四、異義篇を学ぶ意味

『歎異抄講読(異義篇)』細川巌師述 より

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(1)師訓篇と異義篇

異義篇を今から頂くのであるが、異義篇を学ぶ価値があるのかどうか。何故そんな問題を出しているかというと、『歎異抄』は師訓篇と異義篇の二つからできている。これが本論。それに前序と後序と中序が加っている。で問題は、師訓篇と異義篇とどちらが大事かということである。両方あるから両方とも大事だろう。そうとも言える。しかし、しっかり力を入れてやらねばならぬところもあるし、やってもやらなくてもよいという所もあるかも知れない。どっちが大事かと言われると、論が色々ある。師訓篇が大事と一言う人もあり、いや異義篇の方が大事だと一言う人もある。

近角常観というお方は異義篇が中心と言う。お東の人で、だいぶん以前に東大前の森川町に会館を建てて多くの人を育てられた。なかなか立派なお方ですね。このお方の『歎異抄愚註』という本が山喜房仏書林から復刻されているのを読むと、この人は二つ面白いことを言っておられる。

第一は『歎異抄』は師訓篇と異義篇とあるが、異義篇の方が大事であるという。そして後序に、「大事な証文」を付けてあると書いてあるのが、第一章から十章までこれがその証文である。だから、十一章の証文が一章。従って十一章と一章を、裏表に読んでいかねばならない。こういうことを書いてある。曽我量深というお方は『歎異抄聴記』の中に近角さんがこういっているのも尤ものところがある。とこれに賛成のようなことが書いてある。要するに、異義編が主であるという。

第二は『歎異抄』の著者は如信だということが力説してありますね。

しかし両説共に違っていると私は思う。『歎異抄』の著者が如信ではないということは、大体はっきりしておる。また『歎異抄』は異義篇が主で、師訓篇は証文だとあるのは間違っておる。偉い人も時々間違えます。われも人も人間には間違いはつきものです。

なぜ間違いか。『歎異抄』には前序と本論と後序がある。普通の仏教では前序を序分といい、本論を正宗分(しょうしゅうぶん)といい、後序を流通分(るずうぶん)という。

流通分は結論である。結論に何と書いてあるかが大事。『歎異抄』の結論には信心が書いてある。「右条々は信心の異なるより事おこり候か」とあって次には本当の信心はかくの如しと、聖人の常の仰せを述べ、聖人の信心が結論になっておる。

序論は、なぜこの書物を書いたかという理由が書いてある。その理由は、「先師口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うて、耳の底に留るところいささかこれを記す」である。

即ち耳底に残った親鸞聖人のことばを記すということが、『歎異抄』を作られる理由である。この初めと終わりをみたならば、当然、師訓篇が中心であるということは明らかである。異義篇が中心という説は間違っておる。文章というのはよく読んで読んで理解しないと誤りやすい。こんな偉い先生に僕がいっても釈迦に説法だが、この先生は『歎異抄』の読み方が足りないのではないかと思う。

私は、『十住毘婆沙(びばしゃ)論』という本を書いて今から二十五年前に出しました。あまり読んでくれる人もなくて、終わりましたが、その後、何人かの学者が『十住毘婆沙論』について出版された。私はさぞいい本が出来たろうとおもって全部読んでみました。しかし、ほとんどみな間違っているなあと思いました。ほんとうに『十住毘婆沙論』を読んでないのではないかなあ。たいていの人は天親菩薩の『十地経論』というのがある。それは非常によく出来ている。『十地経』を一字一句解釈してある。その天親の解釈を持って来て、龍樹の『十住論』を解釈してあるのですね。これは間違いである。そういうわけで『十住毘婆沙論』をも一度書き直して、私の考えを批判してもらいたいと思い立って、今、書いているところです。学者も間違うことがあるから、決して盲信してはならない。

師訓編が大事なんです。なぜかというと今言うように、前序と後序を読むと、信心を明らかにしたい。耳の底にとどまる親鸞のことばを明らかにしたいというのが『歎異抄』を書く理由であり結論である。異義を明らかにしたいとは書いていない。しかし題名には異なることを歎くと書いてあるから異義の方が中心ではないのか。そういう論がある。が、そうではない。歎異が信心なんだ。これは以前に何回か申しました。他力の信心は、異なることを歎く働きである。歎くとは歎き悲しみ、いたみ、どうか本当のこころに立ちかえってくれよとの願いを歎異というのである。歎異は真実信心の別名である。従って「歎異抄」ということは、言い変えると「信心抄」ということである。歎異とは信心の願いである。だから題名も間違いではない。こういうことで、師訓篇の方が大事。

 師訓篇が大事であるのに、なぜ異義篇をやるのか。それが問題である。かねて申しておるように、初心の人に仏教の心、本当の信心を明らかにしようと思ったら、はじめは異義篇をやらない方がいい。それよりも師訓篇を何回も何回もやって、次に前序と後序を頂く。異義篇ははぶいたほうがいい。それが教育法としては、進展を速くする方法である。

かねて申すように、古美術―古い刀剣・書画・骨董など―を見分ける人がいる。それを鑑定師という。これは五郎正宗の名刀であると見分ける。そういう人をどのようにして養成するのかというと、方法は一つしかない。それは小さい時から本物を見せておくことであるという。

本物だけを見せる。本物だけを見せることが大事。そうすると自然に、間違っているものとの見分けがつく。

違うということがわかるには、本当のものを見せなければいかん。本当の信を明らかにしたら、異義はすぐ見分けられる。

この日野の会でもわたしは、師訓篇を何回かやったと思う。異義篇は一遍やった切りである。なぜかというと、初心者の教えには師訓篇が一番よい。前序と師訓篇と後序を繰り返し繰り返しやるのがよい。ではなぜいま異義篇をやるのか。

異義とは計(はから)い。人間の計い。異義は求道の途中においてだれもが陥る落とし穴である。本当のものに至る途中で陥るおとし穴。従ってあなたも私も君も僕も必ず経験するものである。それゆえ前車のくつがえるは後車のいましめ、そういう落し穴を教えてもらって、これを自分を照らす教えとする。そうすれば異義篇も自分自身の進展のために必要な教となって、他人のことに非ず。自分のこととして頂いてゆくことができる。自分を照らす鏡。自分の陥りやすい欠点を教えて下さる鏡として頂いていく。そういうことが異義篇を学ぶ意味である。そこが大事なところである。

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(2)信の成就(計いを超えるための三段階)

信心はなかなか一朝一夕にして成就するといわけにはいかない。信の成就は大体三段階で考えることができる。


@第一段階(一二−一六八)

「又深心、深信というは、決定して自身を建立して、教に順じて修行し永く疑錯を除きて、一切の別解、別行、異学、異見、異執の為に退失傾動せられざるなり」。
先ず自己決断、自心を建立す、これが大事。

 われとわが心を打ち立てて、がんばらなくてはと自己決断をして、教に順い、行を修す。これが大事な、第一段階である。教に順うということは、善き師よき友を持ってその教に順う。これを就人立信(じゅにんりっしん)という。これが大事。その内容は何かというと、実行である。実行するものを持つことを、就行立信という。次の文にそれが出ておる。

「次に「行に就きて信を立つ」とは然るに行に二種あり。一つには正行、二つには雑業(ぞうぎょう)なり。「正行」と言うは、専ら『往生経』の行に依りて行ずれば、是を「正行」と名く。何者か是や、一心に専ら此の『観経』『弥陀経』『無量寿経』等を讀誦(どくじゅ)す、以下略」
これを五種正行という。讀誦正行、観察、礼拝(らいはい)、称名、讃嘆供養。善導はこれをあげて就行立信(じゅぎょうりっしん)と言われている。五種正行をやる。五種正行はしぼってみると、聞法と勤行と念仏の三つを実行していくことである。何故かと言うと、その中に他の二つは入っておる。観察も讃嘆供養も入っておる。聞法し勤行し念仏することを、教に順い行を修すという。それをやろうと決断して、がんばらなくてはと努力してやっていくことが、第一段階。

従ってそういうことのない人は信心の人にならない。信心というのはこういう段階から出発する。これを自力の信という。自力ではあるが他力のはじめを自力というのであって、自力なくして他力はあり得ない。現在の浄土真宗の衰微はその辺を誤っているからである。自力というのは出発点に是非とも必要なのだ。始めから「自力では駄目、他力他力」というから浄土真宗は無力宗になっている。それでは何の力も持たぬ。それは自力の努力をやらないからだ。長年聞法しながら、勤行をおこたり念仏を申さないようでは、ものにならない。信心にならない。これはもう真面目に真剣に反省しなければならぬ。何をいくら口で言うても実行がない。そういう人ではものにならない。


A第二の段階(第一の正定業(しょうじょうごう))

第二の段階は第一の正定業。第一とは五種正行の果てに、念仏一つという。念仏中心ということを知るようになる。念仏一つと教えられてくる。この教がまず化土巻にあるということははじめはまだ自力であることを示している。
「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住座臥(ぎょうじゅうざが)時節の久近を問わず、念念に捨てざる者は是を「正定之業」と名く」
第一段階、建立(こんりゅう)自心を十九願という。十九願が出発点。その果てに念仏一つと決定していくところを二十願という。これが第二段階。ここまでにかなりの時間がかかる。念仏一つと聞くだけで念仏は申さない人がたくさんおる。南無阿弥陀仏と念仏申すということが大事。

何遍も言うてもこれがなかなか分からない。念仏申すという行がなければ進展はあり得ない。


B第三段階(第二の正定業)

これを十八願と言う。これを第二の正定業と言う。これも念仏一つの教である。ただ念仏一つと決定するところは二十願と全く同じ。しかしこの世界を計いなしというのである。無義為義という。計いなしの念仏である。前の第二段階はまだ自分で計いをしておる。

今異義篇を、何故やるのか、という問題。

我々はなかなか、十八願という世界に到達しない。そしてその途中の段階で右往左往している。そこを異義篇という。従って異義篇を読むと自分の姿がよくわかる。その自分の姿を照らされて、私を教えて下さる鏡とする所に、異義篇をやる意味がある。ならばその途中の段階というのはどういう段階かというと第一段階、第二段階をいうのである。

我々が求道の旅に立ちあがる、これが第一段階。教に順って行を修す。言葉を変えて言うと、継続一貫、最後までやりぬこう。

そして積極的聞法。これが大事なところ。その果てに到達していくのが第二段階。ここでは念仏というのが大事。

第三段階と言うのは、次の立札が目に入るということである。二つある。一つは『大経』、一つは『観経』。この二つの立札が目に入るところを十八願と言う。これが第三段階。だから第三段階に達しているかどうか。この立札が目に入らないうちを、第一段階、第二段階と言う。十九願、二十願と言う。この立札が見えても自分に響いてこないのは見えてないのである。『大経』では何と書いてあるか。「唯除五逆誹謗(ひぼう)正法(しょうぼう)」。「ただ恩知らずと如来無視とは救われない」。「おまえが五逆誹謗正法ではないのか」という立札である。それが目に入らない。自分のこととはとても思えぬ。それを第一段階。第二段階の人と言う。それを十九願、二十願という。その段階の人を異義篇の人というのである。

『観経』では何と言ってあるか。「至誠心(しじょうしん)深心(じんしん)廻向発願心(えこうほつがんしん)」という。至誠心とは「まごころ」である。「君にまごころはあるか」と書いてある。これが目に入らぬ。入っても自分の問題とは思わない。

だから、第一、第二の段階で右往左往しているのであって、第三段階への進展がない。

もしこれらの立札が目に入ったらどうなるのか。それは、これが私と分かって、私は本当に申しわけない存在だと奈落(ならく)の底に落ちこんで行くしかないのである。それを、自己を照らし出されるという。自己を知る。自己にめざめるとはこのことである。その時に、その立札の彼方から、助けんと思召したちける本願がとどいて、「他力の悲願はかくの如きのわれらが為なりけり、南無阿弥陀仏」と、ただ念仏する。それを計いなしという。無義という。

今までの聞法は、計いに満ちておった。立派になろう。自信を持ちたい。生活を正したい。問題を解決したい。人に法話が出来るようになりたい。その他その他。聞法について色々なことを考えておる。それらを一括すると私が立派になりたい。私が自信を持ちたい。私が生活を正したい。私が、私が私がと、私中心の聞法であった。それを計いという。自力という。十九願、二十願、という。私、私ばかりで一つも如来ということが出てこない。如来の如の字も出てこない。全部自己本意。それを計いの世界と言う。如来無視というのである。如来無視でありながら、如来無視を知らない。私、私、私で、押し通して今日まで至ったのである。今、おまえのような者こそ、唯除である、といわれている、そのことが分かることが大切である。なかなかそれが分からない。そこでこの立札の手前を行きつ戻りつ、戻りつ行きつうろちょろしておる。自己中心の計いの段階で聴聞し仏法を求めておるから本当の信心にならない。自己中心を打ち砕くには、先ずあなたが進展すること。そして、も少しこの立札が目に入るところまで来なければいかん。「君にまごころはあるか」と言われたら、私にはまごころはなかったと言うしかないではないか。それが、そうならないところに、如来無視の自己中心、二十願というところに留まっている姿がある。その世界を出るとは、この立札が目に入ることである。そうしたら先に進める。第一段階、第二段階に居る者を、異義篇という。

だからみんな、異義篇に関係がある。それ故、自分の姿を照らされて、本当にこの世界を出なければいけないということを教えて下さる教として異義篇を頂いていくことが異義篇を頂載する意味である。だから、異義篇は初心の人にはちょいと無理である。初心の人は、先にも言うように、一章から十章までが大事である。けれども初心の人だけを別に分けて話すわけにはいかないから、初心の人にもわかりやすいように初心の人の為には異義篇の章の言葉を解説することを通して本願の心を明らかにしていきたい。しかし重点は、長く聞いている人の為に、こういう自分の()り所を知ってそれを超えてゆく道を明らかにしていくというのが、異義篇の説き方であろうと私は思っています。

今は、異義篇を学ぶ意味を申しました。異義篇は十九願、二十願の世界である。我々はみなそういうところを経過してくるのであるから、みんなの問題である。そこで起こってくる問題は、人間の計い。その計いが超えられないのである。その計いにはどういうものがあるのかを知り、それをどうやって超えたらよいかということを教えて貰う。これが異義篇を学ぶ意味であろう。

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