一、第二章の背景

『歎異抄講読(第二章について)』細川巌師述 より

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 第二章には京都の晩年の親鸞聖人を訪ねてきた何人かの人達を前に語られる聖人のお言葉がのせられている。「おのおの十余箇国の境を越えて」という文章にはじまるこの章には、前置(まえおき)もなければ説明もない中で、きわめて緊迫した厳粛な空気がみなぎっておって、曾我量深先生の書物では「一言一句も聞きもらすまいと全身を耳にして聞いておる姿がよくあらわれている」と書いてあります。まことにそういう気持ちが出ています。この第二章はその席におって、直接に親鸞聖人のお言葉を聞いた人でなければ書けないような趣がありまして、『歎異抄』はこの席に連なった人によって書かれたのであろう、『歎異抄』の著者はこの席に連なっていた人達の一人に違いないと言われておるのであります。
 この第二章の背景、なぜはるばる十余箇国の境を越えて親鸞聖人を訪ねてこなければならない理由があったか、その背景はどういう事であったろうか。従来言われておりますのは、一つは善鸞の異義という。善鸞は親鸞の長男にあたる人であります。聖人が関東を去って京都に帰られた後に御名代として関東の方に派遣されたまだ年若い方のようでございます。しかしながら関東の人達はいくつかのグループに分かれて、それぞれのグループにはリーダーがあって、いわばカッチリ固められていて、若い善鸞が名代として働く余地がなかった。そこで善鸞が皆の気持を引きつける為でありましょう、「皆さんが聞かされておる教は間違っている。自分は直接父の親鸞から深夜ひそかに本当の教を聞いておって、念仏申すだけでなくもう一つ大事なことがある」と言い出したといわれております。その異義が実際にはどういうことであったかは必ずしも明らかではありませんが、とにかくこの善鸞の異義によって関東に残された人達は動揺をきたした。すなわち「自分たちはただ念仏して弥陀に助けられるという教を聞いてきた。けれども、本当にそれ以外に何かあるのか。」と、そういうことが深い動揺をきたした。親鸞聖人の御長男であるから嘘ではあるまい。それにしても我々が信じておったものと違う。こういうことが動揺をもたらしたというのが第一であります。
 第二は日蓮上人の折伏ということです。「四箇格言」といい、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という言葉でございます。念仏あるいは禅、真言、律と申しますのは、当時鎌倉時代の始め天下を風靡していた大きな宗派であります。念仏を申して浄土に往生してゆくという教でありますが日蓮はそれに対して、念仏は往生の行業ではなしに無間地獄に堕ちる行である。禅は天魔の仕業、決して人間が助かっていく道ではないと言い、真言亡国、律国賊という非常に激しい批判を加えて既成教団を攻撃した。ただ大切なものは『法華経』であって、南無妙法蓮華経とお題目をとなえることが本当の仏教の道であることを強調した。それを四箇格言と言い、これをもって日蓮上人は折伏につとめた。これは日蓮上人だけでなく以後ずっと法華宗ではこういうことを申す一面がございます。それが当時の念仏一途に打ちこんでいた人達を揺り動かして深い動揺をきたしたという。そういう事が起って師と頼む聖人は関東にはおられないけれども、京都にはまだ御存命ですからそこへ訪ねて行って本当のおもむき、念仏の道というものの本当の意味を明らかにしたい。善鸞の異義を超え、日蓮の折伏を超えて自分たちの道を明らかにしたいというのが第二章の背景であります。(これについては異論もあります。)

 しかし本当の背景というものは何であろう。それは信心の動揺ということである。信心が動かされたということである。いろいろと外側に問題が起ってきた、その問題によって関東の人々に深い動揺が起ってきた。そこにいわば確信を失ってきた。本当の信念を失ってきたわけであります。
 それではそういう信心の動揺がどうして起るのかというと、それは信の火が小さいからであります。信の火が小さかった。そういうところに根本的な問題がある。
 今、風が吹くとする。その風がろうそくの火なら動かすことができる。ろうそくの火程度の火ならば風が吹いてくるとゆらゆら揺れ、あるいは遂に吹き消されるかも知れない。しかしながら本当に大きな火であるとちがう。火事場のような大きな火であると、同じ風がかえって火を燃えさからせるのであろう。
 外に色々な問題が起る、それはいわば縁である。外に問題が起って内がもたもたする。そのもたもたする原因は外側の問題にあると考える。原因は外にあって、その原因があるからこそ問題が起ってきて信を動揺させたのであると考える。けれどもそうではない。なぜならば、風が原因ならばどの火もすべて吹き消される筈であるが、かえって燃えさかる火がある。風は原因でなしに縁である。その縁が信の動揺をきたすのは信が小さいからである。そこに原因がある。それが大事な問題である。
 大きな火であるならば、風が吹くとかえってその火が大きくなるであろう。いよいよそれによって燃えさかるということがある。信が深いといかなる縁も念仏の縁になる。外の問題が自分の仏道の内容となる。その外の問題のためにかえって内の信が深まってくる。あるいは鋭くなってくる。そういうものこそ本当の信である。それであるのに、そうならないというところが問題なのです。これが第二章の内面的な背景となるものであります。しかしながら、これを他の話として聞くわけにはいかない。われわれも同じく内側に問題があるということを考えなくてはならないことであります。
 私がお育てを被った先生はこう言っておられました。「問題は常にある。問題は常に内にある」と。
 問題は常にあるということですが、どのような家庭でもどのようなグループでも、どのような国家でも、どんなにうまくいっているようなところでも問題は常にあるのでございます。問題が起らないように努力しても、いつでもどこでも問題は起ってくる。人生を生死海と申しますが、これはまことにやむを得ないことなのであります。風が吹けば波が立つ、人生にはどこでも問題は常にある。その時は、問題は風の方にあると考える。風、すなわち外側にあると考え、風さえなければ問題は起らなかったのにと思う。そうではない、問題は常に内にあるのである。海自体に波がおこる因がある。これはなかなかわかりにくい。けれども実に名言である。「問題は常にある。問題は常に内にある。如来寂静の光によって自分の小さな小我というものが照らされてゆくということがなければ、遂に問題の解決はない」というふうにお育てを被ったのであります。
 関東の人達は問題は外にあると考えてきたのである。善鸞さんが言うのは本当か?聖人よあなたは長男の善鸞に本当に新しいことを教えたのか?善鸞の言われたことが正しいかどうかそれを確かめたい。日蓮の言いなさることは本当か、これに対して我々はどうしたらよいのか、そういうことをたずねてきた。しかし問題は内にある。信の火が小さいのである。小さいから、外の縁を自分の仏道の内容として、念仏して受けとめてゆくことができなかった。
 それでは信の火が大きいとはどういうことか。それが不可傾動ということです。どんなことが起ってきてもその人を傾けることができない。どんなことが起ってきても、もはや傾き動かないような信心、それを信の火が大きいという。何も問題が起らないのではない。起るけれどもそれがいわば自分の念仏の内容になる。それがいよいよ自分の信心を深めるものになる。それを不可傾動の人というのである。親鸞聖人は『教行信証』の中で二箇所、不可傾動ということを言われた。共に行巻の中にある。一つは『十住論』を引いて「法を見、法に入り、法を得、法に住して微動すべからず」、こういう表現で出ています。『十住論』の入初地品にある。法は仏、法、僧の三宝の中の法を言っているのであります。具体的には南無阿弥陀仏であります。南無河弥陀仏にあう、あうというのは出遇ったということであります。これを法に遇うという。法とは南無阿弥陀仏、法を説く人それを仏といい、僧とは仏法を実際に生きている人です。南無阿弥陀仏という法(ダールマ)、我々を超えて喚びかけてくるもの、それを体解し説き明かされた初めが釈尊であります。法に出遇うたということは法を説く人に出遇うたことであり、そして更に仏法を本当に生きて実行している人、自分の生活に生きている人、そういうものに出遇うたこと、それを僧伽(サンガといいます。法に入ったということは、それを行ずるということです。仏法僧の三宝に出遇い、自らその道を行ずる人となった。そして法を得る、体得した、法が身についてきた。そしてその中に住する身となった。住するということは、仏、法、僧の三宝の世界に片足をかけているのでなしに、全部入ってしまった。いわゆる安住した。魚が生きているとは魚が水の中にいること、水の中に時々いるのでなく、いつもその中にいるのである。泣く時も笑う時も子供を産む時もいつも水の中にいるのである。それを住するという。そこに不可傾動がある。

 ここにドングリがあるとする。このドングリは初め固い殻の中に包まれている。その中に小さな胚芽を持っている。これが大地の上をころころころがっている間は何ものにも遇うていない。「ドングリころころ」である。そこに太陽の光と水の働きが泌み込んできて、とうとう発芽した、芽を出した。そうすると殻の中ではわからない広い世界がわかった。それが法を見るということである。光と水を受けとめるということが、仏法僧の三宝に遭うたということである。光が教、水はよき師よき友、こういうものに遇うて発芽をする。そしてだんだん若芽は伸びる。もはや大地の表面をころころころがることはしない。大地に根をはって住している。どんなに傾けても、発芽したドングリは「傾動すべからず」である。今まではドングリころころで風が吹けばころころ、水が流れてくればころころであったものが、もはや動かなくなる。それを「不可傾動」という。信の火が小さいというのはまだ発芽していないのである。広い天地に出ていないのである。それで動揺がおこる。それが関東の人達の状態であった。
 不可傾動ということを親鸞聖人は『教行信証』にもう一箇所言われている。それは曇鸞大師の『論註』の中から引いてある。「大乗(善)根を成就して傾動すべからず」という。大乗善根の成就とはどういうことかというと、『論註』のもとになる『浄土論』によると、これについて三つ言われている。一つは女人性を除滅するということである。女人性とは女性的性格という。女性的性格がなくなるということである。これは女性を以て代表させるが、しかし女性だけにあるというものではなく、男性も女性もみんな持っている根本的、共通的な弱点である。何に対する弱点かというと、大乗仏教、広く申して仏道において許されない弱点、それを女性的性格という。これについて曇鸞大師は二つ言われる。一つは弱いということである。いわゆる一貫性がないということ。弱いから右や左をいつも見て人の心に迎合し、人の心に引きずられて、求道を貫く力がない。
 普通の言葉でいうとやさしいということ、これが女性的性格である。男の子はなかなか激しい。女の子はやさしい、だから育てやすいと申します。遊ぶにしても人形遊びをしたり、ままごとなどをします。女性的性格はやさしいという一面を持つ、それがしかし弱い、一貫性に乏しいということにつながる。第二に(へつら)うという。人の顔色を見て引きずられてゆく。それにへつらって自分の思いをまげる。さらに加えれば依頼心が強いということである。かねて申しますように、ここに結婚適齢期の男性と女性があって、女性の方に聞いてみる。「君はどういう男性がいいか?」というと、「私を引っぱっていってくれるような男性がいい」という。しかし男性の方に聞いてみると「私を引っぱってくれるような女性がいい」と言う人は殆んどいない。依頼心が強いということは自立心が乏しいということであります。仏法を聞く上で大事なことはどういうことかというと、自立心である。普通はわからない所は尋ね、困った問題が起ったら先生のところに行って相談する。そういうのが普通である。しかし、いつまでも人にぶら下がっているというのはいけない。それは大乗菩薩道とは違う。勿論人情相談することは必要である。人の意見を聞くことは大切でありますが、「私はこういう問題についてここまで考えた。そして結論としてこうこうこうではなかろうかと思っています。これでよろしゅうございましょうか」となるならば、かなりの自立心がある。自分では考えないで他の教にぶら下がっているのは弱いと言わなければならない。それは依頼心である。仏道においてもそうであって、仏道にいつまでも頼っていてはいけないのである。これはどういう意味がというと、最後は仏教を助けるようにならなければいけない。誠に仏様は困っていなさる。助けてあげなくてはいけない。いつまでたってもぶら下がっているから仏様も大変なんだと思います。今、本願寺という所でごたごたが起っているようですが、本願寺によって助けられた人は少なくないのである。本願寺で飯を食っている人もいるのです。(これは言葉が悪いですけれど)いつまでも本願寺にぶら下がらないで本願寺を助けてあげなければいけない。親鸞聖人を助けてあげなければいけない。「身を粉にしても報ずべし」ということがなければならない。それが出てこない所を女人性といいます。女性的性格という。それに対して男性的性格とは何かというと、それは求道によって与えられるものであって、それは女性であろうと男性であろうと、最後は仏道を背負って立とうという存在になる。依頼心とは違う。このようなことを女人性の滅却、除減という。大乗善根ではまずこれを第一に言っている。
 もう一つは感受性の豊かさである。感受性の豊かさを持たない。これをもとの言葉でいうと、「根欠」という。根欠というものを脱却する。「女人と及び根欠と二乗の種とは生せじ」。これを大乗根の成就という。根欠とは何かというと、いわゆる機能の欠陥である。目は物を見てこれは丸、三角、青い、そういうふうに物を受けとめる。耳は声を聞いてあれは鳥の声、これは虫の声と聞き分ける。身には柔らかい、冷たいということを感ずる。その反対は何かというと、鈍感という。鈍感である無神経である。鈍感と無神経はなぜいけないのかというと、それは教というものは非常にこまやかに受けとるべきものである。厳しく叱られることを「やいとをすえる」といいますが、大きな(もぐさ)を置かれそれに火をつけられて、ようやく「熱っ」というようじゃいかんのです。ちょっとしたお叱りを敏感に感じるようになるこれが教を受けとめるということです。また、人のまごころはたといどんなささいなことであろうとも、たとえ小さな子供の心であろうとも、そういうものを本当に感じ取りそれを敏感に受けとめる。小さなまごころにも涙して感謝するという面がなければ大乗善根の成就ではないのであって、これを鈍感性と言う。鈍感、無神経、そこに傲慢がある。
 なぜ鈍感、無神経がというと、それは何かに麻痺しているからである。歌とかあるいはイズム、思想、いろいろな考えに執われているから人のまごころがわからんということが起る。従って麻痺した状態から脱して感受性をとりもどす、豊かな感受性を持つ、それを大乗善の成就という。
 第三は「二乗」といいます。自分さえ良ければいいという思い。この自分さえ良ければいいという思いを超える、これを二乗を超えるという。そこに「普く諸の衆生と共に」という、どのような人とも肩を組み合って行こうというものがでてくる。これが大乗善の成就である。それらを成就すると「大乗善根を成就して傾動すべからず」となる。我々が「傾動すべからず」傾け動かすことの出来ないようになるには、我々の中に清算されなければならないもの、あるいは打ち砕かれなければならないもの、それが打ち砕かれなければ不可傾動ということにならない。女人性、鈍感さ、あるいはわがまま、いわゆる自分さえ良ければというものが残っていると、それが自分を傾け動かしてくるのである。そういうことが大事な問題であって、それを信の火が小さいと申します。小さな信とはいわゆる殻を出ていない、また、大乗善根を成就されていないことです。
 それならばそのような小さな信は、信とは言えないのではないか。小さいとかいっているけれども、信というものがないのではないか、こういう論があるかも知れない。しかし信はあるのです。但し、それに不純なものが混ざっているのである。それは大きく燃え上がる前の段階、くすぶっている状態であります。今、卵があるとする。卵が固い殻の中に入っている。穀の中に黄身と白身と胚がある。この卵が成長してひよこになるには、殻があってはいかん、それでまず「この殻を砕け」となると、そういうことをすると卵は死ぬ。この卵の殻が彼の支えなのである。卵が卵として存在するということは、殼があればこそなのである。この殻は何かというと、ここで言えば女人性であり、鈍感、自己中心である。言い変えると名聞、利養、勝他というものなのである。名聞とは人の評判を気にして悪く思われたくないという気持ちである。利養とはいつもそろばん勘定して損をしたくないという心である。勝他、人に負けてはならんという競争心である。こういう殻があるわけである。この殻を破らなければならない。けれども人間にとっては、初めはそれが支えであって、殻が割れるということは卵にとって死である。それ故にたった一つ大切なことは、親鶏が抱いてやるということである。親鶏の熱を与えていくならば、卵殻の中でやがて目玉が出来るのである。胚から先ず目玉が出来るのである。やがて嘴が出来、足が生え毛並みが揃ってくる。それが卵がひよこになっていく道行なのである。殻はまだある。けれども目が出来たという事は、いわゆる聖典、我々は御聖教と申しておりますが、聖典を読む、あるいは仏教に関係のある書物を読む、そういう目が出来た、嘴が出来た。南無阿弥陀仏を申し、正信偈をあげてお勤めをする口が出来た。そういうものは今まで無かったのである。足が生えた。聞法のために会座に出て御法を聞こうという足がついた。それは正しく信の火がついたのであります。ついたのではあるがしかし小さいのである。小さいということは、今はまだ殻の中にいるのであって、この殻から出るということが「不可傾動」ということなのであります。信が大きくなるということである。時機到来してこの殻を破って出るとき、まだそのひよこの体の半分には殻がついている。しっぽの先には大きな殻がぶら下がっている。全く殻ばなれをしてしまったわけではない。しかし大きな世界に出たのだ。大きな世界を知ったのである。それを信の火が大きいといい、不可傾動というのである。殻の中で目玉が出来、(くちばし)が生え、念仏を申し、お聖教を読み、仏法を聞いている、しかし、もう一つ徹底しない所がある。殻を完全に出ていない。「それじゃ信心は無いのではないか?」。そうではない。信心はすでにそこにあるのであって、これを十九願の信、或いは二十願の信という。それらをすべて浄土の中に収められるというのが本願である。化土の往生を遂げると誓われているのであります。関東の人達に何が足りなかったか。教をしっかり聞いておったのであり、お聖教も読めた。しかし今申しますように、殻を出られなかった。だからころころころがるのである。外の問題に対して受けとめることができなくて動揺してくる。この殻が破れることがいわゆる女人性の除去、感受性の復活、そして二乗を脱するということである。同時に法に通い、法を見、法に入り、法を得、法に住するということである。最後の問題点は、殻を出るということである。これがないと外の問題で動揺し、問題が受けとめられない。今は先ず背景として信心の動揺、この信心の動揺とは何かということを申したわけであります。


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