歎異抄 第十七章
第二回目 平成2年7月25日講義
「歎異抄講読 異義篇3(巌松会)細川巌講述」より

一、信心欠けたる行者 二、信心一異 三、自力とは 四、第十九願−自力の信 五、如来の本願
  六、再び十九願について 七、十九願の失 八、第二十願について 九、他力の信 十、歎異抄第九章の問題
  十一、第十八願への転回

 今回は続いて、「信心欠けたる行者は、本願を疑うによりて、辺地(へんじ)に生じて疑いの罪をつぐのいてのち、報土の覚(さとり)を開くとこそ承り候へ。」について頂きたい。

一、信心欠けたる行者
 ここで「信心」というのは、前から続いている他力の信心、如来廻向の信である。それが欠けているという。信ということの特色は教・行・信・証の信である。普通の信心は教・信・行・証の信である。信心欠けたというのは「他力の信」が欠けているという事である。他力の信は、教は本願の教え、本願の説かれた教え、その中身が行である。教えの内容、そこに如来の行、如来の働き、いわゆる南無阿弥陀仏の働きが中心である。南無阿弥陀仏は如来の働きである。それを如来の行というのである。そこが大事な所である。
 元来、「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」というのは、仏とか経の名前である。しかし、この南無阿弥陀仏は単なる仏の名前ではない。仏の名前を言う時は徳号という。そのお徳をたたえた名前である。そうではなしに名号という。名号は名告り、叫び、阿弥陀仏に南無せよという働きかけである。それを教行、南無阿弥陀仏を聞き開いて、教行いたり届いて生まれるめざめを信心という。そこが普通の宗教の信心と違う所で、いわゆる他力の信、如来廻向の信というのである。その信は証と離れない。信と離れない確証、それを証という。それを信心というのである。
 そこでこの信は、一つは自己へのめざめ、私自身が何であるか本当にわかる事である。もう一つは、如来へのめざめ、それを信という。自己へのめざめを機の深信といい、如来へのめざめを法の深信という。この二つが一緒にあるから、二種一具という。二種深信ともいう。他力の信は二種深信でめざめを言う。深い深い自己へのめざめである。私というのが本当にわかることである。また、如来が本当にわかること、これを法の深信という。そこに生まれるものを感謝という。有難うございます、南無阿弥陀仏である。自己へのめざめを懴悔(さんげ)という。その懴悔と感謝を信心というのである。
 なぜ、信心が生まれるか。なぜそのようなめざめが起こるのかというと、それは南無阿弥陀仏が到り届くからである。それを如来廻向という。如来の働きが到り届くからめざめが起こるのである。阿弥陀仏は言い替えると、「光明無量、寿命無量」である。光明無量は、サンスクリット「アミターバー」の漢訳で、光り極まり無く、照らして照らして照らしぬく働きのことである。寿命無量は、「アミタユース」の訳で、御いのちの中に照らされた私を摂め取っていく、摂取をいう。私を照らす所に、本当の私にめざめしめるのである。そして如来に摂めとられていくのである。そこに南無阿弥陀仏という念仏が生まれる。それを「摂取不捨」という。南無阿弥陀仏が到り届いて、機の深信と法の深信が生まれるのである。

二、信心一異
 法然上人の信心も親鸞聖人の信心も、我らの信心もみな同じ信心である。浄土真宗の本当の信心というのは、他力の信で全く同じである。自らへのめざめであり、如来へのめざめである。みんな同じである。同一の信心である。如来より賜りたる信心である。南無阿弥陀仏が届いて生まれる信心であるから、浅い信心、深い信心はあり得ない。
 それはだんだんと信力増上ということはあるが、信心そのものは同じである。南無阿弥陀仏が到り届いて生まれる信心である。到り届くものが同じだから信心も同じである。他力の信は機の深信と法の深信である。一つを言えば片方がついている。紙の表と裏のようなもので離すことは出来ない。「南無阿弥陀仏、有難うございます」であり、南無阿弥陀仏と言えば「申し訳ありません」という懴悔がついている。南無阿弥陀仏の中にいつも二つが入っている。二種一具である。張り合わせたのではない。一つのものの中に二つのものが入っている。
 信心欠けたる行者というのは、このように南無阿弥陀仏が到り届いて生まれたものではない。他力の信ではない。どちらか一つが欠けているのか、そういうものでもない。一つが欠けたら二つともない。従って信心がないことを言うている。他力の信のない人のことを言うている。
 その信心はどんな信心か、それは教・信・行・証の信である。教えを信じて、本願の教えを聞いているのではあるが、その教えを信じて、疑わないで、その通りに実行して救いを得ようという、証果を得ようという。これを他力の信に対して自力の信というのである。それで初めから他力の信の人は一人もいない。法然上人も、親鸞聖人もあなたも私も初めはみんな自力の信から出発したのである。
 自力の信は第一の段階で、それがとうとう最後に他力の信となる。だから自力の信は決して恥ずかしいことではない。これか本当の出発点である。他力の信の出発を自力の信というのである。それはまだ信心欠けたる行者である。何か欠けているというより、自力の信の状態である。自力とは何か。

三、自力とは
 『唯信鈔文意』、二十の六、
「自力の心をすつ」というはやうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫のみづからが身をよしと思う心をすて、身をたのまず、あしき心をさがしくかえりみず、また人をよしあしと思う心をすてて、一向に具縛(ぐばく)の凡夫・屠沽(とこ)の下類(げるい)、無碍光仏の不可思議の誓願・広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。
 「自力の心」というのは、自らが身をよしと思う心。これが一番中心点である。自己肯定という。人は自己を肯定し、私は間違ったことはしていない、決して間違ったことは言うてはいないと、自らを肯定している。それは如来の光に照らされないで、私が小さな殻の中に閉じこもって、自己主張しているのである。それを自力の心という。これが一番根本である。次は身をたのむ、身をたのんで自己過信、やればできる。考えれば分かるという。また、腹が立ったり、いろいろ欲を起こしたりするという事があると、どうしてこうなんだろう、これではいけないと、さがしく、賢そうに反省してそれを直そうとする。計いである。次に人をよしあしという。どうしてこんな事をするのだろう、考えれば分かるはずではないかと、なぜこんな事もできないのであろう、やれば出来るはずだときびしく批判する。
 もしも、この自力の心で求道しようとすると、「自力の信」と言って、「まことこめてやろう、真心をこめて一生懸命やろう」ということになる。「まことこめて 放てし矢なり 念願の 的にあたるも あたらざらんも」九条武子夫人の作である。私は今真心こめて求道の道を進んで来た。決心しました。それが本当に本願の的に当たっているか、どうかは分からないが、そういう事は振り捨てて、真心こめてやろうという、それはけなげなというか大事な事である。

四、第十九願−自力の信
 これを至心発願という。まことこめて、継続一貫、最後までやり抜こうという事が大切である。しかし、まことこめてという所に自己肯定がある。「身をたのむ」、「悪しき心をさがしくかえりみる」。「できない時は反省しよう」、もしくは「教えて貰おう」と考え、さらに人を「善し・悪し」と裁く。そして、「途中で止めるのは駄目人間、そういう事ではいけない」と厳しく批判して、冷たく裁く。そこには深いエリート意識がある。人を良し悪しというところには、高い所に立っている。エリートというのは、すぐれた選ばれた人、「自分はやっている、みなやれるはずなのにやらんのだ」という批判で終わる。
 人にはいろいろな背景というか、因縁があって続けられない人もいるのである。自分も自身の力では、到底続かなかったのである。そういう思いやりというか、暖かさがないのを自力という。信心といっても、自力の信というのは、どこまでもまことこめてどこまでもやろうという。やれなければ反省し、「励まして貰ってやって行こう、途中で止めるようなことではいけないんだ、どこまでも奮励努力していこう」ということになる。これを十九願という。「十九願の信」と言うか、自力の信心が一番はじめである。それを「信心欠けたる行者」というのである。そこが出発点である。
 信心欠けたる行者は、本願を疑うので自力の信という。本願とは根幹の願、また本来の願である。本来というのは人間が作ったのではなしに、「本具」、元から備わっている願である。親が子どもを思う心のようなもので、赤ん坊を抱いて、何とか大きくしたいという心は、子どもが生まれる前から持っている母親の心であり、願いである。そのような心はある人もあり、ない人もあるというようなものではない。みんなが持っていて、どうしてかと問われても答えようがない。そういうものが本来あるわけで、それを本願というのである。

五、如来の本願
 大きな大きな世界、如なるものの中に小さなものが入っている。その小さなものを「有限」と言い、「有限者」と言う。はかない命を持っている。「相対有限」と言う。大きな世界、「絶対」と言い、「無限」と言う。そういう無限の命の中に小さなものがある。その小さなものに対して、大きなものは必ず願いを持つ。それを「本願」と言うのである。無限なるもの絶対なるものは、有限なるもの相対なるものに対して願わずにはいられない。その願いを本願と言うのである。「願力自然」と言うのである。自然というのは自ずからそうなっていくものである。人間というものは、大きなものから願いをかけられている。それを本願という。ならばその本願とは何か、それはいろいろあるが、根本の願である。如なるものが自己のすべてを届けて、小さなものを大きな世界に導く、生まれしめよう。有限相対なるものを絶対無限なるものとしようという。そういう根本の願を本願というのである。自然の願、本来の願でわれわれには願いがかけられているのである。「大いなる世界に生きよ」、「無限絶対なるものになれよ」という願がかけられている。
 子どもは「親が何を願っているか」などとはあまり思わない。世の中はだんだん変わってきて、親の考え方も変わったし、子どもの考え方も変わった。アメリカなどの例をいろいろ読んでみると、子どもが子どもらしさを失うというか、子どもの時間を失って来ているという。三歳になったらパソコンを与えるという。また、子どもを外国に旅行させたり、オーケストラを聞かせたりするという。こんな事が子どもの教育にいいんだという。
 僕らが子どもの時代には、跳んだり走ったり、水遊びや泥遊びなどをしたものである。その中で、いろんな事を学んだ。子どもの時代というのは、自然に親しみ、友達と一緒に跳んだり走ったりすることが大事だと思う。俳句を教えたり、英語を教えたり・・・どうかなあ。早く教えたら早く覚えるというが、どうだろう。
 昔から、「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」と言う。あんまり早くから何でも分かるのは、たいしたことはない。人間の脳というのは、動物的・先天的な部分と、前頭葉といって後から発達する部分がある。まず、動物としての人間を鍛えるのが子ども時代である。例えば、倒れる時には手をついて、頭を打たないようにするものである。それが、手をつかずに頭を打つ子がいる。即座に手をつく事ができないのである。
 自然の中でしっかり遊ばせる事である。子どもとしての時代を送らなければならない。子どもの時代というのは自然に親しみ、友達と一緒に遊び、走って跳んでその中でいろんな事を学ぶのである。大人の考えるような子どもの時代は違う。子どもの時代を経て大人になるのである。
 如なるものが如なるものにしようというのだが、初めからは無理、子どもが考える事が大事、子どもの考え、この相対有限なるものが考える考えというものがあるはずですね。それを自力の信という。私ががんばってやろう。私はまじめに生きよう、そしてやるべき事をしっかりやってみようという、子どもの時間を持たなければいかん。子どもの時代に大人がいう本願など分かりっこない。そこで、まず子どもの時代に考える事を出発点に置いて考えられるものを第十九願という。自力の信の段階、これがないと一足とびに大人になるようなもので不可能で、本当の段階ではない。

六、再び第十九願について
 十九願とは何か。これは十九番目、十八願の次に誓われている。『大無量寿教』一の十六、
設ひ我れ仏を得んに、十方の衆生、菩提心を発し、諸の功徳を修し、至心に発願して、我が国に生まれんと欲せん、寿終(じゅじゅ)の時に臨みて、仮令(たとい)大衆と囲繞(いにょう)して其の人の前に現ぜずば、正覚を取らじ。
 願われているのは何かというと、十方の衆生が菩提心を発し、菩提心は道心、求道心、道心を発し、自分の今の生き方はこれではいけない。毎日がマンネリ化である。こういう中から立ち上がって発心して、諸の功徳を修す、善い事をしよう。至心発願、誠こめて願い求めよう。我が国に生まれんと欲せん、大いなる世界を求めて生きよう。「発菩提心、修諸功徳、至心発願、欲生我国」十方の衆生がこのようにあって欲しい。自分の現実を考えてこれではいけないと、立ち上がって善い事をやる。そうするならば寿終の時に臨みて、是非とも菩薩大衆と一緒にお迎えに行こう。それを臨終現前という。それが十九願というのである。
 現在いろいろな会がある。朝起き会というのがある。単なる朝早く起きるだけでなく、皆集まってお礼をするとか、ゴミを拾ろうとかをする会もある。良いことを実行するのである。しかし、「我が国に生まれんと欲し」弥陀の浄土を願うと言うことがない、大体現在の新興宗教は、この弥陀の浄土がない。このままではいけない。マンネリ化を止めて善い事をしようということである。日常生活に埋没して、とうとう死んでしまったというような生き方を止めて、至心発願、がんばらなくっちゃという宗教を十九願の宗教という。それは、自力の信である。
 問題はどこにあるか。まず、良い事を実行しようとする時に、あまりたくさんになってはいけない。朝早く起きます、起きたら体操をします。そして掃除をします。私のやるのは十二ばかりありますという。そんなのは続くわけがない。大体二つである。一つか二つなら出来ない事もないがたくさんになるといけない。
 また、継続一貫というのが難しい。初めはまことこめてというが、だんだん嫌々やることになり、とうとう最後は止めてしまう。しかし、これが出発点。続かないこと、形式的になってしまう。形式的というのは、外側だけになって内側のまじめさ、至心発願が薄れていくわけである。

七、十九願の失
 これについて、善導という人は「十九願の失」を九つあげている。失というのは「誤り、足りない所」という事である。『教行信証』十二の一七〇、二行目から、
又云く、若し専を捨てて雑行を修せんと欲(おも)わん者は、百は時に希に一二を得(え)、千は時に希に五三を得(う)、何を以ての故に、乃(いま)し雑縁乱動して、正念を失するに由るが故に、仏の本願と相応せざるが故に、教と相違せるが故に、仏語に順ぜざるが故に、係念(けねん)相続せざるが故に、憶想(おくそう)間断(けんだん)するが故に、廻願(えがん)の慇重(おんじゅう)真実ならざるが故に、貪瞋(とんじん)諸見の煩悩来たりて間断するが故に、慚愧(ざんぎ)懴悔(さんげ)の心有ることなきが故なり。
と、九つある。一番目が大事で、雑縁乱勤して、雑多な縁が次ぎ次ぎと起こって、始めの正しい考え方、念願を取り落して、続かない。後は続かない理由が書いてある。如来の本願にそうていない。十九願というのは本当の願と違っている。本当の願というのは十八願である。それと違って、如来の心が子どもの心に応じて建てられたのが十九願である。それを出発点とするために建てられた方便の願である。教と相違する、仏語に順ぜずは大体同じである。一番最後の慚愧懴悔の心有ること無し、このいろいろな事をやろうという人たちは、一つのエリート意識をもって、やっているという高上がり、出来れば出来たと自分の力を誇る。また、出来ないと俺はだめだという自己卑下におちいる。いわゆる劣等感におちいる。そして慚愧、お恥ずかしいことであるという、自己への目覚めを持たない。これが欠点である。やればやったで高上がりし、出来なければ出来ないで自己卑下におちいる。上がったり下がったりするだけで本当の自己に目がさめない。そこが十九願というものの根本的な欠点である。だからこれを本願とは言わないのである。
 この十九願というのは、本願を無視している。すなはち、如来の方には少しも顔を見せないで、自分で首で心を尽くし、自分で実行し、自分で菩提心を起こし、自分で欲生我国と、自分で自分でという生き方をしているわけである。それを本願を疑うという。本願を疑うのを十九願という。

八、第二十願について
 次ぎは二十願であるが、これを半自力、半他力という。『大無量寿教』一の十六、
設い我れ仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞き、念を我が国に係けて、諸の徳本を植え、至心に廻向して、我が国に生まれんと欲せん。果遂せずば、正覚を取らじ。
 十方の衆生みなみなが、我が名号を聞き、念を我が国に係けて、植諸徳本。我が名号を聞く、十九願は菩提心を発して、諸の功徳を植え、諸の善根を実行したが、止めて聞法する。南無阿弥陀仏を聞きぬく、そして係念我国、もろもろの徳の本である名号を称える。仏に振り向ける。それを至心廻向という。念仏一つと決定して南無阿弥陀仏のいわれを聞きぬく、そして名号を称える。これはほとんど十八願と同じである。十九願と比べると非常に進展している。半他力という、半自力というのは力が入っている。自分が真心こめて至心に廻向するという力が入っている。自己の思いを超えて、如来中心というか、如来の方へ進むようになっている。ここが大きな進展である。ここまで来れば大きな進展を遂げたと言わねばならない。大体十九願から二十願へ進むには三、四年か四、五年はかかる。この会は月に一回であるが、やがてこの中から深い信心の人が生まれて来るはずと信じている。少なくとも、念仏ということに眼開いて、念仏申すことが大事なんだと分かって頂ける人は、かなり生まれてきて下さったと思っている。それが大事なところである。南無阿弥陀仏を聞き開いて念仏申そう、これが大事な所である。念仏申して聞きぬくという、信があろうがなかろうが、ここまで行くことが大きな課題である。こういう人が生まれると、軌道に乗っているというか、信心の人がたくさん生まれて下さる可能性がつよい。それは和讃がありまして、十一の十八、
定散自力の称名は 果遂の誓いに帰してこそ をしえざれども自然に 真如の門に転入する
 これを果遂の願という。二十願の最後に「果たし遂げずんば正覚を取らじ」とある。念仏一つと決定して、これを聞き抜いて行こうという、ここまで来た人々はどうしても十八願、他力の世界に届けずば、我れ正覚を取らじと、願いを果たし遂げたいという如来の誓いがあるから、その如来の誓いに帰っていくと、だれもをしえざれども自然に、真如の門に転入する。真如の門というのは、十八願他力の世界に進展しその中に入って行く。ここまで進んで来た人を空しくしない。是非とも十八願の世界に果たし遂げる。往生せしめて行こうという誓いがあって、ここまで来れば、信心欠けたる行者も、自力の信の人々も必ず、十八願の世界に届けたいと誓われるのである。十九願、二十願と進んで行くが、まだ本願を疑う罪が残っている。だから二十願を半自力という。どこに残っているかというと、至心廻向という所に残っている。植諸徳本という所に残っている。自分が南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏して田に苗を植えていくように、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と自分の善根として構えていくという気持ちが残っているから、自力の信という。本願を疑う、如来無視の心が残っている。辺地、胎宮に生じて、そこで疑いの罪が除かれる。それは果たし遂げずんば正覚を取らじという、如来の誓いがそこに生きて来て悟りを開くのである。
 この二十願はどういう意味を持っているのか、そこまで来たらどこに問題があるかというと、『教行信証』十二の一八七、一行目、
故(かかるがゆえ)に宗師は、「彼の仏恩を念報すること無し、業行を作すと雖も心に軽慢を生じ、常に名利と相応するが故に、人我(にんが)自ら覆うて同行・善知識に親近(しんごん)せざるが故に、…」と云えり。
 宗師というのは善導大師で、その往生礼讃から引かれている。一番始めが大事である。「彼の仏恩を念報すること無し」彼の仏恩とは何かというと、私を育てて下さって、小さな殻を脱し、如来本願の世界に生きることが出来るような人間に、生まれ変わらせて下さった御恩を念ずる。如来の御恩を憶い、御恩に報いたい、身を粉にしても報ずべし、骨を砕きても謝すべしという、我々は如来の御恩への報謝という事を考える力がない。そういう事を考えない。それが根本で、これを言えば後の三つは全部入っている。御恩が分からない。御恩を報じようとしない。自分の事だけ考えて御恩報謝の憶いがない。そこを二十願というのである。従って十八願というのは、どこが違うかというと、御恩に報いなければならないというものを持っている。十八願は全他力である。二十願は半他力である。これがたった一つ違うところである。
 信心で考えれば、十九願、二十願が十八願と違うところは、御恩が分からない。自己自身を知らない。これが根本である。二十願の信では、南無阿弥陀仏と仰ぎみる世界は持っているが、自己自身が分からない。いわゆる半自力、半他力である。お粗末な私という事が分からない。すなわち、本当に如来の御恩に報いたいというものは、自己が何者であるか、私が本当に罪悪深重と分かって、仏の前に頭を下げるという事がないと、御恩というのは分からない。それに報いたいという心も起こらない。それを信心欠けたる行者、それを本願を疑うという。如来を無視しているという。

九、他力の信
 他力の信の中心点は機の深信にある。法の深信というのは、本当に有難う御座いますという感謝であり、本当に良かったというお礼である。本当にこういう世界に出して頂いて良かった南無阿弥陀仏である。この法の深信は必ず機の深信を伴う。二種一具である。その法の深信の裏側というか、法の深信を法の深信たらしめているものが機の深信である。機の深信とは何か、自身は是れ現に罪悪生死の凡夫という、自己自身に対する目覚めである。これが根本で無限の懴悔である。これが本願の宗教、親鸞聖人の宗教の特徴である。これはキリスト教にもない。キリスト教には法の深信的なものはある。神に対する感謝はある。しかし、無限の懴悔はない。無限の懴悔とは何か、地獄は一定すみかぞかしというものである。
 深い自己への懴悔がないのが二十願である。もう一歩という所まで来ている。ここまで来れば如来は辺地に生じて、疑いの罪を償うて後、果遂の誓いによって転回せしめて、本当の世界に出して下さるのである。ここまで来れば大丈夫であるが、そういう罪を償なう事はなくても、これから先転回して行くということが大切である。それは何が足りないのか、自己自身への目覚めが足りないのである。この二十願の世界をもう一度具体的に考えてみると、それは『歎異抄』第九章である。始めの方を読んでみよう。

十、歎異抄第九章の問題
一、「念仏申し候へども、踊躍歓喜の心疎(おろそか)に候ふこと、又いそぎ浄土へ参りたき心の候はぬは如何にと候ふべきことにて候ふやらん」と申しいれて候ひしかば、…。
 この唯円の問いが二十願の世界をよく表わしている。念仏は申しておりますが、そこに深い自己主張がある。自己肯定がある。踊躍歓喜の心のおろそか、また、いそぎ浄土へ参りたき心の候はぬ、これが現実である。現実に直面して「如何にと候うべきことにて候やらん」と非常に屈折した表現になっている。解釈というか、言い替えることが難しい。なぜ、こうなのだろう、私は念仏申している。どうしたらよいのか、私だけがどうしてこうなのだろうか。いろんな先生たちの解釈を集めてみるとこうなる。
 これが二十願の特色である。「如何にと候べきことにて候うやらん」というのが特徴である。この第九章の答えは現実に直面した答えである。この問題のどこに中心があるのか、二十願と同じで自分というのが分からない。もう一つは半自力・半他力、本願を疑う、どういう事か。この第九章が示しているものは自己を知らずである。自己を知らずとはどういうことか、どうかしたら、喜びのある心になり、意欲、浄土へ参りたい心が起こってくるはずだ、そうなるはずだという。そういうのを理想主義という。喜びが起こるはずだ、意欲が起こるはずだという。それは如来無視である。ここでの唯円は一言も如来の事に触れていない。そして、私がどうかしたら、私はどうしたらよいか、私はどうしてこうなんだという。如来のことには全く触れない。これが二十願の特徴である。念仏申している、今までは喜びの心があったわけだ。今までは浄土へ参りたい心があったわけだ。そういう時があったのである。それが今は無くなっている。そこに自分の体験に執らわれて如来を無視している。
 この二十願を出るとはどういう事か、これが本当の私、喜ぶ心があってもそれを覆いかくす煩悩の強さ、それを煩悩の所為なりという。こういうていたらくの私、これが本当の私、自己の煩悩の深さを知る。煩悩の所為なり、南無阿弥陀仏。それを自己を知ると言う。「他力の悲願はかくの如きの我らがためなりけり、南無阿弥陀仏」これが第九章の答えである。これを十八願の世界という。二十願の世界は「いかにと候うべきことにて候やらん」という問題が出て来るのである。現実にぶつかって、なぜこうなるのであろうか、どうしてこうなのだろうか、どうしたらよいのであろうかという問題が出てくる。それは現実を受け取れないのである。現実を念仏して受け取れないところが二十願の失である。なぜか、如来無視である。どうしたらよいかと考える所に自己中心、如来無視という事がある。それが残っている。それが一生の問題である。我々は永年聞かせて頂くと二十願までは来る。
 二十願の特色は何か、御恩が分からない、御恩に報いようとする心が出て来ない。これは長い長い問題である。具体的にはどうなるのか、現実問題にぶつかった時に、「いかにと候べきことにて候やらん」と言って現実を受け止める力がない。その現実が出て来たところから十八願に転回するという事が起こるのである。いつも言うように、一本の曲がった釘がある。これを金床の上でハンマーで叩くと釘はまっすぐになる。しかし、砂の上に釘を置いたのでは、叩いても叩いても釘は砂の中にのめりこむだけである。砂というのは、自力、理想主義である。理想主義の教え、定善散善に執らわれる。どんな教えを聞いても、ああしなければならない、こうすべきだ、あああってはならない、念仏申せ、念仏申さねばならないというような受け止め方しかできない。それは砂の上で聞いているのである。本当に聞くとは現実こそが金床である。この現実とは一人一人違う。第九章の現実は心の中である。長い間、聞慈しているのに喜びが無い、意欲が無いという心の中の現実である。
 親鸞聖人は三十五歳で越後に流罪になられた。五年間の流罪であった。この現実が「いかにと候うべきか」一体どうしてこうなったのか、どうしたらよいかでは金床にならない。これが私の受けと取るべき現実、これが本当の私の姿、他力の悲願はかくの如きの我らがためなりけり、南無阿弥陀仏という所に現実が生きて来る。

十一、第十八願への転回
 「信心欠けたる行者は、本願を疑うによりて、辺地に生じて疑いの罪をつぐのいてのち、報土の覚を開くとこそ承り候へ」。ここには少し分からん所がある。死んでから辺地というところに行って、しばらく果遂の誓いがとどくまでそこに置いて貰って、それからまた出て行くというような感じである。そうではない、あなたがここまで来たのである。念仏を申すわけであるけれども、もう一つ足りない。現実問題を持つか持たないかである。それが課題なのである。現実を本当に現実とする事が大切である。だから若い時には信心というものはなかなか得られるものではない。十九歳や二十歳で信心は分からない。せいぜい二十願までである。三十歳、まあそうはいかないであろう。
 お前はどうか、遅かったので、五十歳を越していた。それまではどうしたか。それまでは十八願の信を得ていると思っていたが、まだ得ていなかった。なぜか、現実にぶつかった時に分かった。私のところの寮で一人の女子学生が自殺をした。私はその時、現実が受け取れなくて胆石を発病した。きつかった。もう五十歳を越していた。念仏申したが、解決しないわけだ。本をひっくり返し、ひっくり返し読むけれども分からない。解決にならないのである。解決して、自分は広い世界に出ていたつもりだったが、実際は「いかにと候うべきことにて候やらん」であった。そういう事があった。それで終わりか、いや、それから何回か厳しい現実に遇うて、いよいよ自分というものを知らされた。金床を与えられた。大小さまざまな金床を与えられた。そして少しずつ分かってきた。
 早く分かる人もあろう、時間がかかる人もあろう。ここで私が言いたいことは、死んでからではない。こういう表現になっているが死んでからではない。生きている内に、二十願まで来て念仏申すという事が大切です。それから現実問題というのが大事。現実問題とは、始めに申したように自分の心の問題、人の死、人の病気、自分の病気、その他、いろんな問題があなたに転回を迫る。金床となる。それを頂いたらあなたは転回する、それまでが時間がかかる。その時間がかかることを「本願を疑う罪によりて辺地に生じて疑いの罪ををつぐのひてのち報土の覚を開くとこそ承りて候へ」と言われているのである。
ページトップに戻る/第十七章第三回目講義に進む/メニューに戻る