五、往生をばとぐるなり

『歎異抄講読(第一章について)』細川巌師述 より

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1 往

 『歎異抄』の内容は十八章から成り立っているわけですが、その中心はこの第一章にあります。この第一章が明らかになれば『歎異抄』の全体が明らかになるわけです。この第一章の中心は第一節にあるのです。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」というところです。今月はその中の「往生をば遂ぐるなり」という所をいただきたいと思います。往というのはゆくということで往生、ゆきて生きると書いてあります。仏教の言葉に現在日常化しまして、私どもの普通の生活の中にたくさん用いられます。中には「お釈迦になる」などのように間違って使われている。しかしながらたくさんの言葉が日常の中にとり入れられていますことは、仏教というものが私どもの生活の中にとけ込んでいるという一面を物語っております。同時に大変間違っているものが多いわけで、この往生という言葉もその例である。現在、往生と言えば困ったとか、或いは死んだとかそういう時に使われるのであるが、本当は決してそうではない。往はゆくであり、生は生きるである。死んだ事でもなければ困った事でもない。その点を明らかにしておく必要がある。往生というのは死ぬことではない。また、死んでから先の問題でもない。生きている我々が、生きているこの身体をかかえて前進することである。
 前進とは何か、進展とは何か、このことを明らかにしておきます。これらの反対の言葉を考えますと、先ず停滞でこれは止まっている、少しも進展しない、退歩している、また流転している、或いは空転している。こういうふうなことが前進ということの反対であります。それでは停滞というのは、どこにどういうふうに停滞しているのかというと、これは三年前の私と今の私が少しも変らない。顔形が変らないのではなしに、考え方あるいは言っていること、やっていることが相も変らず昔と同じである。そういうことを停滞という。いや、昔より悪くなるということもある。
 昔は正直で人の悪口などは言わなかったのだが、近頃はさっぱりずるくなって、人の悪口をよく言うようになった。こういうことになると退歩、落ち込むことである。ある時まではよくやっていたけれども、いつの間にか元の木阿弥になってしまった。そういうことになりますと流転というのです。一時は登っているようだったけれども、いつの間にか下がってしまったのは、結局ゆきつもどりつということになる。我々は日常性の中から、また自己中心の立場から出ることがない。それに対して往というのは何か。それは日常性からそれをつき破って出てきた、これを往という。自己中心の殻の中に閉じこもっているものが、そこから飛び出してきて、広く大きくものを考えることができるようになる。前進、進展それを往という。したがって繰り返すように、決して死ぬことでもなければ困ることではなく価値的進展、レベルアップ。低い所から高まってきて、彼が濁りの中から清らかというか、純化というか、純粋な方向に進んでゆく。いわゆる自己中心性と日常性を突破していく、そういうことを往という。昔の言葉に「士は三日見ざれば刮目してこれを待つべし」ということがある。本当に立派な人は三日たったら目をみはってびっくりする程変ってくるものだという意味である。どういうふうに変ったのかというと、今まで髭をはやしていなかったのがはやしたり、頭をのばしていたのが丸坊主になったりということではなしに、そういう外形ではなしに考え方が変ってきた、或いは行動が変ってきたことをいう。そのことが人間に一番重要な事であって、三年前とちっとも変らないということではいけない。学生時代にはよく本も読んでいたし、宗教とか芸術とか教養とか色々言っていたけれども、卒業してサラリーマンになったら、読んでいるのは週刊誌と何やら漫画みたいなものばかり、見ているものはテレビだけということになっているのは、これは結局退歩しているのである。話は競馬と麻雀の話ばかりである。こういうことになりますと退歩もいいところである。落ち込んでしまって前より悪くなっている。実際我々が生きているのはそういう所です。日常性です。日常性とは何度もいいますように一つは経済、一つは性という問題であり、もう一つは親子の問題である。このような問題の中で結局憎んだり愛したり、或いは儲けたと喜び損をしたと嘆く、そういう日常性の中に埋没してしまう。そこから抜け出した、これが往である。
 自己中心という殻の中に閉じこもる、エゴという中に閉じこもる。その中から抜け出す、それを往という。それを、世間道を出て出世間道に立つと言います。これも難しい言葉ですが仏教用語で世間道とは日常性のことを言います。そういう中を往来していたものが、そこから首を出した。ちょうど春先につくしが堅い土の中から芽を出すように出てきた。今まで丸裸であった木から柔らかい芽がちらっと出てきた。そういうふうに非常に広い世界へ頭を出してきた。即ち自己中心を超え、日常性を超えて真理というか真実というか、或いはなる程と人間の胸を打つようなまことの世界に顔を出してきた。そういうことを往という。いわば凡夫地から菩薩道へ、そういう世界に出ること。凡夫地とは日常性の中で、愛と性と経済の中に追いまくられている。そういう世界から高い世界へ出る、これを往という。一応そのように申しておきます。
 そこで、こういう問題をもう少し言い変えますと私達人間、即ち衆生は世界を持っているのである。その世界を環境と申します。これを仏教語で申しますと、この私というのを正報といいます。主体ということです。その主体は必ず環境を持っておる。その環境を依報といいます。主体には必ず環境というものがついている。たとえば私というものがおりますとそこに家庭というものがあり、そこには家内がおり子供がおります。それから色々なものがおります。犬がおり鶏が二十羽いる。また、学生の寮があり二十人の寮生がいる」まだその他にもたくさん私の環境というものがあるわけです。仏法というのは非常に面白いことを言いますね。依正不二という。不二というのは何かというと、ニつないということです。それら二つが関連しておる、結びついているということです。結びついているということは、それがちょうど私にふさわしいということです。
 たとえば主体を豚としますと、豚には豚の環境がある。その居る所を豚小屋という。或る時この豚が歎いた。何と俺の居る所はきたない、臭いは悪いし汚れておっていかんとその環境を歎いたとしますね。それは甚だおかしい。なぜかというと、豚よお前はちょうどお前にふさわしい環境におる。その証拠にお前を人間の住む3DKの部屋に連れて行って、ここならよかろう、きれいじゃといってそこに住まわせたら、そこが忽ち豚小屋になってしまう。つまり君と環境とは結びついているわけである。
 私が、たとえば家内に「お前と結婚したのは一生の不作じゃった」、勿論私は言いませんが、もし言うたとすると、それは自分の環境を自分で賤しめておるのである。豚が豚小屋を責めるようなものである。ちょうど似つかわしい環境になっている。私の環境、その中に私がいるである。大きく言えばこの時代、この世界に我々は居る。この環境は色々乱れておる面がある。かと言って、それを嘆いて、お前達が間違っていると一方的に言うわけにはいかない。なぜかというと、そういう乱れたものがちょうど私と結びついている。主体と環境は不二である。こういうふうに仏教は教える。そこで往というのは何かというと、その世界から出てゆく、これは家出をするとかそういうことではない、私が一歩出るということである。私自身の今までの考え、今までの自分の心の世界、そういうものから出る。沈んでおったものがそこから出てくる、つまり出るとは出家、出世間を言う、しかし家出ではない。私が深まるということを言っておる。深まると共に私についていた依報が変ってくるのである。たとえば夫婦、親子としますか、その相手を責めて直そうとするよりも、あなた自身が変っていったら相手の人も変ってくるという面があるんです。これは実際にやってみられるとおわかりになると思います。自分が変わると相手も変わる。即ちあなた自身が変わることによって依報が変ってくるんだということを言うのです。これを依正不二と申します。
 私が自己中心の殻にいる限り、私の世界は汚れた世界である。私の周囲には自己中心で固まった人間ばかりしか居ないのである。役に立つとか立たんとか、ああだとかこうだとか、ごたごたしたものが私の周囲にあるわけです。しかし、もしあなたが前進していったらどうなるか、そうすると全体が前進してゆくのです。これを往という言葉で表わす。仏教の話は精神文化というか、人間の価値的な問題の話です。低い所から高い所に、浅い所から深い所に、日常性の中からそれを超えた所にということを往という言葉で表わすのである。地理的な場所を移動するということでもなければ、もとより死んでゆくということとも違う、その所を一つはっきりさせておかないといかんと思います。往生をば遂ぐるという事は、有難や有難やという気持ちで死んで行ったり、浄土とやらへ死んだ後に行くということではない。そうではなく、現実の中で私自身が深まってゆき高まってゆくということを、往という言葉で表わすのである。人間の実態が変ってゆく、展開してゆくことを往というのである。初めは無信であり怠惰であり、或いは傲慢でありエゴである。こういうものが変ってくることをいうので」あります。それを進展という。
 三木清という人の書いた『人生論ノート』という書物の最後に、個性についてという非常にすぐれた文章があります。これはこの人が京都大学の三年の時書いたのだとありますが大変なことですね。その文章の一節に、本当に自己をあやまらせるのは傲慢と怠惰と我執であると書いております。誠にその通りです。我々が失敗するのはまことに傲慢と怠惰の故である。それに付け加えるならば無信とエゴである。そういう私の実態、私の世界にはいわゆるたよりになる人、相談相手がいない。私をたすけてくれる人がいない。そしてその世界は殺伐でうるおいがない。ちょうど砂漠のようである。そこには起伏が非常に多い。今おさまっているかと思うと、すぐにまた色々なことがもちあがってくる。山あり谷あり険しい山坂の連続のようなものである。そういうふうに私の主体というものに対応して似つかわしい環境というものが成り立つ。私の往とは何かと申しますとい私が怠惰であったそういう所から一歩出てくる。私が本当に自分を培うような勉強をし、傲慢であったものが段々と謙虚になり、エゴの殻の内におったものが少しずつそれを飛び出してきて、他の人の身になって考えるようになる。無信であったものが段々と大きな世界を考えるようになる。そういうふうなものを往というのである。それを前進という。それを進展という。その時に私の世界が変ってくるのである。今までは相談する相手もなかったのに相談にのってくれる友ができるようになった。私を心からたすけてくれる人ができる。殺伐であった世界がうるおいに満ちてきた。
 起伏の多い世界がだんだん安定してきた。そういうことが実際にあるのです。そういう世界が実際に出来るようになっておる。それを往というのである。従ってこれは現実の問題でありまして、死んでから先のこととは違う、或いは夢の中のこととは違う。それが往という問題で、仏教では世間道から出世間道へとか、凡夫地から菩薩道へというのであります。従って繰り返しますが、往の反対は日常性と自己中心の中に相も変らず止まっておる。それが停滞である。また深い深い傲慢と怠惰の中に沈んでおる。それが退歩であり流転である。そういうことが私だけでなく、私の回りの世界をも流転させ退歩させるということになる。従って往というのは自分だけの問題でなしに、他を進展させることになるのであります。
 人が色々な行動をする時、常に或る方向を向いている。考えも或る方向を向いている。それを仮に平面思考と言おう。平面とは外側を考えているということである。どういうふうに考えているかというと、私が不幸である、或いは困っているのはあれが悪いからだ、これに問題があるからだ、社会全体が悪いからだ、経済機構がなっとらん、こういうふうに向うに押しつけてゆく。これを責任転嫁ともいう。これを仏教では外道の思想という。仏教以外の思想はみんなこうだというのである。人間は知性に立つ限り、たとえ自分では反省しても、わしも悪い所はある、しかし外の方にも問題があるのではないかと考えるのです。こういうふうなのを世間心と申します。世間は全部そうです。子供が悪いのも友達が悪いからだ、学校の先生が悪いからだ、学校がつまらんからだ、色々と向う側に責任がある。そっちを直さなければいけないということになる。これが普通の考え方であります。仏教が言おうとしている世界は垂直思考である。この問題は現在十分考えられねばならない問題である。平面思考の方はみんなもうよくわかっている。それには学説もあり理論もある。けれどもこれをどこまで押していっても解決がつかんということがわかってきた。たとえば平和運動を起こさねばならんということは十分わかっている。しかし実際やってみると、平和運動を起こした人達が喧嘩をしている。それでは平和にならん。平和運動を起こした為にかえって戦争が起こるかも知れん。平和運動を押していっても平和にならん。駄目だと言うのではないが、しかし解決にならん。もし解決の手がかりができるとすれば垂直思考、この方向しかない。垂直とは何か。責任を転嫁するのではなくて自己を掘り下げるのである。自己を明らかにするのである。知性でもって平面思考をしているその自己自身を考える、この道が一つ残されている。これが仏教の受け持つパートである。これは仏教だけのパートであると私は思うのであります。そういう方向を深め、前進、進展していく事を往というのです。
 人間はしかしながら人間自身を考えることができない。ちょうど飛び上がろうと思って、どれだけ大地を叩きつけるようにして飛び上がっても、5mも飛び上がることは出来ない。たとい飛び上がってもまた落ちてくる。人間が自分のことを考えるということは、自分の知性の力を超えている問題である。弥陀の誓願不思議という、いわば人間を一番根源から喚ぶもの、その喚びかけによってだけ人間は自己を超えることができる。それを往というのです。本願を聞いて垂直的に自己自身を考える、人間の根源を考える。
 今ここに一粒の種があるとする。ドングリの種としましょう。それは中に胚芽を持ち、殻の中に閉じこもった一粒の種である。それが大地の上にころがっている。空間が現実人生、大地が現実人生を支えるかくれた世界。我々は空間さえあれば、つまり現実人生さえあれば生きられると思うのであるが、実はそうではない。その現実人生を支えているものがあるのである。キリスト教的に言えば神の世界である。空間と大地の境をうろうろしているのがドングリ。その種が発芽をした。発芽をすれば根がおりてくるのである。そして芽がのびる。そこで始めて往ということが生まれる。即ち彼はこの現実人生の中にやがて亭々たる大木になっていくだろう。と同時に大地の中に深く根を下していくだろう。この根を下していく事を往という。これを垂直思考という。けれどもこれは豚小屋から豚が飛び出していなくなったというのとは違う。現実人生の中で働きはじめるのである。これを還という。
 往還の二廻向といわれる。これが親鸞聖人の言われる浄土真宗の骨格の世界である。往というのは垂直の世界、弥陀の誓願不思議という世界に深まっていくのである。と同時にそれが人生において私の受け持つべき分野を精一杯の力で受け持ってくる。従って家庭の柱となり、職場の光となり、旅人の憩いの木陰となり、小鳥の宿り木となり、人々の目を楽しませる緑を繁らせる大樹となるのである。平面思考と垂直思考とが一本つながっているのである。往生を遂げるということは、その人が死んだということではない。その人が深まっていくことである。そのままが上に伸びていくことである。深まっていくままが、高く高くそびえていくことである。これを往相即還相、自利即利他というのである。つながっているのである。私の実態は殻の中に入っていて傲慢、怠惰、エゴ、無信である。それが、さんさんとして輝く太陽、働きかける水によって初めて発芽した。それが「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせる」というのである。そして深く根を広げ高くそびえていくのである。これが仏法における人間形成である。
 私は学生時代から仏道に対して誤解を持っていました。私の考えていた仏教は、(1)弱い人の避難場所である。年寄り、病人、その他立ち上がる気力のない人がここに避難して依り処とする避難所と考えていた。(2)仏教は退嬰的で消極的で抹香くさくてじめじめしている。罪悪深重とか地獄は一定とか言ってもさっぱり意気が上がらん。朗らかさがなくて暗いではないか。個々人の悟りではないか。個人の安心立命という所にとどまり、社会性が無いのではないか。たしかに深まっていくのは自利であるが、それは現実人生の中で周囲の人々にかかわりを持たず社会性を持たないのではないか。こういう誤解を持っていました。
 先般亡くなられました亀井勝一郎氏が『仏教と人生』という論文に「仏教は我々に明晰の眼を与えるのだ」と言ってある。明も晰も明らかということである。物を本当に見る眼を与えてくれる。我々の持っているのは人間の眼である。知性中心の見方、経験中心の考え方である。この立場で善悪、正邪、損得、好き嫌いというふうに分別して見るのである。亀井氏は「明晰の眼」とは「賜わりたる信心の眼」と言っている。なかなかユニークな表現である。また「無私」であるという。私を離れて物を見ることができるのである。この人らしい表現ですね。「明晰の眼」とは、も一ついうなれば、正邪、善悪、損得という分別心はからい、裁く心でなしに、これらを超えて受けとめる心である。受けとめるとは自分の業として受けとめる心、願いを持つ心である、正しくない姿を見た時にこれは間違いときめつけるのでなく、どうか正しい姿にかえってくれよと願う心である。ここに現実人生との取り組みがでてくる。それを往でなく還るという還という。往くとは垂直に自己のかくれた世界、弥陀の誓願不思議の世界に深まらして頂く。そこに明晰の眼を賜わって人生を受けとめていく心が出来るようになる事である。これは個人的な段階にとどまらず社会性を持っているのである。仏法の問題の解決は往生を遂げるというところにあるのである。これが二つの働きを持つ。即ち自己の深まりと同時に人生への働きかけを持つのである。

2 生

 往生の生についてお話いたします。前回も少しお話しましたので重なる所があるかも知れない。仏教では生活を生と活に分ける。活とは職業を持ち収入を得て食べていくこと、活命という言葉があるが食べて活きていくことをいう。邪活命(略して邪命という)とは間違った食べていき方、たとえば人の物を盗んだり、ギャンブルで儲けたので食べていくことをいう。人生の大半は活である。幼い子供にとって活とは幼稚園に通ったりテレビを見たり宿題をする事。高校生の受験勉強、就職-僧侶の宗教活動、それが職業であればそれも活である。このように大部分が活である。しかしながら一番底に人間は生という問題があるという"生とは生き甲斐、何のために生きているかという問題である。往生とは自分が進展することによって、本当の生き甲斐を見出して生きてゆくという生活、私本来の、なぜ私が生きていかねばならぬのかという根本問題を往生の問題という。これを解決することを往生をば遂げるというのである。これを昔から後生の一大事と言った。後生とは死んでから先ではない。死んでから先を言っても現実にひびかない。後生とは現実の問題である。なぜ後というかというと、本当に問題が解決せねばならない、その解決を生という。ここから始まるから後の生というのである。或る時解決して、そこから本当の生き甲斐が出てくるのであるから後の生というのである。

 さて活でなしに生の問題、これを生(ショウ)という。今は生き甲斐と申しました。我々は活の問題で一生右往左往するのであるが、活の問題というのは十分幸せになっても、それで満足だ、よかった、いつ死んでもかまわんということにならない。どうしても満されないものが残る。まだ何か足りないと思う。それは生が充実していないからである。活だけでは本当によかったという感謝とか使命というものが出てこない。これは生の充実によってはじめて出てくるのである。
 生とは何か。先ず一つは誕生、本当に生まれるということ、もう一つは本当に生きるということである。誕生についてもう一度簡単に申します。
 我々には第一の誕生がある。人間として生まれた。が、人間として生まれたから人間になったというわけにはいかん。生み出されてきた時は卵にすぎない。硬い殻と黄味、白味、胚があり、いわばこれは「未成人間(亀井氏の言葉)」である。それは活だけで生きておって本当の誕生になっていない。
 本当の誕生とは、卵が親鳥に抱かれてその熱により胚が目玉、嘴となり羽をつけてヒヨコになり自己形成を遂げる。これを第二の誕生というのである。そこにはじめて物を見る目、考える力、本当の足、口が出来て変ってきた。この第二の誕生の発端は、問いかけを持つことにより始まる。これを根源的問いかけという。「君はそれでよいのか」という問いである。これは実に厳しい問であり、この問いをかけられると我々は絶句するしかない。試みに自分に問うてみるがよい。「俺はこれでよいのか」。よいとは言えぬ。これではいけないとは思うがどうしたらよいかわからん。答の言いようがない。この問いは我々の一番根っこをゆすぶる根源的問題である。この問いにどう答えるか。これが出来れば大変偉いと思う。最近この問いに答える人が出てきた。統一原理とか、何々イズムという人達は、これでいいんだと言い切れるものを握っている。しかしその答は間違っていると言わねばならん。君はそれでよいのかと間われた時、これでよいのだというのは正解ではないと私は思う。また、「君はそれでよいのか」と問われて、良い所もあるが悪い所もあると答える。それはクイズの答みたいである。根源的問いとはそんなものではない。これは難問です。余談になるが禅宗の公案というのがある。「狗子仏性ありや」。狗子は犬、仏性は仏になる種。そこにいる犬に仏になる種があるかという問題である。また「隻手の声を聞け」という。これにどう答えるか。私は禅はやったことはないが答はわかります。隻とは片手です。両手を打では音が出るが片手でやると音が出るか。これは物理学の問いではありません。仏道の問いである。「君はそれでよいのか」これは根源的問いである。この問いに立ち上がった時が第二の誕生である。だがこれはまだ殻の中にいるままである。中にいながら目鼻がつくのである。
 第三の誕生はこの殻を破って広い天地に出るときである。死んでから先でなしに生きているうちに出る。これを生という。この誕生を促すのは「如来生きてましますか」という問いかけである。これに答え得ることができるだろうか。これはまた大変な問題である。これに答え得るところに仏道がある。大変謎めいた話になりましたが、答は保留しておいて皆に考えて頂きたい。「君はそれでよいのか」「如来生きてましますか」
 ここにピストルのたまがあるとする。外から見るとこれは一片の金属である。重さは何グラムで長さはこれだけで、銅と何かの金属で出来ているということになるでしょう。そのような見方は外から見ておるのである。この場合、相手は物質であり死んでいる。命がない。しかしそれがピストルにこめられて飛んできて私に当ったとなると、そのたまは生きているのです。私はバッタリ倒れるしかないのである。あなたにおいて如来生きてましますか、それに答えるところに誕生がある。凡夫地から菩薩地に生まれる、卵からヒヨコに、しかもそのヒヨコは殻の中に入っているヒヨコでなしに、大空のもとで羽ばたく鳥が誕生するのである。
 そこに生きるという事が成り立つ。何に生きるのか。使命に生きる、即ち私の仕事がみつかるのである。仕事といっても今もちゃんと仕事をしていますというであろうが、それは活である。活でなしに私の生を果す仕事がみつかるのである。このような仕事のない人が多い。失業者という意味でなしに。週休二日制になり土、日が休みになった、だが何をしてよいかわからんという人はたくさんいる。要するに仕事が見つからんのである。も一つ、生きるとは、仏の前で生きるという事。学校に行っていようと仕事をしていようと、仏の前で仏法の中で生きている。これは誕生があって始めて出来るのである。勤行とはおつとめである。仏様にお花をあげ、お香をたいてお経をあげる。初めは厭で厭でしょうがない。おつとめとは何かというと雨が降っても少々病気をしても、無理をしても行かねばならん。おつとめだからである。義務である。勤行する人が言った。「私はおつとめをするのですが、主人がおつとめをしません。子供がおつとめをしません」と。この人のおつとめは人間相手のおつとめなのである。主人や子供のことが気になってキョロキョロしている。人間相手のおつとめであって仏様相手のおつとめでないからである。真の勤行とは、仏様にお礼をし、感謝をし、報告をし、挨拶をするのである。あなた一人で結構なのである。このように生き方が変わる。仏の前なる生活になる。それを生というのである。今一応、往と生に分けて往生ということを申しました。

3 往生とは何か

 「往生を遂ぐる」ということを親鸞聖人は『一念多念証文』に往生を得とは「をさめとりたまふ時即ち時日をも隔てず正定聚の位につき定まるを『往生を得』とはのたまへるなり」といわれている。これは親鸞御自身が言われている言葉である。即ち往生を得とは卵からひよこになり更に広い天地に出たその時、直ちに正定聚の位につき定まるを往生を得と申すのであるといわれる。ここを少し申し上げます。
 正定聚の位とは、正定聚不退の位という。サンスクリットでは阿惟越致(あゆいおっち)、阿毘跋致(あびばっち)という。いつも言っている言葉でいうと、資糧位(求道の出発点、第一歩)もとでや糧になるものを集めていく、聞いて考え、わからん所を質問する段階。次に加行位。実行する、これを修という。これが第二段階。次に通達位に達する、これを不退転地というのである。
 ここから開けてきますのを修習位、究竟位という。通達位、修習位、究竟位を仏道に立つというのである。第一第二段階までを世間道という。これは卵の殻に入っている状態であるが、しかしそこから出発するしかない。それがだんだんと温められて実行しようという気になる。そして遂に広い世界に出る。これを通達位という。これは必ず究竟位に到る道であるから正定聚不退転地といい、この道に出たことを往生を得というのである。
 世間道から仏道へ出ると、もはや揺るがない、後ずさりしない。これを不退転地という。退転しないというのである。私が初めて仏法を聞いたのは大学二年の時でした。それ以来何回も資糧位、加行位の所でずるずると落ちてしまう。通達位に到着しない。何遍も繰り返すことを行きつ戻りつという。退転という。何年も苦労しました。だが一遍出されたら、もはや後ずさりしない天地に出るのであって、これを不退転地という。
 地とは何か。地とは大地、大きな基盤、大きな依りどころ。そこで私の生活が成り立つという地盤。今までは世間道を行ったり来たりしていて本当の地盤を持たなかった。それが大地を持つ。その大地(国土)には、先ず主人公がいるのである。み仏というお方がおられるのである。我々はここに始めて主人を持つ。今までは何をやろうと自分の勝手であった。ところが不退転地に出ると主人公ができる。主人につかえる身となる。それは自由の拘束ではないか。確かに不自由になる。しかし、たとえば水蒸気があって空中にただよっている。でれば自由であるが何の役にも立たない。この水蒸気を高い温度にしてパイプの中を通す。水蒸気は拘束されて不自由でたまらんが、ここにはじめてエンジンを回す力というものが出てくる。我々の自由に発散しておったエネルギーは、主人公が出てくるとその一点に集中される。そこに我が行く道が明らかになる。昔、誰の歌か忘れたが、「武蔵野のあなたこなたに道はあれど、わが行く道は武士の道」というのがありました。道はたくさんあるが、一つだけそこにわが行く道ができたということになると、大変な働きができる。主人ができた、従って家に帰ったならば御挨拶をする。今までは家の主人は私であった。だが仏様が主人ということになると、帰ったら先ずナマンダ仏と御挨拶する。朝起きたら御挨拶、夜寝る時御挨拶。窮屈なようであるがそうではない。動かぬ主人が出来た。そしてよき友が恵まれる。往生を得るとは、あなたに主ができ、あなたに友が恵まれることである。友といえば幼な友達、遊び友達、同県人などしか考えないが、そういう小さいものでなしに、年令を問わず男女を問わず、日本人でないかも知れん、或いは三千年も昔の人であるかも知れん。時間を超え空間を超えて友を与えられるのである。これが地の内容である。ここに友あり、師あり、私の果たさねばならん仕事がある。仕事とは仏法の言葉で言えば供養諸仏ということである。諸々の仏に供養し、持っている物を捧げながら教を聞きぬいていく。また開化衆生、即ち人々に働きかけていく。どうか一人でもよいから仏法の世界に心を寄せてくれよと働きかけていく仕事ができた。また、物にする考え方が違ってくる。我々は自分でかせいだ物は自分の物と思っているが、仏様のものであるということがわかる。仏法領の物として頂く。そうなると物を私有化するということから離れてくる。
 これらをまとめると、私という私的存在から公人へ、あるいは私的生活から公的生活、仏の前なる生活へと変わるところに不退転地という所がある。これを往生を得る位につくというのである。そして更に深められ進められていくところに、往生を遂ぐるということがあるのである。不退転地に立つと人は更に進展する。これを信力増上という。信は信心、力は働き。信は信ずるのではなく認識、はっきりわかるということである。仏教では覚という。自分自身が明らかになってくるのである。私的生活から仏の前なる生活へ転回していって、深い自分の認識、めざめ、さとりとなり、遂にその深まりぬいた所を「往生を遂ぐる」と申すのである。往生を遂げて仏になる、それはいつかというと死んでからである。その往生を遂ぐるのは彼方であるが、その途中即ち今を往生を得る位につくといい、それから一歩一歩深まっていくことを信力増上という。これは動的な言葉である。信心が出来たというのは待っている静的な言葉であるが、往生とはダイナミックに動き進んでいる状態を表わす。信力増上して遂に覚となり仏となる。これを往生を遂げるという。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」。誠に深い働きというものを頂いて道に立たせられた者の喜びに満ちあふれた言葉であります。


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