歎異抄 第十六章
第四回目 平成2年4月25日講義
「歎異抄講読 異義篇3(巌松会)細川巌講述」より

一、信心は二種深信である 二、帰っていく世界が与えられる

「悪からんにつけてもいよいよ願力を仰ぎまゐらせば、自然の理(ことわり)にて柔和忍辱の心も出でくべし」。
 第十一章から十八章まではいわゆる異義篇である。この章の異義は「自然に腹をも立て」という事と「同朋・同侶にもあひて口論しては必ず廻心すべし」という二つである。
 その廻心とは「信心の行者自然に腹をも立て悪しざまなる事をもをかし同朋・同侶にもあひて口論をして」廻心せよという。意業に「腹を立て」、身業に「悪しざまなる事をもをかし」、口業に「口論をして」と、身口意の三業に罪を犯すという。そして、「必ず廻心すべしということ。この條、断悪修善のここちか」という。この廻心は人間の廻心である。「自然に腹をも立て」これがいよいよ異義篇の中でもこの第十六章にだけある。前の続きからいくと、「信心定まりなば往生は弥陀に計はれまゐらせてすることなればわが計なるべからず。悪からんにつけても……」と前の方にある。「腹をも立て悪しざまなる事をもをかし」そういうのが前の方にあって、身口意の三業に罪を犯す。悪業の因は貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩である。それが本になって惑・業・苦と転回していく。それを後悔する。後悔とは悪作という。作した事をなぜあんな事をしたのかと我が身を責めるのである。そういうように「悪からんにつけても廻心せよ」という。
 普通、我々は問題が起こったとき、どうするかというと、あの人が、ああいうことを言いさえしなければ、こういうことは言わなかったのにと、責任を転嫁する。そうではなくて「悪からんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば、自然の理にて柔和忍辱の心も出でくべし」である。願力を仰ぎまいらすべし、ということが大切である。お粗末な自己が見えたとき、これではいけない、こんな私では仏法を聞いた値打ちもないと思いがちである。そういうものじゃなしに、こういう迷いを持っていろんな悪業を犯していくのが本当の私、南無阿弥陀仏と念仏申すこと、そういうことを具体的に「願力を仰ぐ」というのである。「本願を仰ぐ」というのである。南無阿弥陀仏の御働きに私が受け取られるというか、摂め取られる時に、私がその問題を受け取ることができるのである。自分の問題でも、なかなかこれが私の問題と受け取れない。これが本当の私、こういうていたらくの私、南無阿弥陀仏と念仏にならないが、そうなることを願力を仰ぐというである。そのときに問題を受け取ることができるのである。
 先にあるが「信心定まりなば悪からんにつけてもいよいよ願力を仰ぐ」。信心というものはどういうものかというと、願力を仰ぎ参らせてこれが本当の私、南無阿弥陀仏となっていく、そして、いわゆる第九章の「他力の悲願はかくのごときの我らがためなりけり」、南無阿弥陀仏である。これは非常に大事な言葉である。これを信心というのである。

一、信心は二種深信である。
 「信心定まりなば」というが、信心とは何か。信心には、二種深信と申して「機の深信」と「法の深信」があると言います。機の深信というのは「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し、常に流転して出離の縁有ること無しと信ず」。また法の深信とは「二つには、決定して、深く、彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまう、疑い無く、慮り無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生することを得と信ず」という。これは善導の表現である。十四の十九、二行目にもある。
二つには深心、深心と言ふは即ち是れ深信之心也。
亦二種有り。
 一には決定して「自身は現に是れ、罪悪生死の凡夫曠劫より已来、常に没し常に流転して出離の縁有る事無し」と深信す。
 二には決定して「彼の阿弥陀仏四十八願をもて衆生を摂受したまふこと疑無く慮無く、彼の願力に乗ずれば定んで往生を得」と深信すと。
 今斯の深信は他力至極之金剛心、一乗無上之真実信海也。
これを真実信心という。また二種深信というのである。二種深信というのは機の深信と法の深信を貼り合わせたものではない。一つ信心の裏表である。二種一具である。なぜか、それは如来の本願、南無阿弥陀仏を本当に聞き開く、それを本当に頂いたところに生まれるものを二種深信というのである。信心というものの中身である。なぜ二種一具か、一つの信心に、なぜ二つのものがあるのかというと、それは南無阿弥陀仏は光明無量である。もう一つの働きは寿命無量という。これをいわゆるアミターバー、アミタユースという。そしていわゆる南無阿弥陀仏の働きが光明無量・寿命無量である。それが一つの南無阿弥陀仏の二つの働きである。
 その光明無量に照らされて照らされて照らしぬかれてここに我が身がわかる。我が身がわかることを機の深信というのである。自己への目覚めが生まれるのである。南無阿弥陀仏から機の深信が生まれる。同時に寿命無量と、照らされた我が身が如来の御いのちの中に摂め取られて、南無阿弥陀仏と仰ぎ見る世界を頂くのである。照らされたままが摂め取られてゆく、それを法の深信という。分けて二つにいうが、これ全体が一つ信心なのである。南無阿弥陀仏が届いて下さることが一つ信心である。その内容として機の深信と法の深信である。どちらが先か。それは機の深信が先である。照らされて「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫」本当にお粗末な私である、南無阿弥陀仏となる。それが願力を仰ぎまいらせるとなる。「悪からんにつけてもいよいよ願力を仰ぎまゐらせる」となる。
 われわれは、腹を立てたり悪しざまなることを犯したりして口論をする。この代表は夫婦げんかである。どちらかが腹を立てて、物を投げ付けたり、言い合いをしたりする。けんかしないということは絶対にない。口で言わんでも心の中ではしきりに腹を立てる。こんなことでは信心がないのではと思う。けんかの原因は非常に簡単なことなのである。そういうことはあってはならん。悪からんにつけて、その悪いことが悪いのではない。悪いことが本当の目的ではない。これが本当の私の姿、これが本当の私、南無阿弥陀仏と念仏になる。これを機の深信という。同時に彼の阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受したもう、「他力の悲願はかくのごときの我らが為なりけり(第九章)、南無阿弥陀仏」となる。要するに、南無阿弥陀仏に摂受されていくことを信心というのである。
 悪いことをしないわけではない。何をしでかすかわからん者であるが、何が起こってもそれが私を照らす縁となる。ついに私の生きざまが、みんな念仏の縁となっていく。これが如来の使命である。これがこの世に生きていく本当の人間の意味がある。南無阿弥陀仏を与えられることによって、どんな人も、こういうていたらくの私、南無阿弥陀仏ということに、いよいよ目が覚めていって、いよいよ仰ぎ見る世界を賜っておることが信心。信心というのは、大体いろんな事に出遇う人生の現実で、泥にまみれた現実の中で、いわば人にも言われぬような厳しい現実、それが救われていくというか、念仏になっていく、それが信心である。信心というと何か偉そうに威張るのでもなければ、何でも来いというものでもない。泥にまみれた人生の中で、それを背負って念仏していく事が大事なところである。真実の仏教が教えるものは、南無阿弥陀仏となる教えである。浄土真宗とはこのような現実を生き抜く力を与えるものである。
 家庭の問題にしろ社会の問題にしろ、いろんな問題に出遇うと、私どもは、しまったと後悔をして、どうしてこんな事をしたんだろうとなりがちである。そうでなくて、人と人がぶつかりあう悲しい現実だが、その現実を受け入れる力を与えられる。それが仏教である。
 この力を得ないと、現実が私を苦しめ、私を叩きのめしていくのであるが、仏教に出遇って力を得ると、どんな現実も「これが本当の私、南無阿弥陀仏」であり、「これが私の受け取るべき現実」、「他力の悲願はかくのごときの我らが為なりけり、南無阿弥陀仏」になっていく。どんな厳しい現実も生き抜く、堪えぬく、それをこらえぬく力を持つ、それが本当の信心の力である。これを現生不退という。現実人生においてたじろがない。自己の現実を歩みぬく力を与えられる。それを堪えぬくという。それが一番根本である。

二、帰っていく世界が与えられる
 「悪からんにつけてもいよいよ願力を仰ぎ参らせる」そういうことである。大切なことは、我らの帰っていく世界が与えられることである。この人生に於いても、我らの帰っていく世界が与えられているのだ。それはちょうど、太陽が西に沈んで行くように、いわゆる弥陀本国四十八願が我らの帰るべき世界である。南無阿弥陀仏である。弥陀の浄土である。それが一応西にあると言われている。
 西というのはなぜか、そこに方向を示して如来の浄土というのがある。浄土を弥陀の本国とし、その本国が西にある。その浄土はどこにあるのか。太陽の沈む西の方、遠い十万億の世界を感ずる世界がある。西方の浄土、そこに釈迦が帰っていかれ、親鸞聖人も帰っていかれ、そしてそこからまた出てきて、南無阿弥陀仏の働きを働くようになっておる。そういう世界、往相。また当に来たるべき世界がある。
 現実を生き抜く力、生涯を生き抜く力を頂く、そして私が帰っていく世界を頂くのを往生浄土門というのである。悪からんにつけても願力を仰ぎまいらす。そこに「自然(じねん)の理」というのがある。自然は無為自然(じねん)、願力自然(じねん)、業道自然(じねん)で、「しぜん」ではない。「じねん」である。自然(しぜん)というのは自然現象である。自然(しぜん)というのは万有引力の法則では水は低い所に流れていく。煙は高い所に上っていく。いろいろなものは法則に従って動いていくのである。自然(じねん)というのはどういうことかというと、我らの心が教えによって開いてくる、そういうことがないと自然ということばわからない。精神の進展によって分かる世界を自然(じねん)という。それには、無為自然、業道自然、願力自然の三つがある。
 無為自然というのはどういうことかというと一如真如、何物にも妨げられない大きな世界を無為自然というのである。これに対して業道自然は無明煩悩を因として惑・業・苦、因・縁・業・果・報と流転し、この報がまた因となり業となって流転していく、これを業道自然という。人間の煩悩が造り出す世界である。それがやはり教えを聞いて、聞き開いてくるなら私の良い流転の歴史を知ることが出来る。
 これらに対して願力自然とは、如来の世界は無為、清浄無垢である。絶対である。人間の世界は有為、有限である。その無為自然、一如の世界がこの業道自然の世界に願いを持つ。広い世界に出よと、その無為自然の世界から働き掛け、働き掛けて来る。ちょうど、子供が悩んでおる時に親は、もはやじっとしておれないで、子どもに働きかけて来るように、大きな世界、無為自然の業道自然に対するその働きかけ、それを南無阿弥陀仏という。その南無阿弥陀仏が具体的には、諸仏となり菩薩の働きとなって展開して来る。その本願の働きかけは、誰がこしらえたものでなく、無為自然の世界が業道自然の世界に働き掛けてくる、その働き掛けを自然というのである。自然の働き、自然の理である。「悪からんにつけてもいよいよ願力を仰ぎまいらせば」、自然の南無阿弥陀仏の働きを頂くことが出来るのだと言われておる。その願力、本願力を四十八願という。無為自然というものについては 『自然法爾章』十一の四十二、二行目から、
自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんとはからはせたまひたるによりて行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを自然とはもをすぞとききてさふらふ。
 自然というのは如来の働きである。それを願力自然というのである。私の働きでは毛頭ないのである。もとより行者のはからいにあらず、弥陀の誓いが南無阿弥陀仏と私の上に働き掛けるのである。従って「行者のよからんともあしからんともおもはぬ」のが如来である。本願の働きは如来にある。その本願の働きを、衆生が頂くことを自然というのである。その如来の働きを私が頂くこと、如来の働きを願力という。今これが十八願である。十八願は光明無量に照らされて照らされて自己に目覚め、仰ぎ見る世界を頂く。これが信心である。十八願の信心である。信心、念仏である。これが如来の働きである。自己に目覚める、これが機の深信、そして仰ぎ見る世界を持つ、これが法の深信。そして二種深信、そして念仏申す。本願の働きは南無阿弥陀仏。その南無阿弥陀仏を聞き開くことが大切である。南無阿弥陀仏は目には見えない、捉えようとしても捉えられない。しかし働きがある。
 今、風がある。風は眼には見えないが、風が本当に鯉のぼりに届く、その届いた時、それを聞という。聞其名号である。そしてその中を吹き抜けていくことを信という。出ていくところを称という。これを十八願というのである。そこで、信が目覚め、こういう世界を頂いて、南無阿弥陀仏になっていく。この南無阿弥陀仏が入ってきた風が、出ていく風なのである。そのようになる事が大切である。最後は念仏である。南無阿弥陀仏が届いたところが信心、ここが大事。念仏というところが大事。念仏申す、それは自力ではないか、まあそうである、他力の始めを自力というのである。それが大事である。
 今は、その本願の働き、十八願の働きをもう少し細やかに分けてみると三十三願というのがある。もう少し言うと三十四の願である。親鸞聖人は信の巻に「真仏弟子」(十二の八十七)とある。それは鯉のぼりが風を受けて、大空を泳いで信心念仏になったのが真の仏弟子。それのもう少し貝体的な内容は、一緒に読んでみよう。
「真仏弟子」と言ふは「真」の言は偽に対し仮に対するなり。「弟子」とは釈迦・諸仏之弟子なり。金剛心の行人なり。斯の信・行に由りて必ず大涅槃を超証す可きが故に「真の仏弟子」と曰ふ。
そこに「金剛心の行人」とある金剛の信心を頂いた念仏の行者、これが真の仏弟子である。それは如来の金剛心によって生まれる。その次、
『大本(だいほん)』[『大経』]に言(のたま)はく、設ひ我仏を得たらんに十方無量・不可思議諸仏世界の衆生之類、我が光明を蒙りて其の身に触るる者、心身柔軟にして人天に超過せん。もし爾らずば、正覚をとらじ、と。
 これを第三十三願という。これを触光柔軟の願という。十八願の内容である。十八願の人は信心念仏になって、それからもう一つ詳しく言うと三十三願である。如来の光に触れて身も心も柔らかになる。それを柔和、という。柔和といって第一目標には、柔らかさという、もう少し言うと柔和の次には忍辱である。
 柔和の反対は粗という、粗は粗末なという、非常にあらいということ、いわゆる配慮のなさ、木目の細やかさのない、木目が荒いという。それに対して相手の立場を考え、優しさ、心配りをする。そういうものが信心の顕れた姿である。柔和、柔軟、具体的には柔軟という。優しい柔らかさ、なぜそういうものを持つのか。それは、柔らかいというものと、堅いというものとは、どこが違うのかと言うと、堅いというものは自己中心的な、煩悩、貪欲・瞋恚・愚痴というものを持っておると、これらを三毒の煩悩というが、そういうものは常に堅い。堅くてとげとげしくて人をチクッと刺すようなもの、また、名聞・利養・勝他というようなものが入っている。そうすると言うことは冷たい。また強情である。結局木目の荒い生活態度というものとなる。
 しかるに光明、如来の南無阿弥陀仏の光に照らされて、我が身を発見して我が身が本当にわかってきて貪欲の私、瞋恚の私、愚痴の私と目が覚めてきたところに、固さ、冷たさが少しずつ抜けてくる。なくなりはしないが、如来の光明に、照らされて照らされて、本当の自己のお粗末さに出会って、目が覚めて、頭を下げて念仏申していくと、だんだん純化されていく。ものは純粋なものほど柔らかい。その純粋な心が失われて濁っていた、それが照らされて照らされていくところに、「悪からんにつけてもいよいよ願力を仰ぎまいらせ」て、自然の理(ことわり)、願力、如来の柔和の働きがとどいて来る。三十四願は聞名得忍で、忍はいわゆる無生法忍の忍であるが、今は忍の功徳だけ考えている。また忍終不悔という、如何なる苦悩も、忍んでついに悔いず。忍んで行くには力が要る、そういうものを与えられるのを三十四の願という。
 信心の人は、大変な業苦の中を黙々とたくましく生きて行かれる。なぜ、そうなるのか。聞名、南無阿弥陀仏の御名を聞いて、忍んでついに悔いずである。これが私、南無阿弥陀仏と念仏申す。忍ぶというのは歯をくいしばって忍ぶんじゃない。これが私の受け取るべき現実、南無阿弥陀仏と念仏になることである。なぜそういうように、背負っていけるか、南無阿弥陀仏と一緒に、なぜ背負っていけるか、それは如来において唯除五逆・誹謗正法という。これは五逆と正法を誹謗する者を除く。五逆は恩知らずである。そして誹謗正法というのは、如来無視と言う、これが一番、如来にとって受け取りにくい者である。如来の足を引っ張る者である。唯除五逆・誹謗正法というのは、如来にとって最も受け取りがたい存在である。それが私であるとわかったなら、如来はこの私を受け取って、南無阿弥陀仏と受け取って下さっていたのである。如来が私を護って下さっていたのである。念仏して受け止めて下さっていたのである。このことがはっきりしたらどんな苦悩の中も生きていけるのである。自然の理にて柔和忍辱の心もいでくべしである。
 
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