易行の一門

『歎異抄講読(前序について)』細川巌師述 より

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 易行と申しますと、いわゆる他力易行、つまり難行道というものに対する易行道になるわけです。そこに難易ということがあるのであります。その難という言葉の反対が易である。我々は大体やさしい事とむずかしい事がありますと、やさしい方をとってむずかしい方を捨てるのが性にも合うし簡単である。そこで難行、易行の二つの道があって、どちらをとるかということになると、前者を捨てて後者をとる方がやりやすくもあるし、能率的であると考えて、やさしい方をとろうという気持ちが働くわけです。しかし今、易行というのは、やさしいのとむずかしいのと二つあって、やさしい方をというのではないのであります。このことを先ずはっきりさせなければなりません。
 難行と易行ということを一番初めに言われたのは、龍樹菩薩という人である。ナガールジュナと申しまして、釈尊の亡くなられた七百年の後にインドに生まれ、第二の釈迦といわれた人で、大乗仏教中興の祖であります。その人の書かれた書の中に難行と易行というのが出ています。一つは『大智度論』という書で、七十七巻にこういう言葉がある。「未だ無生法忍を得ずば、力を用いること艱難にしてたとえば陸行の如し」陸行というのは陸地を歩んで行くということで、山を越え、谷を越え川を渡り困難をきわめるということですね。無生法忍というのは、忍は認ということで、悟るということです。つまり無生法というものを悟る、では無生法というのは何かというと、法というのは悟りです。したがって無生の悟りといいます。これは聞き慣れない言葉ですが、つまり大きな広い世界に目が覚めるという事なのです。大きな世界を無生といいます。
 我々の世界には、生きるか死ぬかの二つしかない。あるいは勝つか負けるか、行くか退くかというふうに、二つが並んでどちらか一つしか道はないということになっております。そういう世界に我々は居るわけです。たとえて言うなれば、一次元の世界であります。直線のように一方向しか持たないわけですね。たとえばこの上をアミーバーが這っておるとすれば、前か後しかない。もう一つのアミーバーが向こうからやって来ると、この世界では行くか帰るかしか出来ない。そしてぶつかると、勝つか負けるかである。相手を押し戻して進んで行くか、負けて退くかである。こういうふうに我々の世界は、生か死か、勝か負か、やるかやらないかというふうなことになるのです。しかしながら二次元の世界というのがあって、これより広い世界で平面を持っている。広がりを持っているわけです。したがって、向こうからぶつかっても避けるということができる。避けて、また線の上に乗ればよい。二次元の世界には避けるという言葉があるのである。しかし一次元の世界にはその言葉はない。勝つか負けるかしかない。避けるということはできない。こういうことを次元が低いという。低次元からは高次元のことをあらわすことができない。言いようがないですから無生無死、不勝不敗というふうに、打ち消しの言葉をつけて、広い世界をあらわそうとするわけです。それで無生という言葉を使っているわけですね。我々はいわば卵の殻のようなものに閉じこもっている。そして殻の中で考えるから外のことがわからない。殻とは、いわゆる自己中心の心である。人間はあなたも私も皆殻を持って生まれ、その中に生活を保持しているのです。で、この殻の外に大きな世界があることをいくら言ってもわからないのであります。しかし、一旦そこに親鶏または孵卵器の熱がそそがれてくると、目玉、嘴、足、毛並等がそろってきて、そこに自己形成というものを遂げて来る。そしてついにこの殻を破って広い世界に出た時には、そこには太陽が輝いており、風が吹いており、同じような雛がそこにいるということがわかる。そこに広い世界があるんですね。それを無生法という。生というもの死というものを超えた、いわゆる殻を破った広い世界である。その世界を悟る、認める、あるいは本当にわかる。その世界が本当に自分に認識される、それを忍、無生法忍というのです。
 そこで、まだ無生法忍を得ない、したがって殻の中に入っている時には、力を持って努力しても広い世界をわかるのは難しい。ちょうど陸の道を山を越え、坂を越えて行くようなものであると龍樹は申しまして、難行と言ったのであります。つまり卵の殻の中の、その時の努力精進を難行という言葉であらわしたのでございます。これは難行易行という言葉を使った龍樹の使い方でございます。この続きがありまして、「無生法忍を得終らば力を用いること甚だ易し、たとえば乗船の如し」です。本当に卵がついにヒヨコとなって、殻を破って大きな世界に出たときは、自分の努力というものは甚だ容易、即ち易でありまして、ちょうど船に乗っているようなものである。船に乗ればその中で走りまわっても何の役にも立たない。それは船が自分を運んでくれるのである。このように易行という言葉を出している。その意味で難易という言葉を使ったのである。
 易行あるいは難行ということは、我々のやっていきますその努力のやり方、あるいはとる道が二つあって、片方は非常にむずかしい、片方は非常にやさしい、そういうふうに並列して並んであるのでなしに、難行道からはじめるのである。はじめはすべてが難行道である。「未だ無生法忍を得ざれば」そういう間は難行である。けれども広い世界にもしも出るということになるならば、そこから易行が展開するのである。すなわち二つ並んであるのでなしにはじめが難行、そして最後が易行、この境がいわゆる無生法忍を得るというところにあるわけでございます。したがって、「幸に有縁の知識に依らずばいかでか易行の一門に入ることを得ん哉」ということは、この我々の難行、その難行のはてに易行が展開するというが、その展開は何によって出来るのであるか、こういうことを言おうとしているのである。そのポイントになるものが「有縁の知識」でございます。このことが、はじめに難易ということについての大事な事柄でございます。
 次に同じくその龍樹菩薩は『十住論』というものを書いてその第九章に、難行易行ということをまた取り上げてある。難行というけれども何がむずかしいのか。そこに三つの難があると言っている。三つの難というのは、一つは諸という。諸というのはもろもろのということですが、たくさんのということである。あるいは、なすべきことがたくさんあるということである。それが難なのである。やるべきことがたくさんあると申しますと、これは初心者のことであります。初心者といいますものは一つの特色を持っておりまして、あれもやらねばならないこれもやらねばならないと思うのでございます。これは何でもそうでございます。学問でございましても、あるいは求道でも同じことでございます。私は学校の方では化学を担任しているわけで、そこで学生の実験というのをみるわけでございますが、初めて実験をやるという人は特色がありまして、たくさんものがいると思うのです。試験管に水をとりなさいという。そうするといっぱいとる。水はただですけれども何でもいっぱいいると思うのである。試験管というものはご承知のように、いっぱい入れると振っても混ざらないし、熱しましても時間がかかる。そこで慣れた人はできるだけ少量でやるわけである。少しでやっても結果はでるわけですからできるだけ少量でやることを考えるのに、初心者は必ずあれもやらねばこれもやらねばという精神があって、ものがたくさんいると思う。この薬品を持っていきなさいというと、ガバッと持っていくのは初心者なのである。なぜかというとたくさんいると思うからでございます。
 私どもは亡くなられた先生のお育てをこうむって、毎年、年の初めに精進目標というのを立てまして、今年はこういうことを目標にしてやろうと、そういうのをみんなで話し合って自分はこうと発表するわけである。それを記録係がいてちゃんと記録することになっている。なぜ記録するかというとみんなそのうち忘れてしまいますから、念のためとっておかなければならない。年の終りに反省会をいたしまして、自分のたてた目標というのがどれくらい出来たか反省するということになっています。はじめての人ほどたくさんたくさん目標をたてる。私の方で一番たくさん目標をたてたのは二十七の目標をたてました。これはたいへんなものです。子供にやさしくとか主人に言葉を慎んでとか、たくさん次々と言われるものですからびっくりしまして、記録係がやれやれということでしたが、二、三ヵ月たちましたら続かなくなりました。たくさんたくさんやるということが難行ですね。やりたいと思うんです。なすべきことがたくさんあると思う。が、そうではない。ほんとうは一つですよ。しかしながらそれはなかなかわからない。勉強もしなければならない。本も読まなければならない。お話も聞かなければならない。仕事もしなければならない。学生であるとしますと、学生の本分であるこういうこともしなければならない。ついでに教養も高めなければならない。音楽を聞かなければならない。パチンコもしなければならない。まあパチンコは別といたしまして、人のやることは全部やらなければならないということになる。大体六度の行には戒律を保つなど六つある。たくさんあってそのうちあれもこれもできなくなるということになる。なぜはじめは難行か、それはあなたがたくさんやろうとするからである。またやらねばならないと思うからである。
 次にもう一つは時間がかかるということである。我々は時間がかかるということには非常に弱いのでございます。もししっかり求道しようと思いますと、目標はいわゆる無生法忍、具体的には信心であります。そこで、信、広い広い世界、本当に自分が卵の殻を脱して広い広い世界へ出るまで、どの位の時間がかかりますかと問う。そうですね、どれぐらいというわけにはいかんが、まあしっかり三年は聞いてもらわなければならない。三年ですかと言ってびっくりして長すぎるという人もあるし、たった三年ですかと言う人もあります。しかし、やはりまあ三年といえば少し長いですね。しかしそう長いというほどのものではありません。けれども時間がかかるといいますと、その時間がかかることが負担である。長い時間がかかるなあということで気落ちがいたしますし、また時間がかかりますとそのうちに、努力というものがだんだんと中だるみしてくる。あるいはとうとうやめてしまう。こういうことになりまして、時間のかかるという問題がひとつあるわけである。
 もう一つは堕ということである。堕というのは堕落する、あるいは落ちこむということである。穴の中に落ちこむのである。そしてそこで穴の中にいすわってしまうのである。今、山登りをするといたしますと、出発点はすべて殻の中に入った人間である。殼のついた人間、これを日常的人間という。それは要するに日常性と申しまして、日頃毎日々々くり返す問題におぼれている。かねて申したことがありますように、普通日常的人間といいますのは大体日常性というもので振りまわされている。日常性というのは何かと申しますと、毎日我々がくり返しておるもので、一つには経済で金という問題です。それが私をふりまわす。そしてそれを毎日毎日くり返す。もう一つは愛という問題である。これはいわば親子の愛というようなもの、子供に対する愛情というようなもの、もう一つは男女の問題でこれを性という。こういう問題が我々をふりまわしている。我々は悲しいかなこういう問題の中に沈没している。しかしながらそこが出発点である。そこから出発して遂に広い広い世界に出る。そこを信という。今は無生法忍という。
 こういう世界に入りたい。ところがその途中まで行ってみると、ずるずると元の木阿弥になってしまう。これを難行という。また行きますとまたずるずると元の木阿弥になる。そういうふうに行きつ戻りつしていますのを難行といいます。なぜかといいますと、あれもやろうこれもやろうとするからであります。また長い長い時間がかかるからである。この一歩の前進に非常に時間がかかる。たとえば一つのことをやっていましても、そこに効果というものがなかなかあがらん。少しも前進したようなふうにならない。一歩の前進にもものすごい力がいり、時間がいるのである。これを「久」という。ところが中に落し穴がありましてこの中に入ってしまう。そうすると出もやらず入りもやらず、ここでじっととどまってしまう。これを龍樹の言葉を借りれば敗壊の菩薩という。敗壊の求道者という。敗というのは腐敗するといいます。外側はトマトの形をしているのですが中は腐っている。中がこわれている。これを壊という。外側は自動車の形をしているのですが、内側はバッテリーがあがっていて、いくら動かそうとしても動かない。即ち形ばかりの求道者、外形だけの求道者で中味がそれにともなわない。そういう見かけだけのものに終ってしまう。それを堕という。以上の三難を挙げましたのがいわゆる龍樹の難行の難の内容であります。したがって難行易行ということは、くり返しますように先ずはじめが難行なのである。その難行を突破するところ、あるいは難行の果てに開くものが易というのである。決してやさしいのとむずかしいのと二つあって、そのやさしい方をとろうというのではないのでございます。

 そもそもやさしいのをとろうというのは打算でございまして、そろばん勘定であり深い人間のエゴイズムである。そういうエゴイズムに立脚した宗教は真実のものではあり得ない。たとえむずかしかろうと何であろうと、本当にそれが道でありそれしか無いというのであれば、それをやり遂げるということができなければならない。そういうわけでございまして、やさしいのとむずかしいのと二つあるのではないのであります。しかしながら実際は浄土門、易行、他力、そういう言葉は何やら人間の打算をさそうようなひびきがございまして、人はそこにそろばん勘定をはじいて、座禅をするのは非常にむずかしい、しかし念仏の道ならばやさしい。それならばそっちをやめてこっちへいこうと考える。それは間違いである。これをはじめに申しておかなければならない。
 さらにこの難行と易行ということに触れられましたのは曇鸞という人でありまして、この人のことも言っておかねばならない。曇鸞という人はなぜ難行であるかを問われたわけである。この曇鸞という人は中国の人でございまして、次のように言われている。それは難行というのは「ただこれ自力にして他力のたもつなし」これを難行というのである。こういう言葉を出されました。自力とは何か、自力というのは深い自己肯定というものでございます。自力という言葉も常識的には自力の力、自分の努力ということを申すのでございますが、そういうふうな常識的な言葉で考えてはいけない。やはり仏教の言葉ですから仏教の正しい定義というものを知っておかなければならない。自力とは何かというと、自分の力ではないのです。自己肯定の心ということをいっているのです。自己肯定の心というのは何かといいますと、自己過信という。自己肯定のその出発点を、かねて申すように資糧位というのである。これが一番はじめでございます。これは聞いて考える。何を聞いて考えるのかというと、仏法、釈尊の教を聞いて考える。そうしてそれを実行する。これを加行位と申します。これが出発点である。私たちははじめは信ずる必要はない。聞いて考えて実行する。信じこむということはもうとうないのである。聞いて考えるということが必要である。しかし聞いて考えて実行するという事が非常にむずかしいのである。なぜであるか。それは聞いて考えるために必要なことは思考ですね。私たちの考えは知性というものをもとにして考えていく、その考える中に、どうしても自己本位に考える。自己本位に考えると不純なものが入る。それを名聞、利養、勝他といいます。良く思われたい、あるいは悪く思われたくない。それを名聞といいます。もう一つは利養、これは打算でございます。こういうことをやっていたら俺も少しは信念のある、あるいはフラフラしない腹の座った、人からしかるべくほめられるような者になるだろうという気持ち、そういうものが入ってくる。それを自力と申します。それは自己肯定、自己中心の思いから入ってくる。そうして勝他、すなわち深い競争心、競争意識というものがどうしても入ってきまして、負けちゃならん、人から遅れをとってはならんというようなものが入ってくる。すなわち人間的な煩悩といいますか、人間的な心、それを自力と申します。自力から出発しますから続かないのである。それが難行道になるのである。なぜ自力であれば難行道になるのかというと、ちょうど風船玉をふくらまそうとする、一生懸命に空気を入れようとするけれども、この風船玉に穴があいているようなものである。どんなに入れてみても空気がぬけていく。そういうことになりまして、はじめの決心にもかかわらず続かなくなるのである。それでは他力の方からはじめればいいじゃないかと思うかも知れませんけど、それはできません。はじめは道は難行道しかないのです。そこで行きつ戻りつということになってゆきます。先に無生法忍というのがありましたが、それが通達位であり、信の成立と申すのであります。
 加行位と通達位の間には深い壁がある。あるいは越えなければならない関門がある。それを易行の一門と申すのである。易行他力の世界に入りますと修習位、さらに究竟位と申します。これを易行道と申します。難行道の果てに易行道が開くのである。「幸に有縁の知識に依らずばいかでか易行の一門に入ることを得ん哉」ということは、この易行道にどうしたら入ることができるかという方法論を述べている。「幸に有縁の知識に依る」というこの一語が、『歎異抄』の非常に大事な点である。大きな壁がある。我々はそれにはねかえされて進めない。その一門はどうして入ることができるかという問題に答えてあるのが、事に有縁の知識による」ということである。易行という問題は遠く二千年以来言われてきたのである。それが難行道、易行道、自力、他力といわれているのであって、自力他力という点から言えば自力のはてに他力が開けてくるということである。難行道のはてに易行道が開けてくるというのと同じであります。
 ここでもう一言付け加えておきます。自力というものは自己過信というものである。私たちは聞いて考えて実行すると言います。そこに深い自分の力に対するうぬぼれがある。やれば出来るという考えを持っている。しかしながらやれば出来るというけれども、本当にできるという保証はない。保証がないことを私たちが出来ると思いこんでいるだけである。たとえば今ここに赤ん坊がおしめを汚した。赤ん坊がそれを洗濯しようと考えて、それを洗たく機に入れて洗たくし始めた。水を入れて洗剤を入れて、スイッチを入れようと考える。しかしそれは赤ん坊には出来ないことである。私たちはああやってこうやってと考えることはできる。しかしこれが本当に出来るかどうかというのは、やってみないとわからない。自分はそれをやる能力があると思っているのです。やってみるとどうなるのか、そこに難行道ということが非常に意義がある。やってみない先から、赤ん坊が洗たくするようなものだと思うのはいけない。やってみなければわからない。したがってこの世界を先ずやってみなければいけない。大きな世界のことを聞いて考えて実行する。それを第一の段階と申すのであります。今日、浄土真宗がもしふるわないとすれば、頂点ばかりを説くからである。難行道はやってもつまらない、やっても出来ないんですと、この出発点を無視するからであります。やってみなきゃわからんというのが出発者の気持ちである。まことにそうであって、やってみなきゃわからん。だからやらなきゃいかん、しっかり自分の力をこめてやんなさいというのが第一歩であります。親鸞という人も二十九才までやったわけで、やりぬいたわけであります。彼は出来なかった。曇鸞は五十五才までやった。実に迫力があり生命的に弾力のある人である。道綽という人は四十八才までやりぬいた。法然は四十三才までやり、釈迦は三十五才までやりぬいた。その果てに開けてきたものである。始めから出来ないのだと結果を予想するのでなしに、いわば遂にやってやりぬいて、その絶壁の下にひざまずいて、私はもうこれ以上やり切れない、私はこれ以上やれないと本当に頭をぶっつけてみて、はじめてそこから本当の道が開けてくるといっていい。そのことがないと安易なものになる。その絶壁の下にひざまずいた者において、遂にこの絶壁を越えることができて易行の一門に入ることができた。そこに「幸に有縁の知識に依る」ということがある。それをもう一つ言うと、その絶壁のかなたから彼に届く教があるということでございます。ここのところまで行かんと届かない。禅宗も真宗もはじめは難行道であるということは同じであります。何の道を通っても絶壁のところまで来るのであります。私の力ではどうすることもできんというところまでこなくちゃいかん。そこから開けるものは一つである。他からの呼びかけ、いわゆる大いなるものの呼びかけ、それを易行の一門といいます。本願他力の大道というのであって、それを無生法忍を得るといいます。無生法忍を得終らば易行である。したがって、生やさしい片手間で出来るものではないのです。古人、昔の人は命を打ち込んだ。その点は今日も同じです。宗教は片手間ではいけない。全力をあげてこれにぶち当っていかねば、到底できない。努力し、さらに努力し、努力しぬくという点では、浄土真宗であろうと禅宗であろうと、何の道であろうと同じであります。この絶壁まではしっかりやらなきゃいかん。聞思修というものは徹底しなけりゃならん。今は先ず易行の一門ということを説明しました。

 有縁の知識というのは因縁のある先生ということです。たくさんの善知識と申しますか、先生がおられるのでありますが、やはり縁があってお会いするのであって、それを有縁と申します。善知識とは何かと申しますと、よき師、よき友という。よき師を師主善知識、教主善知識、よき友を同行善知識と申すこともあります。そのような有縁の知識によらなければ、どうして易行の一門に入ることができようか。そこに易行の一門に入る方法が明らかになっている。仏法というものは三宝と申しまして、三つからできている。それを仏法僧、仏宝、法宝、僧宝と申します。宝という字をつけてそれを尊敬して表わしているわけでありますが、僧と申しますのはくわしくは僧伽と申します。これをサンスクリットではサンガと申します。この三宝があって初めて仏法は成り立つ。この中心を法といいます。先に無生法忍といいましたが、この法をダールマと申します。これもサンスクリットで、具体的にいうと本願の名号、南無阿弥陀仏と申し、それを法と申します。そこが説明を要するところでありますが、その事は後に出てまいりますから略し、いまは本願の名号、南無阿弥陀仏ということが仏法の一番中心になる法というのであります。
 法について一言でいえば規持の義といいます。義というのはわけがら、規はのりと申します。持とは何かというと、それをそれとして保つことを申します。人間を人間として保つ、人間をして遂に人間形成を遂げさせ、人間として成り立たせる法則を法というのです。すべてものは法則というものによらないとそのものに成ることが出来ない。例えば卵がヒヨコになる、それが自己形成、本当に卵になるという問題である。そのところにはやはり法則があるわけである。どういう法則かというと、その卵を温めてやらねばならん。その温めるものが法である。すなわち親鶏が卵を抱いてやる、その親鶏の温かさが法というのである。人間を本当に人間にするものは何か、それは法である。卵を本当に卵にするというのは、卵に注射をうつことでもなければ卵の外側にいろいろな色を塗ることでもない。そんな問題ではなしに、温めてやるということが大事である。同様に人間は人間形成を遂げていくための法則がある。それは大きなものに遇うしかないのである。柳の木があるとします。冬の間は枯れ木同然になっている柳の木が芽をふいて遂に青々と繁る。それは春に遇うからである。人間もまた、卵が親鶏に抱かれるように大きなものに遇わなければならないのです。それが法というものであり、それによって真の人間形成を遂げていくのである。それを南無阿弥陀仏というのである。
 仏というのは、その法を悟りこれを説く人をいいます。その一番初めを釈尊といいます。その釈尊は釈迦ともいいますが、その釈迦の説いたものを仏法というのです。
 僧伽というのはその仏法を生きている人をいいます。これを善知識と申します。この善知識というのを親鸞聖人は、いわゆる七高僧という人を挙げておられます。また特に法然上人という人を挙げておられます。我々から言えば七高僧と共に親鸞聖人という人が僧伽、この後さらにたくさんの人が出てこられました。これも僧伽です。仏教はそういう仏、法、僧の三つから出来ているのです。春というだけでは我々はわからないのです。春を説く人がなければならない。春というのが法である。そして春というものを説く人、それが釈尊である。釈尊が説いたその春を仏法という。けれどもそれだけでは仏法はわからない。それを本当に生きる人、すなわち仏法者というものがいるのである。その人において仏法というものが具体的になっているのです。それをよき師よき友と申します。
 この善知識という人は何をするかと申しますと、親鸞聖人の作られた『正信念仏偈』によりますと「顕大聖興世正意」と申します。これは漢字ばかりで恐縮ですが、『正信念仏偈』の中に、「印度西天之論家、中夏日域之高僧、顕大聖興世正意、明如来本誓応機」とある。「印度西天之論家、中夏日域之高僧」というのは印度西天の論家、中夏、日域の高僧ですね。「顕大聖興世正意」というのは、大聖世に興り給う正意を明らかにし給う。すなわち大聖釈尊がこの世に出て説かれました教の本当の心、それを明らかにした。言い変えると、釈尊が説こうとしたその春を明らかにした、あるいは春を説こうとしたということを明らかにしたのである。「明如来本誓応機」というのは、これもむずかしい言葉ですが、如来本誓の機に応ずることを明かす。すなわち如来の本誓願、略して言えば如来の本願が、私、人間の上に正しく至り届いて下さるということを明らかにした。すなわち本願によって全ての人が救われていくということを明らかにした。「誰が」、それがよき人いわゆる善知識という人である。
 「春はどうしてわかるか」、「春を説いた人の教を読めばわかる」。そういうようなものではありません。それは概念的である。それを生きている人、それはちょうど春の中に飛び交う蝶々のようなものであり、空高くさえずる雲雀、咲き出た花のようなものである。人はその花、その鳥、その春の風の爽やかさというものによって春を知るのです。その人達がいわゆる「顕大聖興世正意、明如来本誓応機」である。如来の本願というものを本当に明らかにして下さったのである。すなわち立証者である。それを今は「有縁の知識」と申すのであります。これによらなければ本当の世界、いわゆる易行の一門に入ることが出来ないのであるということを言われておるのです。
 「しかしながらそれは『歎異抄』の著者唯円の個人の独断、自分勝手な解釈で言うのではないか」あるいは「個人的な特殊な体験に基づいて言うのではないか」。そうでなしに根拠があるわけである。その根拠は『大無量寿経』、略して『大経』の本願成就文の中にあるのです。すなわち易行の一門これを他力の大信心と申しますが、それは本願の成就によると出されております。この本願成就の文に諸有衆生、聞其名号、信心歓喜とあります。信の成立とは信心歓喜ですね。それが易行の一門に入るということである。「その信心というものはどうして得られるのであろうか」。そういうことはいろいろのお経を読みましても詳しくは書いてないのです。たった一つ詳しく書いてあるのがこの『大無量寿経』である。そこには聞きぬくということを先ず挙げておられます。聞きぬく、これが「聞」ですね。何を聞きぬくかというと、「其」、これはこの文章の前に文章がありまして、それを受けて「其」というのである。いわゆるよき師を通して教を聞きぬく、それを「其名号」というのである。よき師の称える本願の名号即ち教、それをよき人を通して聞きぬく。それを「聞其名号」とある。ここに根拠がある。それを「幸に有縁の知識に依らずば」というのである。


 さて今日は、二、三の点からそのことを伺ってみます。第一に「よき師がなければどうするか、先生というものがもしないならば、よき師「有縁知識」というものがなければ、それは本当に易行の一門に入ることが出来ないのであろうか」。そういう問題から出してみます。「よき師がなければ悟りは得られないか。或いは信心、或いは無生法忍というようなものは成り立たないのか」。こう申しますと、実はそれでも成り立つのでございます。成り立つのですが、それを独覚または縁覚と申すのでございます。それは書物を読み、或いは自ら考えたり、或いは滝に打たれたり、そのような色々なことによって、そういう縁によって、縁に触れて悟りを開くことがあるのです。それを独覚或いは縁覚といいます。これを二乗と申すのです。
 さてその独覚、縁覚というのは『大経』の譬をとると、一つの殻の中に入るという。殻といいましてもこれは、卵の殻のようなものでなく立派な殻である。これを転輪聖王の宮殿に喩えてあります。立派な宮殿の中に住むことが出来、そして立派な生活をすることが出来るのです。食物も着る物も王様と同じ、そういう中に生活出来るのではあるが、しかしたった一つこの人は鎖で縛られているのです。「繋ぐに金銀を以ってす」。そこに縛られているのです。何で縛られているのかというと、金の鎖なんですね。金というのは印度では非常に貴い物とされているのですね。現在もそうであるが印度の人達はたくさん手に金の輪をはめている。そういうふうに金というのを大事にするんですが、そういうもので縛られているんですね。その金の鎖とは何であろうか。それは優れたものです。しかしそれによって縛られているのです。それは体験というものであろう。何の体験か、悟りの体験といってもいい。普通は入信の体験である。「わかった」本当にすばらしいものにふれたのである。しかし、それを縁覚といい独覚というのは、その体験が彼を縛ってくる。どんなふうに縛ってくるかというと、それは人の得たことのないもの、すぐれた経験を自分だけが持った、その体験にしばられる。そこに生まれてくるものがエリート意識というものです。即ちわれは得たりというものをどうすることもできないのです。しかし本当の悟りというものはエリートになることではない。何か人にすぐれたものになることではないか、またはすぐれた意識を持つものではないか。そうではない。そうではありません。日蓮上人は「われはセンダラの子なり」といわれた。いやしいいやしい人間であるということでありましょう。法然上人は自ら「十悪の法然坊、愚痴の法然坊」と言われた。このように必ず非常に謙虚なものが生まれてくるのである。したがってお山の大将的な、エリート意識が彼自身をふりまわすのを二乗という。またこれを禅定障と申します。禅定とは悟りを申すのである。その悟りに執着しとらわれるのです。これを二乗といわれるのです。蓮如上人は「我ばかりと思い独覚心なること浅ましきことなり」「されば縁覚は独覚のさとりなるが故に仏に成らざるなり」と言われた。本当の信心といわないのである。それを易行の一門といわないのであります。それは縛られているからであります。よき師がなければどうなるか、それは独覚になるのである。
    諸有衆生 聞其名号 信心歓喜
 信心歓喜というものは必ず諸有衆生においてなされてくる。諸有衆生とは何かというと、それはもろもろの迷いを深く迷うている者をいう。このような主体の成立がなければならない。その主体において、諸有衆生において聞其名号、信心歓喜が成り立つのでありまして、エリートにおいては成り立たない。悲しいかな人間は師というものを持たないと、そのような独覚になるしかないというのでございます。
 実はこの点を強調しますものは、浄土真宗よりも禅宗でありまして、禅宗という所は最初の挨拶が、あなたの老師は誰かという所から始まるようである。あなたは誰に指導されたかということです。師を持つということを強調しているのです。
 それではよき師があれば信心が必ず得られるか。こういう問題を一つ出してみよう。
 信心は先にいうように易行の一門であり、無生法忍であり、深い大きな世界へのめざめ、広い世界に出るということである。師があれば必ずそういうことが可能か、それには声聞ということを思いおこさねばならぬ。声聞というものもまた、先の縁覚と同じく二乗と申すものであります。声聞の定義につきまして『十住論』には「他の音声に随順して行ず」といってある。他というのはこの場合はよき先生です。師の音声、即ち教です。よき師を通して教を聞いて、それに従うて実行していく。これは何か、聞其名号である。聞其名号というそのことが成り立っている。しかし、「他の音声に随順して行ずれども自らの智慧を生ぜず」という。これを声聞というのでございます。声聞というものも又、先に申しました縁覚と同様縛られるのでございます。よく教を聞いてそれに随順しているのですが、しかしまた縛られるのです。金の鎖で縛られるのである。この金の鎖は何かといいますと教である。教を聞いてしっかりそれに従ってやっているのであるが、教が彼を縛るのである。教が彼を縛るとは何かと申しますと、教が自分の負荷になる。あれをしなければならんとなり自分の荷物になるのである。教を聞いてしっかりやっているのだけれども、教の方が彼の自由を束縛するのでございます。そしてああもしなければならん、こうもしなければならん。ああいわれているから私もそうやらなければならんというようになる。
 その教が私をしばるとは何か。私の現実はまことに教と違ったものである。教を実行しその通りやるためには、私の現実を打ち破らなければならない。打ち破ってこれに近づいて行こうとするところに定散二善のはからいというものがある。即ちそこに縛られているということが出てくる。現実を打ち破って理想を追う。それを声聞という。したがってよき師を得て聞きぬいてはいったのではあるけれども、信心歓喜ということにならない。なぜか、そこに問題がある。それは有縁の知識に依らないからである。本当には師に依らなかったからであります。
 今日、たくさんの偉い先生がおられまして、亡くなられましたけれども曽我量深というお方がありました。この方は実にすぐれたお方でした。たくさんのお弟子を残されたわけでありました。あるいは金子先生というお方は又多くの方を生み出された。我々も又一人の先生によってお育てを被ってきたわけでこざいます。けれども、先生を持って師事しましても弟子になった者がみんな本当の信心の人となるかというと、そうはなりません。
 たとえば法然上人の門弟は三百人といいますが、本当の信心の人というのはわずかで、ほんの五、六人であったといわれている。あとの人はそうならなかった。それは依らなかったのである。幸いに有縁の知識に遇うたのであるが、それに依らなかった、そこにあると思うのでございます。依るということは何か、それは帰依といいます。曇鸞大師という人のいわゆる『論註』の中に依るという言葉が出ていますが、「云何が依る」という。依るとは何かというと、五念門を修して仏教に相応するとある。五念門とは生活行という。生活行とは彼が生活の中で実行していることで、その内容は、礼拝(仏に合掌礼拝している)、讃嘆(念仏申す生活をおくっている)、作願(更に法を聞言更に聞法を続けていこうと願っている)、観察(教を考えその意味を考える)、廻向(他の人々のためにいわゆる他への働きかけというものを少しでもしようと願っている)、そういうふうなものを礼拝、讃嘆、作願、観察、廻向という。即ち彼は自分の生活をもって教にぶち当っているわけである。ただ聞いているだけではない。ただ聞其名号といって聞いているだけでなく、生活をもって答えているのである。答えているということを相応と申します。彼は生活の行をもって教に応答している。呼応している。そういうふうなものが無いのを依るといわない。彼は生活をひっさげて答えている。そのことが依るということの内容である。答えるということ、つまり呼応、相応はどうしてできるか。これを知恩報徳というのであります。恩を知り徳に報いるといいます。いわゆる師主知識の恩徳も、骨をくだきても謝すべしという。呼応ということは、そこに深い深い御恩というものを知って、それに何とかして報いたいという生活である。そうすると依るというものには御恩がわかるということが大切である。したがって本当に有縁の知識に依るとは本当に先生の御苦労というものがわかってきて、それに報いなければならない。そこに呼応の生活が出てくるわけでございます。それを礼拝、讃嘆、作願、観察、廻向というのであります。そういうふうになるのを有縁の知識に依るというのであります。
 別の角度から申せば有縁の知識に依るとは恭敬であります。恭というのは頭を下げる、敬というのは徳を仰ぐという。本当によき師に頭を下げるということである。このことはなかなかむずかしいことでありまして、お互いに本当に師に頭を下げないで、何だかんだといっているのであります。大体師というものをどういうふうに見ているかというと、普通はその先生を道具としているのである。自分が広い天地に出るために、その師の教を手段としていることが多い。そこには悲しいかな恭敬というものが出てこないのであります。頭を下げるということにはならない。聞いていくけれど、その聞いていくことによって自分が一歩前進しようというこんたんでございまして恭敬にならん。また供養にならん。供養とは何かというと、自分の持っているものをさし出すということである。自分の持っているものとは何かというと、金であり物であります。このような物質的なものである。また大事なものは生活である。一生涯である。自分の一生をそこに捧げようというものがない。よき師に依るということは、わが生涯を捧げるというようなものであろう。師の恩を知りわが生涯を捧げるというものであろう。
 私の先生は「生命を継ぐものは生命を捧げていく」という言葉を残された。大いなる生命を継ぐ者は自分の生命を供養していくということであります。先師御自身がその道を歩んで、親鸞聖人に、そして本願に一生を捧げられた。そこに「依る」ということがあった。親鸞が私の道具でもなく、手段でもなく、遂に私の供養の対象となる。即ち私の全生活をひっさげてそれに報いようとする、それを供養といいます。それがないところには善知識に依るということが成立しない。したがって、そこにどんな偉い先生のお弟子になろうとも,ものにならんということがある。どんな立派な人を先生にしても、ついに彼は易行の一門に入らないということがある。実に現代はそういう時代だと思われます。このことは「幸に有縁の知識に依らずばいかでか易行の一門に入ることを得ん哉」が、まことに深い仏法の方法論というものを示しておると思われます。


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