取り組みたくないのであり、また取り組む力もない。それに反発し文句ばかりを言っているのである。しかし今それに取り組む力と姿勢を与えられた時に、宿業の身とわかるのである。
 宿業の身とは、こういう問題を持った私こそ「たすけんと思召したちける本願」の対象と知る。そこに本願のかたじけなさを知るのである。この現実こそ私のための念仏、この現実を念仏と頂くとき、それを背負うといい、これを私の問題として取り組むという。このような私こそが本願のおめあてであった。これを宿業の身と知るという。この時初めて、大慈大悲はずっとずっと私に注がれておったとわかる。大悲は私の現実を通して私に喚びかけて下さっている。これが明らかになることを推求という。それがないと信にならない。自証というものにならない。

2 教証(就行立信)

 就行立信とは何か。人の背後には長い長いつながり、深い深い過去がある。よき人には彼をよき人たらしめたよき人があり、そのよき人をよき人たらしめた奥のよき人があり、その背後にはずっと続いて遂にその根源に釈尊があり、更に弥陀の本願がある。その本願の展開がよき人を生んできた。そして私にまできているのである。この深い深いつながりを伝承の歴史という。その伝承の歴史が私に拝まれるとき、それを伝承の発見という。そこに人はまことというものにふれるのである。就行というのは、人間の思いをはなれた大きなものの働きかけ、これを大行という。本願の名号といいますが、本願の働きかけを行といいます。実際は南無阿弥陀仏です。南無と私に働きかけ、南無と私に叫んで大いなる世界に出でよと喚ぶもの、それを行という。本願の名号という。この名告りに触れることを就行という。
 南無とは、帰れ、共にあれとわれを喚ぶもの、その歴史、つながり、伝承の尖端に私が触れる。人は何らのバックをも持たずに行動することはできない。バックが要るのである。外国へ行くには旅券を持って行く。パスポートには日本国と書いてある。日本国をバックとして外国にも出かけるのであります。大きな大きな本願の歴史、それはいわば流れである。流れに立つ、それを就行といいます。よき師よき友におあいしたのは偶然ではない。大きな流れの必然の力である。就行立信の具体相が就人立信である。

 一河の流れに立つということは、一河の流れに預からしめられるのである。その時我々に力が与えられる。名もない道端の小草も大自然というバックを持っている。だからこそそこに命があるのである。大きな背景を持っているから命がある。そこから「頑張らなくちゃ」「しっかり花を咲かせよう」ということがでてくる。「やらねばならない」ということがでてくる。これを報恩行という。

 就行立信とは行に就いて信を立つ、即ち伝承の流れに立つことをいう。就人立信、就行立信と二つに言ったが、本当は一つである。よき師よき友を持つことが伝承に遇うということである。善導大師も弥陀の本願によって生きて行かれた。法然も本願に生きぬきなさった。龍樹も天親もすべて本願によって生きるしかなかったのである。こういうことがわかってくることを伝承の発見という。よき師も、学歴によらず才能によらず、ただ一つ本願を聞きひらいて生きぬかれたのだということがわかるとき、私もまた同じ流れの中に立って喜ばずにはいられない。そこに動かすことのできない確信があって、「親鸞がまをす旨またもて虚しかるべからず候か」となる。柔らかいやさしい表現です。「私の申すことも真実ではありますまいか」ということですね。自証と教証の二つの上に立つということが、この確信の根拠であります。
 先に申すように、常陸の国、今の茨城県を中心とした関東の人達は、長い間仏法を聞いておりながら最後に信心の動揺をきたした。その人々と親鸞聖人とどこが違うのかというと、共によき師を得て聞法したというのは同じであったが、それがこの人達の自証にならなかった。それは推求という一点が欠けたためであるといえよう。また、就行立信というところまで行かなかった。即ち深い背景の発見ができなかった。こういうところにその違いがあるということができる。
 「この上は念仏をとりて信じたてまつらんともまた捨てんとも面々の御計なり」
 「私の申しあげることはこの通りである。この上はあなた方が念仏をとって信じなさろうと、また捨てて顧みなさるまいと、各々お一人お一人のお考え次第でございます。あなた方の自由でございます」。これが最後の言葉ですね。


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