十、信心

『歎異抄講読(第一章について)』細川巌師述 より

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1 老少善悪の人をえらばれず

 先ず「老少善悪の人をえらばれず」ということですが、全ての人を色々な類型で二つに分けることが出来る。その一つが機類という分け方です。一つは老人であり、も一つは若い人である。或いは男と女、貧と富ということもできる。『教行信証』には貴賤という、或いは緇素(しそ)という。緇素は現在あまり使いませんが、緇はいわゆる出家をいうわけです。素とは在家の者をいう。これらは外側から見て一目見れば年寄りか若いか、男か女か見分けることが出来る。も一つ分け方がある。それは機相という分け方。機類というのが外側の分け方であるのに対してこれは内側というか、内面的なものである。これを善悪という。いわゆる善人悪人という。或いは久近(くごん)という。これは修行聞法している期間が長いか、近頃始めたばかりかというのを久近という。また、浅い領解の人、深い領解の人をいう。こうい内面的な見地から見まして人を分けることができる。今はその外側からは老少を、内側から善悪をあげ、これが「老少善悪の人をえらばれず」となっているわけでございます。世間はすべて老少善悪で代表される差別分別というもので成り立っている。差別というものが常につきまとっている。選挙権は二十才以上とか、老齢年金は六十何才以上と区別があるわけでございます。此の世はいわば差別の世の中で、たとい差別を全部無くしたとしましても男女老少ということはどうすることも出来ない。そういうものがあるのです。こういう差別に従って我々の心の中にも深い差別心というものがある。それを分別と申します。分別心という。即ち外側に色々な差別があると共に、人間の心の中に色々と区別して物を考えていく心がある。善人と悪人、或いは初心の人と深い練達の人、或いは持っている人と持たない人、こういうふうに色々に分別して考える心があるわけで、この世は内からも外からも差別、分別というものを越えられないようになっている。
 それではそのような分別心というものはどうして出来るかというと、『論註』の中で曇鸞という人が申されるのに「衆生邪見をもっての故に心に分別を生じ、もしは邪、もしは是もしは非」と分別するといわれています。人生の現実において人は色々な事件に会い、色々な人に会う。その時心に分別というものが起って、或いは正しいと言い或いは間違っているといい、もしくは嫌と、このように色々と人間の感情の上にも好き嫌いが起り是非善悪をいう心が出てくる。その根本を邪見というのだと申されている。邪見とは何かというと、また我見ともいう、或いは身見ともいうが、要するに人間の深い(とらわ)れである。(しゅう)という。我執に根ざしているのであって、それが現われてくる形が分別心となって出てくるのである。即ち差別心である。
 現在大きな社会問題の中に差別問題というのがあります。部落の問題やその他白人・黒人という問題、そのほか沢山の差別の問題が出てきている。この差別という問題を考えていくともとは深い執れにある。これは人間の深い所にある。差別をやめようといってもすぐにやめてしまうというわけにはいかない面があるのです。簡単な例は自分の子供と人の子供ということで、自分の子供と人の子供を同じに考えよというのは、言うべくしてなかなか出来にくい事であって、自分の子ということになりますとよその子と違って深い愛着を持つわけである。従って差別を簡単にやめるということはなかなか出来ないことであります。
 仏教ではそういう差別、分別の心を無くし得るのは、凡夫では到底不可能で、大菩薩においてはじめて可能であるという。たとい菩薩でありましても小菩薩という段階では出来ないと申します。大菩薩とは何かというと、非常に高い段階でありまして四十八段以上と申します。十信、十住、十行、十廻向、これで四十段ある。その次が十地ですね。これで五十段あるわけですが、その十地の中の八地以上を大菩薩というのであります。即ち四十八段以上です。五十一段を等正覚、その上を正覚という。大乗仏教では仏の位を五十二段の高い段階で説き、四十一段より上を菩薩という。その中の八地以上、全体から見れば四十八段以上を大菩薩という。人間の持つ執れ、善悪老少にとらわれるということは、七地以下の小菩薩においては免れないという。このことは大変に問題の根本が深い事を表わしている。抽象的に考えると我々はすぐに、年寄りであっても若い人であっても同じだ、善人も悪人も同じく人間じゃないかと考えるが、実際はこの問題は一朝一夕で解決出来ない問題です。単に心の持ち方というようなことで解決することでなしに、深い人間の心の根っこにくっついている邪見、我執というものを解決しなければどうにもならない問題であると説くのであります。大菩薩においてはじめて差別を超えて平等ということが成り立つ。即ち平等心というものが成り立つのである。仏はもとより平等心です。仏の悟りを平等覚という。それ程に平等ということは大変な問題であると申しているのでございます。
 老少善悪の人をえらばれず。これは大変な問題で、世間においてはなかなかに成り立たない事である。世間は必ず区別され分別され選ばれているわけである。選ばれない世界を平等の世界という。それは人でいうならば、四十八段以上の菩薩において始めて成立するというのであります。さて、老少善悪の人をえらばれずとはどういうことか。この問題が大事なことである。そこに平等ということがいわれている。が、も一つ別の角度から申すと、「老少善悪の人をえらばれずとは、いわゆる絶対否定ということであります。否定の反対は肯定と申します。肯定とは人間の状態の差が認められ、人間の優劣が物をいう世界である。その人の能力に応じてそれぞれの段階があり、その人の努力に応じてそれぞれ転回がある。その人の努力次第で伸び方が違う。それが成立するのを肯定という。従って人間の力が物を言う世界が、人間肯定の世界である。それに対して老少善悪の人をえらばれずというのはその反対である。人間の素質とか努力とかいうものが役立たない、物を言わない、これを否定というそれらが一つも物を言わない、それを絶対否定の世界では、人間の持つ何物も必要ではない。唯一つ必要なもの、それは疑いが無くなるということである。疑いが無くなるという事だけが大事な問題であって、人間の素質、能力、老若、努力というものは、持ち出しても何の役にも立たない。これを絶対否定と申すのであります。例えて言えば、大きな大きな何千度という溶鉱炉があるとする。それに石を入れても溶ける。土を入れても溶ける。或いは三角でも四角でも、赤でも白でも溶ける。それが何であるかということは問題にならない。大きな溶鉱炉の中ですべては溶かされるのである。形や質は問題にならない。ただ溶鉱炉に入ることが必要である。こういうのを絶対否定という。問題は何かというと疑いが無くなるということが必要で、これが「信心を要とすという問題です。疑いが無くなるという問題はまた後でくわしく申したいと思います。
 本願の前に肯定されるものは何一つない。絶対否定というのは、人間の行、即ち努力によって、能力によって、素質によって、また心がけなどで左右されるものでないことである。なぜかというと、人間のやることは虚妄顛倒と申すのであります。そこから出て来るものを不実功徳と申すのです。この言葉自身は曇鸞によっている。人間がどれほど努力継続してもそれは虚妄顛倒であり、それを不実功徳と名付く。非常にわかりにくい問題です。虚妄顛倒とはどういう事か。我々が今から実行しようとする時に必要とするものは、何のためにやるのかということです。なぜやるかという目的を立てて、どんなことをやるかを決める。どんな姿勢、心持、心根でやったらよいかということを考えて、よしやろうと決心してとりかかっていくということになる。人間が知性の上に立って目的をきめ、適当な方法を考え選んで、最後までやりぬくという決意をもってやろうとする、これが実行である。従って町を歩いていてすべって転んだというようなのは実行とは言わん」それはアクシデント、偶然起ったわけで目的があってすべったわけではない。すべる事を選んだわけでもなく、どんな心持ちですべるかと考えたわけでもない。要するに行にはいらない。実行は知性をもってこれを基盤としているわけであります。虚妄顛倒とはどういう事かというと、その地盤が地盤としてはならないもの、砂上の楼閣という言葉があるが、非常に不確かなものに立っている。それ故本当の功徳、立派な結果が出てこないのである。知性というものは深い人間の無明、我執、具体的にいうと名聞、利養、勝他、即ち人がどう思うか、損か得か、損をしてはならん、負けてはならんという競争心などが一番底にあって、その上に知性というものが立っているのである。どんなに知性を磨いたつもりでも、そういう一番底のものが出てくる。学問の世界というものは世の中の普通の人から見ると、大変純粋なものであろうと皆思うが、そうではない。学者という人達の心の底にどんな気持ちが働いているかというと、この研究を早くやって、あっと言わせたいと思う心がある。この論文を出せば助教授から教授になるのに役立つだろう、あの大学からあのような論文を出しているが、こちらも負けんように出さねばいかんという等の気持ちが心の底にうごめいているのでございます。私は長い間研究者としての生活をしてきたのでよくわかります。その上に知性が立っている。従って知性はこの名聞、利養、勝他の心の動揺するにつれて非常に動揺しやすいわけである。ぐらぐらしている。それを砂上の楼閣という。知性はしっかりしているつもりであるけれども、その基がこうであるからぐらぐらして本当の功徳というものを生まない。これを不実功徳というのである。
 我々は一つの理想というものを持っている。もし自分では理想を持っていなくても、世の中には理想というものに生きている人があると思う。たとえば研究者という存在には純粋な気持ちでやっている人があるに違いないと思う。それはまことに始めはその通りです。しかしだんだん年をとってくるとそうではない。人間のやりますことはどのような努力、どのような継続、どのような能力、その点は非常に差があっても、その心根という問題は同じである。それは人間であるという限定である。人間が神でないという限り免れないことでございます。人は最後まで純粋であることが出来ないのである。超越出来にくいものは何かというと、名聞利養という問題です。これを一諸にして名利と申します。名利という問題は最後まで抜けない。往生要集というお聖教に譬がのっておるそうです。大きな大きな象が檻の中に入れられておった。やっとのことでその檻を押し開けて外に出ることができた。ところが最後に小さなシッポがひっかかった。大きな象は体全体は外に出たのであるが、その小さなシッポが檻にからまって出ることが出来なかったという。これはまことに道理に合わぬ話であって、大きな胴体は出たのに小さなシッポが後にはさまるなんてあり得ないと思いますが、なかなかいい所を言ってある。心の底に潜んでいる目には見えないような、人には気付かれないような問題が最後に我々の行動を束縛して、それが我々を自由に動かせないのである。こういう問題がいみじくも象のシッポという譬で出されている。この絶対否定の宗教は人間の努力をなぜ肯定しないか、認めないかというと、それは心根に問題がある。それ程純粋さを問題にしているわけである。この名利というものが人間の努力を虚妄顕倒にするからである。
 如来のまごころは(これを本願と申します)至心である。何等の煩悩を(はら)まない純粋なものである。清浄純粋なものである。何等の代償を求めないものであって無明を孕まない。そこに一切の人間の持ち出すものが間に合わず、ただこれ如来の至心というものの中に溶け込まされていくのである。それによってすべて焼き尽され溶け尽されていくのである。こういうものを絶対否定という。私の小さな考え、自己肯定が、大きな大きな仏、如来の至心の本願の中に打ち砕かれてゆく。如来のまごころの中で、いよいよ自分自身というものが何であるか、自己の不実というものを知らされる。そして仰ぐべきはただ如来であり、本願である。私は誠に煩悩具足の凡夫と懺悔せざるを得ない。そこに絶対否定の宗教があるのでございます。自己の不実功徳を如来の本願の前に発見して、ただ如来の真実功徳を仰いでいく天地を絶対否定というのである。私から持ち出す何物もなく、ただ如来の本願の真実を頂く世界を絶対否定という。その天地を「老少善悪の人をえらばれず」と申されているのでございます。

2 信心を要とす

 も一つ別の角度から申します。も一つ言われているのは「信心を要とす」という問題である。要とは何かというと、肝要、カナメと申します。弥陀の本願は信心を要とするのである。信心というものがたった一つ必要なのであるという。信心とは何かというと、信じ込むという事ではありません。普通の信ずるという意味ではありません。疑いなしということです。疑いなしとはどういうことかというと、始めは疑いがあるわけです。人は全て先ず、それが何であるかということがわからない状態にある。疑いの中にあるわけである。その疑いがとうとう晴れてしまう。これを転回という、或いはめざめという。このようになっていくのを信心という。信心は、頭からかぶりついてそれを信心だというのとは違う。そういうことは人間にはできない。もしできたらそれを盲信という。本当の信心というものは転回である。即ち疑って疑って疑いつくして、だんだんとめざめてくるということを疑いなしという。その天地を信心というのである。その時これをまことの心という。
 始めから信心はない。人の心は世間心という。世間心とは、人はすべて問題を考える時に外へ外へと考える。外へ外へとは、自身の追求ということをしないで外に問題の解決を求めていく事を言う。例をあげるとイダイケという人がいる。『観経』に出てくる女性で主人公ですね。自分の夫である国王のビンバシャラ王が殺された。このアジャセの背後には黒幕がいて、それをダイバダッタという。彼がアシャセをそそのかしてビンバシャラ王を殺して王位を奪ったのである。それだけならまだしも、アジャセはイダイケの髪をつかんで引きずりまわしその喉元に(やいば)をつきつけて殺そうとした。「我が母は是れ賊なり」という。日本語でいうならば、「おっかさん、あんたは私の仇じゃ」という。そういうひどいことをいう。そこに極限的状態というか、悲劇中の悲劇があるわけである。やっと命だけは助かったがイダイケは牢にとじ込められた。さてこの問題をどう解決するか、この問題の解決の方法をどうしたらよいか、我々は先ずこう思う。「イダイケさん、あなたは本当に気の毒なことである」と、まず慰める。それから何とかしてアジャセとダイバの関係を絶ち切らねばいかん。そしてアジャセの気持ちを冷却するために適当な冷却期間をおいて彼の心の落ちつくのを待ち、よく言って聞かす。「大体人間である以上は親のことを考えねばいかん、こんなことをしてはいかんではないかと言って聞かせて心を改めさせ、「今までの事は仕方がない。今からさき母を大事にするように」と教えてやると、イダイケの幸せはとりもどせるのではないだろうか。心の痛みはぬぐい去ることは出来ないが、今後生きていくにはまずまず差支えのない状態になると考える。これは世間心という、人の心の考え方ですね。
 親鸞聖人はこのような考え方を、()の仏弟子と申された。偽の仏弟子という言葉は『教行信証』の信巻に出てくるのであります。
 偽の仏弟子とは何か、世間心、即ち普通の人の上に立って問題の解決を外に求めていく、今の例えでいうならばアジャセ、ダイバを始末していくのが問題の解決であると考える。そのようないき方を偽の仏弟子と申します。これを外道と申すのである。外道とは仏道の外という。親鸞聖人の和讃を頂くと「五濁増のしるしには、この世の道俗ことごとく、外儀は仏教のすがたにて、内心外道を帰敬せり」とある。外儀というのは、外の姿は仏教徒の姿をしているけれども、心は外道の心であるという。今の世の中の道俗ことごとく、いわゆる僧侶も在家の者も全部という、こういう厳しい言葉で言ってある。仏教徒の格好をしておりながら実際は外道であるということを歎いておられるのであります。仏道に立っておりながら仏道でない考え方をするということを言っておられる。今申しますように、アジャセを改心させ、ダイバに手を引かせることができれば、イダイケの幸せが来るであろうと考えるのが外道の考えというのであります。そういうのを外に外にと解決を求めていこうとしていると申します。お釈迦様はどういいなさるかというと、アジャセの心を改めてとも言いなさらん、ダイバをこうしてとも言いなさらん。「イダイケよわかっておるか、仏様がおいでになるぞ」と言われますのが『観経』の説法の始めである。「汝今知るや否や、阿弥陀仏ここを去ること遠からず」というのが第一声である。「イダイケよわかっておるか、お前を支えておる大地があるぞ、仏の大地がお前を支えているのであるぞ」と言いなさるのです。我々にはそういう事はもう奇想天外というか、思ったこともないようなことです。たとえ仏様がお前を支えているということになっても、アジャセの側の方を解決しなければ幸せはこないではないかと思う。これを外道というのである。
 信心を要とすというのは、信心は誰も初めから持たない、持っているのは人間の心である。その人間の心は世間心である。世間心とは、知性を基盤にして名聞、利養、勝他をもといにしている心である。これが出発点、それがだんだんと深まり遂に疑いなしという天地に出る。何に疑いがないのかというと、如来の心に対して深い深い領解を持ってくる。お前を支えている仏の大地があるぞと言われても我々はてんで問題にしない。世間の方が大事だと思う。そういうのを疑いというのである。仏の言葉に対する、仏の教に対する強い疑い、反発である。言い換えると世間心が中心になっておって、仏の教を受けつけようとしないのである。この外道の心というのは色々の形をとって我々の中におるわけである。昔の六師外道と違って現代の外道は文化、科学、心理療法と、色々な名前で出てくるのでございます。特色は水平思考或いは平面思考というか(こんな言葉もあまり使われないが)、物を向う側に考える。自分を追求することなく、向うはどうなんだ、その原因は何だ、向うの気持ちはどうなんだということを考えて、向うに問題の解決点を求めていこうとするのが平面思考というのである。
 例をあげると劣等感という問題がある。これは大きな問題で、この劣等感を無くする方法は現在大変大事な問題であります。この劣等感は現在無力感という姿をとるようになってきていると考えられます。無力感とは何かというと、私のような者は生きている甲斐はないのではないか、自分のようにつまらない者はこの世の中で役に立たない、死んだ方がましではないかと思う。そういう無力感が方々に出てきているのである。若い人にも、最近は特に中年の人にも多く出て、うつ病とか蒸発とか自殺者とかが多くなっている。これをどうしたらよいかという所に心理学的療法というのがある。これは心理学を利用した療法でございます。一言でいうと心の持ち方を変えよという。どんなふうに変えるかというと先ず要求水準を下げよ、いつも百点満点を取ろうとするからトラブルが起るのであるから、六十点でもいいではないか。一流大学に入ろうとするから苦しみがあるわけで、大学に行かんでもいいではないか、あなたが理想としているそのレベルを下げたらいいではないか。次に価値観を変えよ。大学の先生が必ずしも偉いのではない、天ぷら屋の職人でもうまい天ぷらを揚げたらそれでいいではないか、外側だけを見るのでなしに内側の価値を見出して価値観を変えていくことが必要である。長所を伸ばせ、そして短所を補えという。こうしてこの人に幸せをもたらそうとする。これは非常に面白い。ある所までこういうのは有効であるわけですが、これを外道というのである。なぜかというと、要求水準を下げてそこで満足があるものではない。無力感を克服するためにやむを得ず下げたわけで、これでよかった、満足した、生き甲斐があった、私は人生を感謝するということにならん。高いのを低くして一時落ちついたというだけである。いつかまた人とくらべてもとのものが出てきて流転するのではないか。しかし一番わるいことは、本当の生き方というものを考える芽をつんでしまう。仏教の考え方では、人間の生き方を生と活に分ける。活とは世の中を食べて生きていくということである。劣等感という問題で行きづまって、今こそ生の問題ととり組んで、そこで本当の生き方を考える絶好のチャンスであるのにそれを考えず、心の持ち方をどうしていくかという事で終ってしまう。そこに問題をすりかえで、本当の問題が解決しないで人生空過、その一生を遂に空しく過ごすことに終るのである。こういう事を申すのが偽の天地という。
 先ず「信心を要とす」というのは信心が肝心(かなめ)、それを絶対否定の宗教という。絶対否定とは、人間が持ち合わせているものをあれこれ扱いまわすのでなしに、如来のまごころを知らされて遂に自身が転回し目がさめていくということが大切なんだ、心の転回が大切なんだということを言おうとしている。その心の転回とかいうのは、初めは人は人間の心しか持たない。それを世間心といいこの世の活を考える。しかしそれだけでは人は流転するしかない。現在の外道は九十五種とか六師外道でなしに、科学的な結論或いは心理学的な結論を持ってきて人生を解釈し、活の世界で終らせてしまう。そこにとどまっているのを偽の仏弟子というのである。これが一番初めの出発点でございます。で、ここに叫ぶものは、いつも申しますように「君はそれでよいのか」というよき師よき友の喚びかけである。それが人の心を転回させていく第一の問いかけでございます。これによって我々は深く自己自身というものを考えねばならん、そういう道を教えられるのであり、そこから転回の第一歩がふみ出されるのであります。
 「弥陀の本願にはただ信心を要とすと知るべし」。それは人間の心から出発して世間心(自己中心と言おう)自己中心の心がとうとう如来の心というものに転回されて、まことの心、まごころになる。こういう転回をとげていく、これを疑いなしというのである。
 人をこのようにつき進めていくものはよきひとである。その人を善知識という。人が進んで行くのには五つの段階がある。一番基盤は宿善。その人に与えられている深い因縁、或いは長い長い昔からの厚い善根が基礎であって、そのものによって善知識に遇うという。一つには宿善、二つには善知識。宿善開発して善知識に遇うと蓮如上人は申された。よき人に遇うたのである。君はそれでよいのかと言うてくれる人に遇うのである。ここから第一の転回が出てくる。そして何を教えられるかというと自己形成、或いは深い心を持とうとするような生き方を教えられる。ここから仏道が初まる。これを自己確立への道という。自己確立への道とはどんなことかというと、かねて申しますように資糧位という。資はモトデであり、糧はカテであり、そういうものを集める。そして実行する。これを加行位という。これをひっくるめて聞思修という。聞いて考えて実行する。こういう生き方を自己形成への道という。深い自己をうち立てるべく聞思修という道を通る。聞いて考えて実行する。これが我々の大進展である。資糧位、加行位、ここを仮というのであるがなぜ仮というか。カリである。権仮といい、まだ本当ではないが、本当の道への一歩である。何が本当でないかというと、考え方が自分の籠に水を泌み入れる求道である。自分の心に仏道をとり入れる求道である。この求道は自分の心の方が大きくて水の方が小さい。そこに足りない所がある。大きな大きなものの中から自分が聞いて考えて汲みとる。そこには自分の知性を基盤にしている。自分の知性という柄杓(ひしゃく)で仏法を汲みとっていく。それは顛倒(てんどう)、大小がひっくりかえっているわけである。そういうものを仮という。これは結局続かない。蓮如上人が『御一代記聞書』に言っておられる。「一、人の心得のとほり申されけるに、『我が心はただ籠に水を入れ候ふ様に、仏法の御座敷にては有りがたくも尊くも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候』と申され候ふ所に前々住上人仰せられ候「その籠を水につけよ、我が身をば法にひてて置くべき」よし仰せられ候ふ由に候」。ある人が言われた。私の心は籠の中に水を入れたように始めは有難いのであるが、忽ち元の木阿弥になる。そういうのを籠に水を入れる仏法と申すのである。自分の知性を中心にして汲みとっていくのはちょうど破れ籠に水を汲みとるようなもので、入れた当座は何やら潤って水があるような気がするが、忽ち無くなるのである。それをこういうふうに申すのである。破れ籠の方が大きく、水が小さい。これでは続かない、忽ちもとの木阿弥になる。「その籠を水につけよ」これは大変な名言でありまして、実にいい所を申されてある。我々が仏法を汲みとるのでなしに、仏法の中に我が心の破れ籠をつけよという事である。心の破れ籠を水につけよとは別の言葉で言うならば、私の頭を下げて仏法をおし預けという事である。その転回が一番難しい所でございます。わが破れ籠を水につける、これを真の仏弟子という。これを信心と申すのである。仏法の中に我が頭を下げていく、それを懺悔という。懺悔とは頭を下げるということ、光明に照らされるということである。蓮如上人の仰せには一つには宿善、二つには善知識、三つには光明という。その光明が仏の光、智慧の光、それによって私が照らされる。照らされた所にあらわれるものを諸有衆生というのである。諸有衆生、聞其名号というのである。
 私自身は行きつ戻りつという、水を沈み入れる段階が非常に長うございました。一年や二年どころではない、何年も何年も繰返し繰返しをしてきたのでございます。そして或る時にようやくわかりましたことは、最後の所に大きな錯覚を持っておったという事です。それは教を聞いて考えて聞思修を繰返していったならば、最後には大信心、大きな覚り、或いは金剛不壊のピカッと光るような立派なものが出来て、どういう苦労の中でも感謝しどんな中でも生きて行けるような、強い立派な信心が出来ると思っていた。所がやってもやってもそうはいかんそういうものが出来ん。それどころか聞かん昔よりもまだ悪いような、何やら腹の立つ心、愚痴を言いたい心、欲の心が非常に大きく見出されてきたわけでございます。これではいけない、もう一遍やりなおし、またやってみる。このような段階を繰返す。まだピカッと光るものがない。もう一遍と、何遍も何遍もやっておったわけです。何かそこにピカッと光る金色まばゆいもの、本当の信心というようなものが出来ねばならんと考えていた。これが錯覚であった。そうではなしに、聖人のお言葉を借りて言えば、無慚無愧のこの身、まことの心なし、貪欲、瞋恚、愚痴無智のまことにお粗末な心というものを照らし出された。これが私の本体とわかったのでございます。そこに仏の前に私を投げ出してお詫びするしかなかった。これを懺悔という。なぜ懺悔というか。これが私の本体とわかったという所ではそれだけでは済まん。わかったということは、必ず頭を下げて仏にお詫びをする。申し訳ないことである、お粗末なことであると頭を下げざるを得ない。これを懺悔という。それを諸有衆生われというのである。迷い深いわれというものが生まれてきて、初めてその名号を聞き開くということがある。その時これを懺悔という。そこに生まれてくるものが、『歎異抄』の言葉で言えば「かくの如きのわれら」、これを現代の言葉で言えば「このようなていたらくの私」というものが明らかになってくる。清沢満之という人の言葉を借りれば、「頭を上げることを得ざらしめる」頭を上げることが出来ないという世界に立たされた時に、それを諸有衆生、聞其名号という。その時に「他力の護はかくの如きのわれらが為なりけり」、仏の本願はこのような私のためであったかということがわかるようになっている。それを信心と申すのである。本当のめざめ、自覚である。それを疑いが除かれたといい、それを真の仏弟子という。この世界は転回である。変り深まってきたのである。
 大切な問題は光明に照らされて照らしきられるということである。そこに信心がある。蓮如上人は一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号と言われた。そこに南無阿弥陀仏と念仏が出てくるのでございます。信心は初めから持っているものではありません。それは教を聞いて聞きぬいていくうちに、彼自身の中に転回し深められていくものである。その最後を信というのである。そこに如来のまごころを領解するものがあるわけでして、その信心の一番初めを廻心というのであります。なぜ廻心というかというと、今まで粗末な自分の心を見出すと、これではいけないもう一遍やり直しをしなければと思っておった。それが光明のお育てに預って照らしきられると、もう一遍やり直す方向でなしに、全く方向を変えて「これが私の本体」と私自身に向かって頭を下げていく方向にむきが変わる。これを内観凝視といい、自己にとり組むという。全く方向が変っている。これを廻心いうのである。それが肝要である。
 さて、外道があり仮があり真がある。親鸞聖人は真仏弟子論にこの三つをあげなさって、最後に私自身は真、仮、偽(外道)のどこにいるであろうかと述べておられる。我々はどこにおるかと問われると何となく面はゆい気がする。大体真ではないかと思うけれども、あまりはっきり言うと少し出過ぎた感もあるから、真と仮の間ぐらいではないでしょうか、などということになる。親鸞聖人はどう言われたか。私は真の仏弟子であるとは言われないのである。真仏弟子論の最後(『島地聖典』12-93)に「誠に知んぬ悲しき哉、愚禿鸞愛欲の広海に沈没し名利の大山に迷惑して定聚之数に入ることを喜ばず真証之証に近づくことを快まず恥ず可し傷む可し。」と言われる。ここに愛欲と名利ということが出ている。これを世間心というのである。親鸞というお方は、自分は世間心の仏弟子だと言われるのである、私は偽ではありません、仮でもないような気がする。もちょっと上の方のような気がするといいたい。大体上の方を求めるのである。親鸞は私は偽の仏弟子だと言われた。この聖人のお心に自身自身を比べてみると、私は本当にお粗末というか憍慢というか、高い所を欲張って自分自身を見ることの足りない、名利の奴であると思わされることである。聖人は諸有衆生、聞其名号、まことに迷い深い自己であると言われた。愚禿鸞と言われた。これは珍らしい使い方である。普通は「愚禿釈親鸞」と釈の字を使われるのに、ここでは釈という字がぬけている。釈とは仏弟子という事である。『教行信証』には多く「愚禿釈親鸞」と書かれていて仏弟子親鸞と言われるのであるが、真仏弟子論というのを結ばれるに当って親鸞は、仏弟子という字もはずされた。そこに仏弟子たらざる自己、仏弟子というに価しない自己というものが出ているのである。お前は何かと私は自分で問う。私はまことに高い所におって自分自身を高く見ている、まことに聖人のお足元に及ばないことを知る。本当の信心とは何か、自己自身に対して本当にめざめることである。偽の仏弟子である自己、いや仏弟子という資格のない自己をいよいよ如来の光に照らされて、自身にめざめていくことがたった一つ弥陀の本願の世界である。そこに、本願に生きるということが成り立つ。聖人の世界がそこにあるのである。
 も一つ考えてみよう。この章には「弥陀の本願には老少、善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし」とあるが、大体今まで言われていることからいうと「念仏を要とすと知るべし」というべきではないのか。『歎異抄』の第二章には「親鸞におきでは『ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし』とよきひとの仰を被りて信ずるほかに別の子細なきなり」と、「ただ念仏して」とか「念仏申すのみぞ」云々とか、念仏ということをしきりに言われているわけである。「念仏申さんと思いたつ心の発る時」という言葉もある。「念仏のみぞまことにておわします」「念仏申すのみぞ末徹りたる大慈悲心」とか、この『歎異抄』には、念仏というのが非常に多く出ている。
 そもそも法然上人は『選択集』において「南無阿弥陀仏、往生の業には念仏を本となす」。念仏為本ということを言われた。従って「弥陀の本願には念仏をもととなす」というべきであろう。であるのに聖人はなぜ「信心を要とす」と言われたか、この問題をとりあげておかねばならんと思います。法然上人は念仏為本といい、親鸞聖人は信心正因といわれるが、この二つは違うのではないか、これを明らかにしておく必要がある。で、結論から申せば同じことでございます。
 弥陀の本願とは何か、一言でいうと南無阿弥陀仏といいます。これは仏の名前でなしに名号、仏の名告り、喚びかけである。親鸞聖人は如来招喚の勅命と言われた。私に対する深い深い喚びかけである。南無は帰れ、共にあれ。南無阿弥陀仏とは大いなるものに帰れ、我と共にあれということである。本願の究極点はつづめていくとそこにある。この弥陀の本願はどこから伝わってくるかというと、十方諸仏、よき師よき友の南無阿弥陀仏という讃嘆、(ほめたたえること)歓びの称名を通してである。今月私がこうして拙い話をしておりますのも讃嘆であります。大きな仏の喚びかけに対して感謝し喜んでおりますのを讃嘆という。この私の讃嘆はよき師よき友を通して、そこから南無阿弥陀仏と出てくるのである。よき師よき友が南無阿弥陀仏とよろこび、三世十方の諸仏が南無阿弥陀仏とよろこばれる、それが私に届いてきて遂に私の雑多な心を引きちぎった。世間心、名聞利養の心しかない私を次第に純化して、遂に私の上に信(疑いなし)という心を生まれさせて下さった。その時、南無阿弥陀仏が私の口から念仏として出てくるのである。弥陀の本願が届いて私の上に南無阿弥陀仏が生まれてくる。法然上人はこの凡夫の口から生まれる念仏をとって念仏為本と言われたのである。人間の上に成立する行のうち、弥陀の世界に遇うものはこれしかないと申された。これを「往生の業には念仏を本となす」と言われた。信心決定して念仏申すというのが本当の念仏であり、それが法然上人の言われる念仏であります。これを明らかにしたのが親鸞聖人の、信心を要とすということである。従って法然上人の言おうとされる事を、本当に具体的に明らかにされたのが親鸞聖人である。違っておるのでなく、二人でひとつことを言われたのでございます。
 さてそこの所をもう少し申しあげます。弥陀の本願、いわゆる南無阿弥陀仏、如来の心が衆生の心に届いて、(それを信心という)それが必ず念仏を申すことになる、このことを水車の例えをもって話したいと思います。
 今、水車がある。ただあるだけでは水車という物体に過ぎん。これが動くためには水が流れねばならん。水がだんだん打ちかけてくる。教はだんだん私に届いてくるのにまだ信心にならん。水車に水は打ちかけてくるのに水車は回らん。なぜ回らんかというと、心棒が錆びついているからである。錆を世間心、自分の知性を中心に考える我々の心、これを合せて自力の心、自己肯定という。先程の例えでいえば、イダイケは自分というものを考えなかった。アジャセが心を改めてくれなければと考え、自分というものを追求しようとしなかった。私は間違いない、相手が悪いんだと自分を肯定しようとする。これを自力の心、自己肯定という。この錆がくっついている限り水車は回らないのでございます。回すにはどうするか、弥陀の本願が届くにはどうするか、錆をどうしたらよいか。一言でいうと、一つには時機純熟という事がある。時が熟してくるということがある。これはその人その人によって違うわけで、親鸞聖人は二十九才、法然上人は四十三才、道綽禅師は四十八才、一番おそいのは曇鸞大師五十五才であった。それまで水車が回らずに頑張った。水が打ちつけるが錆が落ちんのです。時が来た、それを「時機純熟」という。何の時がきたかというと、一つは如来の時、も一つは人間の時である。時については前にも申したことがあります。時とは人間の持っている時間ですね。我々は何年何月に生まれて今日に至り、そのうちいずれ此の世をおさらばせねばならん。これが地上において我々の持っている時である。人間の持っている我々の時の中に、如来の時が出てくるのである。如来の時とは、私を念じ続け、私を願い続けているものである。我々の持っている人間の時を切りさいて、そこから如来の時が出てきた。厚い厚い錆で覆われておったのが、ある所でポッと錆が落ちた。その時をギリシャ語でいうとカイロスという。切断という。これを時機純熟という。この錆に如来の時が入って、これを機会にバラバラと全体が落ちてしまう。と同時に水車が回り始める。こんな時が来るのである。なぜかというと常に水が流れているから、我々に常に圧力がかかっているからである。いつくる か、それはわからないが必ず来るのである。それを已今当(いこんとう)の往生という。已とはすでに済んだ、今往生、(まさ)に往生。今開けなくても必ず開けるから当に開くべしと、こういう字をあてるのである。
 このように最後の問題は錆が落ちねばならんということである。これは必ず落ちる。それは水が流れているからである。その錆の中に如来の時が現われて必ず穴があいてくるのである。いささか心細いような話ですが、心細いことでなしに非常に大事な、決して心配はいらないという事を申しているわけです。今日は、弥陀の本願には信心というのが大事なんだ、信心とは転回である、念仏を要とすというのと同じなんだということを話したわけでございます。


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