歎異抄 第十六章
第五回目 平成2年5月23日講義
「歎異抄講読 異義篇3(巌松会)細川巌講述」より

一、万のことにつけて 二、往生には 三、賢き思いを具せずして 四、ただ ほれぼれと 五、、弥陀の御恩

「総て万の事につけて往生には賢き思を具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること常におもひ出しまゐらすべし。しかれば念仏も申され候、これ自然なり」。
 先にも頂いたように、十六章には異議が二つあって、一つは廻心ということである。「廻心ということただひとたびあるべし」。悪いことをして、その度ごとに廻心懴悔するのでなしに、懴悔の一番始めを廻心というのである。したがって、「廻心すべし」というものではない。自然に廻心というものがでてくるものであって、信心というものは必ず現実を受け止めて廻心懴悔するようになる。そのあとの方は廻心というのではなしに懴悔であって、廻心というのはただひとたびあるべしである。一番始めを廻心という。もうひとつは自然という。その「自然に…必ず廻心すべし」という、そういう使い方がまちがっているわけで、「わがはからいにあらず」そこが大事なところである。

一、万(よろず)のことにつけて
 「総て万の事につけて往生には賢き思ひを具せずして」「往生には」とは往生におきましては、信心の世界を言っているのであるが、すべてのこと、悲しいこと、苦しいことその他いろいろのことがあるわけで、現実というのをいっている。現実は現前の事実であって、私の出遇う日頃の問題、そういう喜びも悲しみも、残念なことも失敗も後悔することも、あとで苦しむ、後悔しているものを全部現実という。それにつけて、信解し、信知し、信受し、信順する。そういうことを「往生には賢き思いを具せずして」という。いろんなことが起こってきた、それを信解する。これは私の問題と本当に了解する。
 我々は悲しいこと苦しいことがあると、これはあの人がこうであるから私がこうなって、というようにまず相手の方を考える。責任はあの人にあるというようなことを考えるわけであるが、この現実に当たって、これは私が避けて通れない私の問題。人ごとではない、自分の求道の問題。そういうことを現実に万のことにつけて受けとめていくという。現実に対してこれが私の問題と受けとめていく。これが現実と了解する。現実を現実の如く了解するというか、人ごと、人の責任、人の仕業、そういうのではなしに、これは私の問題として受けとめていく。そしてこのことが本当にわかる。了解する。智慧と言いますが、これが本当の私、私の姿、あるいは私のお粗末な姿とそういうふうにわかる。信知する。私の受けとめるべき現実と受けとめる。そういうのを信受という。信順というのは、「他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけり」と教えのごとく従っていく。これが第九章の教えですね。われらがためなりけりと聖人はおっしゃった。その教えを頂いて、教えに従う。これが信心の働きで、信というのはただ信じているという問題ではない。ただわかっているということではなしに、信解し、信知し、信受し、信順するという、そういう働きをもっている。これが信心の働きである。それを「往生には賢き思いを具せずして」とそういう内容になっている。このようなものを信力という。
 信力というのは信の働きをいい、信解、信知、信受、信順する、これを信の働きという。信心を得たか、得ないかということが昔は問題になっておって、こういうのを信心の水際を洗うといって、信を得たか得んかが同行の間では問題になっていたと申します。しかしそういうことは、本当の親鸞聖人の教えとは違う。親鸞聖人は信力というのをあげて、信力増上という問題を『教行信証』に引かれている。十二の十三は行の巻で、そこは『十住毘婆沙論』から引かれていますが、五行目、
又云く「信力増上」とは、「信」は聞見する所有りて必受して、疑無きに名く。「増上」は殊勝に名く。問うて曰く「二種の増上有り、一には多、二には勝、今の説何者ぞ」答へて曰く「此の中の二事倶に説く。菩薩初地に入れば、諸の功徳の味を得るが故に、信力転増す。是の信力を以て、諸仏の功徳無量深妙なるを籌量(ちゅうりょう)して、能く信受す。是の故に此の心亦多なり、亦勝なり。『深く大悲を行ず』とは、衆生を愍念(みんねん)して骨髄に徹入するが故に、名けて 『深』と為す。一切衆生の為に仏道を求むるが故に名けて『大』と為す。…」と。
 信力増上という。信の働きである。信の働きとはどういうことかというと、「聞見する所有りて、必受して疑無し」。信力とは「聞見する所」現実問題に遇う、また法を聞き学ぶ。「聞見する所有りて必受して疑無し」。必受は受けとめる。信知、信受、信順そういうことを信力というのである。信力は信心の働きで、信心の働きとは繰り返すように私が見たり聞いたりした、そして出遇う現実問題、また法を聞いて、法を学んでいく、そういう法を聞見する、そういうようなところが信知されていく。信受、信順されていく。信力とは信の働きです。それが増上していく、「増」は増す、増加していく。「上」は深まり、それが深まっていく。今まで信解し、信知することが少なかったがだんだん多くなる。それが増。そして深くなる。深く受けとるようになる。それを深まるという。それを増上という。そういうことをあげている。信力増上というのを挙げている。
 その信力増上の次に「深く大悲を行ず」これは「深く大悲を行ずとは」と読んであるが、親鸞聖人の真筆本、坂東本にはわざわざ仮名がふってあって、「行ずれば」となっている。「行ずとは」ではなしに「行ずれば」となっている。「深く大悲を行ずれば」とは、信力増上ということば、深行大悲、信力増上すると、必ず深行大悲を伴う、そういうように解釈されている。信心というのは深まるのだ、これが信力増上。信心というのは、だんだん深まっていくのである。それを信力増上という。
 信心を得たか得ないか、そういうことは問題ではない。そういうことを問題にするのは、非常に初歩のところに執われている。そうではなしに本当に信心を頂くと、信心はだんだん深まっていく。どういうように深まるかというと、信知し、信受し、信順していく、それが深まっていく。それは現実問題において、これを自己の問題として受けとめて、それを通して、本当に「他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけり」という教えに従っていく。それがだんだん深まっていく。それが第一。そして深行大悲、深く大悲を行ずるようになる。
 われわれは無慚無愧の凡夫であって、人のために尽くすとか、大慈悲を行ずるとかはとうてい手におえないようなことに思うけれども、聖人は『教行信証』行巻にそのように書いておられる。行巻では、南無阿弥陀仏を称えることを、「如来の行」という。信力増上、深行大悲というのが南無阿弥陀仏の働きなのである。それを、行巻に引いてくださった。
 南無阿弥陀仏の働きとして、「わが計らわざるに」、いよいよ現実を受けとめて、教法を受けとめて、深まっていくのであり、そしてそれが深行大悲となる。現実を受けとめ、教法を受けとめていくのが自利、そして利他を伴うようになるのである。大悲を行ずとは常行大悲ともいう。念仏を他の人に勧めること。それ以上の大悲がどこにあろう。根本的に念仏の道を本当に頂いていって何事も、万のことにつけて、本当に南無阿弥陀仏と受け取ることができる、それに増した大悲というのはないのであって、大悲を行ずというのは、念仏を勧めることをいっている。それを親鸞聖人は信巻にあらわして、十二の八十九というところにある。そこは信巻で終わりから八行目を一緒に読んでみよう。
『大悲経』に云はく「云何が名けて『大悲』と為る。若し専ら念仏相続して断えざれば、其の命終に随ひて定んで安楽に生ぜん。若し能く展転して相勧めて念仏を行ぜしむる者は、此等を悉く『大悲を行ずる人』と名く」と。
 信の巻に『安楽集』を引いて、「大悲経」にのたまわくと、『安楽集』を引いてある。「云何が名けて『大悲』と為る」。大悲とは何であるか。それは念仏相続して、そして遂に浄土に往生していく。浄土は弥陀の浄土である。「其の命終に随ひて定んで」そこに大悲がある。大悲というのは、浄土から南無阿弥陀仏と成って我らに届いて、遂に生死の苦界から、浄土の世界に私を生まれせしめる。そこに「能く展転して」、あるいは西にあるいは東に、活動して、人に勧めて、念仏を行ぜしめる人を「此等を悉く『大悲を行ずる人』と名く」大悲を行ずる人という。
 深く大悲を行ずるとはどういうことかというと、自分自身がより深くなり、信心がだんだんと深まってくると、必ず人に念仏を勧めるようになる。考えてみれば、我々は何か良いものが手に入る、あるいは安くて立派なものがあれば自分が使ってみて、そうだと思えば、人にも勧めるということがある。いわんや南無阿弥陀仏、この道は本当によかったということになると、本当にそれがいよいよわかればわかるほど、必ず深行大悲が伴ってくるようになっている。
 そこでおばあさんが孫に勧める、「おまえ、ほかになんにもなくっても、念仏だけはな、しっかり聞いていけよ」とか「念仏を申す人になれよ」と一生懸命勧める。私がだんだんと大人になるに従って、念仏を聞こうという気がおこりましたという人がかなりの数ある。自分のじいちゃん、ばあちゃん、あるいは母が「念仏だけはひとつ大事に」と、必ず勧めるわけである。勧める人はかなりの人である。いいかげんの人は勧めません。本当によかったと思えばこそ勧められる。なぜか、信力増上も深行大悲も南無阿弥陀仏の働きなんだ。南無阿弥陀仏を本当に頂けばこそ心には信心、言葉には念仏、そして同時に念仏を勧めるようになる。その信心の深まりを信力増上という。その信力はこういう働きであって、これを先には「聞見する所有りて必受して疑無き」というところを、信力増上という。

二、往生には(往生浄土の一道においては)
 往生といえば往生浄土です。「往」は行く、前進、進展。「生」は生きる、生まれる、成長。往生浄土とは、浄土は如来浄土という。如来浄土とは如来ましますその世界を浄土という。浄土という場所があるのではない。場を言う。場とは何か、如来の働きの及んでいる場である。
 磁石がある。一本の磁石があれば、その磁石が主体であると、その上にガラスをおいて鉄粉をおいて叩けば、いわゆる磁力線ができるのである。そこに磁石の力が及んでいる場がある。それを磁場という。如来ましますところに、その如来のお働きの及ぶところ。今ここにその磁場に一本の釘を置くと、釘はたちまち磁石に吸いつけられて、そして磁石になってしまう。そういう場を磁場と言うのである。
 如来浄土とは如来まします、そこに如来のお働きが及んでいる、そのところを場と言う。浄土というのである。どこかにあるのではない。如来ましますところにある。浄土は死んでからのことかというと、そんなことはない。そういうあなたが言う死んでからの浄土であれば、死んでからの如来か、如来とは死んでからあるのか、そういうことになろう。そんなことはない。生きた如来、南無阿弥陀仏である。そうすると、その南無阿弥陀仏が働く場をいうわけである。
 我等は今卵である。生まれながらの卵である。それは殻の中に入っている。深い疑いとか、いわゆる自力とか、一般的に言えば、無明煩悩の殻の中、自力疑惑の殻のなかに入っている私。その卵は、往生ということを持たない。即ち行くとか前進とかは無い。行く、前進ということはそこにひとつ方向ということがある。そして進む力があるわけである。そういうものが無いわけで卵はころころするしかない。お前どこに行くかといわれても、どこにも行きようがない。行くところがない。たとえばどんぐりだとすると、どんぐりころころである。卵は往も生も無い。やがてそのうち腐ってしまうだけである。それが卵として生まれたものの持つ生き方で、そのままでは行くところが無い、生まれるということもない。自分自身ではどうにもならない。
 往生ということは、卵を温めてくれるものがあって、それが親鳥の熱、あるいは孵卵器の熱、そういうもので温められて、目玉ができくちばしができ足がはえ、そして毛並みがそろって、殻を破って卵がひよこになった時に、この殻を出て、そこに初めて自分の行く所、進むところ、そして本当に生きるということが成り立ち、生まれるということが成り立つ。成長して親鳥とともに、親鳥になっていく。殻を出たところが浄土である。浄土とは如来の場である、親鳥の世界である。この殻のなかにおるかぎり、浄土なんてものは考えてもわからんし、そこに行きようもないが、親鳥によって温められてそこから出てきたところに、そこに如来の場がある。如来の働きの及ぶところ、そこに私が本当に生まれて、生きてそして成長していく。それを往生という。往生浄土という。
 往生浄土とは死んでいくのではない。卵からひよこに、すなわち、仏道に生きていく、そういうことを、往生浄土の道というのである。仏道においてはと言ってもいい。卵からひよこになって、そこから仏道が始まる。それを往生浄土の道、あるいは「往生においては」ということになる。浄土往生とは死ぬことではない。現在は言葉が混乱して、浄土といえば死んでから先の世界、往生といえば死んでいくことという深い先入観があるが、そういうのを正していく必要がある。往生浄土、そこに我々は初めて一つの方向をもって生きていくことができる。
 人生は旅であり、私は旅人、如来の世界への旅人である。そこに、人生を超えるということができる。それを「人生超越」という。人生超越の道。人生超越というのは、人生に執われない、というか、執着しないというか、なんと言われてもかまわない。私には私の行く道がある、そういうものを持っている。
 信心というものが成り立つと与えられる二つの方向がある。一つは往生浄土という道である。如来浄土を目的とし、如来浄土の方向に生きていくことであり、「人生超越」という。もうひとつは人生の現実である。人生に常行大悲、念仏を勧めていく、これは現実とのとりくみである。こちらを「人生随順」という。こういう二つの道を持つようになる。そこに信心がある。
 人生に随順ということは、夫がおり妻がおり、親がおり子がおり、社会があり、その中で私の果たさねばならぬ仕事がある。私が取り組まねばならぬ現実がある。それを本当に受けて立ってそれを受けとめていく。そのなかで我が全力を奮って、それに取り組んでいく。それが人生に随順ということ、それが「万のことにつけて」という問題。それができるのにはやはり、心の底に常行大悲、なんとかして仏法を聞いてくれるように、念仏申す人になるように、という深い願いがある。そして私の持ち場において、私が自分のできる働きをするようになる。
 世の中にいろいろな現実を抱えた人がいる。私の幼育園で、障害児を預かることがある。いま二人いる。ひとりは男の子で、一人は女の子である。
 男の子の方は、初め来た時ものが言えなかった。ものを理解しようとする力が無かった。一年、普通の子供の中にいれておいたところ、だんだん変わってきた。まだものは言えないが、こっちが言うのはよくわかる。「あれ持ってきて」というとすぐ持って来る。自分からものは言えないが、一生懸命言おうと努力する。少しづつ、何かわかるようになってきた気がする。誰が休んでいるかがわかる。これはよく進展したものだと感心した。休んだ子の名前、とぎれとぎれの単語しか言わないが、しかしだいたいわかる。
 もう一人は三歳くらいの女の子で、ベタッと座り込んで立てなかった。この子も一年くらいおって、歩くようになった。あれには驚いた。あの子が歩くとは思わなかった。これもものを言わなかったのであるが、だんだん話すようになるだろう。
 その親がたいへんなのである。非常に熱心で、子供をなんとかしたいという気持ちが強い。そういう人が本当に仏法を聞いてくれたら、その子と取り組むというか、その子を本当に護って、「万のことにつけて」、いろんなことにつけて、人生の現実に取り組んで、背負うべき現実と目覚めて、自分の生きる方向を持っていくことができるようになると思う。これが大事と思うが、なかなかこちらの気持ちが通らない。いろいろの人の現実をみると、いよいよ頑張らなくてはということを思う。

三、(往生には)賢き思いを具せずして
 いろいろの話になったが、往生浄土の一道においては、「賢き思いを具せずして」。賢き思いというのは、善いことができると、やっぱり私もまんざら捨てたものでもないと、自己満足、自己肯定、優越感そういうふうなものを持つようになる。反対に悪いこと、失敗にあうとこれではいけない、なんとかしなければ、私は駄目人間、その他どうしていつもこうなるのだろうかというような、自己卑下、劣等感、落ち込み。これではいけない、そういうような「賢き思いを具せずして」それを賢い思いという。賢い思いというのは人間としての思い、人間の理性、それを言っておる。そういうようなものを一言で言うと、「自己中心」という。「よしよし」と言う方も、「これではいけない」という方も、「なんとかしなきゃいかん」と言う方も、優越感も劣等感も自己中心になっている。これを如来無視という。如来というようなことは全然頭に入ってこない。それを「人間の賢き思い」と申す。それを自力疑惑というのである。
 疑惑とは、これを自力という。如来を全く無視している、また自力のはからいという。はからいである。それを自力作善という。自力作善というのを定散心という。自力疑惑という。それを如来無視という。自力のはからい。これ全体をまとめて、自力作善、自力疑惑、そういうもの。自力疑惑が根本にあってそれが作善になってくる。それをはからいというのである。それを一緒にして賢き思いという。我々はまず人間の理性が先にたって、そこでそういうことを思うのである。万のことにつけて、善いことがあると、おれもまんざら捨てたものではないなとなり、悪いことになると、おれはだめだということになる。このように我々は深い自力というものを持っており、それにとらわれるわけである。

四、ただ ほれぼれと
 「往生には賢き思いを具せずして、ただほれぼれと」。「ただほれぼれと」というのは、ほれこんで、ただほれこんでという解釈もあるが、内容的に言うと、感謝と尊敬とそして愛情とそして深い連帯と、そういうものが一緒になったことを言う。感謝と尊敬と愛情と連帯というものである。ただほれぼれというのは、人間が人間にほれるということもあって、この人一つということになるわけであるが、単なる人間の愛情、とくに男女の愛情というのではなしに、そのなかに深い感謝があり、尊敬、本当に頭を下げて拝まざるをえない、そういうものと、何とも言えない離れられない連帯、結びつき、そして愛情そういうものがただほれぼれとということになる。「ただほれぼれと」とは、『歎異抄』の著者のなかなかおもしろい表現になっている。

五、弥陀の御恩(如来大悲の恩徳)
 「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること常に思い出しまいらすべし」とこうなる。弥陀の御恩とは、如来大悲の御恩である。『恩徳讃』は、「如来大悲の恩徳は…」と始まる。「如来大悲の恩徳」、この言葉は仏法をいただく上でしばしば耳にすることであるが、果たして我々は何を弥陀の御恩として受けとるのであろうか。弥陀の御恩とは何か。そういうことも知っておく必要がある。
 如来のお徳には三つあると言われており、如来の三徳と言う。一つは「智徳」。優れたお智慧、すなわち仏智、不思議智、仏智の不思議。あらゆる無明を破って、本当に真実の道というものをあきらかにしてくださる智慧。もう一つは「断徳」、無明煩悩を断ち切る力。これら二つを自利と言う。それは自己自身が持っておられる仏道成就のお徳である。そして三つ目が「恩徳」という。これを大悲の働き。それを恩徳、如来の恩徳という。それを利他という。如来にお徳がある。我等を助けてくださるというか、働きかけてくださるそういうお徳がある。それを恩徳という。恩徳というときは如来のお徳をいっている。如来大悲の恩徳をいうのである。智断恩の三徳という。自利利他を言っている。
 では、どういう大悲の恩徳であるか、それについて聖人は、『教行信証 信巻』の真の仏弟子について述べたところで書いておられる。十二の八十八の最後の行、
第二には、諸の菩薩有りて自ら云く「我曠劫(こうごう)従り已来(このかた)、世尊我等が法身・智身・大慈悲身を長養(じょうよう)することを蒙ることを得たりき。禅定・智慧・無量の行願、仏に由りて成ずることを得たり。報恩の為の故に、常に仏に近(ちがづ)くことを願ず。亦大臣の王の恩寵を蒙りて、常に其の王を念ずるが如し」と。
 そこに報恩というのが出ている。恩を報ずる、どういう恩なのか。初めの二つがその恩なのである。「我曠劫従り已来」無量劫の昔から今に至るまで、「世尊」如来が、「我等が法身・智身・大慈悲身を長養することを蒙る」法身・智身・大慈悲身。法身とは真如法性の道理を悟る。真如法性の道理に生きる。智身は本願に生きる。大慈悲身とはお慈悲を蒙ってお育てを受ける身。真如法性の道理に生きる身。本願に生きる身。お育てを受ける身を長養してくださった恩徳。
 この三つの三身は、仏と成るべき身、それを法身・智身・大慈悲身。仏と成るには法身・智身・大慈悲身のこの三身がなければならんと申す。ならば具体的にはお育てを蒙って、そのお育てを蒙るにはわれわれは深い宿善をいただいて、その宿善というのがあって初めてお育てを受けてお慈悲を蒙むる。お育てを蒙って本願に生きる身にしていただいたところに、大慈悲身を長養し、智身を長養し、そしてそれを通して真如法性の道理というものが私に届けられて、遂に仏と成るべき身を長養してくださった。それが初めに書いてある。
 諸の菩薩が申します。「私は初め凡夫でありました」。特に次のページ十二の八十九、二行目の下、
第三に、諸の菩薩有りて復是の言を作さく「我因地に於て悪智識に遇うて、波若を誹謗して、悪道に堕しき。無量劫を経て余行を修すと雖も、未だ出づること能はず、後に一時に於て善知識の辺(ほとり)に依りしに、我を教えて念仏三味を行ぜしむ。其の時に即ち能く併せて諸障を遣(や)り、方(まさ)に解脱を得たり。斯の大益有るが故に、願じて仏を離れず」と。
 始めは因地、迷いの世界におりました。そこで悪友・悪知識、悪い友達・悪い先生、悪い教えによって、波若、仏智を誹謗し、仏法の悪口を言い三悪道、地獄・餓鬼・畜生の世界に堕ちておりました。そこで長い長い間他のことをやっておりましたが、どうしてもその迷いの世界を出ることができなかった。
 ある時、善知識の辺に依って、念仏の教えを教えてくれました。その善知識に遇って、お育てを受けて、大慈悲を蒙る身となったのであります。そして本願を頂き、本当の智慧を頂くようになったのであります。そして真如法性の道理を南無阿弥陀仏として、頂くようになったのであります。そういう長養の徳、仏と成るべき身を長く養い育てたもうたお徳、恩徳。それをまず弥陀の恩徳と言う。いわゆるそれを如来大悲の恩徳というのである。それがもし無かったならば、悪友・悪知識によって、地獄に行ってそこから到底出ることのない私が、善知識を通して、お育て下さって、お慈悲を賜って本願を頂いて、南無阿弥陀仏によって、真如法性の道理を頂いて、仏と成るべき身、法身・智身・大慈悲身を成就、長養してくださった恩徳。これ私の力は何もありません。すべて如来のお徳であります。これを如来の恩徳というのであります。それが始めに出ている。
 考えてみると、この迷いの世界に、もはや再び帰ることのない世界に生きさせてもらって、いよいよどのような嫌な事、煩悩などに、引きずり廻されようと、もはや虚しく人生を過ごすことのない、そういう世界に出させてもらった、それが第一。
 第二は「禅定・智慧・無量の行願、仏に由りて成ずることを得たり」。「禅定」は心の安定、念仏三昧。「智慧」智は進むを知りて退くを守る、「知進守退」と言う。進むを知りて退くを守るとはどういう事かというと、我々はいろいろな障害に会って、そこで「これはしまった」と思い、「これは前進できない」ように思う。しかし、「これが本当に私の受けとるべきもの」と頂いていくと、退く、後ずさりすることが無くなる。「他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけり」とわかる。それを進むという。進むことができる、退くことがない。
 「智慧」の慧は空(くう)を知り、無我を知るという。空は縁起と申します。空はなんにも無いというのではなしに、縁りて起こる、全て因縁成就である。縁りて起こる、全てのことは因縁によって起こるのである。その因があってそして縁があって、因縁和合して起こるのである。今風があって波が立っている。波は風によっておこっているのであって、風が止んだら止むのである。風があるからおこるのである。誰かがどうかして起こるのではなしに、因縁であるということ、これを縁起と申します。無我とは私のものは何も無い。私のものは何もありません。私の持ち物は何もない。すべて如来によって賜ったものであり、私は全部与えられたのであります。そういうのを無我という。そこに禅定・智慧を与えられ、進むを知りて退くを守る。「無量の行願」たくさんたくさんのやるべきこと、やるべき行がある。そして願い。私はこの世において世の中の人々の為に働くべきこと、やるべきこと、それが行願、そういう働きがある。やらねばならんことがある。やりたいことがある。そして是非とも伝えたいという願いがある。そういうものを無量の行願を持っていると言う。「禅定・智慧・無量の行願、仏に由りて成ず」これが仏に由ってうまれた。
 昔の生活に比べると、我々はかなりの暇ができている。昔なら洗濯もなかなかたいへんだったし、風呂を沸かすにしても、水を汲んだり炊いたりたいへんであったが、そういうものはだんだん無くなった。掃除も非常に簡単にできるようになった。ならば残った時間は何をしているのか。実際は、テレッとしている人がたくさんいるということである。
 大事なことは、心の安定を持ち、智慧を持つこと。そして何よりも、無量の行願である。学びたいことがあり、そして人々、世の中のために働きたいということがあり、そして自己を確立し、いよいよシャンとして生きていく、そういう願いがあり、そういうものを持って、はじめて本当の生活が成り立つ。そういうものを仏に由って成就された。仏と成るべき身を養われる。現実生活の充実、充実というものが与えられた。それは如来によって与えられた。そこに私は本当にお礼を申したい、弥陀の恩徳というものを、「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること常に思い出しまいらすべし」とこう言ってある。
 弥陀の御恩とは何か、初めの二つを『教行信証』の、『安楽集』のところに引用してある。もとは『大智度論』略して『大論』と言う。「『大智度論』に依るに」というのが、その十二の八十八の終から三行目にある。龍樹の『大智度論』からとってある。さらに言えば、『大論』にはないのですが、南無阿弥陀仏をいただいた、南無阿弥陀仏をいただいたこと、これが何よりも深い弥陀の御恩である。
 聖人の正像末和讃には、「南無阿弥陀仏の廻向の 恩徳広大不思議にて 往相廻向の利益には 還相廻向に廻入せり」(11−36)とある。南無阿弥陀仏の廻向を恩徳広大と言われ、還相廻向は往相廻向の利益として廻入するものであるという和讃である。
 弥陀の御恩とは何か。弥陀の御恩とは南無阿弥陀仏となって、私に届いてくださった、それがなによりも深い如来の恩徳である。南無阿弥陀仏を頂いた。一如真如の世界から、如来本願を建てて南無阿弥陀仏となって私の上にとどいて下さった、そこに南無阿弥陀仏の働きがある。この南無阿弥陀仏こそ、私に届いて南無阿弥陀仏になって下さった。そこに私の無明煩悩が破られて小さな自己中心のこころが打ち砕かれて大きな世界に出された、卵からひよこになった。そこに「南無阿弥陀仏の廻向の恩徳広大不思議」ということがある。
 このことは、よく分からん人にいくら言っても絵にかいた餅である。ごちそうを説明するようなもので、一度も食べたことのない人に「これはおいしいぞ」とすすめてもどうしようもないのであるが、南無阿弥陀仏というものを本当に頂くということのご恩、南無阿弥陀仏というところに恩徳広大不思議があるのであって、聖人はそれを喜ばれた。まことにその通りである。
 関連して、よき師、よき友、よき教えを頂いた。一生忘れることのないよき師、そしてよき友、私を励まし、私の後先となって私をひっぱってくれ、教えくれたそういう友、そして私を導いてくれるそういう教え、そういうものをいただいた。そこに、如来の恩徳がある。よき師、よき友、この中で一番大事なのはよき友である。よき師、よき友は求道によって、如来から賜うもの、ご褒美。友は如来から恵まれるものである。
 友というのは飲み友達、遊び友達、話し友達、学校の友達とかいろいろあるが、本当の友達というものは、単に話したりするものではない。私を励ます、私を護って、私の手本となり私に正しい評価を与えてくれる、そういうような友である。そういう友は私が探して得られるものではない。私が如来の道を本当に歩き、如来の教えを本当に聞きぬくことによって、如来によって廻向される、如来の廻向なのである。南無阿弥陀仏の廻向なのである。それは何故か、それは、本願に「諸仏称名の願」というのがある。諸仏というものが私の前に出て下さるように誓われている。諸仏こそがよき師、よき友なのである。求道していくと、よき師、よき友が必ず与えられるようになっている。
 自分のことを言っておかしい話であるが、私は元々福岡の人間なのである。福岡で生まれ、福岡に学校の友達もいろいろおるわけなのであるが、仏法の方の友達は一人もいなかった。家内と二人で昭和二十四年に広島から引きあげて帰ってきたのである。その時は仏法の友というのは家内一人であった。それがだんだん、いろいろの会を持つようになり、先生方にも来ていただいたり、あるいは自分自身も話すようになったりして、四十年経った。今年は昭和に換算すると六十五年であるから四十年経つ。そしてたくさんたくさんの友達を頂いた。みなさんもそのお一人であるが、長い長い、そして決して離れることのないような友達を頂いた。その友達がよき師であり、よき師がまたよき友であって、そういうものは本当に恵まれたものなのである。
 私を勧め励まし戒め、私を証し、私の申していること、私が頂いている教えが本当であるということを、あかし人となって証明する、それを証誠という。そして私を護って下さる、私を念じて下さる。そして讃嘆。これを勧証護讃という。護念とは護り念ずる。私は護られているわけである。そういう人達から護られている。何が護られているのかと言えば私の信心である。私の信心が護られているのである。皆が護ってくれるわけである。護るとはどういうことか。
 現在は九州では、福岡の二箇所と、朝日カルチャーセンターで三箇所、藤崎、それから久留米、日の里、飯塚、黒崎、小倉、豊後高田という所があって、二十簡所ですか、なんかそういうような所に会があって行っているが、もし、私からそういう会を全部取り除いて、「お前は何もせんでいい。お前の自由にしたいことせよ」と言われたならば、僕は一生懸命百姓をして野菜を作っておるだろう。これを保育園の方に出荷するのが大事な仕事である(笑い)。朝から晩までやったに違いない。僕は勤行くらいは続けているかもしれんが、ほとんど勉強はしないだろう。そのうち、だんだん信心が鈍ってきて、自分の愚かなことを忘れ、如来の御恩を忘れて、うろうろして人生に引きずられているだろう。十何箇所も会があるので、私は毎日々々お聖教を何としても読まんといかん。そしてノートを作り、ノートを訂正し、そして新しいお聖教を書き加え、いつもいつも考えている。それが、護られているのである。皆から護られているのである。私が皆を護るように思われるかもしれんが、そうではない。私の方が護られているのである。こういう会があることによって、この会に来て下さる人達がこれだけたくさん来て下さるから、私は話をせんといかん。話をせんといかんから、勉強せんといかん。そういう人によって、私は護られているのであり、念ぜられているのである。そしていわゆる、評価、今の話はわかりにくかった、これはよくわかったという声を聞いて、なるほどもう少し、しっかり具体的に頂き返さねばならんと、いろいろと反省する。これこそ如来から賜ったご褒美である。友は如来から賜る贈りものである。そういうものを持つことが、それを頂くことが、如来の御恩、本当の御恩、そういうことは誠に深い深い御恩である。またとないご恩である。
 さらにいえば生きる根源、私がこの世を生きていくその一番の根源、私を支えてくれる一番の根源を与えられる。それが南無阿弥陀仏を頂いたこと、そのことなんですけれども、もう一つ言い換えるとそういうものになろう。このように弥陀の御恩というものを「総て万の事につけて往生には賢き思を具せずしてただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること常におもひ出しまゐらすべし。しかれば念仏も申され候、これ自然なり」である。
 「念仏も申され候」その御恩を憶えば念仏である。御恩を憶うて念仏する、これ自然である。御恩を憶うて念仏する。御恩を憶う時に念仏するほかに無い。念仏申す、それが知恩報徳。念仏が知恩報徳。念仏が感謝、懴悔。暁烏敏という人は「すずめはチュンチュン、からすはカアカア」と言った。淋しい時も悲しい時もからすはカアカアである。すずめはチュンチュンである。人間はどうか、人間は南無阿弥陀仏であると言われた。悲しい時も南無阿弥陀仏、嬉しい時も南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、それが感謝であり、懴悔であり、知恩報徳である。南無阿弥陀仏に全てのものが入っているわけである。それは南無阿弥陀仏が私に至り届いて出てくる、私の思いがでて、その全てが南無阿弥陀仏のなかにこめられているとも言える。南無阿弥陀仏が恩徳報謝である。十二の四十六というところ、二行目、
然るに教に就いて 念仏と諸善と比校し対論するに(一)難・易対、(二)頓・漸対、(三)横・竪対、(四)超・渉対、(五)順・逆対、…
以下四十八まであったと思うが、そのようにして念仏のもっている徳と諸善の徳とを比較された内容がある。その結論、終から四行目、
然るに本願一乗海を按ずるに、円融満足・極速無礙・絶対不二之教なり。
 そこに念仏の教えというものは本願一乗、このすべての徳のこもった円融、まどかにして、すべてを融かし満ち足りた、徳の満ち足りたもの、そういう表現で出されている。その中の適当なものをと思ったが、はっきりしなかった。
 念仏にすべての徳がふくまれている。御恩を憶うて念仏する、それが知恩報徳であり、感謝であり、懴悔である。全てである。これ自然なり。如来が南無阿弥陀仏になってくださったのであって、如来のすべてが南無阿弥陀仏のなかにこもっているのである。そこに、これに加えるべき何ものも無く、これに足らない何ものも無いのである。「しかれば念仏も申され候」その念仏の中に知恩報徳がこもっているのである。そういうことをうかがうことができよう。今日は「総て万の事につけて」を頂いた。
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