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16.浄土はどこにあるのか
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 結論。往生浄土は死んでからではない。浄土は、私の心の殼、すなわち実体化と対象化する固い心の殼が破られて、心の方向が全く変わり、私が私の心を問うようになり、そしてそれが念仏になるところに生まれてくる世界、それを浄土という。そこに私の貪・瞋・痴の心が南無阿弥陀仏と念仏になって、無明の広海が光明の広海となる。無明煩悩の闇が南無阿弥陀仏と念仏の世界になって下さる。それが浄土といわれる心の世界なんですね。
 石見の国は今の島根県、そこに才市同行という方がおられた。この才市同行を世に出したお方は藤秀璻(ふじ・しゅうすい)先生、これを有名にしたのは鈴木大拙先生と聞いています。その才市同行の言葉に
  才市、浄土はどこか
  ここが浄土の南無阿弥陀仏
とあります。これは実に名言ですね。まさにその通り。「ここが浄土の南無阿弥陀仏」。「ここが浄土の南無阿弥陀仏」となるところを、往生浄土の道に立つというのであります。
 聖人は『教行信証』「信巻」末に、「悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず。真証の証に近くことを快(たのし)まず、恥づべし、傷むべし」(12/93)と懺悔(さんげ)されました。「定聚の数に入ることを喜ばず。真証の証に近くことを快まず」とは、涅槃を証し仏となるべき身と定められて、往生浄土の身となったことをたのしまない現実への悲しみであります。
 しかし『教行信証』の「後序」の終わりには、「慶(よろこば)しき哉、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」(12/224)と喜ばれました。深い悲しみと深い喜び、この悲喜の情こそ、仏地すなわち浄土を生きる者の心であります。「才市、浄土はどこか。ここが浄土の南無阿弥陀仏」と、深い悲しみと深い喜びとともに念仏申す人になりたいものであります。
(了)

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