歎異抄 第十七章
第三回目 平成2年8月22日講義
「歎異抄講読 異義篇3(巌松会)細川巌講述」より

一、信心 二、信心欠けたる人 三、疑いの罪 四、現実に対する姿勢 五、疑いの罪をつぐなう

「信心欠げたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて疑の罪をつぐのひてのち報土の覚を開くとこそ承り候へ」

一、信心
 信心に二つあるわけである。一つは普通の信心。普通「信心」とは、教えを信用して実行し、悟りを得るという教・信・行・証の信のことで、これを英語ではfaithという。この信は人間が主体で私が信じるということである。宗教において何よりも先に要求されるものである。マホメット教ではコーランを左手に持ち、右手に剣をひっさげて、おまえはこれを信じるかどうか、信じない者は殺すということもあった。
 仏教でいう信心はそういうものとは違うのである。仏教と申しても本願の宗教、親鸞聖人のおっしゃる浄土真実の宗教というのは、普通の信とは違うのである。本願の宗教の信は、教、行・信・証の信である。教は如来本願を説いた教え、行はその教えの中にこめられている如来の働き、それを南無阿弥陀仏という。その教行を聞き開いて人間の上に成立する自覚、めざめを信というのである。
 そこに証、救い、覚りが離れないのである。そこでは何よりも先に求められるものは「聞」すなわち如来の教行を聞くことである。聞きぬいた結果生まれるものが信である。したがって人間の信というのは求められていない。「聞く」ということが要求されているだけである。

二、信心欠けたる人
 信心欠けたる人というのは、それは自力の信の人、すなわち教行いたり届いて生まれた信でない人である。南無阿弥陀仏がわからない、自己中心、理想主義の人である。理想主義というのには根底があって、「善いことをやらねばならない、悪いことをやってはならない。みんなやろうと思えばやる力を持っている。考えればわかる能力がみんなにある。だから、みんな頑張って善いことをやろう、悪いことを止めよう」というのである。それも大事な考え方である。
 自己の可能性を信じ、努力精進し、よい結果を得ようというのが理想主義というもので、現在でも特に子供の教育には欠かせない行き方である。しかし、頑張れば何でもできるのかというと、できるのかどうか…、できっこない。できないからやめたというのではなしに、人間はもう少し謙虚に、人間の力というものはたかが知れているということがわからねばならない。
 人間の力には限度があるということは、もうよくわかったことである。今、「天の時、地の利、人の和」という言葉がはやりになっている。自分以外のものがたくさんあって、それらが一緒になって物事というものは進行していくわけである。一人の努力が物を作る範囲は少ないということを言おうとしている。しかし他方で、その自分の力を尽くして行こうという考えが教育の根本にはある。文句を言おうと思っているのでは毛頭ない。
 けれども、仏法においてはこれは問題になる。どうして?自己中心というものは如来無視である。人間が人間中心となって如来を無視し、大いなるものというものを全く考えない行き方に通じている。大きなものとか、人間を超えたものというのがあるのか、ないのか、そういうのも一つの論議の種ではあるが。人間は有限、相対の存在である。
 有限ということでいうと、人間の寿命は百年以上というのは殆どない。だいたい平均年齢くらいで死んでいくわけである。それだけのいのちしかない。そして考えるのはやはり相対的なもの、いわゆる絶対性というものを持たない。ニーチェだったか、こんなことを言った人がある。人間には三つの山がある。一つは智慧、一つは実行力、一つは誠実さで、この三つの山は大事なものであるが、どんな優れた人もこのなかで二つしか持つことができないと。これらの三つが揃うのが仏である。
 要するに相対というのは仏ではないわけである。人間は相対の世界にあって、小さな世界に閉じこもっているわけである。ここが問題である。それを本願を疑うというわけである。信心欠けたる人は本願を疑うという。

三、疑いの罪
 本願を疑う罪、これは何か、疑いの罪とは何か。罪というと罪と罰という言葉があって、いわゆる罪を犯した者は罰を受ける。神を疑うと罰を受ける、地獄に堕ちるという。誰が罰するのかというと、それは神が罰する。したがってこの世の終わりの時に、すべての人は呼び出されて、疑う者は全部地獄に追いやられていくという。罪を罰するのは神であるという思想である。
 仏教ではそうではない。罪を罰する人は誰もいない。自業自得である。自分の罪業を自分が受けるのである。何人もあなたを罰する人はいない。自ら罰を受けるのである。
 十一の三十七に〔疑惑和讃〕がある。〔 〕がしてある。これは聖人がつけられたのではない。後の人が内容を見てつけたのである。もとの名前は「愚禿述懐」になっている。「もと」というのは、この和讃の原稿を初稿本といい、親鸞聖人八十六歳の時の作で、真筆ではなく、弟子の顕智の筆になっているので顕智本ともいう。これでは「愚禿述懐」になっている。十一の三十八に〔疑惑和讃〕の終りには「己上二十三首仏智不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせるなり」とある。ここには人に知らせようと出されている。私共の持っている聖典は文明本で、蓮如上人が編纂されたものである。初稿本の「愚禿述懐」では「つみとがふかきことをあらはせる」と聖人は自己自身の罪としてこれを述べられたのである。その疑いの罪として述べられた内容はどうか。二十三首あるがその中で、十一の三十七
【297】不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり
【298】仏智の不思議をうたがひて 自力の称念このむゆゑ 辺地・懈慢にとどまりて 仏恩報ずるこころなし
【299】罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて 疑城・胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる
【301】転輪皇の王子の 皇につみをうるゆゑに 金鎖をもちてつなぎつつ 牢獄にいるがごとくなり
【302】自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる
 疑う罪は三宝にはなれる(不見三宝)仏を見ず、法を聞かず、僧を見ずである。仏を見ずとは、仏は働きを持っているのに、照らされない、仰ぐべき世界を持たない。法を聞かずとは、経法、たていと(経)を持たない。たていとがしっかりしていると、毎日の生活のよこいと(緯)を支え織り込んでいくことができる。また経は鏡なりで、私を写すものである。憎を見ずとは、よき師よき友をもたない。
 七宝の獄(金銀・宝石などの七つの宝で飾られた牢獄)に繋がれている。立派な御殿のなかで金鎖に縛られている。自由自在にできない。金鎖とは、教えが鎖になっている状態のたとえである。
 念仏が自己を縛るものとなっている。念仏で自分が縛られている。宗教がその人を縛るようになっている。その人を助けるべきものが、その人の手かせ足かせになって彼の自由を奪っている段階を、七宝の獄に閉ざされているという。教えが自己を縛るとは何か。「念仏申せ、内に自己をみつめて念仏申せ」という教えがあるとすれば、自分というものを考えて追求していかねばと縛られる。それを疑いの罪という。本当の信心というのは決して縛られない。

四、現実(現前の事実)に対する姿勢
 現前の事実とは何か、目の前にある、もはや変えようもない事実である。私の顔、健康状態、家庭、またこのような人生を過ごしてきて今こうしてここにいる、これが現実である。現前の事実に対し、どうしてこうなったのか、予期しない、思いもかけない現実、もはやどうしようもない事実である。それをとりかえることも、やりかえることもできないところにいる。またどうして私だけがこうなったのか、というものを私共は抱えている。そういう現実の前で、こうしなければならない、ああしなければならないと縛られているのである。
 現実の前に立って縛られているものが、これが本当の私の受け取るべき現実「他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけり南無阿弥陀仏」とわかることを、本願を信ずるというのである。本願を疑うということと、本願を信ずるということとはどこが違うかというと、現実に対する姿勢が違う。現実というのはたくさんある。自分の子供、自分の夫(妻)、そして自分自身、そういうものが私の現実である。誰がこういう現実を背負わねばならないと思うていた人があるだろうか。一人もいない、思いもかけないことになってしまったのである。どうしたらよかろうか、こうすべきだ、ああすべきだと考える心を、せっかく宗教に立っていても縛られておるというのである。したがっていつも申すように、絶対自由、何物にも縛られないその信心、その本願の宗教は「人生を結論とせず、人生に結論を求めず、人生を浄土の縁として生きる」これを真実宗教という。
 浄土の縁として生きるというのは、どういうことか。たとえば高い山がある。その山の頂上に湖がある。その中の水を我が心とする。その水は自我意識の堤に囲まれており、この山全体を憍慢山という。下方は海であり、本願海で如来浄土がある。仏法を聞くということは、本願を聞きぬくことである。そしてとうとう自己中心の自我意識というものが打ち砕かれる。そうするとわが心は一つの目標・方向をもつようになる。それはこの山の頂上から海に向かって流れ出るようになる。我が人生のいろいろの出来事を経ながら、如来本願の海に向かって下ってゆく姿を往生浄土という。それを往相(自利)という。
 また往相してゆくその水は途中ではいろいろの仕事をするようになる。谷川では筏を流し、田畑をうるおし、魚を育て、家庭内では炊事・洗濯などいろいろの働きをするのである。それを還相、利他という。
 往相が還相に、自ら進んでいくことが他への働きかけになるのである。自利が利他となる。往生浄土ということは、死んでから先のことではなく、わが生きているこの人生において、私自身が目標を持ち、生活の方向をもって進んでいくことである。それを人生を浄土の縁とする、往生浄土のその途中の出来事を突破して、私は行くべき先がある。そこで人間は目標と自分の仕事というものを持つようになる。あなたは何の為にこの世に生まれてきたのかと問われてみても、答えられる人は一人もいない。
 今は何を目標にしているかと聞かれれば、ええと、今は…となんとか答えるものもあるかもしれないが、あなたは何の為にこの世に生まれたのか、と言われたら言いようがない。何故か、真実の教えを聞かずに自我意識というか、我執のみで生きている時にはわからない。私はようやくわかった。自我意識に執われて自分自身を中心にして考えている時はわからなかったが、本当に仏法を聞いてみると、私はこういう山の頂にいるのではなしに、本当に如来の本願の水の中に入って、この海の一員となることが、私というものに与えられた道であったと、思うようになるのが、往生浄土である。これをはっきりしなければならない。そしてこの山を下りていくことが同時に人のために働くことになる、それを還相という。往相の中に還相が含まれている。自利の中に利他がある。

五、疑いの罪をつぐなう
 さて、問題の焦点は、疑いの罪をつぐないて後、ここは本願を疑うによりて辺地に生まれる、辺地は今は七宝の獄、すなわち胎宮という。そこに繋がれている。辺地において罪をつぐなうとはどういうことか。
 償(つぐな)うというのは、その罪に相当するだけの賠償を払う。歎異抄ではそういうような表現で言ってあるが、〔疑惑和讃〕十一の三十八、三百十九首目では、
仏智うたがふ罪ふかし この心おもひしるならば くゆる心をむねとして 仏智の不思議をたのむべし
と言われている。
 これをもとの『大経』(一の七十三)をいただくと、
此の諸の衆生も亦復是の如し 仏智を疑惑するを以ての故に彼の宮殿に生ず。刑罰乃至一念の悪事有ること無く但五百歳の中に於て三宝を見ず、供養し諸の善本を修することを得ず、此を以て苦と為し、鈴の楽有りと雖も猶彼の底を楽はず。若し此の衆生、其の本罪を識り、深く自ら悔責し、彼の処を離れんと求むれば、即ち意の如く無量寿仏の所に往詣し、恭敬供養することを得、亦徧く無量無数余の仏の所に至り、諸の功徳を修することを得ん
 また浄土和讃(十一の十二)には次のようにでている。
誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ
 五百歳という年は長いのか、短いのか。一応人寿百歳というから、この五百歳は長い。けれども十劫・百劫ということから言えば、非常に短い。ある時間かかるというのである。その時間の間、問題を発見してこれを苦となす。繋がれていることを苦とし、何とかこれを解決したい、そういう思いで五百年、と説かれている。いわば本当に永い間、仏法を聞きながらもうひとつ何かというところが足りなくて、薄紙一枚というもどかしさ、今一つ喜びの無さ、もう一つ徹底しないものをもっていて、ある期間、空しくすぎていく、満たされないままで過ぎていく。そこがつぐないの種である。時間がかかるのである。何故時間がかかるのか。それは自分自身の殻の厚さ、自分自身が自己中心の殻の中に閉じこもって如来というものが本当にわからない。そこを仏智不思議を疑うというか、自己中心、如来無視の罪というか、そういうものを言っている。
 それを、しかしつぐなうとは何か。それだけの時間が経てば、それは自然と氷がやがて融けていくようなものか、そうではない。それは「果遂の誓にあう」。それは如来の誓い、二十願によるのである。十一の十八、六十六首
定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ をしへざれども自然に 真如の門に転入する
 「果遂の誓」というのは、ここまで聞法し念仏している人を虚しく帰してはならない、必ず浄土に生まれるよう、「果し遂げずば正覚を取らじ」の、これが如来の御誓いである。これを二十願の誓いという。その誓いに当たるわけである。当たるまでに時間がかかる。その誓いに当たることを罪をつぐなうというのである。大事なところである。
 如来というのは具体的には何か。よき師よき友の勧め励ましである。ヒトと人間の相違点。ヒトというのは動物学的に言えば、霊長類に属する動物の一種をヒトというが、人間というのは、仏教用語で間柄を持つ存在である。間柄とは、つながり、連帯、責任、愛情、尊敬などを言う。愛する相手があり、尊敬する対象があり、そして自分が責任をもっていかねばならぬ相手がある。そこに深いつながりがある。その間柄をもっている代表がよき師よき友である。人はヒトとして生まれ、成長して人間になっていくところに人間の意味がある。今の教育はヒトの教育になっている。ヒトとしての才能・実力・学歴をもつようなヒトの教育になっている。人間ができない。今から先は、ヒトばかりで、エリートはできても、人間ができない。人とのつながり、これは大事なことで、私が幼育園を創ったのもそのこと一つである。人と人とのつながりを持つことが大事。そしてもうひとつ、人間は人を超えた大いなるものとつながってゆく。大いなるもの、すなわち如来、浄土、涅槃、無限なるものを愛し尊敬し、つながって生きていく。そこに人間がある。
 そういう人間になるには、よき師よき友を持って、その勧め励ましを聞き、その大いなるものの呼びかけを聞く、そこに人間の誕生がある。そのような人間が誕生することが大事。果遂の誓いというのは何か。大いなるもの、如来があって、よき師よき友の勧め励ましを聞いて、そして聞法し念仏するという世界まで出たものに、必ずこれを浄土に生まれせしめずんばやまずということである。
 よき師よき友の勧め励ましを通して私に当たる。これが大事。これを身心に当たるという(これは善導大師の言葉である)。我が身に当たると頭が下がる。心に当たると、私のこころに深い懴悔と感謝を生ずる。何が当たるのか、是非とも浄土に生まれさせたいという如来の願いが当たる。当たるというのはわかる。身に当たって、頭を下げて礼拝合掌するようになるのである。その時を疑いの罪をつぐなうというのである。疑いの罪をつぐなうというのには先ず時間がかかる。とうとうわかる暗がくる。それはよき師よき友よき教えを通してわかるようになるのである。
 次に、「果遂のちかいに帰する」とはどういうことかというと、二つある。
  一、あせらず、いそがず
  二、継続一貫、積極的間法を続けていく
 積極的聞法とは、金を惜しまず、時を惜しまず、世間の義理を欠いてでも聞法することである。
 その果遂の誓がいつ達成されるのかというと、「今生果誓」と「三生果誓」の二つあるとされている。
 聖人は教行信証化土巻十二の一八七に、次のように述べておられる。
是を以て、愚禿繹の鸞、論主〔天親〕の解義を仰ぎ、宗師〔善導〕の勧化に依りて久しく萬行・諸善之仮門を出でて、永く双樹林下之往生を離れ、善本・徳本の真門に廻入して偏に難思往生之心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂之誓、良に由有る哉
 聖人の領解は「今生果遂」、すなわち今この世においてなされるのである。これに対し「三生果遂」というのは、前生に仏法を聞いて、今生に二十願の世界まで出て、次の来生に十八願の世界に入るというので、浄土宗でいう。これは浄土真宗でも認めている。
 結論は、今生に果遂を頂くも、来生に頂くも、すべて如来に托して、いそがず、あせらず、継続一貫、積極的聞法することが本当の生きかたであろう。
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