歎異抄 第十七章
第五回目 平成2年10月24日講義
「歎異抄講読 異義篇3(巌松会)細川巌講述」より

一、西方浄土と大悲方便 二、日想観の教え 三、信の成立 四、五重の義 五、第十九願について
六、第二十願について 七、二十願の世界 八、人間の本罪を知る 九、二十願から十八願へ

 辺地の往生という、もう一ついわゆる報土の悟りを開くというのは、その辺地往生という所に、いわゆる大悲方便という教えがある。信心の人「信心の行者少なき故に化土に多く勧められて」ついにそこから報土の悟りを開くというそのような手立てを大悲方便という。

一、西方浄土と如来の大悲方便
 しかし、大悲方便の一番初めは、やはり西方浄土という教えであろう。西方浄土というのは西の方にある浄土、弥陀の浄土という。浄土と言えば如来浄土、如来浄土と言わねばならない。如来、これが主体でその世界を浄土という。これを正報という。これを仏教用語で正報という。その浄土を依報という。依正不二といって離れない。正報と依報は離れない。従って浄土という時には、単なる浄土と言わないで、如来浄土という。如来がそこにいるわけである。その世界を西方浄土という所に、大悲方便がある。その始めである。
 『大無量寿経』、これが浄土三部経の中心である。その次に『観無量寿経』があげられる。そして、『阿弥陀経』がある。この三つを「浄土三部経」という。その三部経に共通しているのは、「浄土」である。しかし、呼び方が少し違う。『大経』(大無量寿経)では「安養」という、『観経』(観無量寿経)では「安楽」という、「往生安楽国」という。安養は両方に呼ぶ。『小経』(『阿弥陀経』)では「極楽」という。しかし、みんな「西方浄土」という。西の方十万億の世界を超えて西方浄土はあり、そこに如来ましますというのはみんな共通である。
 世界には主体がある。昼というのは一つの世界であるが、太陽が出て昼になっているから、太陽と昼は離れない。そのような関係である。単なる世界とは違う。その場を言っている。今、ここに磁石があるとすると、その磁石には世界がある。どういう世界があるかというと、ガラスの板の上に鉄粉を置いて下に磁石を置くと、磁力によって磁力線ができる。その世界、磁石の働く世界を磁場という。この磁場に相当するものが浄土である。単なる世界でなしに、如来の働く場である。その磁場に釘があると直ちにくっついて磁石になる。即ち磁石が正報で、磁場が磁石の働く世界、依報で離れない。不離不二である。その世界は働きがある。そこに行ったならば必ず磁石になってしまう。必ず仏と成る。如来となる。即ち悟りを開く。そういう世界、そういう場を浄土という。浄土というと、たいへんな楽しみがあって、百味の飲食をたらふく食べて、何も仕事をしないで…と考えるが、それが極楽というようなものではないのである。仏と成る世界を言う。そこに行くことが仏に成ることである。
 そういう世界を浄土というのである。仏とは何か、仏は仏陀であって覚者という。いわゆる自覚覚他覚行窮満という。これを仏という。中国語に訳すると、自覚覚他覚行窮満という。即ち、小さなカラを出て大きな世界に出る。と同時に人を目覚めさせる力が、満ち満ちている。それを仏という。西方浄土という所に仏たらしめる働きがある。仏になるとは決して死ぬことではない。仏ならしめる働きのある場を如来浄土といわれる。それが西方にあるところに非常に大きな大悲方便がある。
 方便はサンスクリット「ウパーヤ」の訳語である。私のいる世界まで到りとどくことをウパーヤという。そこで何を分からせるかというと、西方ということによって大きな世界をわからせるのである。その西方と言うことを「指方立相」という。「指方」というのは方角を示す。姿を立てることを「立相」という。十方悉く浄土である。なぜかというと、如来が十方というかわれわれの世界を超えて、包む存在であるから、如来は十方にましますと言わねばならない。方角がない。悉く大いなる世界というか、絶対なる世界が相対なる世界を包んでいるのである。それでは方角がないということになると、われわれにはなかなか分かりにくい。そこで菩薩があり、西の方に優れた世界があって、八功徳水が満ち満ちているとか、その他優れた徳の輝きがあると示されたのを指方立相というのである。
 その具体的な姿は今は略して、方角を立てる。西という方角を立てる。西にあるという。西という文字は昔の字でいうと、鳥が巣に帰っていく姿から作られたものであるという。辞書にそう出ている。鳥が巣に帰って行くのは、太陽が沈む夕方である。それから転じて太陽の沈む方向を西というのである。西ということによって方向を示す。どういう方向か、すべてのものが帰っていくという。太陽が沈んで行く時に鳥は巣に帰っていく。鳥だけでなくすべてのものが帰っていく方向を示す。それを「方処識知」という。それを通して、如来まします方向、如来浄土の場所を示す。その方向と場所を「方処」という。
 われわれは毎日仏とも思わず、法とも思わず、忙しい忙しいと煩悩に追いまくられているわけであるが、太陽の沈む方向を教え、その先に如来浄土があることを教えて下さるのである。日常生活に埋もれている私に大きな世界があることを教える。それを「大悲方便」というのである。西方浄土、如来浄土の方向を教えて下さるのである。
 この秋は特に空気が乾燥していて、太陽が沈む西の方は非常にきれいな時期である。一度インドに行ったが、インドの太陽は別にどうということもないが、印象が深かった。また、海の上は大きな太陽が東から出て西に沈んでいく。西に入っていくのが印象が深い。太陽は毎日西の方へ沈んでいく。その方向を教えて、そのずうと先の方、彼方十万億の国土を超えて如来浄土がある。そこへすべてのものが帰っていくのである。そのことを教えているのを浄土教というのである。
 この浄土については善導大師の言葉が真仏土巻、一二の一五六に詳しく述べられている。一二の一五五の最後の行から、
又云わく「我今楽生弥陀」従り已下は、正しく夫人別して所求を選ぶことを明かす。此は弥陀の本国四十八願なることを明かす。願願皆増上の勝因を発し、因に依りて勝行を起こし、行に依りて勝果を感じ果に依りて勝報を感じ、報に依りて極楽を感成し、楽に依りて悲化を顕通し、悲化に依りて智慧之門を顕開す。然るに悲心無尽にして、智亦無窮なり。悲智双行して、即ち広く甘露を開けり。茲(これ)に因りて法潤普く群生を摂したまふ。諸余の経典に勧むる処弥(いよいよ)多く、衆聖心を斉しうして、皆同じく指讃したもふ。此の因縁有りて、如来密(ひそか)に夫人を遣(つかわ)して別して選ばしめたまふ事を致す。
 始めに「此は弥陀」とあるが、聖人は「は」をとって「此弥陀の四十八願」とし、「の」もとって「弥陀本願四十八願」とされている。この意味は弥陀が本国、弥陀が本国というのは、弥陀は南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏が浄土という。その世界弥陀が本国である。
 人間が帰るべき本当の生まれ故郷というか、本国、弥陀が本国。本国というのは出身地ということである。弥陀が本国というのはどういう意味かというと、如より来たるという。その一如真如である。あらゆるものは如から生まれている。みんな如の中にあるわけで如来蔵という。如来蔵というのは人間のことをいう。如来によって蔵せられている存在ということである。人間は如なるものに蔵されていて、その人間の中にも如なるもの、仏性を蔵しているのである。すべてのものは如来蔵である。如来によって蔵されている存在である。そしてその中に仏性が蔵されている。
 その仏性、その如、その如なるものが働きを起こしてというか、形をとって現われたところを弥陀という。その仏性がわれわれの上に成立するわけだけれども、実際は煩悩の中に閉ざされておって何の働きもしない。いわば凍結したような状態でいる。そこに弥陀の本願がかけられて来て、その煩悩の中に凍結していたものが、働きを起こして来る。それが如なる世界に帰っていく。そこで弥陀が本国、如来蔵、如来によって蔵されている存在、人間が弥陀の本願によってその働きを取り返していく世界である。それを弥陀の本国という。その世界を一二の一五六には、
又云く、極楽は無為涅槃界なり。随縁の雑善は恐らくは生じ難し、故に如来要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専にして専なら使めたまえり。
 極楽は無為涅槃界、われわれがそこに帰ろうとしている。しかし、われわれがそれぞれの縁に従った雑多な善ではそこに生じ難い。そういう優れた世界である。そこで、如来は要法、南無阿弥陀仏を選んで下さったのである。その次の文、
又云く、仏に従うて逍遥して自然に帰す、自然は即ち是れ弥陀国なり、無漏無生還えりて即ち真なり。行来進止常に仏に随(したが)って、無為法性身を証得す。
 仏に従う、われわれは仏の働きをうけて、仏に従って帰って行くのである。逍遥して行く、ぶらぶらして何時、何分までに行かねばならんということもなく、そういうことを離れて、自然にゆっくり歩いて行くことを「逍遥」という。そして、一念、即ち、客観的、願力自然の世界に帰っていく。その自然の国が弥陀の世界である。帰っていくべき世界である。われわれには帰っていくべき世界がある。そこに大きな世界があるのだ。それを涅槃という。弥陀国という。それがわれらの本国なのだ。その方向を西として、太陽の沈む方向であらわす。
 私の住んでいるところは、赤間の三郎丸というところであるが、わりと高台である。夕日の沈むのがよく見える。散歩がてらにその夕日を見に行く。この言葉を思い出す。「仏に従って逍遥して自然に帰す、自然は即ち弥陀国なり」太陽の沈むずうっと先に如来浄土がある。現代のわれわれの知識から言えば、地球は丸いから西へ行けば一周して元の所へ戻って来るわけで、浄土があるかと言いたいところであるが、そういうものではない。即ち西に太陽が沈むことを通して、方向と場所を教えながら、実は大きな世界を教えているわけである。即ち帰るべき世界があるのだということを教えんがためで、それが大悲方便でありながら非常に大きな働きを持っている。
 そもそも大悲方便というものは、後になってただ方便だったのか、あれは一つの手立てであって、実はそうでないものをそうだと言って、人間を引き付けて行くのだと、このように考えられるが、決してそういうものではない。後になればなるほど人間はそういう方便に、非常に深い感銘を持つようになっている。
 例えばこの会の案内状を貰うとする。案内状というのは一つの方便である。手立てである。具体的に一枚のはがきに何月何日こういう会がある、ぜひおいで下さいというのであるが、親切がこもっている。何だはがきかと捨てていたものがだんたん気がかりになって、ようやく出席するということになる。はがきを貰ったことが大悲方便だったなと感謝せざるを得なくなる。

二、日想観の教え
 太陽の沈むずっうと向こうの西の方に如来浄土がある。子どもだましのように思うがそうではない。それを出発点として、何とか教えが分かって来ると、この西方浄土という教えは実に深い大切な事を教えられているのだということが分かる。感謝せずにはおれないようになる。方便というのはそういうものである。われわれが帰るべき世界を太陽が沈む方向にあると示す。そこには雲が出ていて太陽を覆う。西に沈む太陽の邪魔をする。それをはっきり見せないようにするのである。その雲の色が、黒色であったり、黄色であったり、白色であったりする。善導大師は『観経疏』の中でこの雲の色が私の罪障の深さを示すのだという。
 善導大師は中国の人で浄土教というものを本当に明らかにした人である。この人のお骨を納めた寺、香積寺というのが、西安の街にある。中国に行かれたら是非お参りされたがよい。高い塔が立っている。太陽が沈む時に雲がかかるのは私の罪業の深さを現わすと言われるが、夕日が沈むとき、雲一つ無いということはなかなかない。必ず雲が出ている。雲が出ていることが多い。
 また、太陽の輝きを見て如来の光明の輝きを思えと言うている。業障識知に続いて光明識知という。如来の光明は太陽の何倍もあり話にならないが、太陽の光を見て如来の光明をしのばせるのである。それを方便というのである。十方尽く浄土であるが、西方にあるという事を教える。そういう事を詳しく学んだ後に、一二の一五六、始めから六行目、
又云く。西方寂静無為の楽(みやこ)には、畢竟逍遥にして有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること等しくして殊なること無し。帰去来(いざいなん)、魔郷には停まる可からず。曠劫よりこのかた流転して、六道尽く皆逕たり、到る処余(よ)の楽無し。唯愁嘆の声を聞く、此の生平を畢えて後、彼の涅槃の城(みやこ)に入らん。
 西方寂静無為の楽、それを西方という、西方の世界というものを示す。なぜ西か、そこに浄土がある。大悲方便というのは、まずそこからかけられている。
 すでに言っているが、十九願、二十願という。本願の中心点は何か、それは信の成立である。信の成立ということが本願である。信とは何か、普通の宗教は教・信・行・証である。本願の教えは教・行・信・証である。この信は教行、すなわち教えの中にこもる南無阿弥陀仏の働きがこの私に到り届いて信心となる。証を証す、その信である。その信を言い替えたらどういうことになるかというと、いわゆる覚ですね、自覚、覚の成立、そこに仏道の成立がある。仏を覚者という。覚が生まれること、これが中心、すなわち信の成立ということが本願の一番大きな目的である。その信さえ生まれれば必ず証がついておる。救いということが成り立つ。その為の教行である。教えを聞き開いてその中に流れている南無阿弥陀仏の働きを聞き開くこと、そして信が成立すること、これが本願の中心である。

三、信の成立
 信の成立には二つある。一つは就人立信という。その人に就いて離れず、その教えによって信を成立させる。それを就人立信という。もう一つは就行立信という。就行立信とは行に就く。行を成就して成る、行を成就して信を成立させる。この信を成立させる方法は二つあるわけで、就人立信は教育である。就行立信の方は行である。ひとかどの道に達した人、それは彫刻でも他の芸術でもその他農業でも、一道を行じて行った人は非常に強い。はっきりした一つの信念がある。一つのものに打ち込んで行を成就していく。このように信の成立には二つの道がある。しかし、共に一長一短がある。これだけでは問題がある。その人、人というのは人間である。人間である以上本当に完全な人はいないわけであって、その人に就いて得たものはその人以上のものは出て来ない。そこが問題である。その人が主観というか、客観というか、すぐれた証を離れたもの、本当の法則、そういうものを持っているかどうか、そこは一種の賭けみたいですね。行を自分で実行していく方は、本当に完全に実行して行き着けるかどうかわからない所がある。中途半端に終わる可能性が強い。そういうところがまずいわけである。
 今、阿難という人がある。この阿難という人は釈尊に常随昵近した人である。永年にわたって聞き抜いた人である。しかし、釈尊が亡くなられた後、多くの弟子たちが集まってたくさんの教えをまとめようとした。経典の結集である。その時阿難は排斥された。お前は釈尊について長い間たくさんの教えを聞いた。しかし、聞いて覚えただけで自分自身は悟ってはいないではないか、本当の信は出来ていないと結集の時は取り除かれたのである。それから血を吐くようなきびしい修業をしてようやく悟りを開いて経典の結集に参加して大きな働きをしたのである。阿難は釈尊に就いて長い間教えを聞いた。けれども、それが聞いて信にならなかった。何故かというと、教えは聞いたが法を聞かず、その教えの中にこもる真理、法を聞かずに話を聞いた。就人立信にとどまった。就人立信だけでは十分ではない。これを「声聞」という。
 また、「辟支仏」、「縁覚」という。これはいわゆる行、山にこもって一人修業を積んで人に就かない。師につかず行を行ずる。行によって悟る。そういう人を他力の信と言わずに敬遠される。これも就行立信で終わるわけである。
 本当の信というものは、就人・就行立信。就人のままが就行になる、その人に就いてその人によって法に触れる。それを就人・就行立信という。今は方便ということに就いて話していたが、信について言っている。

四、五重の義
 五重の義では信心の生まれる段階を、一つには宿善、二つには宿善開発して善知識に遇うとしている。善知識というのがよき師で、この人にお遇いして教えを請うことを就人立信という。就人立信だけではその人を離れないというか、もう一つ足りない。三つには光明、光明という所に就行立信、四つには信心、五つには名号、これを五重の義という。その光明に触れる所を就行立信という。それを一緒にして就人・就行立信という。ややこしい話になったが、本当の信心にはどうしたらなるかということを就人・就行立信と言われたのは親鸞聖人であった。
 五重の義は『御文章』にある。二十九の二十五、二帖目の十一通である。終わりから八行目、
これによりて五重の義を立てたり、一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心,五つには名号、この五重の義成就せずば往生は叶うべからずと見えたり。
 たいへん大事なことを言ってある。蓮如上人が信心の生まれる道を言われた。それは先ず、宿善開発して善知識に遇うという。みんな仏法を聞くには宿善を与えられているのである。道綽禅師は『涅槃経』を引いて教えられるところである。人が仏法の席に出て、退屈もせずにじっと聞いているのは、その人が過去にガンジス河の砂の数ほどの仏に遇うた人だからである。そういう人でなければ仏法の話をじっと聞く力がない。そのように言われている。
 その宿善が開くとよき師、よき友が与えられるのである。そしてその人によって教えられることを就人立信という。それだけでは十分ではない。南無阿弥陀仏、信心、光明となるには、光明のお照らしに遇う。それが就行立信である。行とは何かというと、如来の働きである。その如来の働きが届いて信が生まれる。それを信心という。南無阿弥陀仏という。そして就人・就行立信という。これが結論である。

五、第十九願について
 しかし、人間は先ず自らの行を実践して信を立てようとする。南無阿弥陀仏の働きを受けるよりも、自分でやりたい。自分の行で信を立てたいと思う。これが第一の本願で、十九願という。みんな自分の行をしっかり実践して信を立ててみなさい。それを十九願という。それが大悲方便の願である。
 本当は就人就行立信でなければならないが、それを出さないでまず、十九願を出されている。これがわれわれには分かりやすい。一の十六にある。
設い我仏を得んに、十方の衆生、菩提心を発し、諸の功徳を修し、至心に発願して、我が国に生まれんと欲せん。寿終の時に臨みて仮令(たとい)大衆と囲遶して其の人の前に現ぜずば正覚を取らじ。
 これを第十九願という。菩提心は求道心、発心である。そして諸の功徳を修す。至心発願欲生我国、これを信心という。誠こめて願いを持ち、大きな世界を目指して行く。これを信心という。修諸功徳、これは行、発心してしっかり行を行じて信心が生まれるそういう願が十九願である。人間の決心と実行によって深い信を得る。それが人間の思い、人間の考えで、信というものが大事ならば自分で諸の功徳を修していく。諸の功徳を修するというのが、五種正行である。読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五つをやる。対象を阿弥陀仏一仏にしぼってやるのを正行という。一応、勤行の中には全部入っている。お経を上げる、考える。礼拝、称名念仏、そして讃嘆、感謝、香とか、お花とかその他、お供えを上げる、供養である。
 この五種正行は善導大師が観無量寿経の中から選ばれたのである。観無量寿経の中心人物であるイダイケが悲劇の中から助かっていくのであるが、イダイケは読誦というより直接釈尊の説法を聞いたのである。そして考え、礼拝し称名念仏して遂に覚然大悟し無生法忍を得て非常に喜び感謝していくのである。『大経』には修諸功徳とあるが、善導は『観経』からもう少し具体的に五種正行を選ばれたのである。
 結論、信心の成立には、あなたが先ず決心して真心こめて五種正行をやりぬこうと実行したら信心が生まれる。この十九願というのは、われわれの考えをたいへんよく表わしている。人間は如来の智慧とか働きが大事というが、自分の努力が大切と考えている。私の努力なしには何も成り立つはずがないと、何時も考えている。この人間の深い考えに同調して立ててある十九願を大悲方便の願というのである。
 なぜかと言うと、そういうことは実際は出来ないのである。続かないのである。われわれは決心して努力して実行してというがなかなか続かない。この願の成就は難しいのであるが、こういう願を立てられた。最後に「臨寿終時」あなたが命終わる時に必ず、大勢の仏、菩薩と一緒に現われて来ると誓われている。いわゆる臨終来迎のことを誓われている。そこには迎えに来るということもあるが、人間には必ず死があるということを知らせるという意味がある。
 十九願は人間の理性に訴えて立てられているが、死ぬという限界があり続かないというあせりも出てくる。最後は死の問題がある。そこでぐずぐすしては間に合わない。そこに念仏が大事となってくる。念仏申せいかなる衆生も助けるという二十願が立てられてくるのである。念仏という所に諸の功徳の根本がある。これを善本という。そこに人間の信罪福心を見られているのである。信罪福心というのは一種の理性であり、功利心でもあるが、善をやれば善い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがあると信じている。その心に訴えたものが二十願である。五種正行をやっていたが、その中心は称名念仏なのだ。この事を中心に持って立てられたのが二十願である。念仏申すことが先決である。

六、第二十願について
 一の十六、二十願は、
設我得仏 十方衆生 聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心廻向 欲生我国 不果遂者 不取正覚
下の方も読んでみよう。
設い我仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞き、念を我が国に係けて諸の徳本を植え、至心に廻向して我が国に生まれんと欲せん。果遂せずば正覚を取らじ。
 十方衆生が我が名号を聞いて、念を我が国に係けて諸の徳本を植える、諸の徳本とは念仏である。念仏を植える。田植えで苗を一本々々植えるように、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を植えこんで行く。そして至心廻向する。如来の方へ差し向けて、どうぞこれで救われていくようにと、そのように廻向して、我が国に生まれんと欲せん。これを二十願という。
 この二十願において、人間の功利心というか、信罪福心というても足りない、やはり理性、それに訴えて、善いことをやれば必ず善い報いがある。善い事というのは念仏申すこと、その徳本を植える事を教えて、信の成立をめざす、そこに大悲方便がある。いずれも人間の立場である。人間の立場が出発点である。そして如来は最後に果遂せずば正覚を取らじという誓いを述べられている。ここまで来たものを必ず報土におくり届けたい、衆生を送り届けるという事が出来なかったならば、私も仏にならないと誓われている。この十九願、二十願というのは就行立信という事になる。

七、二十願の世界
 その二十願の世界が今は辺地、辺地の往生とは何か、それは大無量寿経に出ている。一の七十一、終わりから五行目、
若し衆生有りて、疑惑の心を以て諸の功徳を修し、彼の国に生まれんと願じ、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、此の諸智に於て疑惑して信ぜず、然も猶(なお)罪福を信じ、善本を修習し、其の国に生まれんと願ぜん。此の諸の衆生、彼の宮殿に生じ、寿五百歳、常に仏を見ず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、是の故に彼の国土に於て之れを「胎生」という。
 そこに仏智を疑うという言葉があるが、仏智を疑惑して信ぜず、その前は了せずになっている。自分自身がやることに一生懸命になって、自己中心で如来というものを全く考えない。それを了せずという。それが疑いなのである。しかし罪福は信じて善いことをしたら善いことがある。悪い事をしたら悪い報いがあると信じている。理性の働きである。善本は念仏、念仏を修習し、念仏を繰り返し申しているが、寿五百歳、長い間、常に仏を見ず、経法を開かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、一つの世界に閉じこもっている。それを辺地という。辺地というのは一の七十二、最後の行から、
仏、弥勒に告げたまはく、「譬えば転輪聖王の別に七宝の宮室有りて、種々に荘厳し、牀帳(じょうちょう)を張設し、諸の繒旛(ぞうはん)を懸けたらん、若し諸の小王子有りて罪を王に得ば、輒(すなわ)ち彼の宮中に内(い)れて繋ぐに金鎖を以てし、供給に飲食・衣服・牀褥(しょうのく)・華香・妓楽転輪王の如く、乏少する所無けんが如し。
 それが譬えである。辺地とはどういう所かというと、住んでいる所は全く転輪王、すなわち仏の住んでいなさる所と同じである。食べ物も飲物もその他の家具も皆同じである。一つも世界は変わらない。同じ浄土に住んでいるのである。どこが違うか、繋ぐに金鎖を以てす、金の鎖でつながれている。そこが違う。そこを辺地というのである。
 すばらしい所であるが、金の鎖で繋がれている。金とは最もすぐれたものである。それは念仏であり、教えである。念仏申さなければいけないという事が、私の自由を奪うのである。また、広く言えば教えが私を拘束する。こういう時はこうしてはいけないとか、こうすべきであるとか私を縛るのである。それが二十願である。もう一つすっきりしない所がある。りっぱな所へ行ったのだけれどもその中で縛られている。それを二十願の世界といい、辺地というのである。それでは遂に二十願が成就した世界はどうか、二十願の願文の終わりに「果遂せずば正覚を取らじ」と誓われている。どうしても果たし遂げたい。本当の世界に出したいと言われる。

八、人間の本罪を知る
 その願いが届いた所は、一の七十三の終わりから六行目、
若し此の衆生、其の本罪を識り、深く自ら悔責(けしゃく)し、其の処を離れんと求むれば、即ち意の如く無量寿仏の所に往詣し、恭敬供養することを得、亦徧(あまね)く無量無数諸余の仏の所(みもと)に至り、諸の功徳を修することを得ん。
 そこにどうしても果たし遂げずんばおかずという、その鎖が切れるのはどういう時か明らかにされている。それは其の本罪を識る、漢文でいうと識其本罪である。本罪とは何か、本は本来持っている罪である。人間が一番始めから持っている罪である。キリスト教では原罪という。原罪というのは、神の教えに背いて禁断の木の実を食べたという事である。仏教では違う。不了仏智、あるいは仏智疑惑という。仏智疑惑とは人間が徹底して自己中心で、自己中心にものを考えて、私の事は私でやるという所に右往左往して如来無視、如来の事など全く考えていない。如来無視の姿を本罪という。そういう自分の本罪を識り、如来ましましたと分かる。そして頭を下げて礼拝合掌することを識其本罪という。今まで如来ましますと分からずに、みんな私が私がと生きていたのである。そうではなかった大きな世界に生かされていたと分かることである。私が私がと思っているから、折角聞いた教えにしばられ、念仏にしばられるという事になるのである。
 自分がしばられていた如来無視の姿を、自ら悔責する。悔責は懺悔で、お詫びすること。私が間違っていたと懺悔合掌する。それが二十願の果遂の誓いが届いた姿である。そうすると直ちに彼の所を離れて思いの如く、無量寿仏のみ前に往って恭敬合掌することが出来る。本当はだれもしばっていたのではない。自分でしばっていたのである。こういう所を二十願の世界という。二十願が成就した所がすなわち十八願である。そこに広い世界に出ることができるのである。二十願成就とはおかしいが、二十願という所に入っている、そこに大悲方便の世界がある。二十願の世界では何かもう一つしっくりしない所がある。しばられているのである。
 従って十八願の世界とは、二十願の世界が分かるというか、それを如来に悔責される、懺悔される。懺悔されるとは私が本当に如来を無視し、自己中心に生きていたと分かりお詫びをする。そういう私の罪があったのだと頭が下がる。そういう私のお粗末さが分かるということである。頭が下がる所が二十願成就、それが十八願である。二十願の世界を本当に知ることが十八願に出るということである。
 これだけ見ると、十八願が本当の信心の世界であるけれども、こういう世界まで私を連れ出して下さったのは、私に同じ、私の考えに応じて、それはちょうど子どもがわからんことをいう、そういう子どもの世界まで降りて来て、だんだんと引き上げて下さったのである。そうすると、辺地の往生という所には、そこに大悲の世界があるのである。是非とも本当の世界に出そうとする心の現われがある。
 従ってこの章に書いてあるように、辺地の往生は「信心の行者少なき故に化土に多く勧め入れ候を」で、化土は辺地である。そこに多く勧め入れられ、疑いの罪を償うて後、転回の機会を与えられる。疑いの罪は何か、浄土の中にいながら金の鎖に繋がれているのである。そして、仏を見ず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ずという、これが疑いの罪である。
 それを償うとは何か、われわれが償うのではなしに、如来の果遂の誓いが届いて下さって、私の本罪に目が覚めるのである。それを償うという表現で言われている。その時に十八願の世界に出して頂くのである。それが二十願成就である。即十八願成就である。まことに大悲の御働きに感銘せずにはおれない。私の力は何もなかった。これが私の一番大きな感銘であった。

九、二十願から十八願へ
 どうしたら二十願から十八願へ転回出来るか、これは切実な問題である。せっかく仏道に入った以上、本当の所まで行きたい、中途半端な所で終わりたくない。そう誰もが願うことです。真の仏弟子、真実信心、正定聚不退、親鸞聖人の言われるそういう世界に出たい。そういう世界に行きたい、ぐずぐずしてはおれないと、しかしこの答えはないのである。どうしたら出来るか、この問いに対する答えはない。
 なぜなら、この問いはこういう事を問うている。方法を教えて下さい。教えてさえ下されば、私は一生懸命にやります。それを実行して十八願の世界に出たい。私はどうしたらよいか、私の考え方、いろいろなやり方を問うている。それには答えはない。どうしてか、われわれが考え、私が実行して出来る世界なら答えはある。そうではなく、すべて如来の働きに依るもので、人間の働きではない。したがって、あなたの問いには答えきれない。
 しかし何か答えねばならんからこう答えている「あせらず、いそがず、継続一貫、積極的聞法である」と。これはジョークではない。これをやったら必ず必ずできる。それは「如来の果たし遂げずんば正覚を取らじ」ということで、自然というか必ず分かる時が来る。それは必ず来る。「いそがず、あせらず、継続一貫、積極的聞法」一番の名答であると思う。
 それでも誤解があるかも分からない。そこで『歎異抄』第九章が答えである。そこをうまく答えてある。問いは唯円房の問いである。同じ表現ではないが、「念仏申し候へども踊躍(ゆやく)歓喜のこころ疎(おろそ)かに候こと、又急ぎ浄土へ参りたき心の候はぬは如何にと候ふべきことに候ふやらん」 これが問いである。「念仏申し候へども、踊躍歓喜の心おろそか」、また「急ぎ浄土へ参りたき心の候はぬは如何にと候べきことにて候」。これが二十願の世界である。どうしたらこの世界を出て本当の世界に出ることが出来るのか、そういう事を問うている。私のように言えば親鸞聖人は「それはなー、あんたの問いには答えられない」と言われるに違いない。「いそがず、あせらずゆっくりと」というような事は聖人は仰せにならない。
 聖人は御親切であり、深い。聖人はどう言われたか、「喜びもなく、願生の心もない。それが本当の私、南無阿弥陀仏。他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」こう言われた。これが親切である。本当の答えである。答えはないぞというのは不親切であり、冷たい。
 これが本当の私、他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり、南無阿弥陀仏。これが本罪を識る、深く悔責する、こういう姿で出ている。お経の言葉のような固い言葉ではなしに、本当の了解の言葉、日本語で言ってある。これが本当の私、煩悩の所為なり。これが本当の私、他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり、南無阿弥陀仏。そこに懺悔と感謝がある。それが二十願の成就、実際は十八願の成就である。ここに二十願の自己に目覚めたのである。人間の心の動き、人間の働きというものに応じながら、それを深めていってとうとう本当の世界に出して下さる所に大悲方便がある。今回は十七章のまとめとして大悲方便という事から頂いた。
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