六、と信じて

『歎異抄講読(第一章について)』細川巌師述 より

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1 信ずる

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏まをさん」とおもひたつこころの起る時すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまふなり。
 今日は信ずるということについて申しあげたいと思います。信ずるということは常識的にはよくわかっていることで、何々を間違いないと思うとか、あるいは承認するとか、疑いがないとか、大体信ずると言えば一応わかっているような気がするわけです。けれども仏教における信という問題は常識的な信と違っていて、その点が明らかにならないと以下『歎異抄』全体についてすべて誤るわけであります。信ずるとはどういう事か。
 先ず普通考えますのは、信とは宗教の入口で要求されるものという考えであります。すべて宗教はその入口にいわば門番が立っていて信ずる者は入れ、信じない者は入るなという。従って信ずる者は救われ、信がなければとても入れないと思う。事実、キリスト教にしましても信ずるということを一番始めに要求しており、或いは創価学会にしましても始めに信力ということをかかげているわけです。しかしながらこれは無理である。なぜ無理がというとよくわからないのに信じ込むとか、正しいと承認するとかいうことは不可能なことです。それでも信ずるというのは盲信である。盲信というものは厳に慎まねばならないものである。現代人は特に盲信ということには敏感で、そういうことは出来ない姿勢を持っている。それであるのにやはり盲信するということがある。この地方はどうかよく存じませんが私の地方では何々交通とか何々鉄道のバスに全部お守りがついていまして交通安全と書いてある。なぜそういうものをつけておくのかわからないけれども要するにそういうものがついていると、少しでも交通事故が少なくなるのではないかという感じだろうと思います。試みに「こんなものをどうしてつけているのか」と運転手に聞きますと「いや会社がつけとりますので」という。「はずしてしまったらどうですか」というと「付けとらんよりましでしょう」ということになりまして、何だか知らんがつけておくと何か役に立つのではないかと思っている。そういうふうなのも一つの盲信である。その他、現在知性の上ではおかしいのではないかと思いながらやはりつけていないと具合が悪い、そういうふうなことがあってつけているのもありますし、或いはわざわざ自分で正月一日には自動車に乗って交通安全のお守りを受けにいく人もある。こういう状態である。頭では盲信というのはいけないと思いながら、やはりどうしてもそうなっている。それはともかく、宗教ではその入口で信心が必要ではないかと思う。しかしそれは間違いである。
 また、人は何かを信じなければならないのではないか。何かを信じてないと不安であるという。そこで何かを(まつ)っている。それにお供物を上げたりお祭りをしたりして、こういうようなことで何かを信じたい、そういうふうな気持ちがある。そういうことに乗じて色々な宗教が色々なことをいう。人間の持つ不安感が、何か支えになるようなもの、何かたよりになるものを(つか)んでおきたい、こういう心理をもたせる。それでは信ということについて仏教ではどういうかというと、先ず信不具足ということを言っている。この信不具足というのは『涅槃経』に出ている。その『涅槃経』の言葉をかりて親鸞聖人は『教行信証』の中に二回、信不具足ということを繰返している。これはどういうことかというと真の信でないもの、それを信不具足という言葉で表わすわけです。
 仏教でいう信と違ったもの、それを信不具足と表わしておよそ三つの事を言っているのである。「信には二種あり、一つには聞より生じ、二つには思より生ず」こういうように信というものの表われる――信ということをもう少しよく定義しておかねばなりませんが――応表われ方、生じ方に二つある。一つは聞より生ず、即ち教を聞く、或いは人の言っていることを聞く、そこから生まれてくる。これは間違いない、これは信頼出来るものであろうとこういうふうに信じるわけである。二つには思より生ず。思というのは思索である。この人の信、聞よりして生じ思より生ぜず、これを信不具足となす、こういうふうに言っている。思は思索ですが思索とは考えるということである。考えるとは、わが身にあてて考える。聞いて信じたというようなものではなしに、思索を通してわが身になる程と了解をしてわかったということを信という。今、聞からだけ生まれて思というものを通さない、それを信不具足という。それでは本当の信は何かというと聞より生じ、しかも思より生ずるというものである。即ち聞思というものをくぐってきたものを信というのである。たくさん偉い人がいる。その人が教えてくれた、色々言ってくれた、それをなるほどと思って聞いた。それを承認しそれがそうだとわかり、それについて疑わないということになった。それは真の信と言わないのです。教を聞いて考える、聞思というところに生まれてくるものでなければならないという。たとい万人に普遍的な真理であるといわれるものであっても、私自身の主観においてなるほどと納得できるものかどうか、わが身に本当にそうだとわかるかどうかが、思惟において追求されねばならない。そういうものを通さないでただ聞いてそれを信じたというものは、観念にとどまって主体的な認識にならない。これが第一にあげてある。教は先ず客観性がなければならぬ。時代を超え、民族を超え、どのような社会状況の中でもそれが成り立つというもの、そういう教を聞いて明らかになる、それが聞くということである。しかし自分が本当にそれをわが身におしあてて、そうだそうだと私において明らかにならないと本当でない。実証性がない。こういうことを聞思という。先ずこのことが『涅槃経』に言ってあるわけである。従って宗教はその入口で信を要求しているのではない。聞くということが入口である。聞く時に、聞いて信じなければならないというのではない。聞思というプロセスがある。そのプロセスを経なければならない。それが第一の信不具足という問題である。
 更に第二には「信に二種あり、一つには信、二つには求なり」。そこに第二の問題は、信というものは一つは信という――といえば一応疑わないこととしておく――「かくの如きの人、また信ありといえども推求することあたわず、これを信不具足となす」。信ということを言っている。求というのはもとめるということですが推求のことでありまして、推し測り求めること。我々の現実生活の中で、正しいかどうか、それを生活の中で明らかに推し測り求めていって現実性というものを確かめる(現実の反対はいわゆる観念と申します)。疑わないというところで止めるのではなしに、現実の中でそのことを確かめる。そこに実証性を追求する。ただ信じているだけでは本当の信と言わないのである。推求という問題が非常に大事なことであります。
 親鸞という人は二十九歳に比叡の山をおりて法然上人にお遇いになった。その時に教えられたことは「法然におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」というのであった。それを頂いておそらく落涙数千行といいますか、親鸞聖人御自身のお言葉で言えば「建仁(かのと)(とり)の暦、雑行を棄てて本願に帰す」という言葉が『教行信証』の中にある。建仁辛酉の暦というのは聖人二十九歳の時である。その時に、自分は今まで雑行雑修、自力の心というところにとどまっていたのに、本当に他力の道に立たして頂いたという感銘が述べられている。従ってその時に「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」ということが親鸞の心をつらぬいて、大きな感動を生んだということがわかるのであります。が、それが更に深い信というものに転回するには現実というものにぶつかりなさる。そこに大事な問題がある。三十五歳に越後の国に流されて、いわゆる流し人としての生活が始まった。何でそうなったかといえば比叡山或いは奈良(南都北嶺と申します)、そういう旧教団の勢力が朝廷を動かして間違った裁判を招来した。正しいものが間違ったもの、清らかなものが汚れたもののために矛盾した結末を押しつけられたのである。その現実の上で、おのれにっくい悪僧ども!おのれ腐った旧勢力!という厳しい批判が聖人の心にあったに違いない。その時に推求ということがなされたかどうかということが、信具足か不具足かの分かれ目である。
 この現実の矛盾の中で、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という師教はどういう事であるのかということを推し測り求める、それを推求と言います。聞いた教を現実の中で自分が追求していって、その教を本当に領解するということがなければ信と言えないのであります。現実という台の上に私がのせられ、教というハンマーによって私自身を鍛えられる。現実の上で教をいただく。そこにその教が本当に実証され体解される。それが推求という問題である。
 ある人が申しておりました。その人は或る国立の結核病院の看護婦長をしておりました。田舎の国立病院にはたいてい火葬場がある。病気が悪化して個室に入った患者の中には、死んだ人を火葬場で焼くときボーンと煙が出る、その煙を見て熱が上って間もなく重体になる場合が多いという。そういう個室にいる人をねらって色々新興宗教の人が回って来るそうです。「これをあなたが本当に信じて、こういうことを毎日となえたならば必ずなおる」と言って元気をつける。その人は(わら)をも(つか)む気持ちで一生懸命になるわけであるが、とうとう熱が上ってきて自分でもう駄目だったとわかる。そういう時にその貰ったものを投げ捨てて「だまされた!」と言って死んでいくという。最後のどたん場になってその現実、今は死の苦しみの中で、自分の聞いた教というか、或いは自分が信じ込んでいたそのものが、自分を救うものにならないで「だまされた」といって終るようではまことに悲惨である。
 教が現実の中で成立しなかった。教は現実の中に立って、はじめて本当であるかどうかということが証明される。これを推求という。推求してそれが本当であるということを、現実の生活の中で言いきれるものを信と申します。だまされたと言って死んでゆくのでは惨めである。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」ということは、それは信じ込むということではない。また、ただ聞いたのでもない。本当に思索を通し、しかも現実を通して真にわかったもの、それを信というのである。従って信は入口で要求しても無理なのである。信というものは入口ではなく、到達点であります。多くの辛酸を超え、現実をくぐってそこに明らかになってきたものを信というのである。信というのは求道の果てに開けるもの、それが信という天地である。それは単に信ずるということではなく、いよいよ明らかになるということである。真の認識が生まれるということである。これを信というのであります。
 ここでもう一つ言っておかなくてはならないことがある。「信に二種あり、一つには道ありと信じ、二つには得者を信ず」。『涅槃経』に第三に言われるには、「この人の信、ただ道あることを信じて得道の人あるを信ぜず、これを信不具足という」。道あることを信ずる、つまり正しい道があると信ずる。親鸞の道、或いは仏道が正しい道なんだということはよくわかった、ところが実際にそういう道を体得した人がある、生活している人があるという事が明らかにならないとそれを観念的という。インテリや学問をする人達というのは、ここにとどまって、信不具足をまぬがれないといわれるのであります。具体的な念仏の人ということになるとそれを見いだすことができない。これは人の話ではなしに、私自身もそうではないかと思うのです。
 例えばここにポスターをはって「今晩、日野の公民館に親鸞来たる」ということになっても、私は行かないと思います。なぜかと申しますとこの人は肩書がないのであります。人相もあまりよくない。その点法然、道元という人の顔の方が魅力的である、家庭はどうかというと奥さんとは長い間別居、長男は義絶して親子の縁を断ちなさった。それでは今どんなお寺におられますかというと、いやもうそれは小さなお寺で、それも弟さんの所に間借りをしていなさるというと、「はあー」というばかりでさっぱり話なんぞ聞く気になれない。要するにこの人が本当の念仏の人、信心の人ということがわからない。その外側だけ見て目糞鼻糞にとらわれて、得道の人というものを見いだすことが出来ない。その内面というものがわからない、そこに問題がある。これを観念的と申します。観念的とはまた理想化と申します。親鸞という人は人格高潔であって、いわゆる地位も名誉も学歴も我々とぐっとかけ離れた素晴らしい人ではないかと思う。しかし具体的には一人の年寄りが、歯も抜けほほの肉も落ちて、見る影もない老衰の人でありながら、その中に実は燃えるような信というものが生きていて、やせおとろえたその人の中に、しかも本願が躍動しているんだということを拝む眼がない。それを信不具足といい、或いは真の信でないという。理想化、観念化というものに閉じこもって、具体的な謙虚な明晰の眼というものを持たない。
 すべて本当のものというものは低い所にあるのであります。我々は高い所にあるように思うのですが、実は低い所にあるのです。これは筋が違いますが、ホテルとか宿屋、あるいは他のお宅に泊まりまして一番大事なものは何かと申しますと、鏡でもなければクーラーでもなく便所です。それと塵籠(くずかご)であります。立派な部屋でも塵籠がないと本当に困ります。ゴミの問題であります。今、何を言おうとしているかと申しますと、家庭の中で一番大事な人は、ゴミ箱のように何でもゴミを引き受ける人、苦しみ、悲しみ、愚痴を聞いてくれる人、万人の同情者あるいは理解者、そういうような人こそ実は大事な人なんでありまして、そういう人こそ今時に必要な人である。或る先生は「家庭の中のゴミ箱になれ」といってそういう話をされたことがございましたが、道は低い所にあるのであり、得者というのは本当に低い所にあるのであります。「無慚無愧のこの身にて、まことの心はなけれども」と親鸞聖人の和讃の中に出てくるのでありますが、「心は蛇蝎(だかつ)のごとくなり」という深い反省の中に本当のものが光っているのである。ところが外側だけを眺めていて我々は真の人を見る目がない。観念化、理想化の中に追いまくられて本当のものを見失っているのである。
 信において何が明らかになるのかというと、それは先ず自己自身が明らかになる。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」と信ずるとは、聞いて考えて具体的に現実の中をくぐって、そして本当の人に遇うて私自身が明らかになったのである。
 普通は信ずるというのはどういうことかというと、私が或る物を、或る教を信ずるということである。これはいわば平面思考というか、普通の常識的な考え方である。これを対象化という。ある対象をとらえてこれを信ずるかどうかという。対象化とはどういうことかというと、向う側に見るということである。自分と切り離して見る、正しいかどうか、そして本当かどうかと考える。私とバラバラに、私が向うに対象を置いて考える。従ってその問題点はどういうことになるかというと、これは信じられるものかどうか、これが問題になる。も一つはどの程度に信じたらよいか、こういうことが問題になる。結婚でもしようという時には仲人口というのがある。どこまで信じたらよいかな、まあ半分位にしておこうかな、そしてあとは興信所にでも頼んで調査しようということになる。いつかも申したと思いますが、興信所という調査所があって色々な所から調べを頼まれるとみえて、僕も一遍調べられたことがある。その調査書を見てびっくりしたんです。本当にたまげましたね。細川という人物は大学の中で全く信用の置けない人物で、箸にも棒にもかからんと報告されていたのでびっくりした。誰が言ったのか心当りがない。そこで僕は興信所の調査も信用ならんなということが、わが身に沁みてわかった。何万円も取るんでしょうが、そういう間違いも時々ありますね。だが、これが本当に信頼出来るかどうかということは誰かに聞かねばならん。しかし聞いたその人が誤解しておったならば、もうどうしょうもないですね。従って我々は全幅的に信ずるということはできるだけ避けて、まあ或る所までということで終る方が安全である。しかし仏教の信というのは、或る程度までとか、50%は信じて50%は保留しておきますということはないんです。仏教の信は零点か満点がどちらかです。一つしかない。それはきびしい、そんな事は無理だろうと思うでしょうが、そんな事を思っている間は零点ですね。本当に明らかになるのですからね。本当の認識が生まれるのです。いわば自己自身が明らかになるということです。人をとやかく言うのではなく、私の根底、足もとを貫いて私自身の立っている所、或いは私自身そのものが明らかになる。それが仏教における信です。半分信じておこうというものではない。
 本当に明らかになるということがあって、これを自覚というのです。自らに覚めるという、めざめという、それを信というのである。しかしここでは「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」と信ずるのではないか、これは自分を信ずるのとか、自覚とかいうのとは違うではないかと思われますが、これは弥陀の誓願を信ずるのでなしに、誓願によって自己が明らかになる。どういうふうに明らかになるかというと、私自身の発見、自己の発見である。何が発見されるのか。『歎異抄』第二章に出てまいりますように罪悪深重というのである。罪悪深重といえば何やら罪を犯した、法律にふれるような事をやったように考えられるが、そういうことではありません。そうではなしに深い自己の発見においてはその自己を表わす適当な言葉がないんです。言いようがないんです。ソクラテスは汝自身を知れと言っている。その時にどんな答が出たか、それは愚か者という、自己の愚かさを知った。それはそういう言葉でしか言えないのです。愚とか悪とかいう言葉でしか言えない。なぜかというと、この垂直的な思考は、思考というよりも照らされるというべきである。喚ばれるというべきものである。私の立っている根底から私を喚ぶものがある。これを根源からの喚びかけという。私の一番土台から私を喚ぶものがある。そこに堀り下げるというか、その喚び声に答えていくということがあるのである。
 我々は始めの段階では理想、教、仏、そういうものに向って近づいてゆかねばならん、私がそれに向って一歩一歩この現実から進んで行かねばならん、これが我々の精進であると考える。その途中に信ずるという事が必要ならば信じましょう、やらなきゃならんというならばやりもしよう、とにかく進んで行きたいというのが求道的な実行、行というものである。しかし本願の天地、弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせるという天地は、こういう段階でないのです。遂に最後に我々に明らかになるのは、仏は向うにあるのでなしに、自分が仏というものを足の下に踏みにじっておって、実は私の踏んでいる大地の底に、私によって踏まれた形で仏は存在している。私は仏を踏みにじった存在であるのだという事がわかるのが本願の宗教というのである。仏は下から喚んでいるのである。私の底から喚びかけて下さるのである。そこに垂直思考というものが出てくる。それしかない。そこに私の上に自己自身というものの姿が明らかになってくる、それを自覚というのである。それを罪悪深重という、それしか言いようがない。まことに地獄は一定すみかという外に言いようのない自己、そういうものが明らかになってくる。これが真の認識、私に対する認識、また真の仏に対する認識、これが私において明らかになってくるところに、それを信という。それを信ずるというのである。半分信じたということはあり得ない。「信ずるほかに別の子細なきなり」というものである。
 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信ずる、そこに転回がある。それを廻心と申します。今までは対象化というか、向う側に考えておる。それを思議の宗教という。思とは人間の思い、議ははからいと申しますが、いわば知性を中心にして、知性中心の進み方というものを思議の宗教という。善い行いを実行していったならば、いつかは善い報いがあるだろう、悪い行いをやったならば必ず悪い結果が出てそこに悪果を生む。善因善果、悪因悪果を予定しているのを知性中心の生き方という。これを思議の宗教という。殆んどすべての宗教はそういうことになっている。天理教なら善い事をしなさい、誰も見ていなくても正しい事をしなさい。履物が乱れているならば履物を揃える。便所が汚れているならば便所を掃除する。そういうことを人に隠れてやっても天の神が見ていて下さって、必ず善い結果を与えて下さる。悪いことをしたならば、天網恢々(かいかい)疎にして漏らさずという。必ず悪い結果が出て、そこに不幸が起る。善い事をしたら幸福が、悪い事をしたら不幸が来る。この世で善い事をしたら、死んでも幸福な世界へ行くことができる。このように教えるのが思議の宗教です。これは人間の考え、人間の根本にある思いに相応している。人間の知性は、間違った者が栄える筈がない、正しい者が必ず栄えなければならない、たとい我々の目の前でそうならなくても、いつかはそうなるといいます。その一番有名なのは、ゾロアスター教です。ゾロアスター教は拝火教と申します。中近東の古い昔ですがそこから出たもので、キリスト教の起源につながっている。ゾロアスターというのは人の名前ですが、ゾロアスター教の系統は全部そうなっている。最後は神の審判がある。その審判によって間違った者は焼かれ、正しい者は天国に召されるのである。最後は神様を持ち出す。このように善い事をしたら幸福になり、悪い事をしたら不幸になると考えるのを知性中心の宗教という。ここから出発するのである。それを仏教では信罪福心という。
 本当の宗教はそこから深い転回がある。それを廻心という。思議の宗教は私の知性というものを根本に置いて、その上に立って善因善果、悪因悪果ということを考え、善い事をやろう、悪い事をやめよう、そして正しい人間になろうということを求めている。それ自身は少しも悪い所はないのだが、問題は深い我執が真中にひそんでいることである。それは深いエゴというべきもの、即ち善い事をするのも自分の幸福ということを考えているからであり、悪い事をやめようと思うのも結局自分が不幸になりたくないということにつながっているわけである。そこがわかっていない。これが知性の持つ大きな盲点であり、知性そのものの持つ執われである。知性はエゴの上に立っている。それがわからないのを思議の宗教、知性中心の宗教という。ほとんどの宗教はそうなっている。
 この思議の宗教を超えたものを「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」宗教という。そこには深い廻心というものが要求されている。それはどういうことかというと、平面思考の方向を転回して垂直方向によって自己自身の知性をぶち破って、その中に潜むエゴを見いだしていくという宗教。それは自分の力で出来るのでなしに、先程申しますように私の根本から喚びかけてくるようなものを持たなければ転回は出来ない。廻心とは転回である。何から何へ転回するのか。平面的な考え方、知性中心の考え方から、知性そのものを破るような方向へ。知性そのものを破るような方向とは何か。私を大地の底から喚ぶ声を聞き、自分が仏を踏みにじっておったんだということを知るような転回。それが弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるということである。それを本願の宗教という。その時に必ず諸有衆生、聞其名号、信心歓喜となる。諸有衆生とは自分に対する深いめざめである。それはどうして生まれるのかというと、聞きぬくということによって生まれる。何を聞くかというと、よき師よき友を通して、南無阿弥陀仏の名号、名告りを聞く。私に喚びかけている如来のまごころを聞くということが諸有衆生、聞其名号ということである、そこに生まれるのが信心である。これを廻心という。転回という。平面的に考えていたものが垂直に変わる。
 仏法の話というのはここがむつかしいんですね。皆さんが聞いていってもある所まではわかると思う。どこら辺までかはおわかり頂けると思います。これが、転句とか廻心とか本願成就とか、私が足の下に敷いているとか、そうなるとわからん。これは断絶である。そこには深いギャップがある。一次元の世界を話しておったものが二次元の世界を話すようなものである。一次元の認識ではわからない所が出てくる。それはお前が説明が下手だからだろうと思われるかも知れんが、誰もうまく説明出来る人はないんです。これは出来ないんです。それが証拠に禅宗などは「悟りとはどんなものですか」などと言うと蹴飛ばされるですよ。鼻の頭を捩じ上げられる、そう書いてある。今もそうなっているかどうか知らんが、何を言っとるかと蹴飛ばされる。それは言い様がない。言葉で言えない、体解するほかない。しかし言えることだけは言っておかなきゃいかん。何が言えるのかというと体解のための条件、基本姿勢とはどういうことかというと、たとえば今、ピアノを習うとする。そうすると、とにかく練習をしなければならん。一生懸命練習する。それで上手になるかというとそうはいかない。それは我流になりやすい。先ず椅子に腰かける位置、座り方、背筋を伸ばして指をこういうふうに立てて、こう運ぶんだという基本がある。その基本をマスターして実際に弾いてみる。そしてそこは強すぎる、弱すぎる、ここはこういうふうにという小さな指示を受けながら、それを素直に聞いて練習していくことが必要である。そこに必要なものが基本姿勢ができることである。それがなければならん。従って今、本願成就ということをあげましたが、そういう天地はいわば求道の果てに開けるものであるけれども、それには一つの姿勢がいるわけである。その姿勢ができないと我流に(おわ)る。
 基本姿勢というと、先ず親近善知識という事である。よき師よき友に親しみ近づくのである。()れるという字がある。これは親しみ近づいているわけであるが、世間的な気持ち、愛情というか世間的な愛着を意味している。狎れ狎れしいという、そういうものではない。仏道における親近である。よき師よき友に近づくというが、実際にはどうすることか。その反対を考えると、近づかない、遠ざかる、親しまない、うとうとしい、いつも距離を保っている、そして物を言わない。蓮如上人は申された。「何ともして人に直され候ように心中を持つべし」と『御一代記聞書』にある。何ともして、即ちどのようにしても私の心の中を直して頂くように心がけねばならない、こういうお言葉である。これが親近ということである。また、「蒔きたてにては信をとることあるべからず」と言われた。蒔きたてとは種を蒔いただけで放っておくことである。いうなれば聞いておるだけである。そして放っておる。花を育てるにしても野菜を作るにしても、大事なものになればなるほど手の要るものである。草を取ってやり、虫がつけば消毒をし、間が迫ってくれば間引きしてやり、倒れそうな時は土寄せをしてやり、中耕をし、追肥をやって手をかけねばならない。そうしないと立派なものは出来ない。「蒔きたてにては信をとることあるべからず」。蒔きたてということでは、信の転回も本願成就もないということを言われている。私の心というものを直されるように持って、よき師よき友に親しみ近づくということが大切である。それには先ず物を言うということである。質問をする、わからん所を尋ねる、或いは自分はこう思うが如何でしょうかと質問をする、それを親近するという。よき師よき友に親近して、できるだけ物を言うようにする。これは皆さんに少し当るかも知れないが、仏法はできるだけ前の席に出てきて聞かないとあまり聞けないのです。音楽会でもそういう点がある。後の方で聞きますと色々雑音が入るわけです。なかなか聞きとりにくいところがある。また前の人が頭を動かすと後の方ではそれに気をとられるということがある。そのほか色々なことがあって、できるだけ近づいて聞くということが大切です。これが一つの聞法の重要なことです。それはまた一面から言えば法に親近するということにもなるだろう。要するに親しみ近づくということになるのである。
 次は恭敬ということである。前にも話したと思うが、ここの所をもう一度基本姿勢としてとりあげておきます。謙虚に聞くということ。恭は頭を下げ、敬は相手の徳を敬うという、要するに謙虚さというものが必要である。その反対は批判的に高い所から聞くという。これではなかなか仏法は身につかない。
 も一つ大切なのは供養である。供養とは物をさしあげるという事である。物をさしあげるというとお金や物を考えるのであるが、大事なのは何かというと時間である。我々の持っている時間である。朝から晩まで仕事があり、人にも遇わなきゃならんし行きたい所もある。が、仏法のために自分の時間を捧げるということがいるのです。これは物とか金と違っているが大切である。遂に我々の生涯を捧げるというものである。生涯を供養するとは私が一生をかけて聞こう、二生を貫いて聞法を継続一貫、最後まで聞きぬこうというのが生涯をかけるということである。こういうことがないと基本姿勢にならない。我々の最も大事なものを供養していく。本当に道を成就したという人には必ずこういう基本姿勢が成立している。必ずそこに共通したこういう姿勢が拝まれるのである。先ずどうしたらよいかという前に、我々の上に成り立たねばならないものをあげたのであります。

2 念仏申さんと思いたつ心

 信ずるという事については今後も色々出ることですのでその時また申すとして、今は念仏申すということについて少しふれておきます。この文章で注意しなければならないことは、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて念仏申さんと思いたつ心をおこす時でないということである。念仏申さんと思いたつ心をおこすのではない。心のおこる時、念仏申さんと思いたつ心がおこるのである。それでは「と信じて」それからそういう心がおこるのかというとそうではない。信ずるということが同時に、念仏申さんと思いたつ心なのである。これは同時であり、紙の裏表、離れないのである。これが大事な事である。それには念仏申すということがよくわからんといけない。
 念仏申すという事は南無阿弥陀仏と申すことである。一回に南無阿弥陀仏と称名するのを念仏申すというのである。その心がおこるのである。……と信じて念仏申さんと思いたつ心がおこるのである。念仏というのはその大もとは何かというと本願である。本願というのは、我々の上にかけられている深い願いである。その願いを具体的には南無阿弥陀仏という。南無とは帰れという、命令形である。共にあれという仏の願いである。阿弥陀仏を我という。我と共にあれ、我に帰れというその喚びかけを本願という。それを弥陀の誓願不思議と申すのである。これが私に届くことを、本願が私に至り届くといい、そこに生まれるものを信と申すのである。信を、念仏申さんと思いたつ心というのである。従ってその信は、それが届いたならば必ず南無阿弥陀仏となるのである。南無阿弥陀仏の本願が届いて、南無阿弥陀仏の念仏となる、これを称名といい、念仏という。本願からの喚びかけは仏念である。仏の念願が届いて私の上に念仏が生まれる。本願とは仏の根本の願いである。私に対する深い願いである。
 我々は仏と私(衆生)があると考える。親と子があると考える。我々は分けて考えるしかない。知性は物を分けて考えるわけで、主観と客観、我と彼、親と子というふうに分けて考える。しかしながらそういうではない。親と子は一つ、分けてはならないもので便宜上親と子というけれど、子供がなければ親とは言わない。また、親がなければ子とは言わない。親子というのは親と子が不測不離にあるわけです。親と子というのは離してはならない概念である。これを一体という。この時親は子供が本当に子供としての生き方をしてくれないと、親は親になれないという悩みがある。子供が勝手なことをするということは、親としてはものすごいショックである。また、子供にとって親が親でないということは深い悲しみであろう。親は子供に対して深い願いを持っており、関心を持っており、切るに切られぬものを持っている。親と子の深い結びつき、それを連帯感とでもいおう。その連帯感の中に喚びかけがある。その深い連帯感は喚びかけである。
 今、親と子というのは一つのたとえであるが、仏と衆生はまた同様である。衆生というものがなければ仏はない。その場合これを如という。それは真如というものにすぎない。真如から来たる、それを如来という。なぜ来るか、衆生あるが故に如来となるのである。従って如来と衆生は離れない。そこに深い連帯感と共に深い喚びかけ、深い願い、深い語りかけを持つのである。それを本願という。しかるにこの衆生はどういう状態にあるかというと、ドングリみたいなものである。即ち堅い殻の中に閉じこもって、その堅い小さな殻の中に自分を守って大きな世界に出ようとしない。今その如なるもの、如来という大きなものが喚びかける。何といって喚びかけるかというと、汝小さな殻を出でて大きな世界に生きよ、と喚びかける。それを南無阿弥陀仏という。大自然はドングリに喚びかけて、ドングリよ殻を出でて大きな世界に伸びて来いよという。これを南無阿弥陀仏というのである。
 阿弥陀仏は永遠なるもの、無限なるもの、即ち光明無量、寿命無量という。大きな世界をいう。大きな世界に南無せよという。これを帰れという、喚びかけという、南無という。それが届いて水によって潤され光によって温められる。水をよき師よき友という。光を本願という。この二つの働きによってこれはだんだんと大きくなってくる。そしてとうとう根をおろして芽を出した。その時に始めて彼は広い世界に顔を出す。そこにこの大きなものに答えるその答え、応答が生まれる。その応答を南無阿弥陀仏というのである。それを念仏という。仏と言えば我々は何やら或る物、人間の形を想像するがそうではない。それは大いなるものというべきであろう。我々の認識にのぼってこないような、次元を異にしたものである。殻の中ではわからないが殻を出た時その仏を直観する。それが、信である。殻を出た時、出たままが応答である。念仏を申す、それを仏念が届いて念仏が生まれるという。仏念の届いたところを信という。信は殻を破って出てくるところである。それがそのまま応答である。殻を破って出てきたままが応答である。それを「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて念仏申さんと思いたつ心のおこる時」と申すのである。従ってそこに二つあるのではない。信じてそれから念仏を申すのではない、同時である。その応答を南無阿弥陀仏、念仏申すというのである。それは連帯感によって喚びかけられたその喚びかけに対する応答である。念仏申さんと思いたつ心は深い感動であると言ってもいい。感銘ですね。有難うございますというか、(かたじ)けないというか、誠に勿体ないことでございますというか、それが念仏申さんと思いたつ心というものであります。念仏は即ち感謝であり、また懺悔である。懺悔とは、申しわけない存在であるという深い我が身に対するいたみ、お粗末な私でございます、有難うございますというものである。念仏は即ち讃嘆である。これはほめたたえである。仏の働きに対する讃嘆である。感動である。即ち大きなものにであった我々の思いのすべてを、「念仏申さんと思いたつ心」というのである。
 この一つの念仏という中に無量の思いが入る。もしも母親の心が子供に伝わると、今まで非常にかたくなな心を持っておった子供が、ようやく母親の気持ちがわかってお母さんと呼んだ。今まで自分が間違っておったというお詫びの心もあり、有難いという心もあり、よくやって頂いたという感謝があり、深い感動があろう。念仏申すという中に、大いなるものへの深い感銘と感動と懺悔とすべてがある。それを念仏申すというのである。……と信じて念仏申すというのである。信と念仏は切って離せない、即ち応答なのである。従って、信じただけでいいではないかというわけにはいかないのである。信じて念仏申すのである。
 かつて家永三郎という東京教育大の教授が論文を出されまして、親鸞という人は信ずるという事に中心を置いて信心正因という説を出したにもかかわらず、師法然の念仏為本という教をどうしても折衷(せっちゅう)せざるを得なかった。そこで『歎異抄』には信じて念仏申すということになっているけれども、念仏は全く蛇足であると言いなさった。家永教授ほどの人がこういう大切な所がわかりなさらんかと情なく思いますが、この先生の説は間違っておりますね。解っとんなさらん。仏念が届いて念仏が生まれるのである。南無阿弥陀仏が届いて南無阿弥陀仏が出てくるのである。それは付けたものでもなければ足したものでもない。家永説は認識不足というようなものではない。信心念仏が、わかっていない人の論であります。ここで言ってみても仕様がないが、しかしこういうことは誰か専門家がしっかり反論しなさらにゃいかんですね。誰も反論する人がなかったようで、全く残念千万である。間違っておるという事だけははっきりしとかねばならんです。
 さてそこで、ついでに合せて申すならば、我々がいつも念仏申すのは別に感動でもなければ感謝でもない。讃嘆でもなければ懺悔でもない。ただ念仏申しておるだけなんだ。だから私の念仏はカラ念仏で役に立たん念仏ではないかという人がある。なるほどもっともである。しかし今、子供が「お母さん」と言ったとする。何も思わず感謝もなく感銘もなく「お母さん」と言ったとしたら、カラであり寝言でいうのと同じで、そんなのはつまらんではないかというが、そうではないですよ。これはみんな本当の声です。しかし私は何も思っていません、それなのになぜ本当か。それはお母さんから聞けばみんな本当である。母親が聞けば、たとえ精神病で狂って無意識の中で「お母さん」と言おうと、寝言の中で「お母さん」と言おうと、真心こめて言うてくれようとみな同じことである。みんな「よう言うてくれた」ということになる。我々は言う方に立っていますから、こんな気持ちではカラである、こんな気持ちで言えばつまらんとかいうが、聞いているお方がいるということがわからねばいかん。私は信心がないからまだわかりませんというかも知れぬが、いや、あなたが信心があろうがなかろうがそんなことはかまわん。聞いておるお方がある。南無阿弥陀仏というのを聞くみ仏がある。あなたが殻の中にいて言おうと殻から出て言おうと、念仏は念仏であります。仏にとってですよ。仏にとって念仏は誠に意味深い子供の声なのである。だから出来るだけ念仏申すという事が大切なんです。出来るだけ念仏申すという練習をせねばいかん。それは殻のままでいいんです。
 信心も何もなくてもいいから念仏申しなさい。それ故、法然上人は徹頭徹尾「念仏申せ」と言われた。なぜか。それは、親の思いであるから、親の願いであるから。それに応えて念仏申してくれと言われた。それはカラの念仏であろうと結構である。お粗末きわまるものでもよろしい。それでかまわない。それでもよいから念仏せよというのは、聞いて下さるお方があるからである。聞いて下さるみ仏があるからである。そういうことが、念仏についての大事な問題であります。その事をつけ加えておきます。


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