五、異義の根

『歎異抄講読(異義篇)』細川巌師述 より

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広瀬杲師の『歎異抄の諸問題』を見ると、異義の根ということが言われている。根といえば一番根本であって、そこから幹が伸び枝がはえて葉が茂る。その一番根本が根である。その根に就いて三つ言われている。私の考えを加えて説明しよう。


@知性中心の考え

一つは知性中心の考え。知性は人間の考えをいう。知性中心で考える。そこが異義の根となるという。

知性というのは、分析化、対象化がその主な働きである。分析化というのは、その原因、その経過、その結果というふうに、ものをわけて考える。第十一章に誓名別計ということが出てくる。弥陀の本願、名号とか信心とかいうものを分析して考える。

弥陀の本願は四十八願という。その中心は第十八願。誰が立てたかというと、法蔵菩薩が立てた。

法蔵菩薩とは何かというと、『大無量寿経』では「ある国王がおって、それが世自在王仏という仏様のところにいって教えを聞いて、心に慶びを持って出家になり、法蔵菩薩といったのだ」と書いてある。そのように筋を立てて分析し、全体を組み立てていく。ここに名号とはあるけれども、『大経』に南無阿弥陀仏というのが出てこない。聞其名号というのはあるけれども南無阿弥陀仏というのが出てこない。これは『観無量寿経』にある。いろいろそういうのを調べて、それを理解しようとする。対象化とは相手を向う側において、こちらから眺めているというか、理解しようと努力しているそれが知性中心である。分析して、それを総合して、理解しようとする。そういう考え方が根にあると、それが一番異義の根となるのだと言ってある。

現代は学校教育中心で、先ず物を説明し、物を理解させ、よく納得した上で実行するという順序になっている。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏申す。意味はわからなくても、念仏申す。意味は分からなくても、とにかく聞いて聞いて聞きぬく。そういう行き方はあまりはやらない。「南無阿弥陀仏とはどんな意味なのですか、意味がわかれば称えてもいいですよ。けれども、分からんものは言いたくない。」ということになって、中学生以上は念仏を勧めてみても駄目ですね。小学生も高学年ではもう駄目じゃないかな。低学年なら出来るかも知れませんね。南無阿弥陀仏を教えようと思ったら、幼稚園ですね。私の所の保育園のように小さい時からやっていないと、やれないんです。

いつも申すように、私のところは、保育園に二つ仏壇があって、一つはホールにあってそこでみんな勤行する。もう一つは小さな仏壇を赤ん坊のところにおいている。そこへは私がいって勤行する。赤ん坊が勤行にどんな反応をするかということは、本当に予想外ですよ。あの子等の家には殆んど仏壇がない。私が仏壇の前に座布団をしく。そこに座って、お光をあげ、お香をたいて、カネを打って、光顔巍々(こうげんぎぎ) 威神無極(いじんむごく)…とお経をあげる。はじめはじっとして見ている。腹ばいで見ているのもおるし、ベットの中から見ておるのもおるし、保母の背中から見ておるのもおる。はってくるのもいる。私が座る座布団の上に座るのもいる。そのときは私の座る所がない。それで保母がもう一枚持ってくる。この子はやる気になっているんですね。そして僕の代わりにカネをたたく。あーあーと言って、お光りをつけろという。時には仏壇のある子もいるのですね。その子は家に帰ってカネを叩くそうです。で親がびっくりして、この子はどうしてこういうことをするんでしょうかと言う。ハァーと僕もびっくりしましたね。これはもう小さい時にやらんといかんなあと思うた。あの年頃は、好奇心もあるし、じっとみています。今はナマンダブツは未だ言えないがそのうちに言うてくれるかも知れん。勤行をやる時には、手を合わせておる。

訳が分かって、これはこうしてこうなって、と言っておったのでは、どうしても知識中心になって、うまくいかない。やっぱり訳はわからないでもやっていくということが大事なんだ。しかし今の時代はそういうわけにはいかん、というかも知れんが、そうではない。西洋的な行き方は知識中心である。先ず理解して、それを実行しようという。東洋的な行き方は、違う。先ず実行。そしてそのうちにだんだんと分かってくるという行き方である。知性中心の行き方というのは、大きな計いを持つ、それが根になっている。しかし現代は学校教育中心、知性中心で育ってきた人間が、いっぱいであって、その人達にまず実行というのは実に困難である。異義の根はここにあるといわれている。


A理想主義のこころ

次に、倫理化、いわゆる定散心、理想主義のこころ。理想主義とは、私にはやれば出来る力がある。みんなもやれば出来るはずだ。やらないのは実行しないからだ。やる気にならぬからだ。正しい心、正しい行い。何が正しいか、何が間違っているか、考えればわかるはずだ。やれば出来るはず。これは私もあなたも同じ。それができないのは、やる気がないからである。分からないのは考えないからである。そういう考えが、計らいを生んでくるもとになる。人間の自己過信が根である。


B功利心

第三は功利心。私が、私が、と、幸福追求のエゴのこころ。私さえよければいいという心。これによって大きな如来の心が分からない。


広瀬杲師はこのような点をあげて異義の根といわれている。


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