二、古人にみる「志」の諸側面と
様々なエピソード


 
●松阪の一夜
 私達が小学生の頃に習った国語の教科書に、「松阪の一夜」というのがありました。一七六三年、宝暦十三年五月に賀茂真淵というその当時の大学者が、伊勢神宮に詣でて帰る途中に、松阪に一夜の宿をとりました。そこへ本居宣長は、真淵に会いに行くのです。宣長三十四才、真淵六十七才でした。それは生涯に一度だけの対面でした。真淵は初対面で、この宣長が国学の将来を託するに足る人物であることを見抜きました、真淵は万葉集を研究していましたが、彼は宣長に古事記の研究を大成するように激励したのです。この松阪の一夜は、宣長にとって終生忘れられない感激となりました。そしてたった一晩会っただけで、宣長は真淵の正式の門下生になったのです。
 ところがそれからが大変なのです。宣長と真淵の説はその当時としては真反対だったのです。それから二人の喧嘩が始まりました。喧嘩というてもそれは、学問の研究で論説の火花を散らしはじめたのです。自分の研究した学問的反論を、江戸へ飛脚で送るのです。そうすると、又向こうから反論が返ってくる。このように学問の火花を散らしながら宣長は、古事記の研究をしたわけです。それも又一つの人間の生き方でありましょう。志というものはそういうものですね。古事記の研究をしようと思って大先生の所へ行って頭を下げた。ところが、ふんふんふんふんと言ってくれるだけでは学問にならない。大先生は、真反対の立場から自分を激励叱咤してくれるのです。ある時宣長は、真淵先生に歌を捧げました。そうすると真淵先生は、「君、二十年勉強してからそういうことを言い給え」と言われたといいます。そういう世界があります。
 これはひとり国学のみならず、仏教の世界においても数限りない例のあるところです。和尚に木の枕でポカンと叩かれた。「お前は何ということを言うのか」と言われた。それでも尚、「いや先生、私の言うのが正しいです」と言うと、先生は、腹の中では、おお好ましい奴、将来を託するに足る奴だと思って、もう一つポカンと叩く、そういうものです。

 
●志と風土
 私はかねがね風土ということを考えています。
 土地柄というものがありますね。例えば華厳経に善財童子の話がありますね。その童子が生まれた所は、道を求める志の強い土地でございました。必ず偉いお坊様とか、偉い菩薩が誕生する所というのは、そういう徳の高い、真実を大切にする、そういうような土地柄の人であります。その土地柄に似合うたような人が生まれてくる、ということですね。それを歴史的風土といいます。
 歴史的風土というものは、その土地に住む人達の志を立たしめる一つの母体となるものであります。学問の盛んな家風の家からは、学問を志すとか、真面目に生きようという人が生まれてきます。
 吉田松陰先生は、山口県萩で生まれました。松陰は下田に停泊中の米軍艦に、外国に連れて行くよう頼みましたけれども、艦長は幕府の許可がないので許しませんでした。そしてそれが分かって、松陰は監獄につながれるようになりました。
 松陰は野山獄中にあって、枯れすすきどころではない、もう人生はないぞと投げやりになっている同囚の人々の教化をします。松陰はすぐにこれらの囚人と友人になり、これらの人々が根からの悪人ではない、むしろ本性において善人であることを確信し、絶望の中から自信を取り戻すことに成功するのです。吉田松陰という人は人間を大切にした人です。それから学問をすることを教えました。そして三つ目に志を立てることの大切さを教えました。これがいつの時代でも人がいる限り、大切なことだと思います。人間を大切にすること、学問をすること、志を立てること、この三つが松陰の松陰たるところではないかと思います。
 この松陰先生もまた、「地を離れて人なし」と言うています。「地を離れて人なし」とは、その土地柄に応じて人物が出ているということです。人を作ろうとすれば、その土地と、その土地を離れた教育は意味をなしません。歴史を語らずして、その土地の教育を語ることができないということです。
 例えば親鸞聖人が越後に流されたでしょう。聖人の奥様は恵信尼ですね。聖人は奥さんのお里へ流されました。寒いところです。罪は何もなかったのですよ。昔の流されるということはどういうことかというと、少しばかり籾をくれるのです。生活費を月々くれるのじゃないのです。自分で耕して、それを自分で播いて、その収穫で生きていかなければならないのです。京都に住んでいて勉強していた人が、どうして自分で土地を耕していくことができますか。流すということは死ねということです。ところが、しっかりした奥さんがあったのですね。その奥さんが支えたのです。そりゃ、その御苦労は大変なものです。
 その土地柄がああした粘り強い献身的な奥様を生んだのです。

 
●中江藤樹
 私の青年時代には、中江藤樹が模範にされたものでありました。
 中江藤樹の時代、幕府の奨励した学問は、朱子学でございました。彼もまた朱子学を勉強していたのですが、どうもそれが心を救ってくれない。それで朱子学を捨てました。彼は頭の良い人だから、朱子学を勉強すれば相当偉い学者になって、相当の地位をもらったはずなんです。けれども彼は、そんなものをさらりと捨ててしまった。そして陽明学を勉強して、わが国の陽明学の祖といわれる人になったのです。それは官学ではありませんので、世間的には名利は得られませんでした。酒屋をしたり商売をしたりして、お母さんと暮らしておったのですが、そこへ全国から教えを求めて人が集まりました。彼の志というものが、本当に自分自身が救われる学問を生涯をかけて求めさせたのであります。
 彼は喘息でありました。しまいには喘息が高じて四十いくつかで亡くなるわけですが、彼はその志を曲げることをしませんでした。これは私に合わない、私を救ってくれないとわかれば、いさぎよく名利と共にそれを捨てる人でなければできないのですね。非常に勇気がいるわけであります。
 例えば、お釈迦様が生老病死という姿を見て、そしてその苦しみから解脱したいという志を立てて、苦行林の中で修行しますね。しかし苦行をしても、最後に自分自身の苦しみから解脱することができません。自分の心を満たすことができません。それで彼はいさぎよく、六年間いた苦行林を捨てたのです。その苦行林を捨てたということは、その当時の全インドの教界から見放されたということです。たった一人になったということです。これは、非常に勇気のいることです。
 その後彼は苦行林を出て、尼蓮禅河で体を洗いました。もう痩せてしまって、歩くのもやっとだったと思いますね。そうするとお経によりますと、「天、樹枝を按じてよりて池を出ずることを得しむ」天が、さあおすがりなさいと枝を差し出した。シッダルタはそれにすがってやっと岸に上ったのでしょう。そこで彼は娘さんの差し出す乳酥をお飲みになって、元気を取り戻します。
 その時に、霊禽翼従(りょうきんよくじゅう)ということがありますね。私は皆さんよりちょっと上くらいの年の頃に聞いて、すごく感動したのを覚えています。霊禽翼従というのは、小鳥がお釈迦様についてくるのですよ。もうこの世の中で一切のものから、お供のものまで堕落したと言って逃げ去ってしまって、たった一人になってしまった時に、座禅の場までついて来てくださったのが誰かというと小鳥だけだったのです。
 皆さんはまだお若いからこれからですから、世の中の厳しいところをくぐっておいででないと思います。皆さんが大きくなって世の中へ出て、皆にいろんなことを言われて、皆から捨てられて一人ぼっちになることがあるかもしれない。会社に勤めて自分の正しいと思って言ったことが上司の癪にさわって、遠くに流されるかもしれない。そして主流からはずされたという感じで、「ああ俺も営々としてやってきたが、主流からはずされたなあ」という思いに立たされるかもわからない。そういうことがもしあった時にこの教えというものが、切々として胸にこたえるものであります。
 静かなる感動。赤く燃える人は多いけれども、青く燃える人はいない。静かなる感動、静かなる青き炎。近寄って見なければ見えないかもしれない、近寄っても見えないかもしれない。一生涯見えないかもしれない。しかし、見える人には、脈々としてその胸中に燃えたぎっているものがあるのであります。そういうものを持とう。若き友よ。そういうように呼びかけてくださっているものがあるように思うのであります。
 所詮、志というものも欲望でありますが、それも大切です。それに向かって一生懸命精進しなければならない。しかしながら段々と世の中のことがわかり自分がわかってきた時に、もう一つ奥の自分自身を本当に支えてくれるもの、そういうものは何か、死んでも亡びないものは何か、そういうものに思い至った時に、過去の人たちが求めたものが脈々としてあるということを、皆さんにははっきりと覚えていて欲しいのであります。人にわかってもらえなくてもいい、わかってもらってもいい、そういう世界があります。そういう遠大な、そういう淋しくてにぎやかな、そういう世界があるのです。

 
●『米百俵』
 山本有三の書いた本に、『米百俵』というのがあります。この本は日本が戦争している時に出ました。ところがこの本が絶版になったのです。なぜ絶版になったかというと、時の政府がこれを読んで癪にさわったんですね。それでこれを売ったらいかんと言ったのです。それで山本有三は、自分の費用で本を処理せんといかんようになったのです。それを昭和五十年に長岡市の市長さんが、今この本が必要であると言って再版をしました。それでまたこれが出版されたのです。
 『米百俵』の概要は、小林虎三郎、この人は佐久間象山の弟子だったのですが、この人を中心とした長岡藩の話なのです。明治元年十二月に長岡藩はおとりつぶしのところをやっと免れましたが、藩主は退き、七万四千石が約三分の一の二万四千石に減らされたのです。それは河井継之助を大将として官軍に手向こうた、それでひどい目に遭ったのです。その時に小林虎三郎が事変処理の役を仰せつかった。その時の話を山本有三が劇に書いたのが、『米百俵』であります。
 長岡藩の表高は七万四千石だが、実収十万石と言われていました。それが二万四千石になったのですから、実に四分の一になり、藩士の窮乏はひどいものでありました。食べる御飯がなかったのです。三食のうちの一食さえもおぼつかないということになってしまったのです。そうすると親戚の三根山藩から、お見舞いとして米百俵が届けられました。ところが、小林虎三郎という総督は、みんなに配給しないんです。そこで青年武士達は、自分の妻や子供や親が食べるものがなくひもじい思いをしているのに、なんで米百俵を配給しないのかと不審を抱いたのです。そのため大勢で小林の庭先へ押しかけて、小林さんが病気で寝ているところへ行って、刀を抜いて談判するわけです。そういう物語であります。ではそのところどころを読みましょう。

 「いや、刀に返答せよといっているのではない。われらに返答せよと申しているのだ」。
 「もう返事なんか聞くことはない。やい、起きろ。寝ていちゃ斬れねえ」。
 「まあそうせくな。大参事。念のために聞き返すが、そこもとはどうあっても学校を立てる所存でござるか」。
 「貴公達は食えないといって騒いでおるではないか。みんなが食えないというから、おれは学校を立てようと思うのだ」。
 「食えないから米を配分するというのなら誰にもうなずけるが、食えないから学校を立てるとは、さらに理が通らぬではござらぬか」。
 「はははは。貴公、理が通らぬと言うたのう。これは面白い。理屈に合っていたらどうなさる」。
 「それは聞いた上でのことだ」。
 「よろしい。それなら話し合おうではないか。しかし、話をするのに段平は不用だ。まずそれを片づけてもらおう」。
 「泉様、話し合ったりなどされては、かえってしてやられますぞ。先刻も懇々と申し上げた通り、ただ『いや』か『おう』かの返答さえ聞けばそれでよいのです」。
 「しかし、理由もたださずに手をくだすことは、公明な道ではない。伊賀、貴公、刀を引け」。
 「いや、拙者はだてに抜いたのではござらぬ。このままじゃ鞘におさめられません」。
 「よしよし。そんなにぎらぎらさせておきたいのなら、それもよかろう。当節は油が悪いのであんどんが暗いからのう。ところで貴公らの意見というのは、今みんな食えないで困っている、幸い三根山藩から米が来た、それをすぐ配分しろとこういうのだの」。
 「その通りじゃ」。
 「なるほど、一応筋は通っている」。
 と、こういうようなところから始まるのです。そして、
 「いや、ないことはない。見舞いとして送ってきた百俵の米があるではないか。あれを分けさえすれば、たちどころに落着するのだ」。
 「貴公らは欲がないのう。なんだって、そんなしみったれたことを申すのだ。なんぞというと、すぐ百俵、百俵とわめき立てるが、百俵の米って、一体、どれだけあると思っているのだ。旧幕時代には俺のうちだって、そのくらいは頂戴していた。それっぱかりの米を家中の者に分けてみたところで、高が知れておるではないか。考えても見るがいい。当藩の者は軒別にすると千七百軒余りもある。頭数にすると、八千五百人にのぼるのだ。かように多数の者に分けたら、一軒のもらい分はわずかに二升そこそこだ。一人当たりにしたら、四合か三合しか渡らないではないか。それ位の米は一日か二日で食いつぶしてしまう。一日か二日で食いつぶして、あとに何が残るのだ」。
 「あとのことはあとのことだ。まず、さしあたり、この急場を救うために、三根山のぶんを分けたらよいではないか」。
 「その日暮らしでは長岡は立ち直らないぞ。俺が今度、学校を立てようと考えたのは、そこだ。貴公らの目から見たら、みんな食えないで困っているさ中に、と申すかも知れぬが、こういう時こそ何よりも教育に力をそそがなければならないのだ。そこから築きあげてゆかぬ限り、長岡は本当に息を吹き返すことができないのだ。」と、こういうふうに虎三郎が諄々として説くのであります。
 「教育?教育なんてもので腹がくちくなるか。そんな先の長い話は後まわしにしてもらおう」。
 「貴公もまた目先のことばかり言っておる。まあ、よく考えてみい。一体なぜ我々はこんなに食えなくなったのだ。貴公らにいわせたら、政治のとり方が悪いからだ、と言うかも知れぬ。いや、それもないとは申されない。しかし藩の取り高は知っての通り七万四千石から二万四千石、三分の一に減らされてしまっている。その上、去年もおととしも不作続きだ。これではどうやりくりしたところで充分にまかなえるわけがないではないか。しかし、おおもとはそんなことではない。これにはもっと深いところに根があるのだ。それは何かと申すと、日本人同士、鉄砲の打ち合いをしたことだ。やれ薩摩の、長州の、長岡の、などと、つまらぬいがみ合いをして、民を塗炭の苦しみに落とし入れたことだ。こんな愚かなことはさせたくないと思って、俺は病中どれだけ説いたかわからない。しかし藩の方では、俺の意見を聞き入れなかった。 −−いや、俺は決して過ぎたことを責めておるのではないのだぞ。どうかして、かような失策を再びさせたくない、と思えばこそ、申しているのだ。それではどうしてこんな愚かなことをやったのか。つまりは、人がおらなかったからだ。人物がおりさえしたら、こんな痛ましいことは起こりはしなかったのだ。あの時、先の見えた人物がおりさえしたら、同胞はお互いに血を流さないでも済んだのだ。藩は微禄しなかったのだ。町は焼かれはしなかったのだ。そして、武士も町人もこんなに飢え苦しむことはなかったのだ。
 −−そう思うと俺は、つくづく『人だ』『人物だ』と考えないではいられないのだ。人物がいなかったのだ。国がおこるのも亡びるのも、町が栄えるのも衰えるのも、悉く人にある。だから、人物さえ出てきたら、人物さえ養成しておいたら、どんな衰えた国でも必ず盛り返せるに相違ないのだ。俺は、堅くそう信じておる。そういう信念の下に、このたび学校を立てることに決心したのだ。俺のやり方はまわりくどいかも知れぬ。すぐには役に立たないかも知れぬ。しかし長岡を立て直すには、これよりほかに道はないのだ。のう、今日のことだけを考えずに、先々のことをよっく考えてくれ。貴公らにもみんな子供があるはずだ。どうか、子供の行く末のことを考えてくれ。これからの長岡のことを、もっと親身に考えてくれ」。
 「その子供のことを考えればこそ、我々はじっとしてはいられないのだ。子供にひもじい思いをさせたくない……」。
 と、まあいろいろあって、最後に虎三郎に言われるのです。それは何かというと、長岡の家訓として『常在戦場』ということがあるのです。
 「御当家が当長岡にお国替えになった後も、このお定めは参州以来のご家風として三百年来、とりわけ重い掟とされているところのものだ。常在戦場とは、戦のないおりにも常に戦場にある心で、いかなる困苦欠乏にも堪えよ、というお言葉ではないか。戦場にあったら、つらいのひもじいのなどといっておられるか。何がないの何が足りないなどと不平をいっておられるか」。
 ということを、ここで諭すわけであります。そしてこの虎三郎がですね、
 「『天、まさに大任をこの人に下さんとするや、必ず先ず、その心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を飢やし……』と孟子にもあるくらいではないか。一つの事をやり上げるためには苦労はつきものだ。まして戦争をした後だ。城も落ち、町も焼けてしまった後だ。苦しい事が多いのは当たり前ではないか。人間、どれだけ苦しみにたえることができるかによって、はじめてその人の値打ちがわかるのだ。皆が一体となって苦しみに打ち勝ってこそ、はじめて国もおこり、町も立ち直るのだ。」ということを説くわけです。
 こうして青年達は、なるほどと納得して帰るわけであります。そうして小林虎三郎は、米百俵をお金に替えて学校を立てました。学校といってもささやかな建物でした。それが現在の長岡高等学校の前身です。そこからは、明治時代このかた、幾多の日本を支えた人が出ました。山本五十六もここの出身です。東大総長も出ました。学者も美術家も出ました。ここからはそうそうたる人物が日本を動かし、人のためになる傑物が次々と出てまいりました。
 自分自身のことを考えるのも志、人のためになることを考えるのも志です。だんだんと人間の世界が見えてきて、より大きな思いというものが人間には湧いてくる、そしてそれに向かって一途に進んでいく、やがてそこから一つの花が咲きほこってくるわけあります。
 私たちは、何もこんな偉大な人物のまねごとなんていうのはできませんけれども、ささやかな世界において一隅を照らす、ささやかではあるが、そういう志を持ちたいものであります。


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