『歎異抄講読(第一章について)』細川巌師述 より
先般「念仏まをさんとおもひたつ心」ということについて申しました。今、別の角度から申すならば、かつて申しますようにマルチン・ブーバーの言葉を借りるならば、彼は出遇いということを言っている「みめぐみによって私を喚ぶものに私が遇う」という。彼のいう根源語、あらゆるものの根源になるもの、それは私という言葉である。これが世界の中心になりこれが一番根源になるわけであります。しかし単なる私というものはあり得ない。私-それという私である。これがブーバーの非常にすぐれた表現である。即ち私という存在が私-それという存在であって、それをIch-Esというのである。英語で言えばI-Itという。すべてを物質化している私。物質化とは何かというと、人を道具と心得ておって、すべて私の欲求を満足させる道具として見るのでございます。それが私の始めの姿、大半の人生を我々はこの私-それの私として送っているのです。それが出逢いによって変ってくる。それを転回という。私-それの私では何を見ましても人が物に見えるわけである。相手が物に見える時、即ちアニマル化している。いわゆる人間喪失をしている。
かつてフランスの映画でずっと以前の話ですがジャン・コクトウという人の『美女と野獣』というのがありました。これはずい分古いことで、こんな映画を知っていると年がわかる位のものですが、私は今も忘れ得ない。これは、魔法にかかって野獣になっている王子がいる。或る夜、魔法がとけると元の非常な美男子になる。これが、きれいな美女を見てベッドに近づいていく。そこで彼は野獣になる。ライオンのようなアニマルになる。これは実にいい所を描いてあるなと思って今もなお忘れられない。即ち女性を見てそれを自分の欲求を満たす道具扱いにする。それをIch-Esという。相手を、Es化しているわけである。とその時自分自身も変質してしまってアニマルになる。それを物質化という。物質化とは人間としての心の通わない、人間喪失という状態に陥込んでしまっている。人間失格と申します。
そういう私がいわゆる出遇いによって、私-汝の私に変っていく。即ち、私-それという私から私を汝と喚ぶもの、それは私を道具としてでなく、物質としてでなく、本当に血の通った喚びかけをもって私を汝と喚ぶものによって、私-汝の私に変っていていく。これをIch-Duとブーバーは言っている。Duはもとより切っても切れないつながりのあるものですね。深いつながり、血をわけあったような存在を言う。そこにはじめて人間を回復して、喚びかけを持つ私が生まれる。それをIch-DuのIch(私)という。私-それの私から私-汝の私に転回していくのは唯一つ、私を汝と喚ぶものに出遇うという事である。その時私もまた、汝と喚ばざるを得ないものとなる。私を汝と喚ぶものに対して、私もまた汝と喚びかけずにはおれない、そういう喚びかけが出てくる。これを念仏申すというのでございます。
もとよりブーバーは念仏申すという言葉は使わなかった。彼はユダヤ神学の教授であって、その立場から深い体験、あるいは表現が出来たのでございましょうが、これを我々は念仏申すというのであります。即ち私に南無と喚びかけるもの、それをサンスクリットでナムという。これを訳すならば帰れという。共にあれという。大きな世界に出でよという。そのわれを喚ぶもの、これを阿弥陀仏という。この阿弥陀仏はいうなれば無限なるもの、永遠なるもの、大いなるものである。大いなるものと共にあれと私に喚びかける、南無阿弥陀仏と私に喚びかける。そこにIch-Esなる私が、Ich-Duなる私にと変っていく。そして私は南無阿弥陀仏と喚びかけていく。即ち応答する。そこに喚びかけざるを得ないものが私に生まれてくる。それを「念仏まをさんとおもひたつ心の発る時」というのであります。
これはまことに大事件というべき事であって、親鸞は「建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」と『教行信証』の化土巻に述べられている。「建仁辛の酉の暦」というのは、二十九才で比叡の山を下りられたその年ですね。その年に法然にお通いになった。自分を喚ぶものに出遇ったのです。南無と私に喚びかけるものに遇うた。そこに南無と答えざるを得なかった。これを念仏申すというのである。これを「雑行を棄てて本願に帰す」といわれた。それが「念仏まをさんとおもひたつ心」というのであります。私が決心をして、今から念仏申そうという心と違う。念仏申すのもあまり気がすすまんけれどもひとつやってみるかというのとも違う。そういうのはあなたが自分でこしらえたものである。そういうものでなしに、大きな転回を言っている。私を汝と喚ぶものがある。それに遇ったのである。教に遇ったのである。教に遇うたということは、教を説く人に遇うたのである。親鸞の場合は法然上人である。ちょうどそれは電線に初めて会うたというようなものである。電線にあうことは、中を流れる電流に会うことである。その電流を南無阿弥陀仏という。それを包んでいるものを教といい、それを説く人をよき師という。よき人に遇うたままがよき教に遇うたのであり、よき教に遇うたままが南無阿弥陀仏に遇うたのである。その時に彼はIch-EsからIch-Duに転回させられたのである。それを「念仏まをさんとおもひたつ心」と申すのでございます。どうかそういうものに人間は遇わなきゃならんと思います。こういうものに通いますと、私が南無阿弥陀仏と大きな世界に答えて喚びかけるだけでなしに私の周囲にある人々に対して汝と喚びかけざるを得なくなる。それを利他行といい、他への働きかけというのでございます。今までは人を物質化していて、対立したり無視したりして心の通わないものであったものが、深い喚びかけを持つようになるのです。
ある幼稚園を経営している人が言いました。子供達をつれて動物園を見に行った時、付き添いに来ている母親が言うのに「この虎は毛皮にして応接間に敷いたら立派な
かつて申しましたように、私が色々教えられたお婆さんが居りました。山陰の方の人ですが、その人は鶏を養うて卵を売っては自分の小遣いにしていた。そのお婆さんが
少し余談になりますが、世間中に現在は色々な問題がうずまいているわけでございます。朝日新聞が何年か前から出している本がいくつかありますが、その中にショッキングな題名がある。御承知のように一つは『燃えつきる地球』。これはローマクラブという所が、アメリカの大学に委嘱した研究報告が出来た。それによると今から三十年もすると石油が無くなるしエネルギー源が無くなるという報告にもとづいて書いた本です。その次に出しましたのは『地球は満員』という本です。この書物は、二十一世紀になると地球の人口は七十億を越える。現在三十数億で食糧事情はアップアップいっているのが、増々食べ物が足りなくなって飢えていくということを言っている。も一つ『未来はあるか』これは公害とか環境汚染とかによって人間の中に色々な有毒物が蓄積されていき、環境そのものも破壊されていく中で、人類に未来はあるのかということを問うている。これらを見て一番奇異に感ずるのは、それではどうしたらよいかということが書いてない。その問いには答えてないのです。答える人がいないんです。こういうことではこんな本を出せば出す程人々は恐怖心を持ち、未来は
非常に極端な例をひいてみる。今、まっすぐ歩いていくとする。歩く幅は何センチあったらいいかというと、大体30センチもあればまっすぐ歩いていけるんです。幅が1メートルもあれば充分で余っておる。よほどよたよたしない限り1メートルもあれば充分です。では、ここに高い高い絶壁があって、そこに1メートルの道しかないとなると人は足がすくんで動けないですよ。1メートルあるからいいではないかと言っても動けない。また今ここに立っている。じっと立っているのだから30センチ四方もあれば立てる。1メートル四方もあれば悠々として立っていられる。少々動いても立っておれるが、十階も三十階もの高い建物のてっぺんに1メートル四方の所を作って、お前ここに立てといわれたら足がガクガクして忽ち高所恐怖症ということになってしまうと思うんです。どうしてかというと怖いからです。落ちはせんかと恐れるんです。これが足がふるえる原因なんです。どうなることかと思う瞬間、身体の方は硬直してしまう。どんなに科学的には大丈夫だといっても駄目。これは念仏申さんと思いたつ心が出てこんと駄目なんです。それはどういうことか。一言でいうならばDuですね。喚びかけですよ。喚びかけを持たねばいかん。ヘドロに対して、PCBに対しても喚びかけを持たねばいけない。Duという喚びかけです。先程鶏の話をしました。犬の話もですね。お前も可愛想だったなといってヘドロに語りかけてやらねばいかん。水銀にお前も気の毒な目に違うたのうといって水銀に話しかけてやらねばいかん。現在の対策はPCBの多い魚といえば、とって来てコンクリート詰めにして海に捨てる。PCBの多い魚といえばたたき殺してしまう。敵のように思っている。こういう考え方ではいけない。それは念仏申さんと思いたつ心がないからである。こういうふうに物を物質化している限りは何もたすかっていかんのである。相手を敵対視し、あちらとこちらが二つ対立しているうちは、怖れの心で硬直してしまう。心の問題がとけると問題はとける。「燃えつきる地球」、「飢えていく地球」という問題は、地球に向って喚びかける心がなければとても取り組めない。喚びかけとは何か。いわばその現実に対し、このような事態になったことを人類の責任として受け止めていくという姿勢、そういうものがなくてはならない。
かねて申しますように山伏
先ずおこるという、おこるとは仏教の言葉では発起という。開発起立と申します。カイホツキリュウと読む。それを略して発起という。
曇鸞大師の『略論安楽浄土義』という書物がある。その中に今、仏があって色々の衆生を救うというけれども、それは間違いではないかと質問を出している。それはどうしたことか。仏がいて衆生がたすかっていくというのであるならば、今まで既に長い長い時代がたっておるから、従って仏の働きも長い長い間続いている筈である。それであるのに実情としては、たすからん人間ばかり沢山おるではないか。あの人もたすからん、この人もたすからんと迷った人間が沢山いるのに、仏が生きているとはどういうことか。おかしいではないかといって質問している。答えていわく、太陽は輝き照っているけれども、ここに人あって眼をつぶっていると少しも見えない。陽の方が悪いのではない。雨がザアー降っていて水はあふれていても、そこに石があって頑として動かないと、その下はちっとも潤わない。カサカサに乾いている。雨の責任でなしに石の責任である。仏の光は常に照らし、慈雨はいつも注がれている。遂に宿善開発、宿縁が開いてくれば必ず出てくるようになっている。出て来るべきものが出てきた。それを起立という、出るべき因があったのである。燦々たる太陽の働きかけがあってそれが芽を生み出してくるのである。それを、あったものが表われると申します。長い長い私への働きかけがあって、当然出てくるように筋道がなっておったわけである。それが今出てきたのである。それが物の道理から言った場合ですね。しかし私の主観から申すならば、それは今まで出たこともなく本来あるべくもないものであった。それを開発と申すのであります。
蓮如上人の五重の義というものでいただくならば、五つのものが重なっているわけです。そして一つのものが完成した時に次なるものが完成していくようになっておる。その一番初めは宿善というのであります。宿は昔という、善は善根と申します。長い長い間の善根である。私の上に蓄積されてきた長い長い善根である。道綽禅師は『安楽集』にこう言っておられる。「今日この座に連なって仏の教を聞いて喜ぶことが出来る者は長い長い善根を持っておる人達であって、過去に半恒河沙の仏に遇うた人達である」。恒河沙というのはガンジス河の砂です。ガンジス河の砂の数という。半分であろうと三分の一であろうとガンジス河の砂といえば大変な数であろうが、そういう数の仏にかつて遇うたという宿善があって、はじめて仏法の座に連なって仏法を喜ぶ事ができるのであると、お経文を引いて述べられている。これを宿善と申します。具体的には祖先の長い長い過去の蓄積、法蔵因位の誓願、そういうものがあって出てくるのである。この宿善によってよき人に遇う。即ち宿善開発して善知識に遇う。善知識とはよき師よき友をいう。よき師よき友に遇って教えられ勧められ、励まされ叱られ、導かれてだんだんとわかるようになってくるのである。これは正に起るべくして起るのである。そして遂に光明に遇うという。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明という。光明とは何かというと私を照らす、私を照らすものに遇うのである。私が照らされる時に私の上に目覚めがおこる。そこに転回がでてくる。そして四つには信心、照らして下さって、自己に対する深い目覚めを持つようになる。それを信心という。それを「念仏まをさんとおもひたつ心」と申します。念仏申すということ、これが五つには名号ですね。念仏申さんと思いたつ心それを信心という。それが起るにはどういうことが必要かというとずっと積み重ねる、これを五重の義という。それには深い深い因縁がある。そこから念仏申そうという心が遂に出てくるようになっている。
阿闍世という人の物語がある。これは『観経』に出て、また『涅槃経』にも出てくるのであるが、遂に釈尊にお通いして無根の信という、目覚めというものを頂いて、深い仏教の帰依者となるわけであります。どうしてそうなったかというと深い因縁がある。物凄い因縁がある。一番近い因縁は自分が殺した父親のビンンバシャラが念じておるという事である、迷うている阿闍世に向って、「お前はどうしても仏様の所に行け」という天からの声が聞こえてきて阿闍世を勧める。阿闍世が「その声は誰であるか」と尋ねると、「お前の父、ビンバシャラである」という。これを聞いて阿闍世はいたたまれず悶絶する。そういう物語が出ている。宿善ですね。このような宿善がなげればとても仏法の席にも出てこん。一つには宿善、二つには善知識、こういうことがあって念仏の心が出てくる。起きてくるのである。従ってまことに出るべきもの、あらわれるべきものがあらわれたのである。これを起立という。しかし私自身から申すならば、光に照らされて自分自身を知り、ナマンダブと念仏申していけばいくほど、自分の中から出てきたとは思えないで、これは与えられたという思いがあるわけでございます。それを南無阿弥陀仏の廻向という。南無阿弥陀仏の喚びかけによって私が、その喚びかけに答えていくような身にさせて頂いたのであって、私の手柄という何物もない。それを開発という。
さてそこで開発起立とは一言でいうとどういうことかというと、今まで西も東もわからないで私-それで終始しておった者が、大きく転回をする。それを「念仏まをさんとおもひたつ心の発る時」というのである。その心はどうして起るのかというと宿善に恵まれて、よき人の教を聞きぬいて自分自身を照らされて、そこに起ってくるのでございます。
最後に一つ申さなければならん。「私も実はその通りにしております。教を聞いて、私を照らされて現在までまいっておりますが、念仏申さんと思いたつ心というのがまだ起りませんが、これはどうなのでしょうか」。そういう質問に一つ答えておかねばいかん。教を聞いて照らされているつもりだが、念仏申すという事にならん。一体なぜか。「私-それ」が「私-汝」になるという所までにならん。なぜか。これは大変大事な事です。それについて私自身の領解というか、私自身の体験というかそういうことを話しましょう。
そうですね、最近こういうことを思いますね。それは長い間聞いておりましても、一つこれだけはというものがある。これだけは絶対に譲れないというものが必ず人には残るんです。御法は御法、ようわかりましたがしかしここの所だけは仏法の通りにはゆかぬというものがある。親鸞聖人の場合をとって考えると三十五才で越後へ流されなさった。この事件は聖人にとって大きい事件である。越後の国に流されて苦労しなさった時に、どうしても赦せなかったものがあったのではないかと思うのです。それは南都北嶺と申しますか、南の興福寺即ち奈良の寺院、北の延暦寺あるいは天台の山々の人達が、自分達には宗教はないくせに、正しい行き方をしている吉水教団の悪口を言って、それがもとで吉水のサンガは打ち砕かれ島流しあるいは断罪に処せられた。これだけはどうしても赦せないというものがあったのではないかと思います。それは当然のことである。『教行信証』の後の方にも述べられている。しかし、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」というこの大きな広い心、「念仏まをさんとおもひたつ心」というものは、この一点だけはどうしても譲れん、憎い南都北嶺の人達だけは決して赦せないというのでは、この心にはならない。その最後のものを捨てなきゃいけないんです。最後のものを捨てる、しっかり握っているものを捨てる。これはどういうことかというと、「是れ猶師教の恩致なり」これこそ先生の御恩でございましたと、その現実を自分で担いなさった。これが本当に光明のお照らしに預るということです。
お前はどうかということになりますと、私のことを言わなきゃならん。私のはまだスケールのこまい話です。私は大体、物をきちんとしている方が好きです。私の家内というのはあまりきちんとするのは好きではない。散らかっている事がある。これは僕にはこたえるですね。どうしてきちんとせんかなあと思う。それがどうしても譲れん。念仏申すという仏法の話はよくわかる。しかしきちんとする事をせんといかん。こういうことになる。そういう小さな問題です。しかしこれがおさまらないのです。それを捨てる。これを捨ててナマンダブと念仏申すという世界に立つと、物凄く広い世界に出るんです。そのこと自身がナマンダブになるんです。
我々は何か一つどこかで引っかかっておる。何が引っかかるか、最後に何かある。あるいは金かも知れませんね。金だけはどうしても自分は離せんと思うかも知れません。一人一人別々の問題です。これだけは仏法とは別だと思う。こういうものをみんなひっくるめて分別という。或る人は名誉をいうかも知れませんね。名利ですね。人に馬鹿にされる事だけは許せんという人もあるだろう。仏法の他にこの一点だけは絶対に守らなければいかんという人もあるかも知れません。子供に対しては、これだけは親に対して子供が尽きねばならん問題だというかも知れない。何か一つあるんですが、実はそれが方々に出てきて幾つにもなるんです。それを分別というんです、これをはからいという。しかし分別、はからいというのは、はからったとは決して思えない。その思いをぎゅっと握って離さないで「あなたよく聞いて下さい。これは当りまえじゃないですか」というものがあるのです。それを捨てなさい。それを捨てるとわかるんです。捨てるとは何か。かなぐり捨てるんです。かなぐり捨てて頭を下げて、ナマンダブと念仏申すという世界にあなたが出なければいかんのです。それがあなたを進展さすだろう。そこに執われている限り人は救われない。「針の穴から天国へ出るようなものである」とキリストは言ったが、まことに何かに執われているのである。それを照らされて私の小さな執われとわかっていく、その心が起きることが発起という事になるのです。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、今ここらを言っているのです。一つだけどうしても教に従えない所が残る。すべてをかなぐり捨てて念仏申せと言われても、どうしても一つだけ残ってそれが捨てられない。
僕が女子の若い連中に言う。「誰と結婚してもいいんだよ」と。誰と結婚してもいいですよ。勿論あるレベル以上でないとよくない。健康とか何とか、普通以上がよい。しかしあとは誰とてもいい。AでもBでもいいんだというと、みんな「絶対にそうではありません」という。「先生は他の所はみんな信用出来るが、そこだけは信用出来ん」と言うですね。なる程なと思う、その通りじゃ。けれどもそれが一つの執われです。
「道宗近江の湖を一人で埋めよと仰せ候うとも畏りたると申すべく候」というのが『御一代記聞書』にありますね。たとえ一人で近江の湖即ち琵琶湖を埋めよといわれても誰が本気にする者がいよう。蓮如上人の仰有ることなら何でも従おうと思うが、それだけは絶対に駄目だと思う。ごもっともな話であるが、これが一つ執われのある証拠です。執われはそういう形で出てくる。「
自分のことで申しわけないが、亡くなられた先生にお育てを蒙って、七年たって昭和二十四年に九州に帰った。学校を転任したのですが、亡くなられた先生はその時に「早く学校をやめて念仏のお手伝いをせよ」と言われましたね。私は「はい」と申して帰りました。それからずっとそれが頭にあって、いつやめようか、いつやめようかとずっと考えておりました。考えているうちに二十六年たってしまいました。ずい分手間をとったものですが、前から準備をしておりました。色々と準備をして決して障害物のないようにしていった。ようやく今年そのように致しました。他の人は言う。「仏法のお話をよく聞いて、念仏申してそのかたわら人にも働きかけていけば先生の精神に沿うているのではないか。学校をやめる必要はないではないか」と。私はそうは思わないんです。私は先生の仰有った通りにやろうという心でした。「近江の湖を一人して埋めよと仰せ候ふとも畏りたると申すべく候」というお言葉が実によくわかります。その通りです。信心とはそういうものじゃということがよくわかります。どこかこれだけは従ってゆけないと思う時に人間は、それ一つだけと思うけれども、それで引っかかって出られないんです。そこを出るということが、最後の問題であります。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて念仏まをさんとおもひたつ心の発る時」
時というのは時間という問題で、「時間論」というのがありますが、大変むつかしい問題で私にはよく理解出来ません。しかし時というのに三種類ある。
一つは長い時間というものであります。長い時とは仏教では「
も一つある。永遠の中に「
も一つ、「一時」という、「或る時」という。我々は或る時、遇うわけである。これを一時という。今「……と信じて念仏まをさんとおもひたつ心の発る時」というのは、一念、一刹那という言葉で表わすのである。ややこしい話ですが――。そこで前念命終、後念即生という言葉がある。いずれにも念という文字が使ってある。長い過去の時間はその時に断ち切れてしまってそれで終ってしまった。そこから本当に新しいものが始まった。そういう時を一念という。我々がナマンダブと本当に念仏申せるようになると、お釈迦様は三千年の昔、印度に出られた人であるが、三千年も何も居りません。わが前なるわがよき人である。それは時間を越え空間を越えて、ひしひしと感じとることができる。お遇いすることができる。七百年前の親鸞という人、七百年というのは人間の時間から申すならば大過去の人物であるがそれが過去の人ではなしに今の人である。今というのは七百年という時間は関係ない。それを断ち切ったという。そういう時間のことを「心の発る時」という。その時は質的に違っているのである物理的時間でなしに仏の時間である。我々は仏の時間を持つようになるのである。仏の時間とは何か。これを永遠というのである。我々は何十何才というような暦の時間でなしに、この仏の時間を持つようになると物凄く若くなる。何才というような時間を越えてしまう。仏の時間とは年を越える。どんなふうに越えるかというと、「たまたま行信をえば遠く宿縁を慶べ」という遠い時間を持つのである。
普通の場合は遠く過去を考えると「憂しと見し世ぞ今は恋しき」である。あの時の方がよかったな、或いはしもうた、あんなことしなければよかった、あんなことした為にこんなことになったと愚痴になる。遠い時間というものは一言で言えば愚痴の時間である。あの時あの人と結婚したばかりにこうなってしまった!と言う。過去を考えると愚痴になる。仏の時間に立つと、遠く宿縁を慶べとなる。「あの失敗があったからこそ私の今日がある」と喜びが出てくる。愚痴の時間でなしに讃嘆、喜びの時間に変わる。今まであった事がみな生きてくる。成功も失敗も、あんな事件にあったことも、こんな辛い目に出合ったことも全部生きてくる。それらがあればこそ今日の私があったということがでる。そういうのを生きている時間という。愚痴の時間は死んでいる時間、仏の時間は生きている時間である。今という時間を持つから永遠の時間に立つ。それを一念という。物理的時間を切断して仏の時間があらわれてくる。仏の時間の上に立つと、すべてのものが生きてくるようになっている。
一年々々を一頁々々に例えるならば、二十才の人は二十頁のノートを、八十才の人は八十頁のノートを持つことになるわけであるが、一頁々々がばらばらであること、この頁は楽しいがこの頁はいらん、この頁があるばっかりに情けない思いをせねばならぬ、これは引きちぎって捨てたいという頁がある。が、それらが一つの紐でつらぬかれると、これが「私の人生」という一冊のノートになり、引きちぎって捨てたい夏もそれがあればこそ、次の頁ができて更に次の頁ができて今という頁につながっている。この念仏申さんと思いたつ心のおこる、その時が出てくれば全部が生きてくる。それを時という。仏法における時というのは、仏の時でありそれを一念という。一念発起という。死んでおったものがすべて生きてくる。そして新しい時が始まってくる。それを発る時という。
親鸞聖人は本願成就ということを頂かれた。本願成就によって人は大きな世界に出されるのである。本願成就というのをあらわしたのは本願成就文といって、『大無量寿経』の下巻の始めに出てくる。かねて申しましたが、
諸有衆生
聞
其名号
信心歓喜
乃至一念
至心廻向
という。至心廻向は一番上にある。至心廻向とは、至心とは如来のまごころ、如来のまごころが私に与えようとする、私に届けようとする、それを至心廻向という。何を届けるかというと、信心歓喜、乃至一念という世界を届けようとする。信心の姿をあらわして信心歓喜とされているが、大切なのはこの乃至一念である。乃至一念とは親鸞聖人は、「信楽開発の時剋の極促を顕す」と言われた。時をあらわすのだ。本当の時、仏の時、それを賜うのである。まことに我々の信心歓喜のその時に、我々自身の持っている長い長い迷いの時、愚痴の時間をたたき破られて、そこから本当の時間があらわれてくださる。それを乃至一念といわれる。時剋の極促をあらわす、時間をあらわすのである。なかなかわかりにくいですが、いわゆるカイロス、時間の切断である。善導大師はこれを前念命終、後念即生といわれた。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて念仏まをさんとおもひたつ心の発る時」の時、これを乃至一念という。そこに全く時が変ってくるのである。愚痴の時間が喜びの時間に変り、信心、めざめという中で変ってくるものがある、本当の信心を得たならば変ってくるものがある。時というものに対する考え方、時間というものに対する考え方ですね。時間を大切にというのではなしに、『歎異抄』の言葉を借りるならば
我々は時を考える。いや今でも時を考えるという人がいるだろう。明日は天気になるかなあと、明日という時を考えている、明後日は……、来年は入試で……、と。また昔の事も考えています。三年前に金を貸したけれどもまだ返さん、困った事だと考えている人もあるだろう。要するに愚痴の時間である。「竊に愚案を廻らして粗古今を勘ふる」何を考えておるかというと「先師の口伝の真信」。先師の口伝の真信とは、私に教えて下さった先生、その前の先生、そのまた前の先生、ずっとつながって遂に尽きる事のない深い深い本願の流れ、そういうものを考え、「後学相続の疑惑有ることを思ふ」今から後に続く人達が間違って迷いはせぬかと心配する。考える内容が質的に違うわけです。内容的に違う。それは愚痴でなく仏の時間を持つ。時間が変わる。時間を与えられて至心に廻向されて仏の時間を持つのである。ここに乃至一念という事を時剋の極促を顕すと言われた。大変むつかしいが研究課題として出しておくわけです。その時を与えられると過去のすべてが生きてくる」後学相続の疑惑あることを思うという深い時を持つ。
親鸞聖人は『教行信証』を結ぶに当ってこういう言葉をあげられている。「『安楽集』に云く、真言を採集して、往生を助修せしむ。何となれば、
それは同時に諸有衆生、いわゆる罪悪深重の自己に目が覚める時である。そこに生まれてくる時である。罪悪深重といえば何やら罪でも犯したということになるが、それは私の現実、私の姿に目覚めていった時である。私共には表面的な事しかわからんが、実は深い深い罪を持っているのである。氷山の一角といって、一部分だけ上に出ている。一部分だけ見える。何が見えるか、十悪である。十悪とは悪い事をしたという行動、言葉、嫉妬心、怒り、腹立ち等が見える。が、その下にかくされているものがあるがそれがわからん。何がかくされているかというと、逆という、五逆という。逆らう、反逆という。何に逆らうかというと親、先生、友、遂に仏である。人間は反撥の心を持っているのである。が、これがなかなかわかるものではありません。しかし自分が親不孝だということがわからんようでは、宗教はわからんと言わねばならん。その逆の下がまだある。深い深い底辺がある。それを誹謗正法という。誹謗正法とは正法(正しい仏の教、弥陀の本願)をそしることである。曇鸞はそれを註釈して、仏を無視している事と言われた。本願を無視した私の生き方というものである。それを誹謗正法という。ここになるといよいよわからん。諸有衆生とは何か、罪悪深重、深い自己というものにめざめていく。深い私が明らかになってくる。何が明らかになってくるかというと、私に向って南無と喚びかけて下さる仏を放ったらかしにして、それを問題にもしないで私の分別によって右往左往して、仏を無視して毎日生活を行なっている事実が明らかになる。これを罪悪深重といっている。これは法律的な罪でもなく道徳的な罪でもないんです。宗教的な罪です。私を喚ぶものに遇うて始めてわかってくるような自己です。親鸞聖人の悪人とは全部これです。ここを言ってある。自分が本当に教を蒙りながら仏を無視した生活を罪悪深重という。これを根源的
我々に諸有衆生のめざめを与え、聞其名号の世界を与え、信心歓喜、乃至一念という時を与えてくれるもの、それを如来の至心廻向というのである。それが生まれたところに顕われるのが根源的懺悔である。諸有衆生のわれというのが出てくるのである。時を持つのである。その時を持つという事が大切な事で、時間に関する考え方が全然違ってくる。三千年なんてのは大したことではありません。七百年というも今である。先を訪い後を導くという広い時間を与えられるのである。