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4.自由について
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 自分の主体性を考えるときに、自分の自由意志による判断ということを考えることが大切だと思います。其のときに自由には二種類の自由という意味があるということです。私たち日本語で言ったら自由という言葉は一種類しかないですが、しかし英語で言うと二種類あるのです。それは1)LIBERTY、2)FREEDOMです。資料で説明しますと、自分の自主性という項目のところで、自由に二種類1)LIBERTY、2)FREEDOMを書かせてもらっていますが、1)LIBERTYというのは、外のいろんな規制や束縛から自由になっていくという事が意味の中にあるわけです。いろんな社会的な制約とか時代性とか経済的な問題とか法律的な問題とかの外の束縛しているものからの自由になっていくのが、LIBERTYという自由なのです。私たちが世間一般で、いろんな歴史の中で、フランス革命だとか、いろんな形でこの自由を獲得する歴史がありました。その結果、日本では今、本当に外の束縛からの自由とう意味では非常に実現できています。何を言っても文句はいわれないですし、何やってもいいというような自由が実現できています。
 しかしある文化人が言うのです。そういう外の束縛から解放されて見えてきたものは何であったかというと、私たちの「心の中の空白であった」とこういうのです。私たちは外のいろんな束縛から解放されたら、本当に自由になれると思うのですが、意外に外の束縛がなくなってきても、今度は私自身の内面的束縛に気付きはじめてくるのです。仏教はこの内面の自由を尊重するのです。例えば私たちは義理に縛られたり、お金に縛られたり、土地に縛られたり、プライドに縛られたりということになってくると、私たちは内面的には窮屈な世界を生きているのかもしれません。仏教は外からの解放と同時に自分の内面的な世界での自由自在を目指しています。信心を頂くとか悟りを開くというのは内面的な煩悩等のとらわれからの解放とか、自分の思い込みからの解放と、こういうようなとらわれからの開放が実現できたときに私たちは自分の意思を自由に表示することができると私は思っています。
 例えばある患者さんで、この8月に100歳になる女性の方がいるのですが、このかたは、私が一年前から担当になりました。しばらくして人間関係は出来てから、彼女が私に言うのです「先生、私は長生きしすぎた、死にたい」というのです。よく聞いてみると、死にたいというのは、「私は縁のあるものが皆死んでいってしまった。私は生き甲斐がない。淋しいんです。」と言うのです。
 「死にたい」といっている場合には、種々の原因はあるが、場合によればある苦痛があったり、悩みがあったりするために、それを逃れたいために、死にたいといっている可能性があるのです。だから言葉どおりに受け取るのは医者の立場としても、判断を誤る可能性があります。死にたいという背後のこころを考える必要があります。
 最近では癌の痛み・苦しみというようなものが、モルヒネを使うことによってかなり、8割から9割取れるという時代になってまいりました。この痛みを取るための薬の上手な使い方が日本全体ではまだ知られてなくて、麻薬の消費量というものを世界全体で比べてみると日本はまだ少ないほうに入るのだそうです。そのために肉体的な痛みへの十分な配慮がなされてないために、痛みから逃れたいという理由で、「死にたい」となっている可能性があります。そういう訴えへの背後にある領域への医療関係者の見極めも今非常に大事になっています。だから、その人が言葉で表現していることの背後にある事実はなんだろうかということを私たちは十分に見て行くことが大事だと思っています。患者さんの周りの人たちとか、医療関係者が背後にある思いまで感じ取ってあげて、その人はそのような表現をしているけれどその背後にはいろんな要素があるのだということも考えないといけないです。

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5.分別の愚かさに進む
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