四、たすけられまいらせて

『歎異抄講読(第一章について)』細川巌師述 より

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 「たすけられる」ということについてはこの前に申し上げましたが、も一つ別の角度から明らかにしたいと思います。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」とある。弥陀の誓願というものは何か。誓願というのは何を誓われているのかと申しますと、若不生者、不取正覚という。大変難しい表現になりましたが、これが原文でございます。もし生まれずば正覚を取らじ。正覚を取らじとは仏のさとりを取らない、仏にならないということ。したがって、もしあなたが浄土に生まれるということがないならば私は仏にならない、とそういう表現で言われている。これを若不生者の誓いという。誓いというのは、自分が仏になることとひきかけて、もしこれができないならば仏にならないという非常に深い決意と申しますか誓うというのが誓願の誓。したがって「弥陀の誓願不思議にたすけられる」のたすけられるとはどういうことかというと、弥陀の誓願が私に届いてその誓願が私に成就するのである。そうするとそこに、生まれるということができるのである。生まれるというのは、これを昔から後生の一大事、出世の一大事、往生の一大事という、生という字が入っている。それが生まれるという問題である。後生というのは何やらこの世が終ってその次の事、即ち死んでから先というふうに誤られてきたがそうではない。死んでから先では役に立たない。生きているうちにその事が成就しなければ意味がないのである。したがって後というのは死んで後というのでなく、如来の誓願が私に届いて、そのところを境としてそこからということを後という。死んでから先では決してない。往生というのも死んでから先ではない。生きるということは動的な姿、動的な、アクティブ、ダイナミックである。そういうことを往という。ただ生まれるということではないんだ、へたばっているのではないんだ、生き生きとしているんだ。本当に生きてくるんだといことをいうのである。古い言葉で後生の一大事、往生の一大事と申しましたのは、そのたすかるということ、たすけられるということが生という問題にかかっているのだ、生ということができるところに、たすかるということがあるということです。  生とは何か。二つある。一つは誕生ということ。新しい誕生ということ、いうなれば生まれ出るという問題。も一つ、生は生きぬく、生活ということ。生き抜くとは生き甲斐を持つ、進むべき方向となさねばならぬ仕事が明らかになって、それを果してゆくこと。ここに生活が始まる、これを生というのである。

1 誕 生

 そこで、たすかるとは第一にいうなれば誕生である。誕生するということが、誓願にたすけられるということである。  第一の誕生、これはもとより人間としてこの世に生まれてくるということである。人間として生まれ出た、そして二十才になると成人式をやる。そこで一応一人前になるという。社会の成員ということになる。しかし中身は一つも変っていない。結局体が大きくなっただけの話である。成人とは何か。人間として成長してきた、だから成人という。しかし本当の人になるためには第二の誕生がいるのである。  第二の誕生によって本当の人間になるということ、これが真の成人ということである。人間というのは仏教語であるが、ブーバーがドイツ語でこれをうまく言い表わした。Zwischen-Menschlichkeitという言葉をつくったそうです。これはなかなかうまい。Zwischenは英語ではbetween、間である。間柄を持った存在、間柄的存在という。間柄とは何か、関係、連帯である。したがって、昔は成人となると必ず兵隊になったものです。その部族、種族を守る兵士の一員となりますのが、いわゆる成人であった。種族と関係を持ち連帯を持って、それに対して責任を持ちその一角を背負うようになった。責任のある一員となったということ、それが成人でした。今までは子供であって保証されていた存在であったものが、大きなもの、間柄、連帯を持つようになった。今までは保護される連帯であった。そうでなしに今度は責任のある存在となった。それには誕生がなければならない。断ち切らねばならのものと新しく得なければならないものとがあるわけで、そういうことが成人式である。現在では成人が必ずしも第二の誕生にならない。二十才になって成人式を祝うのが形だけでおわる場合が多いと思います。
 第一の誕生はいわば世間心の中への誕生である。世間心とは名聞、利養、勝他である。世間に対して関心を持つ存在である。損をしてはならない、負けてはならないと思う。ハイデッガーは、日常性の中に埋没しているという。彼は日常性の特徴として三つあげた。一つは空過。空しく過ごしている、結局からっぽであった。ハイデッガーは空過の代表は無駄話に終始していることだと言う。二つめはいつもキョロキョロしている、誰か友達は出来ないか、何かいい事はないかなあとキョロキョロしている。これは彼の言葉では好奇心と言っている。三つめは中途半端ということである。これらは結局外側から引きずられているわけである。  第二の誕生とは何か。世間の中に埋没しているものがそこから生まれ出るということ、そういうものを突き破って誕生し成人となるということである。この新しい生のきっかけになるものは何か。それは「君はそれでよいのか」という問いである。この問いはものすごく痛烈な問いである。なぜかというと、この問いの前に立つと我々は「俺はこれでよいのだ」と言えないものがあるのです。いわゆる名聞を満足し、金もうけも適当にやり、エリートになっているかも知れないが、この問いの前に立つと非常に弱い。この問いが第二の誕生のきっかけとなるのである。この問いを出すものは弥陀の誓願である。これを第十九願という。  この誕生を至心発願という。至心とはまことこめてということ、まことこめてしっかりやろうと願う、誠心誠意しっかりやろうとする立ち上りが第二の誕生の契機である。何をしっかりやらねばならんのか、それは善い事をやろう、悪い事をやめよう、これが第二の誕生への出発である。九條武子という方が歌を作られて「まことこめて放ちし矢なり念願の、的に当るも当らざらんも」というのがある。力一杯精根こめてやろうとするのである。まことこめてやろうとするのが至心発願である。我々は「君はそれでよいのか」という問いを手がかりとして立ち上ろうとする心を起こす。これが成人への出発、たすけられるという第一歩です。そこに誕生への出発ということがある。まことこめて何をやるか。正しい心で正しい行いをやるのである。ところがこのことはやがて一つの行きづまりに到達する。しかし、まだやらない人を前にして、すぐこれは行きづまるぞと言っては話にならない。大体ここに間をとって少くとも二、三年はおかねばならないと思う。龍樹は次のように言っている。やらねばならん事はたくさんある、そして時間がかかる、途中で穴に落ち込んでしまう諸久堕の三難と申します。どんな落し穴がというとエリート化する、たまたまやっていくと自分はやったという思いに閉じこもって、エリート意識に立ちやすいと言っている。  この行きづまりから更に進展するには一つの事に集中するほかない。これを至心廻向という。念仏申すということ、これをしっかりやろうとする。ここに至るのには時間がかかるのです。はじめは資糧位という。今まで世間心の中に埋没して日常性の中に右往左往していたものが、聞いて考えて実行しようと思う。もとでを集め糧を集め、聞思が中心となり実行しようとする。それが加行位となり念仏申すということになる。南無阿弥陀仏と念仏申すこと、これはわずかな言葉でとても大きな意味があるとは思えない。しかし南無阿弥陀仏というところに大切な問題があるのである。我々が念仏申すと思うがそうではなく、念仏申すとは誓願即ち仏の本願の内容が念仏申せということにあるのである。始めは私がまことこめて矢を放ち廃悪修善と努力する。その行きづまりからまことこめて念仏し誕生を遂げていこうとする。これらはいずれも、私がというのが主体となっている。ここに本当の誕生が生まれない原因がある。  真の誕生とは何か。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」。私が頑張ってまことこめて念仏し、まことこめて発願し、その功徳で進展しようとするのではない。真の誕生とは通達位と申す。通じ達するとは目が覚める、覚、信という、自覚、信心である。本当の誕生とは如来のまごころが私にわかること、これを通達位という。如来の至心とは何か。私に働きかけてやまない如来のあつい誓願の中にこもる如来のまごころを法蔵因位の誓願といい弥陀の誓願という。『正信偈』は「帰命無量寿如来」というところから始まっている。「無量寿如来に帰命し不可思議光に南無したてまつる」というところから始まり、直ちに「法蔵菩薩因位の時」という文につながっている。大いなる世界から私のために法蔵菩薩となって働きかけて下さった、それを如来の至心という。それがわかるところにはじめて真の誕生がある。したがって至心発願、至心廻向は真の誕生に至るプロセス、道ゆきである。その道ゆきの中に、しっかりやらねばならんという段階がある。そして遂に如来のまごころに目が覚めるという段階がある。これを誕生という。これをたすけられると申すのである。
 資糧位、加行位、ここまではうまく言える。通達位にいくところがうまく言えない。言いようがない。親鸞でも決して論理的にうまく言ってはいない。人間の論理でせめていっても、この最後の説明には断絶がある。私がやるんだと決心してやっていると、最後にはこうなるんだと言いたいのだけど、そうではない。断絶がある。はじめの「私のまごころでしっかりやれ」と言うのはよくわかる。そう言っていながら最後は如来の至心とくる。突然、如来のまごころというのが出てくるのでわからなくなる。これがわかるには聞いて聞いて聞きひらくしかない。加行位と通達位との間に絶壁がある。これを断絶という。断絶とは何か。それは人間の論理、人間の思考、人間の努力との断絶。この断絶を越さねばならない。新興宗教では大抵この絶壁があるのだということを言わない。そういう宗教はいわば連続的宗教である。連続とは何かというと、人間の努力の限りを尽くしていくならば必ず最後の覚りを得られるという。これを連続的宗教という。この点から言えばキリスト教も仏教も断絶です。長い歴史を持った宗教、本当の宗教は必ず断絶である。切れている。人間の努力だけでは最後のところまで行きつくことが出来ない。断絶を持っている。親鸞という人は九才から二十九才まで一生懸命やった。が、できなかった。法然は四十三才までやったができなかった。曇鸞は五十三才までやったができなかった。皆さんは若い人が多いから五十三才というとあっと驚くだろうが、何才になってもこの断絶を越えねば宗教にならない。その方法は一つしかない。それは「如来生きてましますか」この問いに答え得るかどうかである。先に申しました、我々を立ち上らせる第一の問いは「君はそれでよいのか」という問いであった。次に人間を断絶、行きづまりの中から立ち上らせるのはこの問いである。「如来生きてましますか」。非常に答えにくい。殆んど答え得ないのです。「如来生きてましますと本に書いてあります」「生きてるかも知れんと思います」位しかはじめは言えない。
 如来の至心というものに目が覚めるとはどういうことか。「如来生きてましますか」の問いに「如来生きてまします」となったならば、それは実に大変なことである。これを底が抜けたという。これを通達位という。これから修習位、究竟位というふうに進む。通達位とはめざめ、これが誕生でここから本当の生活が始まる。生活者が生まれ出る。究竟位は遂に仏果を得て究竟じて涅槃に至る。この最も(すぐ)れた世界に至る道に今現に立つ、それが誕生であり、そこから生きぬくということが始まる。それには如来のまごころというものが頂けるかということがポイントである。如来のまごころがわかるかということである。これは大変難しい問題である。そんなに難しければ資糧位、加行位から通達位にいく人が実際あるのかというと、それが実際にあるんです。それがあるから浄土真宗は続いているんです。それでは大学でも出てないと出来ないのではないかというと、いやいやそんなものは全然必要ない。それではどうしたらいいんだというと、こうしたらいいと答えたいが答えるわけにはいかない。なぜかというと「どうしたらよいか」という問いには条件が要求されている。その条件は何かと尋ねられている。例えば汽車に乗るには切符を買う必要があり、切符を買うには金がいる。その金を何とかしなければ切符が買えず、したがって汽車には乗れない。金が条件である。しかし通達位はどれだけ努力しても到達できない。条件を求めても条件はない。無条件である。それではいかん、条件はないが答がいる。「如来生きてましますか」と問われてこれに答えなければならない。それではその答は何か、教えて下さいと言われても教えるわけにはいかない。鉄砲の玉が当った時、口先だけで「当りました」と言うのでは、これでは当っていない。バッタリ倒れねばいかん。「当りました」では観念的という。事実にならん。事実になることが大切。それではそれが事実になる道はないか。この答は非常に難しい。
 資糧位から加行位にいく。そこまでは条件がある。先ずそこまではしっかり進まねばならん。ここまではしっかり頑張りなさい。そこまでならば『成唯識論』というものに、資糧位から加行位に進むための条件について述べられている。『成唯識論』というのは唯識学の書物の基礎になるものであるが、その中で資糧位から加行位に進む条件に四つあると述べる。第一は因力。因力とは一番たねになる力、一番もとになる力、それは聞思習という。聞は聞く、聞法を重ねて重ねて聞法のかおりが身にしみつくようになるまで聞きぬいていくということ、これを因力という。蓮如上人も「仏法はただ聴聞にきわまる」と言われた。大事なことを言われている。第二は資糧。資糧とはかて。それはよく本を読み、よく話を聞いて考えなさい。それがたくさんたまってくると中で発酵してくるようになる。第三は善友である。あなたに勧め、あなたを励まし、色々と忠告してくれる友を持て。最後に決意。決意とは最後までやりぬくぞという決心、わかるまで頑張りぬくぞという決意。これらがあなたをゴールの直下まで導く。この四つによって深い転回の起こるべき所まで進められていくのである。そこから如来の至心、まことに私のまごころでなしに、一切は仏のまごころであったということがわかる処、その御恩を知る直下まで来るのである。あとはどうなるか。「如来生きてましますか」これを問題にしなさい。そこに真の誕生というものがある。
 誕生とは、始めは卵であって殻の中におった。それが親鶏から生み出された私の姿である。これが第一の誕生。それが殻を破って本当に広い世界に出る、これが真の誕生。卵として生まれたものは殻の中にある。殻の中に閉じこもっているから小さいわけである。これが大きくなって本当に生まれ出るというのが、たすけられるという問題である。どういうふうにたすけられるかというと「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」ということである。大きな大きな、仏様の働きかけが私に届いてくる。私は相変らず殻の中にいる、相変らず小さいことばかり考えている、相変らずつまらん事ばかり考えている。しかし、殻の中でだんだんと目玉が出来る。聖教を読む目が出来てくる。だんだんと念仏申す口が出来てくる。聞法しようとする足が生えてくる。そしてしっかりしなければならんという考えが心の中に芽生えてくる。これが第二の誕生である。しかし残念乍らまだ殻が破れない。それには私のまごころがひるがえされて如来のまごころというものが明らかになることである。如来のまごころが明らかになると我々はどうなるのかというと、殻が破れて広い世界に出される。それを罪悪深重の私という。諸有衆生のわれというのである。
 罪障重い私と目覚める時、それをヒヨコの誕生という。これがたすけられるということである。普通たすけられると言うと、何やら神秘的な念力を与えられたり、何やら病気が治ったり願い事がかなったりする、そういうものと思っているが、そんなものではありません。誕生である。私が本当に私になる、私が本当の私に目覚めるということである。卵がヒヨコになるということが本当の卵のあり方なのです。海の上をさすらっている椰子の実は椰子の木にならねばならない。発芽して椰子の木にならねばならん。椰子の実が椰子の木になる、それがたすかるということである。私が本当の私になるということ、これを誕生といい、たすけられるという。たすけられるとは真の生ということであります。

2 生活者となる

 次に生活という問題ですね。生活者となる。この生活者というのは、仏教の場合親鸞聖人が言われる場合は行者という。行者というのは行ずる人。これにあい対する言葉は何かというと信ずる人という。信者と行者と言えると思う。なぜ行者を生活者と申したかというと、生きている人である。これは鈴木大拙という先生が『教行信証』を英訳された時に、行ということをlivingと訳された。リビングといえば生活という。行ずるといえばpracticeという言葉があって、実行するという。プラクティスではなくてリビング、これを行者というのである。
 行者の反対は信者である。信者というのはファンというのによく似ている。弥陀の誓願不思議を信じておる、仏を信じておる。だが生活してない、信が生活にならない、それをファンというのではないかと思うのであります。ファンというのを信者と結びつけるのはちょっと具合が悪いかなあと思うのですが、言わんとしているところはこういうことです。ファンとは愛好者である。好きで好きでという人である。巨人ファンというのがありますね。長島ファンがある。好きで好きで仕方がない。好きだけれども野球を自分でやるわけではない。ま、やる人もあるかも知れないが、あまり自分ではやらない。やりましても王選手や長島選手みたいにやれない。しかし好きであるというのをファンという。要するに愛好者、心酔者である。それが好きでたまらん。それについての賛成者、協力者、あるいは後援者、こういうのがファンである。信者もこれと似ている。信者を仏教者という。何か偉い先生が来られて仏教の会がありますと、百人でも千人でも集まる。福岡の方にも有名な先生が来られるとたくさんの人が集まりまして、なかなか仏教人口は多いということがわかる。「大法輪」という仏教雑誌がありまして、これが経営上成り立っているようでございますから、たくさんの仏教人口があると思われる。それではその人達はみな仏教を生きておるかといいますとそうはいかない。
 生きた仏教者を行者という。生活者という。「弥陀の誓願不思議にたすけられ」るというところに生活者が生まれるのである。それでは仏教を生活するとはどういうことであるか、その所を一つ明らかにしておく必要がある。大体こういうことを非常にうまく言われたのは蓮如上人という人であります。蓮如上人の前である人が言いました。「私の仏法は籠の中に水を入れるようなもので、仏法を聞いた時には尊くもあり有難くもあるのですが、たちまちのうちに元の木阿弥になるのでございます」と言った。籠に水を入れるという生き方があるのである。しばらくすると元の木阿弥になる。籠とは何か。私の心です。私の生活の中に仏法の水を汲み込んで生活に役立て私の心の支えにする、要するに仏法を役に立てようとする。それを籠に水を入れるという。それは行者とは言わない。なぜか、それは籠の方が大きく、水の方が小さい。大きな籠の中に少量の水を汲み入れているわけである。しかしながらこれが実は修行の始めです、私の生活の中に仏法を取り入れていきたいと誰も思う。私の心の支えにしたいと思う。そういうのをファンと言うのです。それが始めです。したがって仏教というのは先ずファンをたくさん獲得しなければいかんという課題を持っている。ファンの養成が必要である。そしてそのファンを行者にせねばいかん。それを生活者にせねばいかん。そういう課題を持っている。
 生活者とは何かというと、蓮如上人は実にうまく言っている。「その籠を水につけよ」。あなたのその心、あなたのその生活というものが水の中に浸らなければいかん。それが行者というのである。その籠を水につけるということである。それは具体的には何か。水の方が大きい籠の方が小さいのである。そこに大きな転回がなされる。それを行者という。資糧位から加行位までは籠に水を入れる段階、即ち信者。通達位から行者という。これを生活者という。仏法を生きる人である。それでは籠を水につけるということは具体的にはどういうことになるのか。内容的には仏の前なる生活をするということになる。如来の前において生活するということである。
 その反対は何か。それは世間の前なる生活、あるいは密室の生活。世間の前なる生活とはどういうことかというと、世間を相手にしている、世間体を考える。世間が相手、隣近所の人が私の相手である。笑えない悲劇がある。隣の人がクーラーをつけた。こちらも負けてはならない、クーラーをつけたいが金が無い。仕方がないので枠だけつけた。クーラーがついて窓が開いている筈はないから、窓を開けるわけにはいかない。一夏中、窓を締め切っておったという悲劇がある。世間を前にしたならばどんな生活になるかというと、虚栄ということになる。虚は空しい、空しい体面を考えて生きている。なぜ空しいのか、世間を相手にしているから空しい。世間というのは、いわゆる不特定多数というものである。誰が世間かというと誰かわからん。漠たるものを相手にするから、体面を保つとか恰好いいとか言うけれど空しいものである。漠たる相手である。それが虚栄であると共に偽善というものである。恰好だけはつけなくてはいかんということになる。で、形式的な通り一遍の事柄になっていく。こういうのを世間の前なる生活という。
 仏の前なる生活とは何か。仏の前で生活しているわけである。私の生きる相手があるわけである。対象があるのである。それは不特定多数という漠たるものでなしに、み仏という生きたお方の前で生活する。朝起きると仏様にご挨拶をする。「お早うございます」と言う代りに勤行をする。お勤めをする。忙しくても忙しくなくても、天気がよかろうが悪かろうが、お勤めをするということが生まれてくる。
 始めはそうはいかん。なぜ勤行をするか。勤行をせんと気持ちが悪い。何か気持ちがすっきりしない。この次に会に行った時、先生が「君は勤行をしとるかと聞かれた時に「えー」とか「そのー」とか言っていたのでは恰好がつかん。それで今日もやっておかねばならんなどという。要するに義理のお勤めである。お勤めとはやむを得んからする、あの人がああ言うからやるというように、いやいやながらやるのをお勤めというのです。そうでなくて仏の前におるのであるからご挨拶するのである。たすけられたからお礼を申すのである。それはしなけりゃならん義務からするのでもなければ、しないと叱られるからするのでもなく、いうなればせざるを得ないのである。するのが自然である。夜帰って来たならば南無阿弥陀仏と申す。有難うございましたと言う。今日も無事に帰りましたと言う。報告をし、お礼を言う、そういうものが勤行であります。そういうものが生まれてくると世間の前なる生活とは違う。とりつくろわなければならないのでもなく、義務があるのでもなく、やらないと恰好悪いのでもない。そういうものから離れてしまう。これを分別を離れるという。分別とは、はからいという、はからいというものを離れる。人間の迷いとは一つははからい、一つはとらわれ、これらを共に離れることをたすけられるというのである。仏の前なる生活というのは先ず世間の前なる生活とは違う。世間を相手にしているのではない。
 も一つ生き方がある。世間も何も相手にしない。いわば密室の中に閉じこもっているようなものである。窓もしめてしまって自分の部屋の中に閉じこもっている。自分は自分の勝手、わしの言うことに文句は言うなと言う。そういう生き方もある。それは閉鎖である。閉ざされた生活である。鍵がかかった中でやっておって私的という。プライベイトという。だんだん今から先は私的な閉鎖された社会が沢山出来るのでありましょう。が、窓を開けねば新鮮な空気は入ってこない。光が入ってこなければ物が育つということはありません。そこで我々は窓を開けて風を通しながら、光を入れながらやっていくということが非常に大切な問題である。閉鎖社会から開放されたオープンな社会、そこで伸びてゆくということがある。
 これは船に乗っているとよくわかるのです。私は一番長いときは三ヶ月乗っていましたが、船に乗っていると陸地が恋しくなる。陸地に上陸するというと非常に嬉しい。船の上はどうしても不安定でありまして、小さな船ほど揺れますね。海鷹丸という船に乗ってインド洋に行きましたが千五百トン位の小さな船なので大変に揺れました。実験室にビーカーがありますね。揺れるとビーカーがあっちにずっと動いてゆきます。しかしあわてることはない、またこっちにずっと動いてきますからね。それを捕える。なかなか面白いです。が陸地が恋しいですね。陸地という動かない広い所が人間に必要です。閉ざされた船の中では人間は狭小になる。狭くて小さな自己中心的な人間しか生まれてこない。それでもいいじゃないかということになるかも知れんが、本当は人間というのは間柄的存在といわれるように、つながりを持たねばならない。つながりを断つところには本当の人間の喜びとか健康的な満足というものは得られない。
 今はそういうものと違って仏の前なる生活、それは常に明朗である。それを歓喜という。そして後悔というものを持たない。後悔とは何かというと、「どうしてあんな事をしたか」、「しもうた、ああいうことを言わなきゃよかった、しなきゃよかった」と資糧位、加行位までは人間は自責の念とか後悔があるのである。誰もがしもうたという過去や経験を持ち、悪い事をしたという悔いを持つ。それが彼を苦しめるわけである。それが通達位を境として無くなるのである。それでは自責も後悔もしないで何をしても平気か、厚かましくなるのかというと、そうではなしに後悔というものをしないけれども、懺悔というものに変っていく。
 懺悔とは何か。かねて申すように三つの特色がある。後悔と違う特色が三つある。
 一つは私がこの罪を背負って行きますという決意です。私が責任者になるということである。自責とか後悔とかいうのは、なる程俺が悪かったと言っているように見えるが、責任転嫁という心がある。あの時隣におったあの人がちょっと注意してくれればよかったのに、ということになるのである真私もそういう事を色々経験します。私はポケットに小銭を入れた財布を持っておる。京都駅で降りた時に何かシートの上に落ちたような気がしたのだがそのまま降りた。外で気がついたところが金が無い。しまったなあ、あの時シートの前におった人が見ておったがなあ。気がついていたに違いない、なぜ言ってくれんかなとしばし考えました。自分がうっかりしていることはわからない。立ち上った時見ればよかった、しもうた、だが相手が言うてくれればよかったのになあと相手を責める。そういうことになる。自責とか後悔は必ずこういうふうに愚痴になるのです。ところで、仏の前に生きる者は愚痴にならない。これを懺悔という。仏の前に生きる者は、私が愚かったと自分を背負うことが出来る。背負うとはどういうことかというと、それを私の業として受けとることができる。
 次に再び為さじという。もうこういうことは決してやらない。そしてもう一つ、どのような咎(とが)も罰も私が背負いますということになる。これを懺悔という。いわゆる後悔というものの持つめそめそした、あるいは暗い、いつまで経っても切れない、そういうものでなしに、すっぱり切れるというものがある。失敗した事そのこと自体が彼自身の深まっていく内容となる。これを懺悔という。彼は明朗である。必ず後悔というものから離れていって懺悔を持つ。  生活者とは行者である。行者とは何か。仏の前なる生活者である。仏様の前で生きている。これはもう実に強い。こういう人は信頼できる人である。たとえどんな年寄りであろうと、どんな身体障害者であろうと仏の前で生きている人というものは物凄く力のある、そして信頼できる誠実な、一度約束したものは必ず間違わないようなそういう人が生まれるのである。なぜかというと世間を相手にしてないからそういうことになる。彼はそこに願いを持つ、その願いは何か、それは更に深まりたいという願いである、即ちそれは通達位、修習位、究竟位と前進してゆきたいという願心である。  またそれを供養諸仏という。供養諸仏とは何かというと、すべての仏に供養したいというのである。供養とは何かというと、私の持っている物を捧げるということである。私の持ち物を差し上げて仏法のお役に立てたい、これを財供養という。供養にはいわゆる財供養と法供養がある。法供養とは、その教を本格的に聞きぬいて徹底的に知りたいというもの、これを合わせて供養諸仏という。それが彼の生活を方向づけるわけである。人間我々はあらゆる欲求を持っている。しかしながらそれだけが人間のすべてではない。それはまだ誕生していない、まだ卵としての存在である。けれどももしそれが本当に誕生を遂げて生活者になったら、そんなものではありません。生まれた時から死ぬまで自己中心の生き方をするしかない動物とは違うのである。自分のすべてを大きな世界に捧げていくというものを持っている。人間はそういう素質を持っている。そういうふうになれるのである。それを生活者という。そもそも生活というのは何かというと、一つの方向を持っている。その方向が正しいかどうかということは、それは自分において悔いがないということが一つ、そして同時に客観的に正しい、いわゆる歴史的なものであるということ、自分において悔いがない。生き甲斐があるだけでなく、それが歴史性を持っていることが大切である。歴史性を持つとは、長い長い人類の歴史の中に客観的にそういうものが生きているということである。私の道が親鸞聖人の進まれた道であり、また法然上人の行かれた道であり、釈迦の道であるというところに歴史性がある。歴史が自己において自己の道になった。そういうふうなものが正しい方向を持つ生き方である。このような方向を持つと共にその方向に進む力を持っている。それが生活者というもの、生活が成り立つというものである。彼の願いは何か、それは供養諸仏という言葉で表わされるものである。自分の生きる方向が供養諸仏という方向を向いている。そして他への働きかけ、一人でもそういう道に立って貰うということを念じている。そういうことを心に思うているわけである。
 さて生活者とは何だろう。も一つ言わねばなりません。これはかなり前から申しておりますが、現実と取り組むというこことです。現実と取り組む力と姿勢を持っているということであります。現実とは何か、現前の事実である。我々は自分一人で生きているわけでなしに社会があり家庭があり親があり子があり夫があり妻がある。そういう現実と取り組むわけである。取り組むということの反対は何か。反対は対立、反撥あるいは妥協、あるいは無視。こういうのは取り組んだと言えない。取り組むとは対立でない、反撥でない、妥協でない、無視でない。これはどういうことか。  これはいつも申すことになりますが、これこそマルチン・ブーバーという人が実にうまく言っていると思って感心することです。そこで何べんも申すのですが、現実というものと取り組まない限り私の姿勢はIch-Es(私-それ)という関係である。「私-それ」というのはそこに起ってくるものを物質化している。対象化しているという、それを普通の言葉で言うと傍観者という。それを見ている人である。冷たい批判者である。お客さんとしての立場でものを見ている。それは取り組むの反対である。社会なら社会というものを批評家として見ることが出来る。日本という国はつまらん、政治家がなっとらんと言うことができます。何ら自分には責任はなく、みんな他の人が悪いんだと言うて責任を転嫁する。しかし本当はそういうものではないんです。
 ここに茶碗が一つあるとする。子供が走ってきて落ちて割れた。今頃の人はどう言うかというと、「茶碗が割れました」と言う。「ほう茶碗が割れたか」。「茶碗を割りました」と言う人は一人もおらん。「茶碗が割れました」。「どうして割れたか」。「落ちて割れました」。「なぜ落ちたか」。「子供が走ってきたので茶碗が落ちました」。何だか茶碗が自然に落ちたような風情です。落ちて割れるような茶碗を買うのが悪いという風情である。割れない茶碗だってあるのですからねというふうになる。買うた奴が悪いんでと責任は他の方へいく。いやそこに置いた奴が悪いんだ、そんなもの買うた奴が悪いんだという。割った奴は一人もおらん。そこが問題である。それは傍観者です。それは自分にかかわり合いがないんです。しかしながら茶碗が割れたのも私の責任、社会が悪いのも私の責任なんて言うのは、そういうのを責任地獄といって地獄ですよ。清沢満之という先生が言われたそうですが、責任地獄に落ち込んで一生苦しまにゃならん。大体取り組むとはどんなことか、責任とはどんなことか。ブーバーは言った。Ich-Du「われ-汝」とこう言った。これは非常に面白い。私の転換において私が変ってくる。私が汝と喚ばざるを得ない、切っても切れない、そしてそれに語りかけずにはおれないようなもの、それをいたみという。わが身のいたみとなる、あるいはそこに深いかかわりを持つという。今、茶碗のたとえではピンとこないが、茶碗が割れたというところに、俺は知らんぞではなしに深いいたみを持つ。しもうたな、可愛想なことをしたなと思う。茶碗に可愛想なことをしたなということがあるかと思うかも知れんが、私達は化学の実験でビーカーが割れたり試験管が割れたりしますとね、可愛想に、悪いことをしたなあと思います。落ちて割れたから損をしたではなしに、折角の物をなと思いますね。いたみを持つ。そのビーカーが私に語りかけて、いわば切っても切れないものになっていく。
 現在はいわゆる物質化といいますね。資本主義というのは物質化になっているというふうに申します。で、鶏を飼うのはケージの中で飼われている。一羽ずつ入れられておる。餌は自動的に回ってくるようにしてある。水も自動的に回ってくる。また自動的に卵を産むようになる。夜も産むように電灯をあかあかとつけてある。鶏は可愛想に寝る時はありません。そして出てきた卵は一々重さを計って記録している。「こいつはダメや、一ヵ月のうちに二十しか産まん。廃鶏だ」と言ってですね、チョンである。代りを入れるという事になる。哀れなるかな鶏である。これはEsになっている。物質になっている。これを物質化という。これは語りかけるものがいない、これを現実を物質化しているという。取り組むということの反対ですね。あるおばさんが言った。鶏に餌をやりながら言った。「今度生まれてくる時には人間に生まれてこいよ」と言って聞かせる。「人間に生まれてきて仏法を聞けよ」と言う。これは面白い実にいい話です。僕もその精神に則ってですね、今鶏を飼うている。ケージは一切やめて広い所に飼うている。僕が行くとワーッと寄ってくるです。僕がこっちへ行くとこっちへついてくる。あっちへ行くとあっちへついてくる。なかなか面白いですね。あれは頭が小さいから、ちょっと頭が悪いところがありまして、畑の野菜を食うてはいかんぞと言うてもすぐ食い出すから、僕は長い竹を持っておるそっちへ行ったらいかんぞと言うてちょっと振ってみせる。大分わかるようになりました。
 要するに、取り組むというのは十方衆生という喚びかけ、すなわち物として見ていくのでなしに物に語りかけるものを持っておる。そしてその中にDuと喚びかけるものを持っているということである。アメリカの植物学者が言いました。「植物には声がある」。これはどういうことかというと、水をやると向こうの方の植物が言うそうです。「こちらにも水をくれ、公平にやってくれ」と言うと書いている。植物の喚びかけを聞いているというのは、自分が喚びかけているということである。公平に水をやらねばいかんと考えておることであろう。そこに広い十方衆生よという喚びかけ、何も命の通わない単に傍観しているという所に留まらないで、それに対する働きかけというものを持ってくる。いうなれば深いいたみと深い願いを持っている。そういうふうなものが生まれてくるのであろう。公害というものもですね、こういう仏教者を次々と誕生させていかなけば、根本的には直らないと言うことを思うのであります。大変話がずれましたが生活者ということを言おうとしておる。
 元に返って「弥陀の誓願不思議にたすけられ」るとは、私が何か病気をなおして貰うとか神秘的なものを経験するのでなしに、また何かを信じ込むというのでなしに、私が大きく誕生させられた。そしてそこで本当の意味で人間としての生活をすることができるようになった。それは私の生きる相手があり私が喚びかける相手がある。そういう広い世界を持っているのである。そういうところに行者というものがあるのだと、まあこういうことを申し上げたわけでございます。大変にまとめが悪かったですけれども、たすけられるということについてこの前に続いて申しました。


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