歎異抄 第十八章
第一回目 平成2年11月28日講義
「歎異抄講読 異義篇3(巌松会)細川巌講述」より

  一、はじめに 二、仏となる 三、仏に大小なし 四、仏弟子に大小なし

一、仏法の方に施入物の多少にしたがいて大小仏に成るべしということ。この条不可説なり不可説なり、比興のことなり。
 まず仏に大小の分量を定めんことあるべからず候。かの安養浄土の教主の御身量を説かれて候もそれは方便報身のかたちなり。法性の覚りを開いて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒の色をもはなれなば、何をもてか大小を定むべきや。念仏申すに化仏を見たてまつるという事の候うなるをこそ「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」といえるか。もしこの理(ことわり)なんどにはしひきかけられ候やらん。且つはまた檀波羅蜜の行ともいいつべし。いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも信心かげなばその詮なし。一紙半銭も仏法の方にいれずとも他力に心をかけて信心深くば、それこそ願の本意にて候はめ、すべて仏法に言を寄せて世間の欲求もある故に同朋をいいおとさるるにや。
一、はじめに
 第十一章から異義篇という章が続いて、いわゆる間違った信心というものが述べられている。異義篇の異義というのは、親鸞聖人の仰せにあらざる違った内容で、一つは誓名別計という。誓願と名号すなわち本願を信ずるか、名号を信ずるか、本願を信じて助かるのか、南無阿弥陀仏のその名号でたすかるのか、それを別々に考える、それを知性派という。そういう所に問題を投げ出して、あなたは本願を信じて念仏申すのか、念仏申して助かると思っているのかと、別々に考えるもので、知性派、観念派という。もう一つは賢善精進で実行派という。たとえ本願があろうとも、本願を誇って何もしないでいいというのではなく、できるだけのことを実行しなくてはいけないという実行派。この二つの派がある。
 了祥は、現代からみるとちょっと堅苦しい感じがするが、十一章を「誓名別計」、十二章を「不学難生」と名付けられた。了祥は一生の間繰り返し繰り返し『歎異鈔』を講義した。その最後の講義を弟子が筆記したものが『歎異鈔聞記』で、『歎異鈔』の内容がくわしく説かれている。とりわけ異義篇が優れており、どこが違っているのか、違っているのはどういう因縁があるのかという点が、大変くわしく書かれている。
 『歎異鈔』の一章から十八章まで読んでみると、われわれにとって異義篇というのは面倒である。何故かというと、現代ではこのようなことは言わないのである。今から七百年前の異義なんて現代にはあまり関係なさそうなものが多いから、よくわからない。しかし、それをくわしく書いているから、『歎異鈔』を本格的に勉強する人は了祥の『歎異鈔聞記』を読んだものである。
 その分類であるが、十二章は「経釈を読み学せざるともがら往生不定の由のこと」、十三章は「怖畏罪悪」といって、本願があっても本願誇りといって罪を作ることを怖れない者は往生浄土ができないのであるという。「弥陀の本願不思議に在しませばとて悪をおそれざるものは」「また本願ぼこりとて往生かなふべからず」と。
 十四章は「念仏滅罪」という。「一声の念仏で八十億劫の罪を滅す」で、罪あるごとに南無阿弥陀仏と念仏申して一つ一つ罪を消していかなければならない。
 十五章は「即身成仏」、信心をいただいた者はこの身において仏となる。
 十六章は「自然廻心」。すなはち、自然に身口意の三業に罪を犯した時ごとに廻心懺悔しなければならない。
 十七章は「辺地堕獄」、辺地の往生というのは最後は結局地獄に堕ちるのであるといっておる。
 今回は十八章をいただいておる。「施量成果」、布施の量によって大きな仏になる人もあり、小さな仏になる人もあるという。
 十一章、十二章、十六章、十七章が「誓名別計」。十三章、十四章、十五章が「賢善精進」。異義はこの二つの派に分かれておる。十八章はこの二つと違って功利派とでもいうべきか。人々からたくさんの御布施を頂こうと考えている。それは布施の量によって大きい仏、小さい仏になることがあるといっている。異義篇の中では最後に出ているが大変な間違いで、全く今までのものとは質を異にするような問題である。
 その始めの方を見ると「仏法の方に施入物の多少にしたがいて」とある。「施入物」とは布施のことである。物やお金が多い少ないにしたがって「大小の仏に成るべし」という。これは賢善精進とも違い、誓名別計とも違う。「この条不可説なり不可説なり」不可説というのは言うてはならないという意味もあるし、全く話にならない、とんでもない話で全くあきれ果てたことである。「比興」これは不都合千万で話にもなにもならないという意味である。今までの章で一番厳しくいっている。十二章の「経釈を読み学せざる…の」ところで、「たまたま何心もなく本願に相応して念仏する人をも『学問してこそ』なんど言ひおとさるること法の魔障なり仏の怨敵なり。みずから他力の信心かくるのみならず、あやまって他を迷はさんとす、つつしんでおそるべし。先師の御心に背くことを、かねてあはれむべし弥陀の本願にあらざることを」と。
 十八章では非常に厳しく、話にもなにもならんという。仏法の考え方というか在り方に背いておって、「不可説なり不可説なり比興のことなり」と言ってある。不都合千万で問題にならんような話であると、このように書いている。これを最後に挙げておるのは、やはりこういうことがあったに違いない。物を取るということが問題だ。
 その宗教がおかしいなと思うとすれば二つある。一つはあまりに効能書が多すぎるもの。病気は治るは、願い事は叶うは、心配事は無くなるは、子どもは良くできるようになるは…と、そんなものがあるはずがない。普通に考えるとあるはずがないんだけれど、困った時はわらをもつかむで、そういうことにひっかかる。病気が治る、そんなことはありえない。今は治らない病気があるからね。彼らの言う通りなら病院はいらんだろう。病院がこれだけあるのは、なかなか大変な病気もあるわけである。病気が治るとか運勢が開けるとか言うのは、まずおかしいと思わないといけないのである。それが健全な意識である。
 もう一つ、金がいるというのはおかしい。千円や二千円ならいいが、万とつく金がいる。何十万という金を出さなければいけないというのは、これはおかしい。そういうのはかなり変だなあと思わねばいけない。そういうのに引っかかる。始めはそういうことは言わないで、だんだん出してくる。実に巧妙である。
 今は勢いが衰えたけれど、十年位前まで、「原理運動」という朝鮮人の文鮮明が開いたキリスト教の一派が盛んに活動していた。大学では、真面目な学生が多く学校を止めて、その団体に入ってしまった。何をしとるかというと、活動しているわけである。その団体が経営する工場みたいな所で働いている者もあれば、それを売って廻っている者もある。実にひどいことをする。
 人を利用して信心を獲得しては、自分が何か利益を得ようとする宗教は沢山ある。見分け方を知っておかないといけない。一つは「治る」。もう一つは「金を出せ」と、こうくるのである。そういうことが無いということが大事なことである。そうすると利益(りやく)も無いということに思われるかもしれないが、そうじゃない。
 浄土真宗は利益をあまり力説しないが、利益というものはやってみなけりゃわからない。浄土真宗はものすごい利益があるのだが、そういうものを餌にして人を引き付けるというのは人間の本能、功利心を刺激してやるようなもので、親鸞聖人の欲するものでない。だからみんな言わない。けれども大きな利益があることはやってみなければわからない。そして金は言わない。そういうものは貰おうとは思わないが、本当に自分が進んでくると、少しは援助したいとなるわけで、それは御自分の御気持ちがあるからである。
 十八章はこれを表面に出してきた。実に不都合千万、「不可説なり不可説なり比興のことなり」と言われているのは、その通りである。
 そこで、もう一つは仏に大小なしと言っている。後の方で布施というのは信心がないとするものではない。信心の無い布施は意味がないのだと言っている。「信心深くば、一紙半銭も仏法の方に入れずとも他力に心をかけて信心ふかくば、それこそ願の本意にて候はめ」と、これがこの人の言いたい所である。

二、仏となる
 仏となるとは何か。親鸞という人はどう言っておるのかというのを直接見ることが大事であろう。十二の一一八、これは「証の巻」で本当の目覚め、本当の証果ということを言っている。
然るに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の羣萠、往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に滅度に至る。必ず滅度に至れば即ち是常楽なり。常楽は即ち是れ畢竟寂滅なり。寂滅は即ち是れ無上涅槃なり。無上涅槃は即ち是れ無為法身なり。無為法身は即ち是れ実相なり。実相は即ち是れ法性なり。法性は即ち是れ真如なり。真如は即ち是れ一如なり。然れば弥陀如来は如より来生して報応化種々の身を示現したまふ。
 煩悩成就の凡夫、煩悩成就というのは身も心も煩悩に満ち満ちて何一つ欠けることがない。煩悩と言えば一つには「見惑」。見惑と言えば考え方で、考え方が迷っている。一番中心を「身見」という。いろいろな事にぶつかって判断を下す。その下し方が間違っておる。
 もう一つは「思惑」。「事惑」という。貪欲というのが一番中心で、貪欲、瞋恚、愚痴という。そういうものが何一つとして欠けているものがない。それを「十大煩悩」という。これを「根本煩悩」ともいう。その他にたくさんたくさんあって、百八煩悩とかを「随煩悩」と申す。そのような煩悩成就の凡夫は、手のつけようのない存在である。
 言いかえると、「生死罪濁の羣萠」、生死は生まれて死んで往く。生老病死という過程を経て空しくこの世を過ごして往くしかない罪悪に、汚れかえったその羣萠。羣萠は雑草、きれいな花も咲かず、踏まれて蹴られて一生値打ちのない存在。そういう存在が往相廻向の心行。廻向は如来廻向。心行の心は信心、行は念仏それをわれわれに賜う。それを往相廻向の心行という。
 如なるもの、一如真如がその世界から来たって如来、如なるものが具体化した、そういう姿を南無阿弥陀仏という。それを本願の名号と言い、本願の具体化、如なるものが如来してきて、善き師、善き友、諸仏の上に成り立って私の所に届いて下さる。それを往相廻向の心行という。
 風が吹いて来て鯉のぼりの口を貫いたならば、今までだらしなくしぼんでいた鯉のぼりの中に風が吹き通って行く。この風を身体に溜めて腹いっぱいにしたら大空を泳ぐだろうと思うとそうではない。これは吹き通すのが大事である。その始めを聞という。この風は何かというと、諸仏が南無阿弥陀仏を讃えるその風、それが通って行く所を信という。信心をいっておる。そして出て行く所を行といっている。これは念仏というのである。この心行、即ち風が吹き通っていって、このものを動かすということは、心行というものが働いておるのであって、その届いたところを信と言い、出ていくところを称という。聞・信・称と言う。聞いて私が本当にわかって、称となるところを往相廻向の心行と言う。聞・信・称となる。私に届くところが聞、そして私に届いて信、そして私から称となっていく。私の中に本当に如来が届いておる姿が聞・信・称。それが、私が大きな世界に出ていくことなのである。
 その時が「大乗正定聚の数に入る」で、仏となるべき教えを聞いて、正しく仏となると定まった一人になるのである。「正定聚の数に住するが故に必ず滅度に至る」。滅度とは涅槃で「常楽なり、畢竟寂滅なり、無上涅槃なり、無為法身なり、実相なり、法性なり、真如なり、一如なり」と言われている。われわれは全く煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠である。考えてみると大きな世界、その大きな世界をなんと言おう。一如、真如、滅度、涅槃、法性、実相といろんな名前で言ってある。たくさん名前を出してその心を表わそうとしているが要するに大きな世界、絶対界というような大きな中にわれらは小さく存在している。
 それが仏になるとはどういうことか。ならない状態とは生死罪濁の群萠である。煩悩の堅い殻に包まれて、結果として生老病死を経めぐって大きな世界の中におりながら小さな殻の中に閉じ込もって、これを出ることもどうしようもない存在であった。そこに働きかけて下さるものがあって、とうとう私がこの殻を出て大きな世界に生きる身となった。大きな世界を絶対と言おう。あるいは大いなる世界と言おう。それに対して私は小さな殻の中におる。そういう者が仏になるとは何か。それは、この殻から出て大いなる世界に生きるということだ、大いなる世界の一員となり、出ていくことを言っておる。ではこの殻を破ったらどうか。しかし、この殻は破ればいいというものではない。ちょうど鶏の卵みたいなもので、殻の中で生きておるわけである。どういうふうに生きておるかというと、黄身と白身と胚というものがあって、中で呼吸しておる。しかし結局殻は厚いしどうしようもなくて、生、老、病、死して、とうとう殻の中で死んでゆく。そして腐っていく。そういうもので終わっていく。しかし、殻を破ればいいというものではない。殻は破れなければならないけれども、殻だけ破ったら中身は死んでしまってなんにもならない。
 自分の力で目玉ができ、くちばしがはえ、足がはえ、毛並がそろって中身が変わらなきゃいかん。変わって初めて殻を出るということがある。それが彼の成長である。その成長がないと、殻だけ破れるということは無理。そこが聖道門とか禅宗の誤りのところである。外へ外へと言う。無我に徹せよというけれど、殻は破れてしまう。もし破れて無我になったら死んでしまう。殻を破るということは、あなたが成長するということである。それは卵からヒヨコに中身が変わらなければいけない。そして始めて殻が被れるのであって、殻を破ることの意味がある。そして大きな世界に出るのである。あなた自身の人間形成、本当の人となるというか、本当に成長することが大事である。それを仏となるという。どういうようになるのか。育てられていくことが大事。育てられて、殻が破れて少し顔が出てくる。まだ全体は出てこない。これは譬えであるから、こういうことしか言えないが、この大きな世界に少し出てくる。まだ殻の中に半分残っておる。そしてだんだん成長して、とうとう、この殻の生命が終わる時、その時に、その時というのは信心のその時、聞き開いたその時、光が届いたその時に彼はそういう成長を遂げるのである。殻が少し破れる。それがその時である。必ず大きな世界に入っていくに間違いない。そうなると定まった者となっておる。やがて時期純熟というか、生命が終わるその時に大きな世界の一員となるのである。
 それからどうなる。それからは書いてないが、「法性は即ち是れ真如なり。」と続いていて最後は大きな世界に入っていくのである。われわれは殻の中の有限なる存在、相対の存在である。そのような存在が、大きな世界、絶対なる世界の一員になることを仏になるというのである。死ということではない。肉休の死ということも、結果としてあるけれども、しかし仏となるとは大きな世界を生きる存在となること。真如、一如、滅度、涅槃、法性その中なる存在、その中に生きるようになる。その後は「然れば、弥陀如来は如より来生して、報・応・化種々の身を示現したまう」
 この大きな世界そのものを「法」、「法身」というのである。如の世界におるのを「法性法身」というのである。南無阿弥陀仏の世界に出てきたのを「報」と言う。「報身」と言う。願いを持って生きてくる。そしてこの世に出てきて諸仏・身体を持った諸仏、これを「応身」という。そしていよいよこの世で働く姿を「化」という。この報身に対して「応化身」という。応化身というのは例えばお釈迦様のような姿を言う。肉体を持ち、目もあって鼻もあって、言葉をかけて人間と同じような煩悩の生活をする。それはどういうことか、往相廻向の心行を獲れば、ついに小さな殻の中にあった者が、そこに成長を遂げて、大きな世界を必ず生きるべき存在になっていく。そしてついに無上涅槃、実相真如、一如そういう世界に達するのである。今は殻から預を出しておるだけ、少ししか出てないが、いよいよ全部出てしまって還ってくる。まず、弥陀如来と同等の報身となり、さらに釈迦と同じような応化身となり、この世に還ってくる。これを還相という。往相廻向の心行を獲て、殻から出て、もう一度殻の中に入ってくる。穀の中に入ってくるとはどういうことか、人々の殻の中に入ってきて、その人を殻から出そうとする。他への働きかけというものをする身となって還ってくる。仏となりっぱなしではなく、仏から衆生に還ってくることを言っておる。そういうのが証の巻である。
 仏となるとは、まず、殻の中で成長して菩薩となるべく準備を受ける。菩薩となるように育つとは、眼ができ、足ができ、耳ができ、心ができる。眼は仏法の書物を読めるようになる。耳は仏法が本当に聞けるようになる。足は仏法求道の足ができ。念仏申す口ができる。そしてついに殻が破れて大きな世界に顔を出すことができる。それを大乗正定聚の数に入るというのである。それを信心の世界というのである。そこに信心、念仏というものがある。
 信心の世界とは、何かを信じるというのではない。いつも申すように信心とはわかることである。信知するわけである。本当にわかる。何がわかるかというと、自己自身の殻、私が殻の中におるという。あるいはおったというべきか、自己自身の殻の中におるなあということがわかる。それを機の深心という。それを信心という。信ずるのではない。信知するのであって、本当の認識である。そして仰ぎ見る世界、よき師、よき友、よき教え、それがわかる。私が合掌せずにおれない世界が本当にわかってきた。それを信心というのである。それを殻が破れて大きな世界に顔を出すというのである。殻が破れたということは、殻がわかるということである。ものごとは一歩出なければ自分のおる所はわからない。殻が破れればこそ殻がわかるのである。
 そこに今までよくわからなかった仏・法・僧の三宝がわかるのである。仏宝は釈迦・諸仏、法宝は南無阿弥陀仏、僧宝はよき師、よき友、僧伽というのである。それが仰ぐ世界、そこに三宝を仰ぐということができる。それを信心というのである。信心が自分にあるか無いか、というと、自分ではわからない。仰ぎ見る世界がわかる。それを「信心」と言うのである。それを「正定聚」の世界と言うのである。そして生命終わる時、完全に殻を出て、一如、真如に帰入する。これを仏となるという。正定聚の菩薩となる。そして直ちに殻の世界に還ってきて、殻の中におる人を殻の外に出すような、そういう働きかけを展開する。そしてとうとう仏にならない。一如、真如の世界にじっとしていない、常に相対なるものの上に働きかけてくる。わかりにくい話であるが、これが親鸞聖人の教えの中心点である。

三、仏に大小なし
 そこで本来に帰ると、「仏の大小」これはありえない。十八章に帰ってみると、「施入物の多少にしたがひて、大小仏になるべし」ということであるが、そもそもこれは間違っておる。大小の仏があるはずがない。それを始めに言っているわけである。「この条不可説なり不可説なり、比興のことなり、まず仏に大小の分量定めんことあるべからず候」とあるが『観無量寿経』やその他の経に、一応仏の姿、形を説いてある。どのように説いてあるかというと、二の二十、
仏、阿難及び韋提希に告げたまはく「若し至心に西方に生まれんと欲せん者は、先ず当に一の丈六の像、池水の上に在るを観ずべし。先の所説の如き、無量寿仏身量無辺なり。是れ凡夫心力の所及に非ず。然るに彼の如来宿願力の故に、憶測すること有る者は必ず成就することを得しむ。但仏像を想するに無量の福を得、何に況んや仏の具足の身相を観ぜんをや。阿弥陀仏は神通如意にして十方国に於て変現自在なり。或は大身を現じて虚空の中に満ち、或は小身を現じて丈六八尺なり…」
 これは第十三観というのであるが、先に説いたように無量寿仏の身体の大きさは無量無辺である。とても人間の心の力で知る事もできないような大きいものである。「無量寿仏身量無辺なり」と、それを一丈六尺の像を観ずるというのは何故かというと、彼の如来は本願力の故に、衆生これを憶念しようと思う者の為に必ずその憶いに現われて下さるという本願があって、それによっていろいろな身体になって下さるのである。衆生が今、仏教を行じていく上で仏の像を見るということは大事なことであるから、その時その願いに応じて、大きくも小さくもなって下さると書いてある。未信の人のため種々の大きさになって下さるのである。そのことを言ったのであろうか。第十八章に帰ると「かの安養浄土の教主の御身量と説かれて候ふも、それは方便法身のかたちなり。法性の覚りを開いて長短、方円のかたちにもあらず、青、黄、赤、白、黒の色をもはなれなば、何をもてか大小を定むべきや」真如法性、真実は色や形を離れた絶対の世界であるから大小等というはずがない。
 仏を念ずる、それに応じて大小さまざまの仏が出て下さるのは化仏というのである。『大集経』に、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」といわれたのは、衆生の念に応じて応化して下さる。そういう働きをいっているのである。大念とは大きな念仏ということ、大声の念仏といってある。それは法然上人の『選択集』に引かれてあって、「念は声である。大念は大声」といわれておる。仏に大小は無しとは言えない。御経に出ておる。けれどもそれは本当はあり得ないことであって、無量無辺、真如法性の身といっておるのであるから、ここに書いてあるように法性の覚りを開いたその世界においては、形や色、大きさそういうものは超えているのであって、それを絶対という。大小などあり得ない。けれど末信の人のために種々の大きさの仏になって下さると御経に出ておる。「もしこの理なんどにはしひきかけられ候ふやらん」この道理にひきかけていわれたのであろうか、そういうようなことが出ておる。

四、仏弟子に大小なし
 十八章は今までと違った大変不都合千万なお話で、非常に欲がからんで、たくさん御布施を貰いたいという心で、たくさん御布施を出せば、大きな仏になれるなどと、実にもってのほかのことである。これについて批判を加えており、大きな仏、小さな仏のあるはずがない。それは方便の話であって、弥陀の世界には大小なんか無いはずだと言っておる、これが一つ。もう一つ、布施というのは信心が大事であると言おうとしている。仏となる、その仏に大小なし。即ち、これ悉く絶対界の存在であるということば、仏弟子に大小はないのだ。これは書いて無いけれども非常に大事なことである。
 どういうことかと言うと、われわれは聞法してだんだんとお育てを蒙ってくるわけである。そして、とうとう「南無阿弥陀仏、有難うございます」という世界に出されたならば、年取った人も若い人も、金のある人も無い人も、どんな学歴であろうと、どんな職業であろうと、そんなものにとらわれなくなる。悉く大小無し、それを仏弟子というのである。仏弟子は仏になる、それが果である。果に大小無し、果というのは到達点であるがゆえに大小無しということなんだ。
 もう一つ言っておかねばならないところである。これは自分の主張ではない。俺はみんなと変わらないんだぞというのではなしに、如来になった時、大小無しであり、自分がいろんな人に接する時に、すべて信心の人というのは御同行・御同朋であって差別が無いということを言っておきたい。
 このことは、蓮如上人の『御一代記聞書』の中で、門徒といわないで「御門徒」になっておる。どこを開いてもすべて「御門徒」となっている。蓮如上人が非常に優れたお方だなあと思うのは、地方の豪族であろうと、田舎のその日暮らしの百姓であろうと、連如上人にとっては御門徒であった。たとえば、三十の十一、七十二条には、「大和の了妙は帷子(かたびら)一つをも著(き)かね候へども此度仏になるべきよ…」とあって、金によって差別せず、全部御門徒として扱われている。『御文章』では、一番始め二九の一の八行目に、「聖人は、『御同朋・御同行』とこそかしづきて仰せられけり」と出ておる。東本願寺は同朋会運動というのを二十一年位前から始めておるが、聖人は御同朋と言われた、語呂が悪いから御同朋会運動とはいいにくいが、心を忘れたらいけない。聖人にとっては御同朋であった。それはみんなを同じように見られたのである。なかなか出来ることではない。それを「真の仏弟子」というのである。真の仏弟子となることが大事である。
 釈尊は、「私は兄である。あなた方は弟である。後学の故に弟という。私があなた方より早く弥陀の本願の教えを学んだから兄である。あなた方は弟であり、妹である。」と仰せになった。われわれからは、「そうではございません。釈尊あなたがあればこそ私がこのように育てられ、今日あるのでございます。あなたは親でございます。」となる。養育の故に子と言う。私は子でございます。それをとって「弟子」と言う。弟子というのは、切っても切れない関係である。親子であり、兄弟である。弟子には年齢、職業、学歴、財産を問わず、すべて、兄の弟妹、親の子であり、大小無しなのである。高い低いが無いのである。このことは非常に大事なことなのである。
 本願寺の批評を申すつもりは毛頭ないが、具体的な例として挙げさせていただく。本願寺には、本山に対して末寺がある。末寺というのも大きな寺と小さな寺とで「堂班」と申す格付けがあり、本山に行っても衣の色とか座る場所とかが寺の格によって決まっていると聞いたことがある。寺の格とは何かと思っていたら、ある人のいわく、本山へ収めるお金の額で決まるという。
 また宗派によっては、死んで戒名を付けてもらう時も金次第で差が出来るそうだが、そんなことはあってはならない。絶対に無い。アホらしい話である。なんなら私が戒名を付けて上げましょう、タダで。そもそも戒名というのは、その人の徳を讃えるというのが大事だ。例えば、非常に苦労して、しかしながらこの道を守り抜いて行ったなら、「梅」という字を付けたい。梅というのは冬寒い中に咲くでしょう。だからどこかに梅というのが光るかもしれない。よく継続一貫したといえば、どこかに「貫」という字を入れたい、というようなことであって、仏様から褒めてもらう名前である。一番始めにこの世に生まれた時は太郎であったかもしれないが、仏様の前では「一貫院釈梅翁」とかですね。
 言いたいことは、仏になって大小なし。大小なんてとんでもない話である。繰り返すように「この条、不可説なり不可説なり比興のことなり」と、厳しく言われている。仏法のかたに金を沢山入れたから仏弟子として何か差が出来るなんてことは間違いである。そうじゃないんだ、聖人にとってはすべて御同朋・御同行である。釈尊にとってはすべて弟子だった。同じ兄の同じ弟、妹であり、同じ親の同じ子なんだ。金の大小で差が出来るなんて毛頭ないんだというのは分かりきった話だけれど、よく腹に入れておきなさるがいいですよ。そうしないと、葬式も三十万円より五十万円の方がいいんじゃないかと考えたり、お寺にも二十万円より三十万円あげた方がいいのがくるんじゃないかと考えないでもないからね。これは付け足しである。

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