八、信と念仏

『歎異抄講読(第一章について)』細川巌師述 より

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1 老少善悪をえらばれず

 年寄りと若い人あるいは善人と悪人、そういうものによってこの世の区別あるいは差別を表わします。「老少善悪をえらばれず」これは弥陀の誓願が主語になっている。これを平等の大慈悲という。仏の覚りを表わすのに平等覚というのがある。これは仏の徳を表わす。和讃の中に「平等覚を帰命せよ」とある。そこに平等ということが出ていますがそれを仏の覚りという。仏の覚りであるということは人間の覚りではない。人間にはそれが実現しない。平等心とは一切を平等に見る心であるわけですがこれは大菩薩の心である。十地のうち八地以上の菩薩について平等心が成り立つと、仏教では教えるのである。平等の反対は差別です。差別は分別という。善と悪、正と邪、男と女、老人と若人、貴賤、貧富などのように、現実はすべて区別がある。その現実を白一色あるいは赤一色に塗りつぶすことができない。大きい物があり小さい物がある、白い物があり黒い物がある。そういうふうに現実は差別から成り立っている。それに対して仏の覚り或いは大菩薩の深い心を平等心という。具体的には十方衆生よという喚びかけが平等の大慈悲を表わしている。差別すなわち現実の上に十方衆生よと喚びかけられている。これを平等の大慈悲と申すのである。
 平等ということについては考えなければならない問題がある。毛沢東の著作の中に平等という問題が出てくる。みんなが平等を要求している。これが共産社会或いは社会主義を考えている人達にとっては非常に大事な問題である。いやそういう人達だけではない。みんな平等を欲している。子供達が学校で先生に対する一番大きな不平は何かというと不公平、えこひいきという。先生が公平でないというのがみんなの一番気にする事だということをよく聞きます。できる子もできない子も、きれいな子もそうでない子も平等に取り扱うということが非常に大事なことである。それは当然のことであります。家庭で子供を育てる時、長男、次男、長女、次女という家庭でありますと、どうしても下の方はひがみやすい。上の方には新しい洋服を買ってくれたけれども下の方はおゆずりである。不公平だという。かねて申しますように植物も叫ぶそうである。アメリカの植物学者が言っている。植物に水をやる時、端の方から植物が叫ぶ。「公平にしてくれ、私にも公平に水をかけてくれ」と。先程申しました毛沢東の平等というのは、題名は忘れましたが湖西省からずっと長征をして行きます途中に色々なことが起ってくる。将校に対して兵隊から要求が出た。将校は馬に乗っているけれど兵隊は歩いている。みんな平等に歩いたらどうかと言う。食べる米も平等に配ったらどうかなどと色々な要求が出た。これに対して毛沢東は平等というのはみんなに同じにすることではない。大きな者は沢山食べ、小さな者はそれに応じた量だけ食べる。傷ついた者を担架に乗せて健康な者がそれを担いで行くのが平等なのだ。将校が必要に応じて馬に乗り、兵隊が歩いて行くのが平等だと言って訓辞をしている所がある。なかなかその点では苦労している。
 形の上の平等というのは実際は成り立たない。平等というものを本当に文字通り成り立たせたならば人生においては悪平等ということになる。形の上で同じ物を同じだけ食べ、同じようなことを同じだけすることが平等となりますと、人生には病人もおりあるいは男性がおり女性がおる、子供があり年寄りがある。それらに全部同じようにということは成りたないのである。差別しなければなちない。それが現実というものである。
 そこでこの十方衆生よというのはどういうことか。それは大きなもの、いわゆる次元を超えたもの、ちょうど太陽が地上を照らしているようなもの。地上には三角もあれば丸もある、色々な形をしたものがあるけれども太陽はあまねく照らしているのである。それに対して色々なものが、それぞれ形は違うのであるがそれぞれに応じて光を受けて、それによって或いは黄色く、或いは赤く、或いは青色に輝くということ、それぞれがそれぞれの輝きを発揮していくところに、いわば差別のままにしかも平等を生きているということがある。したがって形の上では平等ではないが、共に等しく大きな世界に生きるということがあると、そこに初めて平等というものが成り立つ。
 人は二つの世界を持たないと平等になることができない。或いは本当に平等な人生が成立しない。一つの世界、それを世間道という。この世界だけしかないのが普通の人である。そこには真の平等は成立しない。本当の意味では成立しない。もう一つの世界が要る。それを出世間という。出というのは超えるということ、或いはもう一つ別の次元である。今、世間の上に生きているもの、それを例えばドングリとしよう。ドングリが大地の上を転がっているとする。ドングリはそこだけではドングリとしてしか成り立たない。風が吹けばころころ、水が押し寄せてくればころころ、いずれにしても押し流されるだけで、生きるということにはならない。これが発芽して根を大地に下ろすと二つの世界を持つようになる。地下の世界と地上の世界、その二つがばらばらになっているのではない。二つのままが一つ、即ち大きくだんだんと伸びてゆく。いわゆる現実の世風と、深く根を張っていく世界、すなわち仏の世界を一つに生きる。一つの木が二つの世界を生きているところに、本当の生きるということが成り立つのである。そこに本当の平等がある。地上だけでは差別しかない。また転がっていくしかない。流転でなしに本当の生活、平等に生きるということが成り立つ、それには二つの世界を持たなければならない。それは見える世界と見えない世界の二つを生きることである。
 地上の世界と地の下なる世界の二つを持って、大地の下、即ち見えない所に根を張ってそこから養分を吸収しそれを依りどころとする、そこに地上の生活が成り立つ。その地下の部分において人は平等なのである。大地において平等なのであり、いかなる者も平等の大地を持つのである。三角の存在であろうと四角のものであろうと、ドングリであろうと鳥であろうと、雑草であろうと雑木であろうと、すべてのものが大地において平等に支えられているのである。地上に生きる部分は違うのである。現実はすべて差別であり、その現実をすべて同じにしようとすることは出来ない。そもそも男女というものがどうしようもない問題なのである。老少というものはどうしようもないのである。地上の世界は差別である。しかしながら我等を保持する大きな世界においてはすべてのものが平等である。地下において平等であるとき、実は地上においても差別のままが平等覚の世界である。それを平等の世界と申すのであります。これを「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず」という。
 差別心、或いは老少善悪を選ぶという気持ち、それは深い人間悪から出ている。差別とは善人よ来るなかれ、年寄りよ去れ、若い者よ来れ、というような表現で表わされるものであろう。年寄りが嫌われる世界もあり若い人が嫌われる世界もある。或いは正しい人が尊重されない世界もある。色々あるわけですが、我々の心の中に分別心というものがあって、これが差別を生み出している。差別心これを分別心という。これを仏教てば邪見と申すのであります。『論註』という本を開いてみると曇鸞大師がこう言っている。「衆生邪見をもっての故に心に分別を生じ、もしは善、もしは悪、もしは是、もしは非」こういうものにとらわれている。そこに深い迷いを迷っているのであると言う。
 人間の心の中から深く離れないものは、例えばうちの子供とよその子供という差別である。うちの子供とよその子供は決して平等には考えられない。非常に差があるのである。自分の子供だけでなく犬でも猫でも同じである。うちの猫とよその猫というにとになると、よその猫はてんで可愛くない。もしうちに迷い込んででも来たら箒を振り上げて「出て行け」ということになる。何か無くなったのではないか、何か取られたのではないかと気を遣わなければならない。自分の大学の学生とよその学生とでも差がある。我々には「わがもの」「私の何々」というものがある。こういう心が差別を生むのである。それを邪見という。邪見が根本的な人間の悪である。人間の根本煩悩と申します。わが子、よその子ということで表わされるようなもの、これを我見或いは我所見と申します。我見とは俺が俺がという思い。我所見とは俺のものというとらわれです。これが問題点なのである。これが一方においては善いか悪いか、正しいか間違いか、是か非かといって二つに分けて考えるのである。それが人間の根本的な考え方である。そこに差別というものが出てくる。それはどうしようもないのである。仏法は「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず」その平等の大慈悲は平等無差別の心、この平等覚が十方の衆生に喚びかけることによってそこに人々の心の中の根本的な問題、邪見というものを打ち砕いて、そこに本当の平等心というものを成立せしめようとする。これが平等という問題であります。
 現在、差別という問題は大変な社会問題になりました。差別という問題は根本的に解決せねばならないものである。しかし差別をなくせよというだけでは充分でない。根本的な問題なのである。即ち人間悪の問題である。この人間悪をただなくしてしまえというのは、丁度物を食べても便所へ行くなというようなものである。人間悪に対処する方法がわかっていなければならない。それは一つしかない。
 邪見とは我見、我所見という。それをも一つ言い換えると我愛ということです。即ちわが身可愛いやという問題につながっている。そこに勘があってわれと他を区別して、私を大切にという深い自己中心につながっているのである。従ってこれを捨てよと言われても捨てられるものではない。これを捨てる道は一つしかない。()は深い人間の殼である。ちょうど卵の殻の中で黄身と白身と胚が成り立っている。その殻によって自分を保持している。保持するものが我執なのである。邪見も我見も全部同じである。その殻をたたき壊せといわれても、壊したらそれは卵の死であって卵自身が死んでしまう。適当にゆずれといってもどこまでが適当なのかわからない。どこまで譲ればよいのか話もわからない。しかし殻は解決しなければならない。それにはたたき壊すのではなく、いつも申すように親鶏が抱いてやって殻の内部でやがて目玉ができ、(くちばし)が生え、足が生えてこの卵がいわゆる自己形成を遂げていく。そうすることによってひよこができ、そのひよこが殻を破って出てくるのである。卵がひよこになることによって自己中心の邪見或いは我見の殻を破って、初めて大きな世界に出てくるのである。そういうことを先ずはっきりしておかなければならない。即ち邪見そのものを直接たたき壊すことはできない。これはもう何回も申しました。
 なぜできないのか、それは人間の思考は水平思考あるいは平面思考とでもいうべき考えでしかない。平面思考とはいわゆる知性というものをもって考えていく。その時にどうしても現象を小さく分けて考えなければならない。即ちこれを分析することによって、原因と経過と結果、どうして、いかにしてそうなったかというようにそれを分けて考え、そしてそれを総合する。こういうふうな考え方をせざるを得ないわけである。そういうふうに分けて考えていくことしかできない。そこに対象化或いは分断化がある。こういうことを平面思考というのである。これをブーバーはIch-Esと言った。Esは英語ではItである。対象化して考えているわけである。大変難しいことになりましたがこれが分別である。物質化して考えることである。物質化して考えるとは分けて考える、対象化して考える、そこに命の通わない物として現象を考える。そこにその現象はぶった切られてしまって、本当のものでなくなるのである。そういうことをヤスパースという人が『哲学入門』(角川書店)の中に書いています。人間は知性という立場に立ってものを考える時に、大きなものの一部を引きちぎって知識を得るのであるが、そこに得られたものは全体から引きちぎられたものであって、元のものと似ても似つかないものになるのだということを繰返し繰返し言っている。すなわちIch-Esということですね。分別とはこういうふうに分けて考えることである。分けて考える時に何が失われるかといいますとそれは血と涙である。分けて考えると冷ややかな立場で見るしかない。本当の考え方は何かというと、それは知性の根源にあるもの、人間の根本にあるもの、その根本にあるものに立って考えることでしょう。この根本に立つには殻の中に閉じこもっている人間に対する深い喚びかけ、その殻に働きかけて、大きな世界に出よという働きかけ、それをブーバーはIch-Esといった。私にDuと喚びかける、Duと私に喚びかけるもの、今はそれを南無阿弥陀仏という。南無というのは梵語でNamoという。南無と私に喚びかけるもの、汝、殻を出て大きな世界にいでよという喚びかけ、そういうものにであうことです。ブーバーはDuと言った。汝と言った。それを垂直思考、すなわち脚下を貫く喚びかけという。それによって私の殻が破れる。同時に私の上に、願いをもって相手によびかけるような喚びかけが生まれてくる。そこに初めて差別というものを超える世界が出てくる。
 大学で教えていますと一番困るのは、できの悪い学生であります。何を言っても聞かない。隅の方でこそこそと話をしたりする。私は授業には厳しい方で、そういう者には「出て行け」と言って怒鳴る方なのですが、考えてみると短気なことだ、申しわけなかったと思います。やはりそういうような人には話しかけてやらなければならない。それに対して腹を立てて「出て行け」ではなしにDuと喚びかけるものを持つことが大切であった。Duとはどういうことかというと日本語で言えば親愛なる君よという意味で、切っても切れない仲にあるという間柄を表わす言葉である。声をかける、あるいは呼びかける。「どうしとるかい」「元気か」「しっかりやっているか」というように先ずよびかけるのである。それを、悪い奴だとじろじろと見ている、対象化して向う側において冷たく見ている、どうしようもない奴だと血も涙も涸れ果てた心で眺めている。そういうところには冷たいものしかない。暖かい呼びかけが出てこない。そのような暖かい呼びかけが出てくることがDuである。そこに無分別というものが出てくる。無分別とは分別しない、それが私から出るようになる。これは「十方衆生よ」と喚びかけた仏、南無と私に喚びかけた仏の願が、今度は私から南無となって出てくるようになったのである。仏の願いによって私の殻が破れた時初めて私において私の喚びかけとなるのである。
 知性というのを仏法ではマナ識という。人間の深い深層意識である。そのマナ識はちょうど墨汁の入った水のように真黒くなっている。墨汁を煩悩と申すのである。深層の意識に我痴(いわゆる無明)、我慢(即ち俺が俺がという心)、そして我が身可愛いやという我愛、自分の考えに執着する我見、そういうものがしみついているのである。人間の知性には煩悩が入り込んでいる。それがどういう働きをするかというと分別をする。どういうふうに分別するかというと自分と他人、善と悪そういうふうに差別をする。一人間の知性そのものがそういうものを持っている。これが仏法の見方である。この毒を除くにはどうしたらよいか。この深層意識のもう一つ深層にある心、それをアラヤ識或いは蔵識という。アラヤ識は最深層にあるのである。いわば知性のもう一つ底にあるもので、そこに一点の仏性というものがある。仏性とは仏になる種と申します。これがただ一つの鍵である」この仏性を伸ばすしかない。仏性を伸ばすのはまごころである。仏のまごころは我々の知性とか感情を打ち貫いて我々の一番深い所に届いてくる。そして仏性をゆり動かすのである。
 こういうように打ち貫かれた人は先ず二千年昔の人、印度の龍樹である。ナーガルジュナという、印度の生んだ大天才です。この人の書物を読みますと、誠にそれがインテリ中のインテリという程非常にすぐれた人であることがわかります。更に二百年して出ましたバソバンズという世親菩薩がいる。貫いたものは何かというと弥陀の誓願不思議である。この弥陀の誓願というまごころに打ち貫かれたのである。そこに書かれたものが『十住毘婆娑論』であり『浄土論』です。それらが大乗仏教の中心となったわけでございます。龍樹、天親だけでなく曇鸞あるいは法然上人、親鸞聖人もそうです。そして我々もそれを感得するのです。弥陀の本願によって自己の中の仏性が大きく育てられてマナ識自体を照らし出して、そこに初めてマナ識の我痴、我慢、我愛、我見というものが砕かれてくるのであります。
 わかりにくい話になりましたが、どういうことかと申しますと、具体的には我々自身は今まで知性というものを基礎にして生きてきたのである。それが仏法というものを聞いて心の奥の身の考えや判断の誤りを知り、そういうものだけで考えることの誤りに目が開いてくる。知性の目で見る誤りとは何か、それは冷たい対象化である。その時に分別、差別というものが起ってくるのである。知性がどうしても分別するのである。知性は間違っているものが嫌いである。本当のものがよいのであって嘘のものはいけない。そういうところに分別するのである。そこに如来の平等、大慈悲というものが届いて我々の中に仏性が生きてくると、分別の代りに深い喚びかけを持つようになる。善人にも悪人にも深い喚びかけを持つ。Ich-Duが生まれてくる。それでは知性はやめるのか、捨てるのかと申しますと、知性を捨てるのではない。知性は我慢、我愛から解放されて純化される。純粋な智慧となるのである。
 そこで『華厳経』をひいて親鸞は『教行信証』の中で次のように言われています。「信は諸根を浄明利ならしむ」。我々の仏性が遂に大きく改革され、広く変えられてくると、諸根即ち目、耳、鼻あるいは舌、身、心そういうふうな感覚を浄化する。清らかにする。純化という。即ち欲を離れ、とらわれを離れて純粋にものがやれるようになる。純粋にものを考えるようになる。純粋に考えるとはどういうことかというと分別を離れ、差別を離れている。欲でものを見ますと本当は見えないのです。欲を離れると明らかに見える、非常に鋭利に見える、鋭く見えるのである。これを「信は諸根を浄明利ならしむ」と言うのである。本当にとぎすまされた知性、「本当にものを見究める知性の確立がある。しかもその底に喚びかけがある。そういうものが生まれてくるところに仏教の意味があるわけでございます。一知性的な立場を悪く言っているわけではない。問題は知性そのものの持つ、いや知性そのものに伴っている煩悩を純化しなければならないことを言っているのである。具体的には分別が無くなるのである。
 これは余談になりますが仏法を本当に聞く人は必ず非常に傑れた容貌になります。蓮如上人は「信心治定の人はまず見れば即ち尊くなり候」と言われた。本当の信の人はまことに尊いという感じがするという意味です。本当に綺麗になる。美人になろうと思ったら仏法を聞くのが一番です。仏法を聞きぬけば年寄りは年寄りなりに、若い人は若い人なりに何とも言えない輝きが出てくる。現在のいわゆる美人と申しますのは、美人コンクールなどに出てきますように牛の品評会と同じである。背の高さやある所の形や腰の周りのことばかり言うのでは、牛の品評会と少しも変らない。本質的なことを言わない。本質的なものができるには内に仏性が開かれなければどうにもならない。要するに諸根を浄明利ならしむ。そこに深い本当の知性と潤い、あたたかさを持ったものが出てくる。その根源を弥陀の本願という。「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず」。弥陀の本願をいただいて根源的なものに対する深い考え、垂直的な考えを持って真に生まれ変り、そこから弥陀の本願にねざした喚びかけが生まれる。その人自身が深い本願を持つのである。尊い人になるのである。

2 信心(信清浄、浄信)

 「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし」。信心という言葉には誤解がある。これも何遍も申しあげておかなくてはならないことです。「前序」の所で大部分は申しあげましたから、詳しくは申しませんが、ただ信心が要(かなめ)である。なぜかというと「弥陀の本願には……ただ信心を要とす」「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」。ここに親鸞の中心があるのであります。老人であろうと若い人であろうと、善人であろうと悪人であろうと一切差別されず選ばれないのであって、ただ信心一つが肝心、かなめであるということである。
 「弥陀の本願には信心を要とす」。信とは考えることをやめて信じ込む、それとは全然違う。疑わない、それを承認することとも違う。そうだと思い込んでそういうふうに決めることとも違う。先ず信心とはどんなものかと申しますと、人間が生み出した心ではないのであります。転回によって生まれてくる心であり、覚という言葉が一番近い。覚悟(さとる)とも言います。或いは明らかになるということである。信心という文字の使い方は信清浄とか浄信とか使ってある。清浄という字を必ず一諸に使っている。清浄という場合はかねて申しますように、煩悩の心がまじらない、迷いの心がまじらないときに信清浄といいます。誠の心といいます。それは人間が持っているものではない、あるいは人間の努力によってできるものでもない。いわば与えられるもの、あるいは誕生するもの生み出されるものである。仏法ではこれを菩提心といいます。菩提というのはサンスクリット語でありまして阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)といい、無上道と申します。菩提心は無上道心あるいは求道心というものであります。
 (イ)法然上人の念仏為本
 法然という人は念仏為本という教義を立てた。これが浄土一門を明らかにされる中心点でございます。「往生之業念仏為本」、これが彼の主著である『選択集』の一番初めに書かれてある言葉であります。念仏が一番根本だという教であります。それに対して親鸞は「信心正因」と言った。即ちそれを「信心を要とすと知るべし」と言われた。師法然は念仏為本と言ってその一生を貫いた。親鸞は信心正因と言った。それは違うではないかという疑問がありましょう。
 当時、法然の『選択集』に対する深い反撥がありました。『選択集』の念仏為本に対して明慧上人というお方が『摧邪輪』という書物を書いて法然上人に反覆された。どこに中心があるかと申しますと、菩提心を無視しているということであります。仏法というものは菩提心が出発点であり、それがないと成り立たない。仏教を求めようという者は無上菩提心を起してその上に立って、或いは座禅をし或いは行を積んで本当の覚りを得る努力をすべきもので、菩提心が一番基盤である。しかるに『選択集』では念仏というものが根本であって菩提心というものはいらないということを力説しているが、これはまことに悪魔の仕業であり、これは打ち砕かねばならないと力説しているのである。悲しいかなその時法然は亡くなっていた。残された弟子達がこの『摧邪輪』に対する反論の書物を出した。しかし明慧の論理が傑れていて、それに太刀うちできなかった。あわれ法然の言ったことも、学徳共に傑れた明慧の反論によって打ち砕かれた感じがあったのでございます。それをくつがえしたものが親鸞であり、『教行信証』であります。これを信心正因という。南無阿弥陀仏と念仏申すところに無上菩提心が備わっているのである。人間が無上菩提心を起さなければならないのではない。そこに信心という問題がある。信心が無上菩提心である。
 信心はどうしてできるか。私は厚い厚い殻を持っている。その殻を自己中心と言おう。この自己中心の穀の中に閉じごもっている。これは何度も申しあげたことであります。「弥陀の誓願」というのは何かというと、この私に対する深い喚びかけであります。それを南無阿弥陀仏という。弥陀の誓願を南無阿弥陀仏といい、本願の名号、喚びかけといいます。南無とは何かと申しますと「帰れ」である。サンスクリットで南無阿弥陀仏。阿弥陀仏とは何かというとアミタユース、これを無量寿(永遠)といい、アミターバー、これを無量光(無限)といいます。これを合わせると「大いなるもの」永遠にして無限なるもの、その「大いなるものと共にあれ」という喚びかけを南無といい本願といいます。難しい話ですがここがわからなければなりません。
 我々の住む世界を相対界といいます。それは無限でもなければ永遠でもありません。それには時間の制限がある。永遠というものはあり得ない。けれども相対に対して絶対というものがある。それでは絶対と相対と二つあるのかと申しますと、二つあるのではありません。そうではなしに絶対は相対を包むものである。それを一如という、それは姿もなく形もなくいわゆる如なるものである。その如なるものが相対というものを包む時に、それが働きかけを持ってくる。その姿を如来といいます。如より来生するといいます。これはどういうことかというと、例えば我々が一人で散歩するとする。そこに子供がいて用水に落ち込もうとしているのを見ると、悠々と散歩しているわけにはいかない。走って行って「危ないぞ」と言ってとめてやらねばならない。そこに働きかけというものが出てくるわけである。即ち現実の相対界というものと、如なるものとの境界に、如から如来が現われてくるのである。なぜ現われてくるかというと、現われずにはおれないのであります。走って来てとめずにおれないのである。そこに南無阿弥陀仏になるのであります。その姿を「本願」「如来となる」といいます。如来は相対界にどう働きかけるかと申しますと、その相対界を離れて、どうかこの絶対を生きるような広い世界に出てくれと働きかけていくのである。広い世界を浄土という。これを親鸞は無量光明土と言った。
 如来が喚びかけをもって「大きな世界に生きよ」といって喚びかけてくるのである。それが弥陀の本願というものであります。そういう願いの内容を詳しく表わしたものが四十八願である。南無阿弥陀仏というのは直ちに我々に働きかけてくるのでなしに、よき師よき友を通して働きかけてくるのである。いつも申しますように、夏という大自然は、夏が我々に直接わかるのではなしに、この暑い日差し、焼けつくようなむせ返るような大地の反射熱、そういうふうなものがあって夏というものがわかるようになっている。夏になったけれども少しも暑くないというのは、それは夏になっていないのである。青葉が繁って稲が伸びていくのが夏である。よき師よき友を通して南無阿弥陀仏が現われてくる。それを聞いて私の上に弥陀のまごころ、大きな世界からの誠心がわかってくるのである。その誠心がわかってきて、私の中にだんだんと仏性を開覚してゆくのであります。遂に私の内にそのものが開いて、即ち仏のまごころがわかってきた、これを認識といいます。明らかになってきた、それに目が覚めた、そこを信という。これを南無阿弥陀仏が届いて信が生まれるという。そうなると口に念仏、心には憶念、体には合掌が出てくるのである。これを行という。法然上人はここを言われた。念仏為本というのは、念仏が本当の仏教であると言われた。南無阿弥陀仏の弥陀の誓願が私の上に届いて、遂に南無阿弥陀仏が私の行となり、私の上に念仏することが成り立つ、そこに仏法の中心があると言われた。その時必ず菩提心が成立しているのである。仏性が開覚しているのであるというのが親鸞聖人の『教行信証』である。
 明慧上人は、念仏だけではつまらん、菩提心がなければ仏道にならんではないか、実に法然はけしからんと言って『摧邪輪』を著した。それに答え得る弟子がいなかった。何やかや言ったけれどもさっぱりわけのわからない答になったのである。答えたものは親鸞であった。南無阿弥陀仏が届いてそこに信心が生まれる。その信心こそは明らかな認識であり目覚めであり、大いなるものへの覚であり、それが菩提心である。その菩提心が念仏となるのであって、菩提心が念仏をはらんでいるのである。だからあなたの指摘はあたらないという、まことに古今を絶した解答を出されたのである。それをつづめて言えば「弥陀の本願にはただ信心を要とすと知るべし」。ただ念仏するというだけではない、ただ南無阿弥陀仏を信じたということではない、信心が成立しなければいかん。親鸞聖人は法然上人と全然違ったことを言われたのではない。法然上人が言おうとなさったことを明らかに受け継いで、それをより明確に言われたのである。それを信心正因というのである。
 (ロ)蓮如
 信心という問題について蓮如上人はこう言われた。「世間にて時宣しかるべきは善き人なりと雖も、信なくば心をおくべきなり、便(たより)にもならぬなり。たとえ片目つぶれ腰をひき候ようなる者なりとも、信心あらん人をば頼もしく思うべきなり」。(『御一代記聞書』、97条)これは非常に名言である。これを一つ引いて信心という問題を補ってみたいと思います。『歎異抄』の本文から少しはみ出ておりますが、理解してもらうために引きます。時宜しかるべきというのは、その時その時に応じて、てきぱきと仕事を処理し、その所その所に応じて適宜な処置ができる。まことに才気煥発と申しますか、よくきれる人である。何をやらせても口も八丁手も八丁。これは大変な人だと誰もが思うような人であります。ところが、もし信心がなければ心を許してはならない、何が起るかわからない。もしも風の向きが変れば、どちらを向いて走り出すかわからないものを持っている。決して油断をしてはならないという蓮如上人の仰せであります。これは人を批判する基準を言っているのではない。文句を言っているのでもありません。これは先ず自分自身に対する問題と考えなくてはいかん。私が時宜しかるべき人になりたいと思っているのではないか、そんなことではいかんぞ、仏心がなければ本当に頼りになる人になれないと、私に対する戒めと頂くことであります。
 世間の存在はちょうどドングリみたいなもので、風が東の方から吹いてくると西の方に押しやられ、西の方から吹いてくると東の方に吹きやられていくというように流転を免れない。このように水の流れの向き次第、風の方向の変り次第でどちらにも変わるのであります。われひと共にそうでありまして、それしかないのであります。時宜しかるべき人というのはその時その時で都合のよいようにやっていく人であり、我々もそれを望んでいるわけでございましょう。戦時中には一生懸命に忠君愛国を説いたが、マッカーサーが上陸したら民主々義に転向したという人がさらに多い。やがて共産党が力を持ってくるとこの人は共産主議者になるだろう。これは流転しかないわけである。当てにならん。それは信心がないからである。
 信心の人は世間を生きているのであるが、同時に大地を生きているのである。つまり出世間にしっかり根を下ろして生きているから動かないものを持っている。風が吹けば枝や葉は揺らぐが根は動かない。水が流れれば枝葉はちぎれても根本は動かない。そこに本当に頼りになる人間、本当に信頼のおける人間が出てくるのである。人間には信心というものがなければいかん。「山には木、池には水、人には信」ということを私の先生は言われた。山があっても木がない、それを山とは言わん。それは山ではなく、ただ土がうす高いということである。池には水があってはじめて池である。水がなければただ窪みにしか過ぎない。これは非常に簡潔なお言葉である。
 信心を要とすというが、信心の人というのはどういう人かというと、彼は如来の前なる生活者であるということである。人はすべて世間で生活し世間の人を相手にし生きている。したがってあの人はどう思うだろうか、こういうことをすると世間体が悪いんじゃないかと不安である。(ことごと)く世間を前にしている。如来を相手にしているのが信心の人である。そこに本当のまこと、まごころ、誠実というものがある。そういう人を私は何人も知らせて頂きました。私の先生がそうでありました。本当に信頼できる人でありました。本当に誠実な人であり、如来の前なる生活者でありました。一生をかけて一道を貫き通す人であり求道者でありました。その御生涯は仏の恩に報いようとする生涯であった。そういう生涯を送る人を信心の人と言います。現在浄土真宗、あるいは本願の宗教、親鸞の宗教が今も全国の津々浦々まで生きているということは、その信心の人が数多くあるということであります。一人や二人ではありません。それはしかし、大学の教授とか、会社の社長とかいうような人とは限らず、かえって片目つぶれ腰をひき候ような人と上人は形容されたが、学歴もなく地位も何もない人の中に生きているのであります。まことにそういう人がたくさんあるのであります。私はたくさんそういう人を知っているのでありますが、まことにたのもしいことであります。
 弥陀の本願というのは今生きているこの世界のことである。本願というのは抽象的なものでなしに、具体的に信心の人を生み出している。信心の人はその生活が誠実で、どのような事があっても裏切ることなく頼りになる人であります。我々は名利の心で引っぱられているという自分に気がつかせてもらわねばならん。キプリングの「千人目の男」という詩がある。アンドレ=モロアの本の中で読んだのでありますが「普通の平凡な九百九十九人の人達は、君が落ち目になったり、馬鹿な真似をしたりすると、君を捨ててさっさと逃げていくだろう。しかし千人目の男は君と共に絞首台まで、いやおそらく絞首台の後まで、君と離れないでついて行くだろう。」という歌を作った。九百九十九人は世間にて時宜しかるべき人のことを言っているのである。それは私が落ち目になった、不遇になった、金が無くなった、或いは地位がなくなった、信用がなくなったならば、がたがたときてはいさようならと言って行ってしまうだろうと言っている。いらん話ですが、私が大学をやめるという話をしましたら多くの人が止めてくれました。どういうふうに止めてくれたかといいますと、色々ありますが「君が今、宗教の話をして人が集まるのは、大学の教授という肩書きがあるからであって、大学をやめたら人は一人も集まってこないぞ」と言ってくれました。なる程そうかも知れぬと思ったが、幸いにそうでもない。しかし私が馬鹿な真似をした、とんでもないつまらぬことをした、世間的にでたらめなことをしたということになると、こういう人だとは思わなかった、とんでもない人だと言って多くの人は去って行くだろう。けれども千人目の男は、どんな事があってもお前から離れずについて行くだろう。その人はなぜ離れないのかというと、最も深い信頼感を持っているのであります。私がどんな間違ったことをしても、決してそれが私の本心ではなしに、色々な因縁が重なってそういうことが起ったのである、必ず本当の心にたち返ってくれるであろうという信頼を持っているのであります。それが信心の心であります。信心というのは、弥陀の誓願不思議から産まれてくるのであります。つまり、Ich-Duとという深い喚びかけであると共に、深い信頼感であって決して揺るがない。そこにたとえどういう事が起ろうとも絞首台までついて行くという表現が生きてくると思うのであります。山には木、池には水、人には信と言われる。弥陀の本願には信心を要とすという。人間を本当に人間にするものが信なのである。


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