異義篇について

『歎異抄講読(異義篇)』細川巌師述 より

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抑もかの御在生の昔、同じ志をして歩みを遼遠の洛陽にはげまし、信を一つにして心を当来の報土にかけし輩は、同時に御意趣を承りしかども、その人々に伴いて念仏もうさるる老若その数を知らず在すなかに、聖人の仰せにあらざる異義どもを近来は多く仰せられあうて候う由、伝え承るいわれなき條々の子細のこと。


これが異義篇のはじめの第十一章の前にある文章である。これを十章に入れている人もあり、また中序としている人もある。今は異義篇のための中序としておく。



一、異義とは何か


『歎異抄』では、異義またはこれに類することばは、さきの中序、そして前序、さらに後序(ごじょ)に出ている。

これらの内容から異義とは何かを検討してみよう。

○中序には

イ.「聖人の仰せにあらざる異義ども」とある。後の方には、「伝え承るいわれなき條々の子細のこと」とある。

口.いわれなき條々

いわれなきとは、正しいいわれのない、即ちまちがった条々、十一章から十八章までの条々をいう。

○前序には

「ひそかに愚案をめぐらして」というところからはじまっている前序をみると、

イ.先師口伝の真信に異なる

ここに異なるということが出ている。何に異なっているかというと、先師から口づから伝えられた信心と異なっている。先師は今は親鸞、親鸞からいえば法然。法然、親鸞と次々と口づから伝えられた真実信心に異なっている。そこに異なりがある。次に自見(じけん)の覚悟をもって他力の宗旨を乱ることなかれとある。

口.自見の覚悟

自見の覚悟とは、人間の持つ考え方、自力の信心を言っている。これが異義である。

○後序には

「右条々は皆もて信心の異なるより事おこり候うか」ここに異なるということが出ている。

イ.信心の異なり

異なるというのは信心が異なっている。そういうことが出ている。

最後には(明治書院『聖典』二三〜一四)に、

口.一室の行者の中に信心異なることなからんため

とある。

大体以上の所に、異なるということばが出ている。

これらをまとめると異義とは、『歎異抄』では二つある。一つは信心の異なりである。先師口伝の真信と異なっている。それが一つである。この先師口伝の真信は、後序に出ている。それは、如来より賜りたる信である。そこで如来より賜りたる信と異なっている、それを異という。

第二は聖人の仰せとの異なりである。

この二つを異義と言う。

異義というのは本当の信心と異なったものをいう。他力の信心に対すれば自力の信心。いわゆる如来廻向の信心ということに対すれば、自力疑惑の信心、真実でない信心をいう。また聖人のおっしゃったこととちがう、それが異義である。


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