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15.心の奥底を超える
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 往生の「生」は、迷いの世界を求めてゆくのではなく「無生の生」である、「無生の生」というのは、たとえば「ここは浄土かいナー」と、そういう思いに執われず、そのような分別を超え離れていく世界。人間の心(理性)はすべてを対象化、実体化するしか考えようがない。これが人間の根本にある大きな障害というべきものですね。実体化するというのは、そういうものがあると思うんです、たとえば、ここに木像の本尊がある。目があり鼻があり、立っていらっしゃる。すると「これが阿弥陀様である」「こういう仏がある」と考える。これが人間の心。これを実体化という。
 そういうものはない。南無阿弥陀仏ははたらきである。光明無量と私を照らして下さるはたらきである。そして寿命無量と私を摂め取って下さるはたらきだから、光明無量・寿命無量、アミタユース・アミターバというのであって、阿弥陀とは法である。はたらきである。「摂取して捨てざれば阿弥陀と名づけたてまつる」のである。阿弥陀とはそういうはたらきであるのに、そういう仏があると考える。浄土というと、如来が私どもを迎えとって下さる広大無辺の、いうならば心の世界ですね。我々を超えた無生の生の世界、広大無辺の世界なのに、そういうものがあると考えるところが、我々の思いですね。それを超える。そういう実体化を離れる。問題にしなくなる。それがもう一つの超・絶・去です。
 また、実体化とともに対象化という問題が私どもの心にはある。対象化というのは、向うの方において、こちらから眺める。「ハー、如来というものがあるのか」というように、向うの方に、如来を私と切り離して考える。これを主観と客観、主体と客体の二分化といい、対象化という。本当の世界はそうではない。如未は私のために私の上に来って、私のために生きて下さって、私になりきっている。私の信心念仏になって下さる。それを遠く向う側において考えることを対象化という。それでは本当の如来の理解は生まれない。たとえば、結婚して何十年もたって、自分のご主人、自分の奥さんを向うにおいてこちらからジロジロと見てごらんなさい。「まー、なんてこれはできの悪い女かなー」「まー、どうしてこんな男と結婚したんだろー」ということになりますよ。これを対象化という。相手を私からかけ離れたもの、向う側にあるものとして考えるとそうなる。しかし、「この人と私とが縁あって一緒に夫婦になって、一生この世かけて添いとげて、願わくば共に浄土まで離れずに往きたい」と、そうなってみなさい、あなた、少々器量がどうであろうと背が低かろうと問題にならない。それを一体化という。一体化というところに南無阿弥陀仏がある。「彼と我とは一つなり、南無阿弥陀仏と一心同体」というところに、往生浄土がある。南無阿弥陀仏が、人間の最後の執われである実体化と対象化を砕いて下さるのです。

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16.浄土はどこにあるのかに進む
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