十、善導の御釈

『歎異抄講読(第二章について)』細川巌師述 より

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 伝承の中に、ここでは善導という人を出されている。今「善導の御釈」という。善導とは中国の唐の時代、今から千四百年前の人で、『観無量寿経疏』(略して『観経疏』という)、即ち『観無量寿経』の註釈を出された。それを善導の御釈と申します。そこに仏説、即ち真実の教が伝わって、善導の御釈を生んだということを述べてある。
 伝承は発揮である。発揮とは各説発揮という。その人独特のものである。ただ受け継いだというものではなく、その時代の要求、時代の課題に答えるものである。そして自分自身の言葉で述べられたものである。これを伝承と申します。伝承とは、ただ水が(とい)を伝って流れてきたというものではない。電流が電線の中を伝ってきたという表現だけでは言い尽せぬものがある。それを各説発揮という。今、善導大師の「時代の問題」は何かというと、別時意説というものである。
 別時意とは即時(すぐその時)に非ず、という。別の時であるという。念仏を申す者は必ず助かる、悩みを打ち砕かれて大きな天地に出されて往生を遂げていく。そういう事は念仏申したその時にできるのでなく、別の時になるんだ。ずっとずっと後でないと往生はできない。即得往生ではない。念仏はちょうど千金銭を積むための一金銭であって、それを申したからといってすぐ千金銭になるのではない。それは千金銭のための一資糧である。往生を遂げるのは別の時である。こういう論が出てきたわけである。
 それは仏教の専門家の中から出てきた。そのために中国で念仏申す人がガタッと減って、百年間念仏が地に堕ちたといわれる。この別時意説に対する善導の反論が、善導の一つの大きな事業である。
 別時意説は摂論派の人達によってとなえられた。摂論学派ともいい、新進気鋭の人達が集まって非常に盛んになった派で、後に摂論宗といった。その依りどころは無着菩薩の書いた『摂大乗論』三巻、これをその弟の天親菩薩が解釈した『摂大乗論釈』十五巻である。前者を本論といい、後者を末論という。無着、天親、共に龍樹の後を背負って立った印度の大乗仏教の大黒柱で、この人達が唯識という立場に立って大乗仏教をまとめた。その概論が『摂大乗論』で、これを詳しく解釈したのが『摂大乗論釈』である。
 この中に出ているのが別時意である。無着菩薩は言われた。釈尊の説法の中に方便の説がある。それは怠けている者や、やる気をなくしている者にやる気を起こさせるために、今すぐにはできないが今すぐできるかのように説く。それを方便といい、その一つが別時意というものである。この別時意の中に、一行別時意、唯願別時意がある。一行別時意とは、仏法を本当に究めていこうとするならば万行を修せねばならない。たくさんたくさんの行を積んではじめて覚りが開かれる。仏名を称する(称名)という一行をもって仏になるというのは、実際は千金銭の中の一金銭にすぎない。従って、すぐにはなれないのにすぐに往生できるように説かれているのは、怠け心の者をふるい立たせて、やる気を起させる方便の策である。これを一行別時意という。また、唯願別時意というのは、仏教は願行具足である。即ち菩提心を生じて行を起す、願と行とが備わらなければ成就しない。願は願いであり行は実践である。今、南無阿弥陀仏とたのむ願だけでは往生できない。これをできるかのように言ってあるのは、それは方便の説であって、千金の中の一金の如しと説いている。
 この『摂大乗論釈』は、つぶさに見ると南無阿弥陀仏について言っているのではない。多宝仏という仏様のみ名を称するということを例にあげる。しかし摂論学派の人達は南無阿弥陀仏もそれと同じだとして、これを批判攻撃のよりどころにした。念仏とは方便であり別時意である。千金銭の中の一金銭である。そんなものをやってもすぐに往生できるのではない。仏教はやはり資糧位、加行位、通達位と進むもの、或いは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧というように、六度の行はやらなければいかん、一行だけではつまらんと説いた。このために百年間にわたって念仏申す者が少なくなった。ものすごいショックを与えたわけです。懐感という人の『群疑論』という中にそう書いてあるそうです。専門家の言というのは実に影響が大きい。何しろそれを専門にしている人達の言である。まじめな専門家が経典を明らかにして言ったことは大きな力を持つ。従って『群疑論』の記述のように、大きな影響を与えたことでありましょう。
 しかし布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という六度の行ということが皆に出来るか。出家でも実際には出来ない、まして庶民に出来るわけがない。出来なければ庶民にとって仏法は不可能ということになる。庶民に届く仏教はないのか。庶民が助かっていく仏法はないのか。これはまさに時代の課題である。それに答えたのが道綽であり善導である。そこに仏法の伝承がある。伝承には必ず時代の課題を問題として、これを明らかに解くというものを持っているのであります。

 現代の課題は何か。色々と言えるのであろうが、一つは愛ということであると思う。それゆえ愛という問題は色々な人によって取り上げられている。エーリツヒ・フロムによると、愛こそ人間実存の問題解決の解答であると言っている。現代という時代の中で人々は孤立している。この孤立をどうすればよいのか。人間は孤立ではやっていけない。孤立ではなしに全体に結びついて、手を取り合っていくということがなければいけない。しかしそれは実際にはできがたい。それ故人は孤立をいやすために色々なものでまぎらかそうとしている。
 暴走族というのがある。東京の方にもあるようだが九州でもひどいですね。どんな人が暴走しているのかというと、二十才前後の若者です。高校生とか中学を出ただけとか、大学生とか理髪の職人とか色々な人がいる。彼等は深い孤立感を持っている。孤立感は深い不安感であり、劣等感である。それを何かでまぎらかそうとする。この実存の問題を本当に解決するのは、愛である。愛するということである。しかしこれが一時的なものでなく、また淋しさをまぎらわすための愛でなしに、愛しぬく、愛し続けるという真の愛情、それを成立させることが現代の課題の一つでありましょう。
 更に性の問題、これも現代の深刻な問題である。日本だけでなく全世界の問題である。何びとがこれに答え得るか。現代はこれに充分答え得る人がないのかも知れない。課題というのは我々が取り組み答えねばならない問題です。私は、浄土真宗というのはそれに答え得ると思うのです。今年の五月に広島で青年部会がありました。その時、愛ということだけ答えてみたのであります。

 も一つは正と邪、善と悪という問題。正とは何か、邪とは何か。本当の善とは何か。これらは全世界的な問題であり、いわば永遠の問題であるといってもいいと思う。こういう問題に答える者がなければならない。つぶさに聖人の仰せを頂いていくならば、それがよく答えられている。『歎異抄』第四章に、愛ということについてふれてある。性については『教行信証』に愛欲という文字がある。正邪善悪については『歎異抄』全体についてふれてある。即ち「本願を信ぜんには他の善も要にあらず、悪をもおそるべからず」とある。また後序の方にも出てきます。これらはしかし現代の時点でまた新しく論ぜられなければならない問題である。それが各説発揮です。
 真実は必ず伝承される。しかし前にも申したように、ただ受け継いだというのではない。各時代における難題に答えたものである。その一つが善導の『観経疏』である。善導大師は別時意説に答えた。それが六字釈である。南無阿弥陀仏の六字、南無は願であり、阿弥陀仏は行であって、念仏は願行具足である。これが『観経疏』の始めに出てくる。南無阿弥陀仏に願行具足していることを明らかにして、唯願別時意というものを打ち砕いたのであります。
 願とは願い、大いなるものの願いであり、私に南無と喚びかける。これが私に届いて南無と、私の願いとなる。行とは大いなるものの働きかけ、即ち弘誓の大船といわれる阿弥陀仏(大いなる救済能力)が私を乗せて必ず渡すということを申しましたのが六字釈であります。「仏説まことにおわします」ということが龍樹、天親、曇鸞という人達を生み出し、善導という人を生み出した。この各説発揮を伝承というのである。
 も一度前にかえって、この善導という人はどうして生まれたか。それは師道綽によるのである。別時意説に対する反論も先に道綽禅師の『安楽集』にある。『安楽集』を戴きますと、道綽が別時意に答えられている。その心を更に発展したのが善導であって、すでに師の説かれてあったものを、更に徹底して説き開かれたのである。

 こういう言葉がある。「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(『蓮如上人御一代記聞書』)。師道綽によって生まれた善導大師は道綽禅師の遺弟である。専修正行とは浄土真宗、本願念仏の道である。その道が栄え(しげ)るのは、残された者の念力から生まれるのである。次なる者次なる者が後を継いで、その念力から生まれるのである。念力とは何かというと、憶念の力、億念の働きである。信心の働きである。信心は菩提心です。憶念も信心の働きも菩提心の働きをいう。菩提心とは仏心、無量寿の御心。その菩提心が流れてくると「たとい近江の湖を一人して埋めよと仰せられ候ふとも(かしこま)りたると申すべく候」となる。たった一人で琵琶湖を埋めよといわれても、かしこまりましたといって埋め始めるというたとえです。このたとえもかなり大きいたとえですが、『大無量寿経』のたとえはまた大きい。法蔵菩薩が四十八願を立てて一切の人を救おうと願う。その時に世自在王仏がそれを褒めなさる。それは必ず成就するぞと言って褒めなさる。「たとえば大きな大きな海をたった一人で、一升ますをもって一杯ずつ汲み出していく。こうして長い時間続けたら必ずその海を干すことが出来る。そしてその底にある宝を手に入れることが出来るであろう」といって()めなさるのです。我々はそういうことをいって褒められたら目を白黒させて、褒められたのやらくさされたのやらわからんと思う。しかし、菩提心というものはそのようなものです。大きな海を一升ますで汲み出してゆくというような、一見不可能なことをしかもやりぬく力である。これを念力という。念力とは信心、憶念の力である。何を憶念しているのかというと、私の上に届いて下さる大きな大きな働き、長い長い御苦労の歴史を憶うのである。その時その御恩を知り、徳に報いたい、どうしてもそれに報いねばならん。刀折れ矢尽きようとも、いやいや尽き果てた後々までも必ず報いねばならんというものが生まれてくる。出来ないなんてことは毛頭考えないのです。
 これは私のことになりますが。私は人からかなり信用されない面があります。それは前以て色々なことをいう、それがどうも信用されない。「ここに会館を建てる」という。その土地を見れば小高い山である。大きな木が茂って開墾するのは大変である。で、ここに会館を建てるというと、誇大妄想のたぐいであると人々は思う。この前「幼稚園を建てたい」と言ったら、これも人が信用しない。しかしこれもすでに建ちました。今度はまた言った。「何とかプールを作ろう。小さい子供の時からプールに入れて鍛えた方がいいぞ。私も運動に毎朝泳ぐとしよう。それには二十米位はなくちゃいかんな。夏冬ともに泳げるように温水プールにしよう」などと言ったら、人が「また始まった」といって信用してくれない。が、とにかく作りたい。始めから温水プールというわけにはいかんから、先ず普通のプールにしておいて、次に温水にしようと思っています。「お前出来るのか」といわれると、それは必ず出来ると答える。いつ出来るかと聞かれるとちょっと困る。少し時間がかかるかも知れない。だが出来るのです。なぜ出来るかというと、でかさずにはおくものかというものがある。それは意地でも何でもない。そうしようと考えているのである。その時、さきのたとえは非常に助けになる。なる程、大きな海を一升ますで汲んでいくと水は無くなってしまう。いいたとえだなあと思って嬉しくなる。続けてやりさえすれば出来るんだということを仏様はいいなさったのです。
 要するに、出来るからやるのではない。出来ないからやらないのではない。出来るとか出来ないとかがないのである。出来るからやるというのもそろばん。出来ないからやめるというのもそろばん。そのそろばんをはずしてしまった。菩提心とはそういうものである。全然そろばんがない。そろばんがなければムチャクチャかというとそうではない。順序次第や内容はいつも考えているのです。その根本は恩に報い徳に報いねばならん、その恩に何としてでも報いねばならんというものがあって、それを遺弟の念力というのです。
 善導が時代を負って別時意というものを打ち砕くのも、よき師道綽の心を戴いて何としてでも自分がやらねばならないというものを感じとったからである。これは善導だけではない。その善導に続く人、そして末代の我々までもそういうものを持つようになるのである。それが伝承というものであり、その伝承がまた次なるものを必ず生むようになっている。そういうふうにして次々と生まれてきて、最後に法然という人がある。法然上人は弥陀の本願の伝承から生まれたものである。従って「親鸞が申す旨またもて虚しかるべからず候か」。そこに断乎として動かすことの出来ない確信があるわけであります。
 それを就行立信、行に就いて信を立つと申します。就人立信だけではない。必ず伝承というものを持たねばならない。伝承はただ受け継ぐというのではない、必ず知恩報徳である。従って、決して揺がないのである。
 『歎異抄』第二章は、関東からはるばる京都の親鸞聖人を訪ねてみえた何人かのお弟子に対して答えられたお言葉が中心であります。その中で大切なのは「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」というところです。そのあと「たとい法然上人に賺されまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」、「いずれの行も及び難き身なればとても地獄は一定すみかぞかし」とある。軽々しくこれらの言葉を考えると、親鸞は「溺れる者は藁をもつかむ」とか「鰯の頭も信心から」というような気持ちで法然にすがったのではなかろうか。どうせ地獄に堕ちるほかないというのであれば、だまされても同じである。同じことなら法然の仰せにすがっていこう、というような盲目的な気持ちではないだろうかという疑いがありましょう。もしそういうことならば、それは宗教でもなければ信心でもないであろう。
 しかしそのような疑いを打ち砕くものは、最後の「弥陀の本願まことにおわしまさば……」というお言葉です。弥陀の本願-釈尊の説教-善導の御釈-法然の仰せという長い伝承の上に立って「法然の仰せそらごとならんや」と言われている。ここに深い聖人の自覚があらわれている。先には主観的な立場、即ち「よき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」という主観的な表現でありますが、これは客観的なもの即ち伝承の歴史の上に立ち、普遍的なものの上に立ったものである。このことがまた大切なところであります。


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