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19.死後の世界
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 ここで死後の世界はあるか、ないか、ということを説明させていただきます。私たちの科学的合理主義でいったら、死後の世界はあるか、と問われたら、多くに人はほとんど「無い」と答えると思います。だけど、「無い」という証明も無い。「ある」ということの証明も無いのです。そこでお釈迦さまは、無記といって、そのことに関しては何も答えてない、記載されて無いのです。それはどういうことかといいますと、その課題をいくらデスカッションしても、考えても、あなたが生きていくということの問題にはたいしたことではない、大きな要素にはなりませんよということです。
 死後の世界ではなく、今、今日、生きている、生かされているところのことを大事に考えなさいといっているのです。しかし、目覚めの世界では仏さんの世界、浄土という世界があるのだといっているのです。仏法の理解の少ない人には分かりずらいことじゃないかと思います。このことに関して、司馬遼太郎という有名な作家がおられましたが、この先生が大学を卒業してすぐ、産経新聞の新聞記者をしていたのです。そして京都におりまして、京都大学と本願寺の担当だったそうです。そこで本願寺に行った時に、本願寺の僧侶に「浄土はあるのか」という質問をしたのだそうです。そしたら、お坊さんが「あるとか・無いかの上にあるのだ」と答えたということです。「非常に適切な答えであった」と司馬遼太郎さんは書いているそうです。仏の働きの作用している世界が浄土ということです。
 私たちの分別では、見えるものだけが確かだ、形に表されたものだけが確かだと、こういうふうに見ていくわけです。しかし、仏教では、「見えるものは見えないものによって支えられている」と教えてくれているのです。見えない世界が見えてくることが,仏教の智慧をいただいた世界です。そういう見えない世界、見えないけど、在る世界です。そういう世界を感得した先人によって、日本語の中に「もったいない・ありがたい・おかげさま」等の言葉として表現されている文化の領域が仏教の領域でもあるのです。そういう世界をよき師やよき友を通して感じ取られるようになってきた時、そういう仏の「はたらき」の世界、浄土があると頷けていけるのです。
 ここのところが、日本の現代の学校教育を受けてきた世代、特に戦後の教育を受けると、そういう見えないものを認めない、宗教的なことを触れない、認めない教育を受けていきますと、私たちはそういう世界がわからないまま、死んでしまえばゴミになるという発想にならざるを得ないのです。しかし、私は、医療とか福祉の領域では、仏教が教える物語というものを、やはり、考えてみる必要があるのではないかと思うのです。

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20.もったいないに進む
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