はじめに

『歎異抄講読(異義篇)』細川巌師述 より

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さきに『歎異抄』第一章から第十章までの、いわゆる師訓篇と後序についての解釈を『歎異抄講読』として刊行してから、既に六年になる。今回漸く第十一章から第十八章までの異義篇のうち、はじめの三章をまとめ、多くの人たちの御協力によってここに出版することができるようになった。

異義篇がこのように遅れたのは次の理由による。

(1)        初心者のために『歎異抄』を講義する場合は、師訓篇と前序、後序を題材にすることが適当である。
 異義篇は親鸞の正しい信が明らかになった上で、とりあつかうことが望ましい。このため異義篇を講義する機会は、師訓篇にくらべ、かなり少なく、これを深く考える機会が乏しかった。

(2)        異義篇の内容が、現代における求道者と、どのようなかかわりをもつものか、長い間、私自身に明確でなかった。七百年前のある人たちにそのような異義があった。それに対して著者がこのような反論を書いたとだけいってすませることが私にできなかった。

異義篇についての参考書としては、了祥師の『歎異抄聞記』がもっとも基本となるものであるが、私はこの書では、上記の(2)を明らかにすることができなかった。その後、広瀬(たかし)氏の『歎異抄の諸問題』(法蔵館)によって、かなりこの点の理解ができた。この書の「異義の根」については後に要旨を紹介している。

私はその後、異義篇を勉強することの意味について、自分で、次のような考えをもつようになった。

(1)        異義は、聞法のはじめから真実信にいたるまでの求道の過程において、皆々が陥りやすい、そしてとどまりやすい難点をあらわしている。従って異義篇は他の人のことではない。自分自身の問題であり、自己を照らす鏡としての働きをもっている。

(2)        「異義」を現代的視野でみると、『歎異抄』の異義は単に、浄土真宗内部の問題だけではなく、ひろく宗教全般に通じて考えられるべき内容をはらんでいる。

即ち、現代のいわゆる既成宗教における法執的対立、新興宗教、新々興宗教による多くの社会的悲劇や紛争など、現実社会の多くの宗教によって惹起される諸問題は、すべてこの『歎異抄』の異義に関連するものである。異義は知性中心、理想主義、功利主義、その他すべて、いわゆる自力のはからいによって惹起されるものである。

従って、宗教によるこれらの社会的、根源的問題の解決は、本願の宗教――高次の世界から如来する大いなるものの働きを自らに体認して、自力我執を離れた世界に出されること、これ以外に解決の道はあり得ないであろう。

私はここに『歎異抄』異義篇のもつ、現代的意味を見出した。そして異義篇の各章を解明してゆく意義は、現代の宗教が直面している根源的課題の解明につながるものであることを理解できるようになった。

しかし、このことについては今回は充分に触れることができなかった。次回以下において詳細に述べたいと思う。異義篇の刊行が遅れた理由をはじめに申しておわびしておきたい。

平成五年四月二十八日

細川 巌


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