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13.死を越える
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 そうすると未来はあるのかといったら、そういう宗教的な世界を持ちえた人たちは、死は無くなるのです。死と言うのは他人の死であって、自分の死ではないのです。ギリシャの哲学者が本当に死を見つめてこう云っているのです。「生きているうちには絶対に死なない」。よいですか、「生きているうちには絶対に死なない」。そして「死んだら死なんか考えない」。よいですか、これは生死を越えた世界なのです。生死を考えもせずにこんなことを言ってはいけません。そこに、私たちは生死を越える世界に接点を持ちえたときに、今まで思いもしなかったような形での、今ということの質の深まり、広がりを持ちえるようになります。
 私たちの身体は今に、あるのに、今を全身で受け止めるということが難しいのです。頭の中の意識の分別はいつも今におれないものですから、例えば過去のことを自慢したり後悔をしたり、もう終わった事を今頃ウジウジ言うのを「持ち越し苦労」と言うのです。また一方では、まだ来てない未来のことをいろいろ心配するのを「取り越し苦労」と言うのです。分別というのは今と言う時間を十分に受け取れなくて、何時も取り越し苦労・持ち越し苦労ばかりを行ったり来たりしている。そういう生き方を繰り返していれば、気付いて見ればあっというまに60年が過ぎた、70年が過ぎた・80年が過ぎたと、こういうのを空過流転と仏教は言い当てるのです。迷いともいいます。生きても生きたことにならないというのです。大事な問題は、今・今日生かされている、支えられている、と言うことの大事さを全身で受け止められるようになり。今、今日が、手段・方法ではなくて、目的であるような一日一日を過ごすということの中に仏の世界に通じて、無量寿の世界を感得して、本当の足るを知るという、本当の長生きの実現ができるのだと仏教は教えてくれています。でもそんなこと云っても、私たちの分別はそんなこと、見えない世界を考える事ができない、となるのですが・・・・。

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14.対象化する知恵の弱点に進む
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