六、異義の例

『歎異抄講読(異義篇)』細川巌師述 より

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(1)第十一章が異義篇のはじめにある。

一文不通のともがらの念仏申すにおうて、「汝は誓願不思議を信じて念仏申すか、又名号不思議を信ずるか」

誓願不思議で助かるのか、名号不思議で助かるのか。南無阿弥陀仏に不可思議の働きがあって助かるのか、それとも誓願を信じて誓願の働きで助かるのかを、別々に考える。これを別計という。これを誓名(せいみょう)別計という。こういうふうに考えるのは、第一の知性中心に偏していて、頭で本願を理解し、南無阿弥陀仏を理解しようとしている。それを計いという。本願とか誓願とかいうものは知性で計れるものではない。知性を超えた世界とわかることが大事である。

私は、自己中心の殼の中にいる。殻の中におる私の物の考え方が知性中心である。殼の中に居る限り外の世界は分からない。外の世界即ち如来本願の世界が分かる為には、殻を破って外に出なければ分からない。しかしただ殻を破ってはならぬ。卵の殼を破れば中の黄味と白味がどろんと出てくるだけであって、卵は死ぬ。卵を成長させて、目玉が出来、嘴が出来、足が出来て、ヒヨコに成長させて殼の外の大きな世界に出すと、そこに如来本願の世界というのがわかる。がそれは知性でわかるのではない。あなたが成長して分かるのである。このように自分が成長しなければ大きな世界は分からない。それを知性で測ろうとするところに、異義が起こってくる。それを計いという。計いの根は知性中心にある。繰り返すように、我々が十九願、二十願の中途の段階におる時に、どうしても頭で考える。異義は知性中心の根から出ておる。

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(2)第十二章は、はじめ少し読んでおこう(23-5)

「経釈を讀み学せざるともがら往生不定のこと」

これを不学難生(なんしょう)という。よく勉強して学ばなければ往生し難し。よくよく物の道理が分かってき、はじめて往生できる。これも知性中心。まだ勉強が足りないから本願がわからないという人があるが、勉強して助かるのではない。自分を聞かなければならない。

教を聞くという。これを『大無量寿経』には、光を聞くと述べてある。(1-27)

「是の故に無量寿仏をば無量光仏 無辺光仏 無礙光仏 無対光仏 焔王光仏 清浄光仏 歓喜光仏 智慧光仏 不断光仏 難思光仏 無稱光仏 超日月光仏と号す。其れ衆生ありて斯の光に遇う者は、三垢消滅し、身意柔軟に、歓喜踊躍して善心生ず。若し三塗勤苦(さんずごんく)の処に在りて此の光明を見たてまつれば、皆休息(くそく)を得て(また)苦悩無く、寿終の後、皆解脱を蒙る。無量寿仏の光明は顕赫(けんかく)にして、十方諸仏の国土を照耀(しょうよう)したもうに、聞こえざること()し」

そこに光明を聞くとありますね。このあとにも「その光明の威神功徳を聞いて」とある、光明を聞くと言ってある。また和讃には、「聞光力の故なれば」と讃阿弥陀仏偈和讃にある。

光明は聞くのである。教は聞くというのが正しい。けれども教が光明なのである。ではなぜわざわざ光明を聞くと書いてあるのか。それは、光明は照らす。教を聞くということは教は私を照らすもの。教が私を照らすのを聞光という。そのことを明らかにする為に、光明を聞くと言ってある。学ぶということは教を聞くことである。たとえ讀むにしても聞くことである。それが私を照らすものとならなければならない。私自身が照らし出されるというところに聞法の意味があるのである。

知性中心の聞き方を聞不具足という。自力の聞き方という。それは、聞いて理解しよう、聞いて覚えよう。聞いて他の人に教えてあげよう、聞いて役に立てよう。その他その他。すべてこれらは先ほどの、私が私が私がであり、私が主体である。私中心である。自己自身を照らされるということがない。それを聞不具足の邪心という。本当には聞いてない。邪心とは、間違った考え。聞いて理解しよう、聞いて覚えよう…というのが間違った考え。悲しいかな我々は、こういう聞き方を離れることが出来ない。だから「仏法を聞いているけれども少しも私の性格は治りません」家庭の中でも家内が言います。「あなたは仏法を聞いても何の役にも立たんね。ひとつもかわらないじゃないの」。どちらも聞いて、役立てようという精神である。そういうのを聞不具足の邪心という。ならば何の為に聞くのか。聞くということは、光を聞くのだと『大経』にあって、自己自身が照らされること、私を光によって照らして頂くということが聞くということである。それがぬけておるのが知性中心の学問であり、そこから異義が出てくる。

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(3)第十三章は(23−7)

「弥陀の本願不思議に在(おわ)しませばとて悪を恐れざる」は「また本願ぼこりとて往生かなうべからず」ということ、これが異義である。

本願ぼこり。本願で助かるといっても、悪は避けなければいけない。本願には本願の限度があって、どんなに本願があるからといっても、我々は心得を保って悪を避けるようにしなければならぬ。これを怖畏(ふい)罪悪の異義という。それが本当だと言っておるのは、理想主義の心。たとい本願にはどのような、お力があろうとも、我々は我々の心得を守って罪を犯さないように努力しなければいけない。正しい行いを守っていかねばならない。そういう考え方には、最後まで計らいがくっついてきますね。

以上のはじめの三つの章がすべて、後の章をも代表しておる。これらがいわゆる異義の中心点が出ている章である。

功利心というのは第十八章である。(23−11)「仏法の方に施入物の多少にしたがいて大小仏になるべしということ」。仏法の方に布施を致す。布施が大きい程大きな仏になり、少ないほど小さな仏にしかならないという。とるに足らぬようなことを言っている。この十八章は功利心が間違いのもととなっている。仏法を損得勘定で考えている、とんでもないことである。十四・十五・十六・十七章は知性中心と理想主義が主になっている。

以上、かけ足でしたが、異義の例を申しました。

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(4)『観経』の韋提

『観経』の韋提希を善導は略して韋提と言った。韋提が、本当に広い世界に出て南無阿弥陀仏と念仏申すようになった。それが計いのない世界へ出たことである。しかし、はじめからそうであったのではない。はじめは計いだらけの世界。つまり異義の中にいた存在である。

「われ今極楽世界の阿弥陀仏の所に生まれんと(ねが)う。唯願わくば世尊、我に思惟(しゆい)を教え我に正受(しょうじゅ)を教えたまえ」。(2−5)

これが出発点。序分の中でここを欣浄縁(ごんじょうえん)と善導は言っている。思惟=受け止め方、それを教え下さい。教えてさえくだされば、それを実行したい。教えに順い実行したい。そして阿弥陀仏の世界に生まれたい。そういう願い。私が、私が、私がである。それが出発点。それは計い。即ち自己決断。順教修行を願うという段階である。

釈尊はおっしゃった。「汝今知るや否や阿弥陀仏此を去ること遠からず」韋提よ、わかっておるか。教えを聞いて一生懸命努力してそこまでいこうと思うておる。それが計いなんだ。そうではないぞ。阿弥陀仏は今ここにおいでになるのだ。韋提希よ分かっておるか。分かってくれよ。如来は今ここにおいでにあるのだ、と言って教えなさるのが釈尊。それが信心の立場です。今から頑張って頑張って如来の世界に行くのでは毛頭ない。彼きたって、私と共にあって、南無阿弥陀仏と私のところに届いて下さるのだとわかるのが信心。それが計いのない世界。

そういう世界にどうしてなってゆくか。それを説いたのが『観経』。『観経』をずっと頂くと、これが分かるようになる。『観経』は異義篇から始まって、他力の世界に入ってゆく道ゆきを説いた経です。

先ず、定善観の教えを説き始める。

初めは日想観。太陽が沈む姿を観じ、太陽の沈む彼方に如来の浄土がある。それを教えていく。第二は水想観。

第三は宝地観。その時に八十億劫の罪があるということを知る。長い長い間に犯して来た罪があることを知らされる。教えが進んで行くに従って罪がわかる。第四宝樹観。第五宝池観。第六観が総想観。その時に無量億劫の罪を知らされるのである。そして第七華座観のはじめに、念仏申そうという釈尊のお勧めに遇(お)うて、空中住立(くうちゅうじゅりゅう)の仏におあいする。空中住立の仏とは、遠い所にあると思っておった阿弥陀仏が二菩薩を従えてこの韋提希の上に現れて下さる。如来今ここにいるということが分かった。これが殻を出た世界。

計いの世界から、如来われと共にあるという世界に出るのには、教を聞いて、自己の罪にめざめること。そういうことを『観経』は教えている。教によって自分が分かるということが大事。そのことが成就しにくい。繰り返して申しているが、その癌は計いである。どうしたらよいか、考え方を教えて下さい。受け止め方を教えて下さい、それを実行したいと、もたもたしている。教を聞いて遂に自己の罪に目覚めることが、計いのない世界に出る道である。それを真の求道という。従って、教を聞いても自分自身が分からないというのが一番情けない。それでは本当の進展にはならないのである。

以上、大体異義篇のはじめの話を申しました。


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