三、異義篇の原点

『歎異抄講読(異義篇)』細川巌師述 より

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異義篇の原点が十章にあるというのは既に申した。十章の無義に反しているものを異義という。

それについて、無義とは何か。これを見ておこう。

聖人のお手紙、末燈鈔(明治書院『聖典』二一〜二)。お手紙が大体四十通ばかりあるが、その第二通。「如来の御誓いなれば、他力には義なきを義とす」と聖人の仰言(おおせごと)にてありき。義というは計うことばなり。行者の計は自力なれば義というなり。他力は本願を信楽して往生必定なる故に更に義なしとなり。しかれば「我身の悪ければいかでか如来迎へたまはん」と思うべからず。

凡夫はもとより煩悩具足したる故に悪きものと思うべし。また「わが心の善ければ往生すべし」と思うべからず、自力の御計にては真実の報土へ生ずべからずなり、「行者の各々の自力のみにては解慢辺地の往生、胎生疑城の浄土までぞ往生せらるることにあるべき」とぞ承りたりし。

ここに聖人と仰有るのは勿論、法然上人ですね。親鸞聖人は、いつも法然聖人と聖の字を書いてあります。如来の御誓いなれば、法然聖人の仰せには「他力には義なきを義とす」。他力は本願を表す。すなわち如来本願においては行者即ち我らの計いを離れた計いのない世界である。義というのは計いをいう。法然上人は、「他力には義なきを義とす。」と申される。「念仏には義なきを義とす」というのは聖人独特の領解です。

他力は、他力廻向、如来廻向の本願、如来より賜りたる本願。如来本願におきましては、行者の計いなし、それが大事なことである。これを「義なき」という。

計いなしということについて例をあげて、「我身の悪ければいかでか如来迎えたまわん」と思うべからず。私のようなこのように罪深い者は、どうして如来がお迎え下さることがあろうかと、わが身を(いや)卑しめて自己卑下に陥ってはならない。凡夫はもとより煩悩具足したる故に悪いものであるが、「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」であって、それを迎えとらんという本願である。

それを私が計って、こういうていたらくではいけないと思う。それを計いという。

計いを義という。義は宜なりで、これはよろしい、これは正しい、これは本当だと分別(ふんべつ)するのを義という。このようにわたしが、自分の意見をもとにしてつっぱることを、計らうというのである。計らいとは、理想主義。かくあるべきだ、かくあってはならない。それが人間の理性の考え。こうすべきだ、正しい心であるべきだ。正しい行いをすべきだ。仏法を聞いていれば立派になるはずだ。そういうのを理想主義という。計いという。それが本当だと主張する。これを義という。この理想主義が、そうでない現実に直面するとき前の「わが身の悪ければ…」が出てくる。

後の方「わが心の善ければ往生すべし」と思うべからず。これは自己をたのんでおる。これだけやったからもう大丈夫、と思うのも計い。自らをたのむ。たのみにしているのである。さきのような深い劣等感、自分のような者は駄目だと思う劣等感。自己卑下。それも計いという。また、今のような優越感、これだけやれば大丈夫と思う、それも計い。

他力には義なきを義とす。「義なき」とは、そういう計いをなくすことをいっておる。計いなしというのは、計いをやめるというよりも、全否定をいう、全部融(と)かされる。私の計いが悉く融かされる。そしてすべて如来におまかせする。即ち「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」であり、またこういうていたらくの愚か者、南無阿弥陀仏、である。これを全否定という。南無阿弥陀仏によって打ち破かれて、計らいなしというところに出るということが、正しいわけがらであり、そこに如来の働きをうけとめた姿がある。これが第十章の中心になっている。

異義篇の原点からみると、計いを超えるというところが信心において一番大事なところである。計いが超えられるか超えられないかというところが求道の中心問題になる。

仏法における根本の問題点、解決すべき根本問題とは何か、これには色々な考えがある。

@一つは煩悩。煩悩を解決しなければならない。即ち断惑(だんわく)証理(しょうり)が仏教の根本という考えがある。断惑証理というのは聖道門でいう。小乗でもいう。しかし煩悩を断ずるというのは非常に漠たるものである。なぜならば、我々の煩悩というのは沢山あるわけであるから、それを断ち切っていくというのは大変なことで、言うべくして行うべからずであろう。そこで、も少ししぼったのが根本煩悩。

A根本煩悩を断ずるという。根本煩悩というと、大体十大煩悩を言っておる。その中の見惑を断ずる。我見、邪見、辺見というような考え方を打ち破く。これが大乗の課題。しかしまだこれも漠としている。

B浄土門においてはっきりしてきたのは、疑い。仏智疑惑という。仏智疑惑というものが打ち砕かれること。これを打ち砕かれると大きな世界に出ることができる。これを言ったのは法然上人である。親鸞聖人はそれを讃えて正信偈には、「還来生死輪転家、決以疑情為所止」(生死輪転の家に還来することは決するに疑情を以て所止と為す)「速入寂静無為楽、必以信心為能入」(速かに寂静無為の(みやこ)に入ることは、必ず信心を以て能入となす)と、『選択集』からとって言ってある。解決すべき問題は疑いだと。これは非常に大事なことですね。疑いが打ち砕かれると言うことが大事。しかし疑いとは何か生言うことになると、たいていの人は私は疑ってないという。仏智など疑っていないという。そこで仏智疑惑というのも分かりにくいところがある。

C自力のはからい。親鸞聖人は、計いを超えると仰せになった。それを無義為義という。計いを離れること。これが一番解決すべき問題である。仏教の根本課題はここにあるという御示しです。

計いということを非常に分かりやすくいってあるのが二河白道である。計いなしというのが、二河白道の結論です。
 水の河、火の河、水火二河。私の行く手をはばむ大きな河は、実はそれ自身が私の内面にあった、貪瞋二河という。貪欲、瞋恚その底には愚痴という根本煩悩がある。心の内面にあるものが私をはばんで、涅槃浄土に至ることができない、渡ろうとすると火の河の火炎が燃えさかまき、水の河の荒波がおしよせてきて白道をとても渡れそうにもない。

計いを超えるとは、「水火二河を顧みず」「願力の道に乗托す」。善導はこのように表現した。

これを二河白道の結論と申す。

も少しわかりやすく言うと、水火二河があってとても渡れそうにない、私のような者は駄目だというのが劣等感、自己卑下、理想主義そういうものにつながっておる。これが計い。それを「顧みず」というのが超えてゆくということ。

顧みずとは何か。「これが本当の私、南無阿弥陀仏。」とめざめる。それを計いなしという。願力の道に乗托すとは、「他力の悲願はかくの如きのわれらが為なりけり、南無阿弥陀仏」。それを計いを超えるという。そこが大事。その天地を無義という。その計いを超え得ない途中段階を、異義篇という。

計いを超えるとは、自己に徹する。自己にめざめるということ。照らされて照らされて照らし切られて遂に自己に徹するというところに、計いを超えることができる。解決すべき問題を本当に解決されるところに、仏法の救いがある。その解決すべきところを、このように分かりやすく言ったのは親鸞聖人です。仏法とは計いなしである。漢文でいうと、無義為義である。仏法の要点が非常によく表されておる。

自己にめざめる、これを機の深信という。も一つ、仰ぎみる世界をもつ。他力の悲願はかくの如きのわれらが為なりけり。(『歎異抄』第九章)これを法の深信という。この二種深信を信心というのである。計いを超えるということが信心である。他力の信である。

異義篇とは、他力の信と違う自力の信の世界のことである。どこが違うかというと、計いが入っているところがちがう。


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