十二、釈尊(仏説)-善導(御釈)-法然(仰せ)の関連

『歎異抄講読(第二章について)』細川巌師述 より

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 「仏説まことにおわしまさば善導の御釈虚言したまふべからず、善導の御釈まことならば法然の仰せそらごとならんや」という釈尊(仏説)と善導の御釈と法然の仰せとの関連は何か、具体的に何か一筋のものがあるのかという問題であります。これについて曾我量深先生は、その著書『歎異抄聴記』の中で、こう言っておられます。

 「釈尊の説教虚言なるべからず」とあるが、釈尊の説教は八万四干の経典がある。今、どれを言っておられるのかいうと、それは本願成就文である。又、特に『観経』の下下品である。即ち一生造悪の者が最後に善知識の仰せに従って念仏申して救われていくというところを、「釈尊の説教虚言なるべからず」という。
 善導の御釈とは何か。『観経疏』の中に述べられている二種深信(自覚の内容)。これは「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」とあり、自身に対するめざめを述べられた。そこを言っておられるのである。
 更に法然の仰せとは、『選択集』の教である。「生死の家には疑いを以て所止となす」と、信心というものを説かれる。これが三者共に一貫しているのだ。

 曾我先生は先年亡くなられましたが、いわば国宝級の人であり、尊い教をたくさん残されています。しかし、私は少し違った考えをもっていますので申しておきます。大変驕慢(きょうまん)なことになりますが。

 【曾我先生】

  • 釈尊の説教
     本願成就文
     (諸有衆生 聞其名号 信心歓喜)
     『観経』の下下品(一生造悪)
  • 善導の御釈
      二種深信(自覚の内容)
  • 法然の仰せ
     『選択集』(信)

 【細川】

  • 左に同じ

 

  • 一心専念弥陀名号(正定業)

  • 『歎異抄』の中の
     「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」

 上表のように釈尊の説教については同じ。善導の御釈というのは『観経疏』の中、一心専念弥陀名号というお言葉である。「時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、是を正定之業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という。「一心専念弥陀名号、これを正定の業と名づく」というこのお言葉こそ「善導の御釈」であろうと思うのであります。なぜかというと、「法然の仰せそらごとならんや」とあるのは、文のつながりから思うと『選択集』の法然の仰せというような漠たるものでなしに「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」ということこそ法然の仰せである。「ただ念仏して」という仰せが釈尊から善導、善導から法然と伝わって「法然の仰せそらごとならんや」とあるわけである。そうでないと漠然としたものになって、第二章の最後をしめくくるお言葉にならない。
 このように私は思うのです。曾我先生が生きていられたら「この方がよかったのう」といわれるのではないかと思います。何びともそれぞれ領解がある。私の領解も聞いて頂きたいと思って出しました。
 「法然の仰せそらごとならんや」というのが結論なのである。法然の仰せは「親鸞におきてはただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」というよき人の仰せであって、これが正しいということを言っているのである。従ってここでは『選択集』でなしに「ただ念仏して」でなくてはならない。それを裏づける善導の御釈というものは二種深信、或いは自覚というものでなしに、「一心専念弥陀名号」が「仏願に順じ」て「正定之業」なのである。この善導の御釈が法然のお言葉の裏づけでなければならない。その方が筋が通っているというのが私の考え方です。その根本となるのは本願成就文であり、また『観経』の下下品といってもいい。このようなつながりになるのであると思います。

 次に本願成就ということについて少し申しておきます。
 先ず仏法とは何か。仏法とは一口でいうならば、私という人間が本当に人間形成をとげていく道である。私の生活(生と活)の成就ということである。成就とは成しとげる、果たしとげるということです。
 生と活とは何か。我々が生きているのを活といい、その底にあるものを生という。かねて言うように活とは、色々な職業を持ち、色々なポジションにおいて食べていき、この世を過していくことをいう。子供の時は学校に行く、大きくなったら就職し結婚し子供を育てていく、こういうことが活である。我々がやらねばならんこの世の仕事は活である。活だけを人生と思っているが、そうではない。人間にはもう一つ問題がある。それを生というのである。
 生とは何か。一つは生まれるということ。生まれるとは、我々がこの世に出てきたのは第一の誕生である。ちょうど親木から生まれたドングリは固い固い殻の中に入っていて、その中に小さな胚芽を持っているというようなものである。この世に生まれてきたけれど殻を持っている。その殼から出て発芽していく、それが生という問題である。食べて生きていればいいのではない。も一つ生ということがある。殻の中から生まれ出るという問題が残っている。その証拠に活が非常にうまくいって、いい職業に就いて、いい人と結婚して立派な家庭を持った家もある。とんとん拍子でうまくいっていても「君はそれでよいのか」という問いを出してみると、「これでいいんだ」といえない。なぜかというと、生の問題が解決しないからである。もしこれが解決したら、たとい自分は着のみ着のままでベッドに横たわっていても、そのような活であろうとも「有難うございました。私はよかった」と言えるものがあります。
 も一つ生きるということがある。殻を破って発芽ができたならば、そこから生きるということが成り立つ。即ち一歩一歩前進成長していくということが成り立って、一本の木になるのである。仏教はこれを往生という。後生、往生といってきた。さらに親鸞聖人はも一つ、生ということをいう時に、成るということを言われた。『教行信証』の信巻の欲生釈というところに出てくる。そこに生とは成ることという釈を出される。それが、ドングリが本当にドングリになったんだ。なるべきものになったんだ。これを生という。
 仏法は何を教えているのかというと、我々は活だけに執われているが、それが本当の生き方でなしに、我々は本当に我々にならねばならない。私が本当に私になるということを教えている。これを殼を破って出てくるというのである。
 この生こそ、仏法の中心問題である。それなら生だけか、活はどうでもいいのかというとそうではない。生が成り立ってはじめて活の意味が出てくる。就職して結婚して子供が出来て……というだけなら、最後は空しい。なぜ私はこの人生を生きぬいていかねばならないのかということが明らかになってはじめて活の意味が出てくるのである。それは私が私になるためであり、も一つは私の今日をあらしめる御恩に報いるためである。報恩の行として私のなさねばならないことがあるのである。それが私の生活の中心になると、そこに生きる意味が出てくる。本当に殻が破れたら我々は報いねばならないもの、しなければならない事があるのである。それを恩に報いるという報恩行という。

 そういう仏教が成り立つのにはどうしたらよいか。私はどうして殻を破って出ることができるか。それを本願成就と申すのである。これが『大無量寿経』の教である。釈尊、善導、法然と一貫して選びとられてきた道を本願成就という。これを諸有衆生、聞其名号(其…よき師よき友、名号…南無阿弥陀仏、聞…聞きぬく)、信心歓喜という。諸有衆生が、その名号を聞きぬいて信心歓喜する。これを殻を破って大きな世界に生きるという。それが道である。
 殻を破る道は何か。一つは水を吸収せねばいけない。よき師よき友という。よき師よき友に接触して水を吸収する。更に光を吸収せねばならない。これを聞其名号という。名号の教である。
 名号とは何か、名とは名告りという。大いなる。ものの私に対する喚びかけである。南無と喚びかける私に南無せよという喚びかけ。キリスト教は「ヨハネ伝」において「はじめにコトバがあった」という。それを仏教ではよびかけという。「南無」と私に名のる名告りがあった。号とは何か。語源辞典を引いてみると、「口」は「くち」と書いてある。「丂」は「あふれる」という意味。内なる思い、仏の内なる思い、大慈大悲の思いが口からあふれ出てくる。それを号という。内なる思いが口をついてあふれ出してきて、「南無」と私に喚びかけざるを得なかった。それを名号という。教という。それをよき師よき友を通して聞きぬく。そこにはじめて生きるということが成り立つのである。これを本願成就という。
 「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」とはどういうことかというと「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜」という本願成就の道をひたすらに歩んでいくことである。それを聞きぬくという。
 最後に一つ(たとえ)をあげておきます。織物がある。織物を織るにはたて糸をしっかり張らねばならない。昔は手織りといって、各家ではた織りをした。後に機械織りになってすたれましたが、原理は同じである。はた織りというのはしっかりたて糸を張る。たて糸は大夫で絶対切れてはならん。ゆるんでもいかん。そのたて糸を経と申します。しかしたて糸だけでは織物にならない。横糸を織り込まねばならん。それを緯と申します。経と緯がなければならない。はた織りというのは、たて糸をしっかり張って横糸を織り込んでいく織物である。
 ドングリが発芽して一本の木になっていくことがどうしてできるか。それを織物に譬えるならば、たて糸と横糸がなければならない。そのたて糸とは何か。それは聞其名号ということであろう。よき人の仰せを被りて聞き貫いていくということである。これが切れてはならない、ゆるんではならない、曲ってはならないたて糸でありましょう。しかしながらこれに横糸が織り込まれねばならない。その横糸は何であろう。何と思いますか。それは諸有衆生であろう。諸有とは迷いに満ちた私、その私自身へのめざめを、諸有衆生われと申します。私に深く目がさめて、たて糸の中にその自覚が織り込まれていく時に、諸有衆生、聞其名号、信心歓喜となる。
 しかるに諸有衆生と私をめざめしめるもの、罪悪深重の私とめざめしめるものは何か。それはただ一つ現実である。現前の事実、動かせない私の前なる事実である。聞其名号のたて糸の中に、私の現実という横糸を織り込んでいく時に、仏道成就という織物ができるのである。ここに私の人生が成就するということがあるのであります。
 私自身が何であるか、私の何たるかを知らしめるものがなければ仏法にならない。その意味では人生体験の浅い青年期には、深い仏道成就ということは困難であろう。けれども人は遅かれ早かれ厳しい人生の現実にぶつかっていく。それは愛情の破綻であり、人間関係のもつれであり、願いごとかなわずという事実であり、その他色々なことが出てくる。その現実にぶつかってそれを受けとめる時、私の横糸がはじめてできるのである。
 釈尊、善導、法然を通ずる教の要は何か。それは本願成就ということにある。よき人の教を一生聞きぬく。そのたて糸の中に諸有衆生とめざめて念仏申すということが成り立って、そこに生まれてくるものが「別の子細なきなり」であり「法然の仰せそらごとならんや」である。親鸞のお心は、(おぼ)れる者は(わら)をも(つか)むというのではない。そこに動かせない仏道の鉄則、生き方があるのだ、伝承があるのだということを申しておられるのでございます。
 『歎異抄』第二章は、『歎異抄』全体の中でも特色のある章です。他の章は日頃、親鸞聖人が言っておられたことを唯円という人が書いたものと言われております。これに対して第二章は、関東の国からはるばる訪ねて来た何人かの人達に対する答が述べられている。そこに一回性という特色がある。一回性というのは、日頃のお考えがあとにもさきにもないただ一度の現実にぶつかって現れ出たものです。そこに生き生きとした聖人のお姿がうかがわれます。そのお答の最後に近いところで「法然の仰せまことならば親鸞がまをす旨またもて虚しかるべからず候か」といわれている。
 これまでは「仏説まことにおわしまさば」といい、「善導の御釈まことならば」といい「法然の仰せそらごとならんや」と言っておられますが、自分のことを言われる場合は「親鸞がまをす旨またもて虚しかるべからず候か」と非常にひかえ目である。むなしいとは虚という、その内容が空っぽであるという意味です。親鸞が申すこともまた、本当でないことがあろうかという、軟かい表現で言ってある。


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