−−−−−−−−
9.死という問題
−−−−−−−−

 死と言うものを是非一度考えて欲しいなということがあります。仏教が考える死と言うものを紹介したいと思います。私たちの分別というものは、学校教育を受けてきて、科学的合理主義で考える訓練を受けてきます。そして歴史などを習うと私と無関係に時間は流れていくと思うのです。過去があって、現在があって、未来があると思うのです。私が生きていても生きていなくても2010年にはなにかがあるだろうと、時間は無関係にいくと思うのです。だから分別は未来があるといつの間にか思ってしまうのです。
 しかし、仏教は「今日しかない」というのです。「今しかない」というのです。でも私たちの慣れた思考方法では「未来がある」と思っています。そして「明るい未来がある」ということが私たちのイキイキと生きるエネルギーになっているのです。これは一体どうしたことであろうか、こういうふうに明るい未来がある事が、今日、生きるエネルギーになっているのに、仏教は未来はないというのです。「今日・今しかない」とこういうのです。
 どうしてなのかと言う事を少し考えてみますと、これはキリスト教の信仰を生きた人ですが、パスカルの原理という事を中学生の時に習ったことがあると思いますが、そのパスカルさんが、パンセという本の中でこんなに書いています。いつの間にか、「人間は、明日が目的になって、過去から今日までが、明日のための手段・方法になっている」。先ほど言いましたように、目的は尊いけど、手段・方法は一段価値が低い、と言うことは、私たちは明日が目的であって、過去から今日までが手段・方法であるような一日に扱うということの中に一日の輝きが薄れていっていると言うのです。
 もう少し角度変えて言うなら、「明日こそ幸せになるぞ」、「明日こそ幸せになるぞ」と言って、幸せになる準備を死ぬまでしていると言う事になるのです。準備ばっかしで人生を終わると言う事です。仏教はこれを迷いと言うのです。私たちは何か明るい未来があるということが、生きるエネルギーになっているといいたのですが、意外と幸せになる準備ばっかりをしていて、本当によかったという感動をもたないまま、人生を終わるかも知れません。このことを仏教では空過流転と教えてくれています。

−−−−−−−−
10.今、今日、ここ進む
もくじ に戻る