人間知性

『歎異抄講読(前序について)』細川巌師述 より

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 「全く自見の覚悟を以て他力の宗旨を乱ること(なか)れ」。これは前序の一節でありますが、序と申しますのは二つの内容が入っております。一つは帰敬序と申します。序というのは現在で言えば緒言と申します。いわゆる序論ということに当るわけですが、この序論というのは大事でありまして、帰敬序というのは何かというと、自分の帰依し礼敬するところの、その私の依り処を帰依処と申します。この依り処を明らかにし、その依り処に対し合掌し礼敬する。頭を下げて合掌礼拝という姿を述べますのが帰敬というものであります。我々に身近いものに正信念仏偈があります。正信念仏偈では、始めは「帰命無量寿如来、南無不可思議光」とあって、無量寿如来に帰命し不可思議光に南無し奉ると申しますのが帰敬序ということです。自分の帰依処、すなわち自分の帰るところ、依るところを明らかにし、私の合掌、礼拝というものを捧げていく、それが先ず序に出てくるわけです。この前序の中にもそういう所「先師の口伝の真信」ということが出ており、「幸に有縁の知識に依らずばいかでか易行の一門に入ることを得ん哉」とあって、そこに「誠に幸せにも有縁の知識に遇って易行の一門に入ることが出来た」という、そういう自分の帰依、礼敬が出ておるのです。もう一つ序文の内容は発起序と申します。発起序というのは、今から文章を書きます、そういうことを致します、その理由、その所以が挙げてあって、何故『歎異抄』というものを書くのであるか、こういう趣が発起序というのであります。今、「全く自見の覚悟を以て他力の宗旨を乱ること莫れ」、誠に人間の知性を中心とした立場から本願他力の宗旨というものを乱してはならない。黙るに事実はそういうものが出て来ておるわけである。そこに『歎異抄』の発起、書かれます所以というものが述べられるわけです。『歎異抄』はだんだん申しますように、初め前十章と申しますのはそこに顕正(けんしょう)篇、正しい信、先師口伝の正しい信仰というものを顕わされている。これを師訓篇といわれている。前十章、いわゆる「先師口伝の真信」でありますが、これらが間違って受取られてきましたのを批判するのが後の八章である。これを破邪篇といわれます。間違ったものに対して厳しい批判を加えて誤りを正す、破邪というものが出ている。これを異義篇とも申します。
 異義というのは、間違ったわけがら、あるいは聞違った信心というものである。間違った信心がどうして出てくるかといいますと、それは「全く自見の覚悟を以て他力の宗旨を乱る」ということから生まれてくるのである。それが間違った考えの起る理由でありまして、そこにいわゆる『歎異抄』を書かねばならぬ理由があるわけである。これが発起序というものに当るわけです。自見の覚悟というのは自は自分ということ、見は考えということである。個人の考え、それに基づく悟り、或いは信仰、或いは認識、そういうふうなものを覚悟と申すのであります。自見の覚悟とは、人間知性の立場である。
 人間知性の立場でもって本願他力というものを考えていく、そこに異義というものが起ってくる。正しい信仰にならない。それを自見の覚悟と申します。人間知性の立場とは、人間我々の考え方というものを一番基礎に置いて、そこで話を進めて行くというのである。それを思議という。思議というのは、思は考えということである。議というのは、どれが正しいかということを思い計らうと申しますね。我々が自分の頭でもって考え、どれが正しいか、どれがよろしいか、どれが本当であるのか、どうするのが実際に大事な事であるのかということを、人間の考えで考えていくということであります。それを自見の覚悟という。我々はもとより自分の考えでいくしかないわけで、いわゆる人間知性というものを出発点とするわけでございまして、これは何も文句を言われる筋合のものでない。大事な生き方であるわけであります。けれども正しい信仰ということになるならば、これが大きな(つまず)きの石になる。それは何故か、そのことを一つ申さねばならない。
 現在の学校教育というものは、すべて知性というものをみがく。そういうことを大きな目標としているわけですが、そういう生き方は大変大事な生き方ではあるが、大きな致命点を持っておるのである。致命傷がある。それだけでは足りない、それだけでやっていくと必ず大きな問題を巻き起すようになっておるのであります。こういう点はなかなか言い方が難しいのでありますが、先ず歴史的に考えますと、この人間知性の立場が重んぜられてきたということは、ルネサンスによって中世の暗黒時代をこえ、人間尊重、自我の確立ということが叫ばれてきた。即ち中世の暗黒時代というのは御承知のように教会とか、『バイブル』とか、或いは昔の考え方というものが上にあって、それ以外のことを考えることが許されなかったのです。従って『バイブル』に曰くということが大事で、いわゆる地動説、地球が太陽のまわりを廻るんだというようなことをいいますと、結局は罪人になるのです。なぜかというと、「『バイブル』に太陽は東から昇り西に沈むと書いてあるではないか」ということになりまして、知性的考え方というものは無視されてきた。そういう時代がありまして、遂にしかしながら人間の考えというものを非常に大事にするという時期が来た。それを文芸復興という。これからいわゆる近世という時代になってきた。日本ではそういうような西洋の行き方が進んできました後に、その教育が取り入れられてきて、現代では人間の知性でものを考えるということを極力進めていくようになっているわけでございます。これが非常に大きな問題点を持っている。それはどういうことかというと、人間知性の立場は常に物を対象化して考えるということでございます。対象化して考えるということはむずかしげな表現でございますが、自分をここに置いて物事を向こう側に見るということです。またこれを分別とも言います。物事を向こう側に置いて見るとどういう欠点があるかといいますと、本当にその事を知ることが出来ないということがあるのです。これを物質化するといいます。つまりどんなものも、物になって考えられるということであります。命を失ったものとなる。
 卑近な例で申し訳ありませんが、母の涙というものを挙げてみます。母の涙というものを考える。人間の知性で考えますと、これは涙という物である。物になるわけである。そのようなことを対象化と申します。母の涙とは何か、それは一滴の重さは何グラムであって、そして落ちてきた時の温度は何度である。それを化学分析したならば九十九%は水であった。一%は塩分である。塩分は塩化ナトリウムからできているとこういうことになります。これらを詳細に調べるが、母の涙はわからないですね。母の涙にはなっていない。それは物質になっている。また親の恩とは何か、こういうことを考える。そうすると赤ん坊として生まれ、そうして乳を飲ませてもらったり流動食をとったりして、着物を着て幼稚園に行ってというふうになる。そういうのが親の恩である。育ててくれた親の恩である。いくらかかったか、ミルク代、着物代、養育費がいくらで、結局何万円だということになる。親の恩は何万円の価値である。極端な話ですね。そういうふうになる。向こう側において考えたらそうなる。これもまた極端な例でありますが、自分の女房だとか主人というものは対象化して考えると、どうしてこんな人と結婚したのだろうか、人相はよくないは……そういうふうに対象化するということは、私との関係からぶった切って考えているわけであります。母の涙というものは、子供を心配して悲しんでいるその悲しみとか、子供の死を思うて嘆いているその嘆きとか、そういうふうなものがつながって涙が出ているのであります。しかし涙だけをとらえますから、ぶった切ったみたいな形になるわけであります。
 ヤスパースという人はドイツの実存哲学の一方の旗頭であり、先年亡くなりました。ヤスパースが申すには、知性で物を考えると、部分を引きちぎって全体の中から破片を考えるにすぎない。そのものは元のものと似つかぬものになっていると、『哲学入門』という本の中に書いてある。要するに対象化して考えるということは、本当はそのものがわからない。そういうことになってくる。その例が仏法に対する人間知性をもって進んでゆく行き方だろうと思います。今日仏教学の研究というものは非常に進んでおりまして、仏教がどのように発生したか、キリスト教、マホメット教からどのように影響を受けたか、漢訳の原文がサンスクリットにはどう書いてあるか、南方に伝わってきた経にはどう書いてあるか。そういうことはよくわかるようになりました。しかし仏教はわかっていない。即ち仏教を研究する人が仏教をわかっていないということがある。仏教学を説いているが仏教を対象化して考えている。自身は何も仏教の影響を受けていない。仏教を向こうにおいて学問の対象として考える。本当に仏教を理解することにはならない。現代の考え方というのは科学的とか知性的とか申します。そういうふうな考え方には欠点があるんだということをよく知っていただかなくではならない。大きなあるものをぶった切って、その一片をとり扱うのである。大きなものの破片をつかんで、それをあたかも全体をつかんだように錯覚することが多いのであります。
 さらに人間知性の大事な問題は、現実を包めないということでございます。人間知性の立場は常に理想を求めるのであります。そして現実というものには満足できない。理想を追うてゆく。こういうのが理性の立場であります。したがって現実を包む力がなく、現実と対立する。人間知性の立場を仏教ではどのようにいうのかというと、これを自力と申すのであります。自力の立場というのはどういう立場になるかというと、それを自見の覚悟といいますが、それは自らが身をよしと思う心、これが基礎になりそれを自己肯定と申します。知性というものは人間知性それ自体を基礎にしているわけで、自らが身をよしと思う人間の知性で考えを押し進めてゆき、論を進めてゆく。この事には間違いがないんだということを自認しているわけであります。それが一番基礎にある。したがって自己自身が原点になっている。そこで虚心坦懐に先入観を捨て、感情を捨やるべきかということはわかる筈であると考えている。しかしながら自分一人の考えでは主観ということもあるので皆で話し合って、こういうふうにやろうああいうふうにやろうと論じ、これだと決まったならばそれが正しい生き方であるという。これを自己原点、人間の知性を原点とした自己肯定と申します。それを自力といいます。そこに深い自己過信がある。知性で考えたことをやっていったならば必ず理想に近づくことが出来る、一生懸命に人間の努力をしてゆくならば理想というものに近づくことが出来ると考えている。しかしこれは何も保証はない。だれかが証明したわけではないのですが、誰もそういう事を基盤においている。そういう行き方を学校でも教えているわけでございます。しっかりやれ、しっかり考えたならば必ずうまくゆくぞ、努力し努力したならば必ず到達点に達するぞと教えるわけであります。人間知性の立場というものは非常にあまい心を持っている。楽天的である。しっかりやれ必ずできるぞという楽天的なところがある。現在の文化人という人や革新的な考えの人はすべて自力的な立場でございまして、一つの楽天性を持っております。しっかりやれ、やったら出来るという。途中色々障害があろうけれども障害を越えて理想に達しなければならぬ、必ず達せられるという楽天的なものがあります。それは現実を包めないのであります。包めないとはどういうことかというと、現実に対して常に対立的である。現実では駄目なんだ、今の状態では駄目なんだ。そこで理想をかかげて現実を破り、理想に近づいてゆかねばならないんだという立場に立つ。
 こういうものが基礎にあるのであります。常に現実と対立する。いつも現状に文句を言って「駄目なんだ」という。そういうことも大事な面がある。つまり批判ということも大事な面がある。
 私は教員養成の学校で三十年間職を奉じてきました。始めは師範学校という所におりました。現在広島大学の一部になりましたが、そこに五年間おりました。後に福岡に帰りまして二十五年になります。いわば教員養成の学校で生涯をつくしてきたということになるわけです。学校の先生になる人は必ずしも頭のよい人が多いというわけではない。どちらかというと鈍才が多い。こういう人達が私の性に合っている。しかし教員志望の学生には人間的なところが多いようです。頭があまりよいと人間性がなくなるんですね。教員養成の大学にいて学生にむかって、なぜみんな勉強せんか、なぜそんなに頭が悪いのかと、これをどやしつけている先生がいたとしたら、そういうのをエリート意識の人と言うてよいでしょう。それは現実をいつも馬鹿にしているのである。そして自分は高い所におって、それじゃつまらんじゃないか、これじゃつまらんじゃないかとそう言って、現実そのものにいつも対立している。これでは教育にはならない。現実を包み得ない。包むとは何かというと、現実の中に飛び込んでその中で一つの願いを持って、何とか理想に近づけてゆくということである。そうならないで常に対立的なものを持っている。現実というものがいつも無価値なのである。これは自己原点というものの悲哀である。自己原点の立場でみると現実は、これではいけないということにしかならない。今、自分の子供がいるとする。で、しっかり勉強したら必ず成績がよくなるなぞというのも結構であるが、それは一つの楽天的な甘さを持っていて常に相手を包む乙とができない。かわいそうなのは子供であって、劣等感をもってくる。なぜかというと、やっても出来ないということがある。出来ない場合は深い傷を背負っていくことになるのである。それは本当に現実を抱き得ない行き方といわねばならない。
 このような行き方は一度何かにぶつかって障害に逢いますと、私のようなつまらない者は駄目だ、私のような者は生きる甲斐もないというほど、自分自身を否定し自分で自分をいためつけていくようになりやすい。理想に向かって進むのはいいけれど、一度失敗した時には深い卑下感を持ち、劣等感を持って自分で自分を縛るのである。自己原点は現実を包む力がない。大体冷たい批判ということになる。どうにもならないものに文句を言うということが多いのであります。たとえばなぜお前はそんなに背が高いのかといわれても、我々はどうしようもない。どうしてお前はそんなに色が黒いのかといわれても手のほどこしようがないわけである。それはそういうふうになっているのであって、そういうふうに冷たく言われては立つ瀬がない。なぜお前はのろいのか、なぜお前は……といって現実を批判するが、この現実というものはずっと長い歴史をもっているのである。この現実があらわれるには長い因縁というものがある。したがってここだけとりあげて、なぜそんなにするんだといわれてもどうしようもないのが現実というものなのである。それを冷たく批判する。これを自力の心という。大体これが人間知性の立場である。この立場は甘さを持っている。現実は駄目であるが、我々がしっかりやれば理想は必ず達成できるんだというところがある。しかしたとえ理想を達成したかに見えても次の瞬間にはくずれて元の通りになっている。それであるのにいつまでも楽天的であるところに、現実的でないところがあるのである。
 現実を包む力とは何であろうか。それは現実の中にとびこむ、つまり現実の中に自分が生きるということにならなければならない。私がいわば対立的にああだこうだということでなしに、これにとけこむということでなければならない。現実が私のための仏法にならない。これを人間知性の立場といい、それを自力の立場、自力のはからいと申すのである。現実が仏法になるというのはどういうことかと申しますと、現実というものはある面では運命的なものである。現実とは、一つには内なる現実があり一つには外なる現実があります。外なる現実とは、たとえば今から三十年前はまだ戦争の最中でありました。それが昭和二十年になって徹底的に敗戦になったわけである。そういうふうなことが外の現実なのである。なぜ戦争してきたのかという人がある。それは厳しい批判であり十分傾聴すべき問題であり反省すべき問題である。でも考えてみると戦争をぶっ放してそしてとうとう敗けてしまった。そういうふうな問題はまことに運命的である。実にどうしようもない一面を持っている。そういう運命的なものが私において仏法になるとはどういうことかというとそれは運命ではなしに私において宿業となるのである。私の宿業ということになるのである。あるいは日本民族の宿業として受取られるようになるのである。それが私において仏法になる、現実が私のための仏法になるということである。運命とは対立的に知性で見ている。それを仏法として頂くことができたのが、業という言葉ができた理由であると思います。
 さらに人間知性の立場ということは冷たい心である。このような二つのことが自見の覚悟ということのかなりの面を言い表していると思います。そういうふうなことを自見の覚悟と言いますのに対して、他力の宗旨とは何かと申しますと、先ず他力とは如来の本願力なり。これは『教行信証』の行巻に出ておりまして、これが仏教における定義であります。他力とは他人の力ではありません。如来の本願力なのであります。それを他力というのである。それでは如来の本願力とは何か、それを言っておかなければならない。実はそれは、『歎異抄』の本文に入りまして第一章からいただいていきますと、しばしば出てくる問題ですから、今ここでくわしく申す必要はないのでありますが、今ここでは如来とは如より来生するものという、このことを申しておきましょう。我々の世界それを人生という。如とは一如といい、大きな大きな世界を表わすのである。今ここに一つの石ころがある。石ころにとっては石という自分の世界しかないように思うかも知れませんが、本当は大きな世界の中に石ころとして存在しているのであります。その大きな世界を如といいます。それを一如とか真如とか色々なことばがでています。その大きな如なる世界が私の人生を包んでおり、その接点にもえあがるもの、如より来たるものがある。それが如来なのである。今ここに千度、二千度の熱風があるとします。その温度の高い熱風が通っていく。何もなければわかりませんが、そこに一枚の紙切れがあったとしますと一度に燃えてしまいます。そこに木や石があればそれを燃やしあるいは溶かしてしまいます。私というものの上に燃えてくるもの、そこに働いてくるもの、それを如より来生するもの、如来という。それを本願をいただいた姿という。
 たとえば如を一人の女性であるとします。女性が単なる女性であれば一般的なものでございますが、そこに子供が生まれるとその女性の深い愛情がもえ、単なる女性ではなしに母親になるのである。如なるものが単なる如ではなしに如来となるのである。この姿を如より来生するというのである。単なる如、単なる一如、単なる真如というものではなしに、それが如来として生まれてくる。そこに願いを持ち働きかけを持ってくるのである。その姿を本願の仏あるいは如来本願力と申すのであります。それが如来です。それを仏という。そのとき仏には二つの姿がある。一つを真仏といい、一つを化仏という。これもまた親鸞聖人が『教行信証』の中で述べておられる表現であって、真仏土巻に出ている。真仏というのは『大無量寿経』の仏であり化仏は『観無量寿経』の仏であるという。簡単にいうと化仏というのは我々が心に思いうかべみる観想の仏をいう。したがって仏とは何かと想像するのである。人間の形をしたものを想像するのである。他に考えようがない。お経には、仏の姿はこうである、こういうふうに思えと書いてある。我々は仏というものを考える場合、心に思いうかべみる、想像するしかない。そういうふうなものを化仏という。これが第一の立場である。第一の仏という。仏教を聞く者にとって、あるいは仏教を考える者にとって、仏というのは想像するしかない。そういう仏を想像してそれに近づいていく、あるいはその世界を考えていく。こういうふうに進むのが第一歩である。化仏というものは力を持たない。なぜかというと我々が仏だからである。考えたものは力がない。力がないとそれは本当の他力ということにならない。他力とは如来の本願力なりとこういうが、本願の力というものは一面から申すならば照育、照破という。照らし育てる、そして遂に照らし破るのである。何を照らし破るのかというと、それは人間知性の立場というものを打ち砕くのである。あるいは人間知性の立場というものを根本的に転回させるのである。そういうふうなものを本願力というのである。即ち人間が人間自体を考える、あるいは人間が人間自体を問う、これが仏道であります。人間自体の原点を問う。即ち自己原点であるその原点を問う、それが仏道である。そして本当の人間の原点は何か、それを明らかにするのが仏教である。それには力がいる。何の力がいるかというと如来の本願力というものがいるのである。人間というものを明らかにする。人間の立場を明らかにする。人間を問う。私を問う。私の自己原点はこれでよいのかということを問う。この原点を問いなおしてみる。そういう問題です。それは人間の力にはあまる。人間には出来ないことです。
 たとえば日本語というものがある。日本語を問う。日本語というものにはどこに長所がありどこに短所があり、今後考えていかなければならないところはどこにあるかという課題を問うのには、日本語ではどうしようもない面がある。それには外国語というものを持ってきて、その外国語と比較し、あるいは外国の行き方というものを考えて、始めて日本語というものの行き方がわかり日本語の問題がわかる。人間を問う、それは仏の本願力によるしかない。人間を問うという問題には仏という存在がいる。人間の原点を問うには仏がいる。それを如来という。しかしながら仏というけれども我々が想像した仏というものでは力がない。そこに我々の行き方が生まれてくる。

 私どもは第一に教というものから、出発する。どういう教を聞くかというと至心発願という。まごころをこめて願いをたててしっかりやろうということが出発点になる。それはいわば私のこの現実が駄目であり、即ちこの現実ではいかん、自分の現実は満足すべきものではない。そこで「君はそれでよいのか」という問いを出されると、我々はまことに胸を深くつきさされて、しっかりやらなければならないと思うようになっている。それを至心発願という。そして理想に向かって進んでいく。その理想の世界とは何か。その理想の世界として描かれるものが仏である。それが化仏というのである。我々はそこに理想、高い世界を考えてより近づいていこうとする。先ず第一歩はそうなるのであって、それを化仏という。この時にこの理想自体、化仏自体、仏自体は何の働きもしない。私のために何の働きかけもしない。それは何の力をも持たない。本願力というような力を持たない。力は私において出さねばならぬ。私がしっかりやらなければならない。これを自力の教と申すのであります。それで結構なのである。それでやるしかないのである。ついにそれが事にぶつかってもう一つ転回せざるを得なくなる。それは何かというと私の力の限界ということがわかる。一生懸命にやるけれども途中でずるずると落ちてくる。元の木阿弥になる。行きつ戻りつになる。その時にまごころをこめてしっかりやろうというだけではなしに、まことまごころをこめてただ一つのこと、ただ一つ念仏を申して念仏の教を信じていくという、そこだけにしぼられてくる。これを大きな転回と申すのであります。けれどもこれもまた力を持たない。遂に大事なことは更に本当に教にぶつかるということである。それを他力の信心という。これを他力というのである。本願の教が私を照らすものになる。これを主客の転換という。私が照らされる。私が罪悪深重とわかる。あるいは私の根源的自己にぶつかる。そこに深い根源にぶつかるのである。照らすものを本願力という。如より来生するもの、深い深い自己を明らかにするもの、私の心をだんだん深くするもの、それが仏教である。私の内なる私にだんだんとめざめてくるのでございます。根源的自己にぶつかる、それが如来の本願の力である。
 一番奥の私、本当の私、それは何か。なかなかこれがわからない。禅宗でもですね、いわゆる見性といいますね。自己の性を見ると書いてあります。自己とは何か、これが一番大切な問題です。自己とは根源的自己、これは一番奥にある私。私たちは始めはこの奥の私はいわばピカピカ光るような心、仏の心だと思っている。霊性はまばゆい光を放ってピカッと光る。そこに人間が根源的な霊性が回復されることだと思っている。そうではないですよ。やってみない人はそういうことをいう。だがやってみると違うのです。変なものが出てくるのである。そこで、これではいけない、もう一遍やりなおしてここに立派なものをうち立てねばならん。それが自力の考えでございます。根源的自己にぶつかってこの私というものが明らかになる。それを親鸞聖人は「心は蛇蝎の如くなり」と言われた。即ち大きな蛇がとぐろを巻いて鎌首をもたげて自分の一番奥に鎮座しておった。これが私と目がさめる。この現実を照らされる。これを根源的自己の発見というのである。この根源的自己を知るところに根源的懺悔というものがある。その原動力、根源的自己を懺悔せしめるもの、これを如来の本願力という。そのような力を持っているのである。そこに我等は始めて人間それ自体私自身というものが明らかになるのである。本願力によって深い智慧というものが与えられたのであります。
 この人生には色々な問題がありますが、一つ大事な問題はこの人生を生きていく方向である。それは一つは人間智性というものをもって考えていくということがなければならない。先には知性の悪口ばかり申したんですが、知性が悪いのではない。人間は知性をもって行くしかないのです。しかしながら知性中心では駄目、今この知性の方向をこちらの方向とするならば、仏法によってこちらの方向を一つ持たされる。こちらの方向とは何か。それは人間存在それ自体、それ自体を知る。即ちこちらをX軸の方向だとするとこれはY軸の方向である。いわゆる垂直的に自己自身というものを問題として自己中心を打ち砕かれた立場、そういうものをもってしかも冷静に、知性というものをもって人生を分別してゆく。そこにはじめてこの人生というものが包めるという。そういうことができるのだと思うのであります。現代は、「グローバル」という言葉がありますが、全地球的に考えてゆかねばならぬようになっている。個人々々が自己中心的原点的に考える時代ではもうなくなってきている。その自己原点を打ち砕くもの、それはいわゆる「如来の本願力」である。本願力によって根源的自己というものを知って懺悔していくという立場、それをもってですね、しかも知性を全面的に発見さしていくしかない。そこに感情を排し先入観を排し、物を深く、立体的に分析的に考えていって、それを総合する。そういう人間が今後の人間像であろう。いや今後というよりもそういう人間が今から生まれなきゃならん。そしてはじめて地球というものをグローバルに全地球的に考える、そういう人が生まれてくるのだと思うのであります。そこに仏教の現代的意味がある。重ねていうように知性だけではどうしようもない。しかし、もう一つのものがあったならば知性が生きてくるであろう。即ち人間自体を問うというものが、もう一つ成立しなければならんと思うのであります。


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