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11.生死を越える道
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 もう一つ、キリスト教ではどうであろうかと紹介しますと、キリスト教ではこんな言葉があるのだそうです。「生きているうちに死んだ人は、死ぬときに死なない」。これは説明を要しますが、生きているうちに、長生きしたいとかに捉われなくなって、キリスト教であれば神だとか、仏教で言えば、無量寿、仏の「いのち」というそのような世界に接点を持ちえたものは、生死を越えて、今の大事さに気づき、今、生かされている、ささえられている、大きな世界に気づくものは、お任せの世界に生きる存在となる。そうすると生きているうちに、生死を越えた人は死は単なる通過点でしかない。死ぬときにすでに死なない永遠の「いのち」を生きる存在たらしめられているから死に捉われないのです。そして自由自在に生きることになるのです。
 この生死を越えるという課題、私たちの医学の世界では、どうしたら生死を越えられるかと言うと、不老不死を目指すことになります。でもこは見果てぬ夢でしょう。まだ150歳を生きた人はいません。いくら臓器移植をしたとしても、やっぱり限度はあるようです。そうすると私たちの理知・分別で目指す、生死を越える不老不死はやっぱり敗北で終わることになります。
 宗教で言う不老不死とは何かと言いますと、先ほどのキリスト教で言いました、生きているうちに死んだ人は死ぬときに死なないと言うのが一つの原理なのです。これはキリスト教だけの話しかなと思ったら、禅宗のお坊さんが同じ内容のことを言っています。
 「生きながら死人となりてなりはてて、思うがままになす業ぞよき」。(至道無難禅師)
 生きているうちに生死を越えるという世界・煩悩を越えると言う世界を頂いたものは、そこに自由自在の世界が展開してくる。この生死を越えるというところにヒントがあるのです。
 もう少し深く紹介しますと、浄土教で大事にしています、大無量寿経と言うお経の中に、仏さんの私たちに対する願いとして48の本願(根本の願い、本来の願い)が説かれているのです、この15番目に面白い本願が出ています。そこには、「仏の世界に生まれるものは、本当の長寿が実現できます。ただし、命の長い・短いに捉われる人は除く。」という趣旨の内容が書かれているのです。仏さんの世界が分かった人は、本当の長生きができます。但し、命の長い・短いに捉われる人は、除きますと書いているです。

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12.本当の長生きとはに進む
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