歎異抄 第十六章
第二回目 平成2年2月28日講義
「歎異抄講読 異義篇3(巌松会)細川巌講述」より

一、一向専修の人 二、廻心とは

 第十六章のまちがい、即ち異義は二つある。それがはじめに出ておる。
信心の打者自然に腹をも立て、この自然は彼の方について、信心の行満腹をも立て悪しざまなる事をもをかし、同朋同侶にもあひて口論をしては自然に必ず廻心すべしといふこと。
 廻心ということをたびたびしなければならんという、そこが第一の異義である。次に、自然に必ず廻心するという、自然の使い方がちがっている。それが第二の異義である。
 前回は全般的なことについて申したが、今回から一つ本文に入っていただいてみよう。「一向専修の人においては廻心ということただ一度あるべし」それが正しい意味あいである。

一、一向専修の人
 一向専修の人である。専修念仏という。一向専修の人、このことは歎異鈔の中に何回かでており、第六章には「専修念仏のともがらのわが弟子・ひとの弟子」というところに出ている。もう一つは十二章に出ている。「一向専修の人と他宗の人」であるが、専修念仏、二十三の六の三行目である。「当時、専修念仏の人と聖道門の人と諍論(じょうろん)を企てて」と、そこに出ている。そこは専修念仏である。
 一向というのは、ただ一つ、一向に、このこと一つ、ただこのこと一つというのが一向で、いわゆる『選択集』に法然上人は三選の文というのを言われた。そこに選びに選んで最後についに、一向専修というのは出てくるんだということを言われた。それが従って一つの決断と言うか、捨てて捨ててというか、そういう最後に到達するところを言われている。
 十二の二十六という所がある。これは教行信証、行の巻になっている。終わりから二行目、
『選択本願念仏集』に云く、南無阿弥陀仏、往生之業には念仏を本と為す、と
又云く、夫れ速やかに生死を離れんと欲(おも)はば、二種の勝法の中、且(しばら)く聖道門を閣(さしおき)きて、選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲はば、正雑二行の中、且く諸の雑行を抛(なげう)って、選んで正行に帰す応(べ)し。正行を修せんと欲はば、正助二業の中、猶助業を傍にして選んで正定を専(もっぱら)にす応し。「正定之業」とは、即ち是れ仏の名を称するなり。名を称すれば必ず生ずることを得、仏の本願に依るが故なり、と
 そこで念仏一つという人は、ただ念仏、はじめから一つでない、始めは聖道門、そして浄土門、こういうように仏教は人きく二つの門がある。その中の聖道門をさしおきて、それを「閣」という。選んで浄土門に入れ、そこに「選ぶ」という。選んで選んで、そういう選びから一向専修は生まれてくるのである。
 聖道門というのは、いわゆる此土入聖という。この世において、さとりをひらいて仏となる。私が煩悩を断ちきり私の迷いをふりすてて、ついに仏となっていく。この世でなっていく、そういういき方を聖道門という。これを理想主義という。これを聖道自力と申す。浄土門は彼土入聖という。この世において私が煩悩を断ちきっていくという、そういうことは到底だめだということがわかって、彼の土、弥陀の浄土に往生して、そこで仏となっていく、そういう本願の道を選んでいくことを浄土門という。聖道門をさしおいて、浄土門に入れというのを選びと言う。選ぶということは、選び取るということもあるが、選びとる前に選び捨てるということがあるわけである。これを捨という。それを廃捨という。それを捨てる。今我々が持っているものがあるわけである。それを捨てるのである。
 たとえて言えば、赤ん坊が今、ナイフを持ったとする。これを捨てさせるにはどうしたらよいかというと、捨ててしまえばいいようなものだが、赤ん坊だとこれをもぎとろうとするととてもじゃないが、批抗して泣くだろう。そこでそのかわりに何かをやると、はじめて前に持っていたものを捨てることができる。私が何かを選びとることによって、廃てるということがある。
 聖道門というのは聖道自力といって理想主義である。理想主義とはいわゆる私はやればできるはずだ、力を持っているはずだ、たとえできなくても人の二倍やれば、あるいは三倍やれば必ずできるはすだ、こういって悟りをひらこうとする。こういういき方を理想主義といい、それを自力というのである。聖人はそういういき方を九才から比叡山にこもって二十九才まで二十年間やられた、けれどとうとうできなかった。
 その師匠である法然上人は、十五才から四十三才まで二十年間やんなさったけれどもできなかった。それをいわゆる煩悩をたちきってさとりをひらくという。いろいろの行かあって、座禅というものもある。けれども比叡山では回峰行ですかな、何日間か何キロかの山道左右歩いていくという、あるいは常行三昧というのは、何十時間か眠らないで南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏といわゆる弥陀の本尊の前で念仏をしてまわっていくという。そういう行をつんでそこで煩悩をおさえて道を開こうとする。そういうのを聖道門という。今日、聖道門を本当にやっているという人はほとんどいないと思う。
 しかし、そういうのを時々やる人かおる。そういうのを即身成仏という。いろいろちがうけれども真言宗では滝にうたれて精神統一しなから、心の中に大日如来を念じ大日如来のダラニを唱えて、修行を積んでいくという。そういうのをやる人はあるにはあるがそれで仏になったかというとなかなかなれない。
 あれは英彦山(ひこさん)だったかな、どこかの穴の中に一週間ばかり入られたというのがあった。穴に入るのに大変な修行を積むのだそうであるか、何も食べないで、何日間かして、出て来たら仏さまになんなさったかと言ったら、やっぱりならんというか、今何かしたいですか、と言ったらひげを剃りたいと言った。(笑)髪を切ってひげを剃りたいと言ったのは、本当に人間らしいなと思った。仏さまはそういうことは言わない。仏さまだったら、人を助けたいというのである。けれどもそうは言わない。できないのである。
 選捨、選んで浄土門に入れ、浄土門には雑行、諸の雑行をなげすてて選んで正行に入れ、これを選ぶ。選んで正行に入れ。正行とは何か。
 正行は五種正行という。雑行はいわゆる雑多な行、五種正行はいわゆる読誦正行、正行とは阿弥陀一仏を対照として阿弥陀仏についてその本願を書いたお経を読み、その浄土を述べたというお経、そういうものを読む、あるいは聞く、阿弥陀仏一仏というものに集中する。それを正行という。そうならないでいわゆる雑多なものをするのを雑行という。読誦、観察、読んで考えてそしてお礼を申して称名念仏し、讃嘆供養する。これが五種正行という。讃嘆はほめたたえ、感謝し、供養はお花やお香をあげることをいっておる。相手が南無阿弥陀仏である所を正行という。あれやこれや雑多な仏を拝むのでなく、雑多な行をやるのでなしに、弥陀仏を中心として読誦、考え、礼拝、称名、讃嘆供養と心が定まってくることを正行という。それは選ばなきゃいかん。それは投げ捨てなきゃいかん、そういうものがある。大体この五種正行というのを見ると、これが非常に大事だということは、これは勤行である。勤行というものをすると、その中に大体は入っている。
 帰命無量寿如来、南無不可思議光とお経をあげるのは読誦である。あげながら考えておる。そしてその一句で「煩悩障眼雖不見、大悲無倦常照我」と煩悩に眼さえられて、目はあかずといえども大悲ものうきことなくして我、我身を照らしたもうとそこまでいただくと、南無阿弥陀仏とほんとに心にひびくところがある。
 お礼を申し、礼拝し、念仏し、感謝し、お花をあげ、供養しておる勤行、そういう弥陀一仏を対照に勤行をし、五種正行のうち、正定業をとって助業をかたわらにする、これを「傍」という。選んで正定業は称名念仏で、これを専修、一向専修というのである。礼拝その他を助業というのである。助業というのはその助伴、たすけになるもの、伴のうてそれをたすける。南無阿弥陀仏のたすけをするのである。
 ごはんを食べるときに、主食というのかあって、これが一応米、ごはんである。これが主であるが、それだけ食べるわけにはいかないんで、おかず、副食をそえて、それを伴のうて食べると、ごはん、主食が進むのである。
 称名念仏が主、その他が伴。それを助伴という。助業という。そのたてわけがはっきりきまる。あれも大事、これも大事、みんな大事でなしに一番大事なのは南無阿弥陀仏と念仏申すことである。
 なぜか。それは本願の行であって如来、南無阿弥陀仏として私にいたりとどいて下さって、私の念仏になる。そういうのが本当の念仏である。称名念仏こそが中心である。それを一向専修という。選んで選んで選んで捨てて、さしおいて、そこで三選、三選というところに、その人の転回がある。その人の進展がある。今までは何でもできるように思ったものが、だんだんとこのこと一つとなっていく、そこに進展がある。その人にさしおいて、なげすてて、かたわらにというところに、その人のめざめがある。それが選ぶということである。
 南無阿弥陀仏というものは、勧められたからといって、直ちにそれを一生懸命やるというわけにはいかない、やっぱり考えて考えておるわけである。そして、どこかでなる程そうかと、はたとわかるところがあって、だんだん選びとっていくわけなのである。そういうことがあるのを三選という。だから念仏というのは必ず選びである。それは盲目的にそれに従うということは到底できない。
 私自身が考えて体験し、そしてそういうふうになっていくところを三選といった。そこに最後に廻心というものがある。その廻心というものが念仏なのである。一向専修なのである。一向専修の人において野心ということたた一度あるべし、どこが野心か、最後のところに廻心がある。宗教には二つある。一つは断絶の宗教である。もう一つは連続の宗教である。このことも何回か申したと思うが、その断絶の宗教において廻心ということかある。連続の宗教においては廻心ということばないのである。
 連続とか断絶というのは何か、それも何回か申したが、第一の段階はいずれにしましても資糧位(しりょうい)という。資はもとで、糧はかて、たべもの。商売をするにももとでがいる。何かやるには、先ずたべものがいる。それがものごとをやっていく根本になければならん。もとでを集め、糧を集めるその段階、聞いて考える。そういう段階、それを資糧位という。次は加行位(けぎょうい)という。それを実行する。それで聞・思・修という。そして通達位(つうだつい)という。通達し、それが本当にわかる段階である。そしていよいよ深いところにはいって修習するという。修は学習する。修はおさめならうという。生活の上に生きてくるようになる。それを修習位(しゅじゅうい)という。これを信心という。あるいは本当に体得するという。そしてそれが生活上に生きてくるところそ生活実践と言う。そして究竟位(くぎょうい)という。そしてこれが最後のとどのつまり、おわりを極める。これを仏果という。仏のさとりの世界をいう。よく仏法を聞いておるけれどもわが身につかないというのは、私の生活の中でまだ生きてこないというが、生活の中に生きてくるのは最後の方である。だいぶんがんばらんと生きてこない。そこまでいくのが大変である。
 連続の宗教とは聞いて考えていく、この出発点、この出発点からあなたががんばって、だんだんと実行を積んでいくと、いろいろなことはあるけれども、ついにわかるようになる。そして生活の中に生きてきて、とうとう一番深いところに到達する。これが到達点、がんばっていきさえすれば必ずできるという。しっかりやんなさいと言うのは連続の宗教である。われわれはだいたいそう考えている。がんばってやればできる。今勉強はできなくても、一生懸命すれば必ずできる。スポーツについても同様に、ゴルフにしても、野球にしてもへたくそであるが、しっかりがんばったら必ずできるようになる。そういうように、やっている人を励ます。しかしなかなかそうはいかない。そういうように言うのを、理想主義の宗教という。または、努力主義の宗教とも言えよう。やればできるんだ、がんばれば必ず到達するんだ、そこまでいかないのは、あんたの努力か足りんからじゃと、こういうのは自力の宗教というのである。
 現在、創価学会にしても、天理教にしても、だいたいすべての宗教か連続の宗教である。断絶の宗教は世界に二つある。二つしかないのである。一つが浄土真宗、一つはキリスト教。断絶の宗教は、かねて申すように、がんばってがんばって行く途中に大きな大きな絶壁がある。そこまで行くとはねかえされて、ここから先に進まない。もう一ぺんやりなおしても、どうしてもわからん。体得できない。信心が生まれない。この厚い璧、こういうものをもった宗教、そういうことを説く宗教を断絶の宗教というのである。
 キリスト教もそうである。がんばってかんばっていったら、神の国にいくとは決して言わない。そんなことはない、あり得ない。そこでこの段階を一向専修というのである。この段階を聖道門といい、自力というのである。これを難行道というのである。
 易行道というのは、この絶壁の彼方に易行道がある。難行道の果てである。そこに易行道があり、それを浄土門というのである。浄土門はどうして成り立つのかというと、この壁にぶつかって、何ぺんもはねとばされて、とうとう最後に、この壁の絶壁の下にうずくまって、私にはもはやこういう道はなりたたないのか、私になりたつ道はないのかと本当に求める時に、この絶壁の彼方からこの究竟位、如来の世界から私にとどいて下さる。向こうから私にとどいて下さるものがあるのである。それを南無阿弥陀仏の働きという。弥陀の本願という。
 名号、南阿弥陀仏の本願が私にとどいて、私が南無阿弥陀仏とただ念仏するところに、私は通達位の世界にあげられるのである。それを断絶の宗教という。如来の働きというか、如来の廻向というか、如来の働き、力による、それを本願力と。本願力によって、この私がこの絶壁の下にひざまずいて、そして私自身に目がさめていくところを廻心というのである。廻心は断絶の宗教にある。断絶の宗教にしか廻心はない。だからキリスト教も廻心ということを言うのである。必ず廻心ということを言う。廻心懺悔ということがキリスト教の大事なところである。そこが非常に浄土真宗と似ておる。
 どこが違っているのか。それは南無阿弥陀仏というところである。廻心するというところは似ているが、南無阿弥陀仏になるというところが違っている。違いというところを知らないといかん。あの人達は南無阿弥陀仏を持たない。南無阿弥陀仏というのを、一向専修という。キリスト教ではお祈りをあげる。そういうのは人間のことばてあり、人間の祈りを言っている。
 南無阿弥陀仏は如来より賜る、その如来廻向の働きが南無阿弥陀仏なのである。念仏申した所を廻心といい、一向専修というのである。まあ一応概略的なことである。廻心とはどういうことか、それを親鸞聖人の教えで先ず頂いてみよう。

二、廻心とは
 『唯信鈔文意』、二十の六である。はじめから五行目「但使」とある。読んでみよう。
『但使廻心多念仏』といふは、『但使廻心』はひとへに廻心せしめよといふ意なり。『廻心』といふは自力の心をひるがへしすつるをいふなり。
 廻心というは、自力の心をひるがへしすつるをいうなり。それが親鸞聖人か言われた言葉になって出ている。出発点、資糧位・加行位、聞・思・修と努力していく段階で、その心根、心の根っこを自力の心というのである。その自力の心がひるがえされてゆくところ、そこに信心がある。それを廻心というのである。この自力の心をひるがえしすてることを廻心というのだ。そこにはじめて信心がある。そういうようになっている。
 だんだん具体的になっている。ではその自力の心をひるがえし、捨てるとはどういうことか、それから少し先の方である。廻心の内容である。読んでみよう。
「自力の心をすつ」といふはやうやうさまざまの大小の聖人、善悪の凡夫のみずからが身をよしと思ふ心をすて、身をたのまず、あしき心をさがしくかへりみず、また人をよしあしと思ふ心をすてて、一向に具縛の凡夫・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の誓願・広人智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。
 そこで、廻心というのは何か、それは自力の心をひるがえしすてる。その自力の心とはかというと四つある。
 自らか身をよしと思う。これもたびたび申しあけている。これが一番根本。われわれは自己自身、私というものは悪くはない、決してまちがったことはいってない、本当の道をいっておると、いつも深い自己肯定に立つのである。これが一番根本である。
 根本だから、人が言っておるのを聞くとよくわかる。みずからが身をよしと思う。ならば廻心とは何か。廻心とは、自らか身をよしと思う心をすてることである。廻心とは我は悪ろしとなる。私か悪かったとわかること、私の方がまちがっておったとわかること、それを廻心というのだ。
 次に、身をたのむ。身をたのむとは何かというと、如来をたのまず、深い自己過信をいっている。われわれは如来などたのまない。それで身をたのむというのは、しっかりがんばらなきゃいかん。やればできるはずだ、そういうように自己を信頼して、自分がしっかり努力すれば、必ずできるはずだというところに、わが身の力、能力を過信している。如来を問題にしない。廻心というのは如来をたのみたてまつるのである。如来をたのむというのは、如来にすべてをおまかせし、如来のよきようにと、如来を信じていることである。それを如来をたのむというのである。
 第三に、悪き心をさがしくかえりみる。さがしくというのはかしこげに、私に悪い心がみえたらどうしたらよかろうか。こんなことではいけない、もう少し立派にしなきゃいけないと、私が私の悪き心を、かしこげにあつかって、はからうことである。廻心とは何か、はからわないのである。はからわないとは何か、それは「悪いこの心、これが本当の私、南無阿弥陀仏」となること、そういう自己にめざめていくことである。
 第四に、他の人をよしあしと言う。自分の主人であろうと、どうであれ、それを冷たく批判して、良いの悪いの、つまるのつまらんのと言って、人を厳しく批判する。責任転嫁、私は何も悪いことばない、向こうが悪いんだと責任をいつも他に転嫁する。それを自力の心というのである。深い深い自己肯定である。それがひるがえされてすてられることを廻心というのである。そうしたら、人のよしあしをいわなくなるのである。みんな重い宿業の人、業をもった人とわかる。重い業とは何か、そういう性格である。どうにもできないような現実、そういうふうなものをかかえた人達であると、本当に理解することができる。そして、人をよしあしと言わなくなる。こういうようになるのを廻心という。
 その断崖絶壁の下で、今まで私かできるはずだ、やれるはずだといっておったのが、自分がやれないということかわかった。そして、今まですぐれた人間、よい人間と思っておったのが、そうではないことがわかってきた。そこに転回というものがおこってくるのである。これではいけないといっておったのが、これか本当の私とわかってくることを言っておる。廻心とは思いもかけないような転回である。自らへのめざめがあり、それに続く如来へのお詫びを懴悔と言う。廻心懺悔となるのである。懺悔と必ず続くことばである。
 自分にめざめると共に、今まで自分か思いということも知らないで、いつも私は正しいと自己主張しておった。自己肯定しておった、そのお粗末さをお詫びし、本当に申し訳ないことであった。自己中心の自己過信の如来を無視して生きておった。自分というものにめざめて、お詫びを申さざるを得ないことを懴悔というのである。必ず廻心懴悔と続く、それがおこることを「ひるがえし」という。それを断絶の宗教の転回点というのである。
 そのような廻心はいかにしてできるか、それは如来の智慧、即ち私の上に大きな仏の智慧がいたりとどいて、私自身を本当に知る智慧になって下さる。如来の智慧がいたりとどき、私自身を知らせる。われわれは、自分を見る目がないわけである。自分を見ると自分の方が正しいようにしかみえなかった。しかし、その私の上に如来の智慧がとどいて、如来の眼が生まれてきて、如来が私を見て下さるように、私が私を見ることができるようになった。
 思えば今まで私が私を見ておったのは、色めがねで見ておったわけである。近頃は色めがねとはあんまりいわない。サングラスという。私もどこか、沖縄でも行こうというときには、サングラスを持って行かないと日光が強いからサングラスをかける。すると、その色に見える。赤いサングラスは赤い色に見える、オレンジ色にみえる、みんなオレンジ色になる。サングラスをはずすと違うわけである。私どもはみんな色めがねで見ている。いつも色めがねをかけて見ているのである。
 自己中心という色めがねをして見ておる、よかった、自分はまちがいないと思うている。しかし、如来のめかねを頂いてみると、如来の眼に映るような私の姿か見えてくる。そしてお粗末な私であった、こういうていたらくの愚者であった。われは恐ろしと、わかってきた。それは如来の智慧が至りとどいて私自身をみることかできたのである。その如来の智慧を信心というのである。
 信心というのは、私か信ずるのでは毛頭ない。如来の智慧か至りとどいた。それを他力の信心というのである。こういうものが起こることを断絶の宗教、あるいは転回、廻心懴悔というのである。それは一回である。回数などはいう必要もない。ただ一回である。一回とか何とかいう必要もない。一回である。
 いま卵がある。卵の中には黄身と白身と胚という部分がある。どこをみても目玉はない、どこを見ても、くちばしもないわけである。親鳥の熱をいただいたからといって、その親鳥の智慧、親鳥の働きというのが残ってはいない。その働きによって、目玉ができくちばしがはえ足がはえる。そのように、如来の智慧によって、だんだんとものを見る目、自己を見る目ができ、念仏を申す口ができ、聞法に出ていく足かできてくるというところに、親鳥のいたりとどいた姿がある。親鳥が私になるわけである。
 今はもう二月も終わりになった。三月四月になると柳が芽を出す。太陽の光がとどき、そして春の暖かさ、その温度がとどくようになっておる。それは太陽の働きである。その柳を分解してみても太陽がどこかにはいっとるというのではない。太陽か木になってしまったわけである。如来が私にいたりとどいて、私の信心になったと言ってもよい。如来を探してもない。私になってしもうた。そしてとうとう殻を破って出てきた、そこを廻心という。殻を出てくるところを廻心という。廻心になるまでにずうっと育てられるということかあるわけだ。育てられてはじめて廻心ができる。殻を破って出たのは一ぺんなのである。二へんも三べんも殻を出るなんてあり得ない。そんなことはない。事実として一ぺんしかない。出たところを廻心という。そこに、ほんとうに申し訳ないことであった、われは悪し、これが本当の私。また、みんな業をもって、自分自身の現実を頂いて、皆苦しんでいるのであるとよくわかる。これは如来の智慧か、如来の心がいたりとどいて私自身を見ることが出来たのである。これを廻心というのである。廻心懴侮、これを信心という。信心の一番はじめを廻心というのであって、一ぺんしかない。殻が破れたところをいうのである。これは、親鸞聖人がおっしゃった、廻心である。
 しかるに、この著者即ち唯円というお方が廻心ということをそこに説明されておる。本文を見てみよう。先の十六章もなかなかよく考えて書かれた文章になっておる。終わりから四行目くらいである。
その廻心とは日ごろ本願他力真宗を知らざるひと弥陀の智慧を賜りて「日ごろの心にては往生かなふべからず」と思ひて本の心をひきかへて本願をたのみまゐらするをこそ「廻心」とは申し候へ。
 廻心とは日ごろ、平生常日ごろという、真宗、本願他力真宗を知らざる人、本願他力、如来の本願である。他力、如来本願の働きをいっておる。真宗は浄土真宗、これはいわゆる宗教法人としての浄土真宗でなしに、いわゆる「念仏成仏これ真宗」。これは『浄土和讃』(11−19)にひかれておる。また、「選択本願は浄土真宗なり」。これは、『末燈鈔』(21−2)に聖人が言われておる。
 選択本願は浄土真宗なり。浄土真宗というのは二つ言ってある。浄土真宗とは宗派にはあらず。選択本願、如来の選びに選ばれた南無阿弥陀仏一つで往生していくという、選択本願の念仏成仏を本当にいただいて仏となっていく。それが浄土真宗、これが真実宗教で、それを真宗というのである。真宗とは選択本願。教行信証の宗教を真宗というのである。宗派にはあらず、くりかえすように、真実宗教を浄土真宗というのである。
 他の宗教はすべて教信行証。他の宗教は教信、教えを信じて実行していって、あかし、証果、結果を得る。救いを得る。そこに自力の信、自力の行、それか教信行証の宗教である。真宗は選択本願、念仏成仏、本願の教え、それを聞いていく。その教えの中に南無阿弥陀仏の働きがこめられておる。その本願の教えの中の南無阿弥陀仏の働きが私の迷いの心、自力の心を突き破って、そこに他力の信を与えられるのである。その他力の信のはじめを廻心懺悔というのである。
 そしてそこに現生正定聚、当生滅度といって、正定聚不退の位について、ついに仏となる。そういうのを与えられるのである。教行いたりとどいて信証を生ず。これを念仏成仏という。選択本願の働きと申す。それを知らざる人、真宗を知らない人は、日ごろ本願他力、真宗を知らざる人、自力の人、従ってまだ資糧位、加行位におる人、その人が弥陀の智慧を賜わるのである。
 今までは人間の智恵で考えていた。ああしようか。こうしようか。これでよかろうか、あれでよかろうか。人間の智恵で考えておったのであるが、だんだんと教えを聞きひらくと、如来智慧海。深広無崖底。といわれるそのものが私にいたりとどいてくるのである。
 如来の智慧は海の如く深く、広くはてしがなく、底がない。その如来の智慧が私にとどいてくる。智慧は光明、南無阿弥陀仏の中身である。如来の智慧がとどくとは、私が教えを聞いて、教えに照らされること。教えに照らされて自分がだんだんとわかってくることである。それを「弥陀の智慧を賜って」というのである。
 今まではそんなものはなかった。自分の智慧であって、自分の考え一つしかなかった。それが教えを聞いて、自己自身がだんだんわかってくることを如来の智慧が届くという。教えとは、教行信証、南無阿弥陀仏の教えを聞くということは、教えの中にこもる南無阿弥陀仏の働き、如来の智皆の働き、それが私を照らしてくるのである。照らされて私がだんだんとわかってくることが、卵がひよこになるのである。
 方々からこの会に来て頂いて、時々感想を聞かせて頂くと、今まで自分はいろいろわからなかったことが、自分自身のことがだんだんわかるようになったという話を時々うけたまわると、私はもう本当にうれしく思うのである。それが、その人の進展である。それ以外に進展はない。それが、如来のお働きがだんだんと皆さんにとどいているという姿である。これほど嬉しいことはない。それが教行である。教行信証の教行で浄土真宗に近づいて来ておる。
 あなた方が何かを信じて、やろうというんじゃない。南無阿弥陀仏の働きなのである。だんだんと廻心ということが近づいて、とうとう私が悪かったとなったら、大変なことである。廻心である。廻心ということただ一度あるべし、ということになる。その廻心とは、「日ごろ本願他力真宗を知らざるひと弥陀の智慧を賜りて」というのは一応申した。そして考えた。日頃の心にては往生かのうべからず。日ごろの心というのは先の方をみると、もとの心をひきかえてとある。もとの心というのは本来私が持っておる心、本来というのはずっと前からである。生まれた時から、いや、生まれる前からあった。いわゆるアプリオリーという言葉があって、人間が作ったんじゃない、後から加えたんじゃない、そのもの自身がもっておるもの、本来の心、それをもとの心という。人間にそなわった心である。誰もがもっていて、もたない人は一人もいないというのである。人間に備わった心、それをもとの心、それを日ごろの心という。それをひるがえす、それがひるがえされるということがなければならん。それが廻心というのである。もとの心では往生かのうべからず、もとの心をひるがえし、と、この人は自力の心をこういうようにいっておる。
 自力の心をどうしてひるがえすのか、それは弥陀の智慧を賜りてである。ひるがえして、ひきかえて、本願をたのみまいらする。本願一つに帰入していく。本願をたのみまいらす。それを廻心というのだと、こういうような表現になっている。非常に苦心して書かれてある。親鸞聖人の方が、もうちょっと違うが、かなりこの人はすぐれた人である。具体的にいいところをいっている。
 「さこそ悪人をたすけんといふ願不思議にましますといふとも、さすが善からん者をこそたすけたまはんずれ」と思う。このもとの心、これを定散の心、定散自力疑惑、はからいの心というのである。自力の心といえば、一つは定散自力の心という。一つは自力疑惑という。一つは自力のはからいという。その自力をだいたい三つに分けていう。定散というのは、定善散善で、また定散自力という。定善散善、これは正しい心、正しい行いで、「さすがよからんものをこそ、たすけたまわんずれ」というのを定散自力の心というのである。とはいうものの、やっぱり正しい行い、正しい心がある人をたすけて下さるのであろう。それを定散自力という。われわれはそう思うのである。
 こんな悪い心がおこるようでは、こんな日ごろの行い、口からはいかり腹立ちねたみのことば、心もそうであるし、行いもこれではたすからない。それを定散自力の心という。定善散善の心にふりまわされるのである。こうでなければならんと思うておる。それを自力というのである。自力の心をこれを本来の心という。これをもとの心というのである。人間の上にそなわった自力疑惑、それは疑惑である。正しい心、正しい行いでなければならんというところに、如来の心というものは全く無視されていて、人間の自己中心のおもいだけがゆきかいしておる。それを自力疑惑という。
 「もとの心をひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ」
 本願とは何か、本願というのは、たすけんとおぼしめしたちける本願である。その本願は具体的には南無阿弥陀仏に極まる。それを本願の名号という。それを選択本願という。南無阿弥陀仏をたのむ。たのむとは何か、それはすべてをおまかせするという、それに乗託するともいう。南無阿弥陀仏とは、光明無量の働きであり、寿命無量の働きでアミターバー、アミタユースという。それを阿弥陀の働きという。阿弥陀という。南無阿弥陀仏に乗託する、南無阿弥陀仏をたのむ、本願をたのむというのは、本願をいただいてその光に照らされて、定散自力の私が本当に照らされ照らされて、こういうていたらくの愚者とめざめること。正しい心でなければならん、正しい行いでなきゃならんとそういうものにふりまわされており、如来を無視して自己中心で右往左往しておる。こういうていたらくの愚者と照らしだされて、本当に自己を知ること、それを本願をたのむ、本願をたのむとは南無阿弥陀仏に照らされることをいっておる。「さこそ悪人をたすけんという願不思議にましますというとも、さすが善からん者をこそたすけたまはんずれ」と思うほどに、さすがとはいうものの、この人はなかなかすぐれた人である。あらゆる表現で親鸞聖人のまねをしたわけでは毛頭ないが、この人独特の表現でよくぞこういってこのことをいっておる。
 本願をたのみまいらすとは何か、それが廻向、それが廻心である。自己の本当の姿を照らし出されることをいっておる。自力疑惑、定散自力のはからい、そういうものにふりまわされている私、これが本当の私、南無阿弥陀仏という。その南無阿弥陀仏に照らされた姿を南無阿弥陀仏の本願に乗じた、本願をたのみたてまつる姿という。これが本当の私と照らし出されたそれを光明無量の働きというのである。これを本願をたのむという。同時に他力の悲願はかくの如きわれらがためなりけり、南無阿弥陀仏それを摂取不捨という。それを寿命無量におあいしたという。寿命無量につつまれたという。それをもとの心をひるがえすというのである。これを寿命無量に乗託したというのである。それを合わせて本願をたのみまいらすという。それを廻心というのであると著者はいった。それは廻心懴悔である。
 この懴悔は、先に『唯信鈔文意』二十の六に親鸞聖人のおっしゃったことと殆ど軌を一にし同一のことを別の角度から言った。実にこの唯円という人の領解は深い。言葉をまねたのではない。コピーではない。本当に自分の言葉でいっておるそういうところが優れておる。
 廻心とは何か、聖人は自力の心をひるがえしすてることだとおっしゃった。この著者は「日ごろ本願他力真宗を知らざる人、弥陀の智慧を賜りて日ごろの心にては往生かのうべからずとおもいてもとの心をひきかえて本願をたのみまいらす」といっておる。
 根本はこれが本当の私と目がさめることが大事である。われわれはこの自力をとらなきゃいかんとおもう。これをとらなければ信心にならないと思う。自力をとるというところが自力である。それがはからいである。血で血を洗うとはこのことである。そうじゃない。これが本当の私とめざめるところに如来の智慧が、光明無量がとどいてくださっておる姿がある。智慧と慈悲である。智慧と慈悲が南無阿弥陀仏である。慈悲を賜ったところを他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけりというのである。そこに弥陀をたのむという姿がある。本願をたのむという姿がある。南無阿弥陀仏に乗託したという姿である。如来のお働きというものがある。すべてそのような力を廻心という。そして感謝、懴悔である。それを廻心というのである。廻心は必ず懴悔であり、そして感謝である。
 最後に廻心、感謝と懴悔は南無阿弥陀仏である。そのことをひとことふれておこう。十七の四の一ばん最後の行、「『称仏六字』といふは南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり、『即嘆仏』といふはすなはち南無阿弥陀仏を称ふるはほめたてまつる語(ことば)になるとなり、また、『即懴悔』といふは南無阿弥陀仏を称ふるはすなはち無始よりこのかたの罪業を懴悔するになると申すなり。『即発願廻向』といふは南無阿弥陀仏を称うるはすなはち安楽浄土に往生せんと欲ふになるとなり」
 そこに南無阿弥陀仏は廻心懴悔という。南無阿弥陀仏を申すこの念仏の中に、これが本当の私と照らされた、その光明無量におうた姿がある。これが本当の私、南無阿弥陀仏である。そして寿命無量におうた姿、それが感謝、他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり南無阿弥陀仏。これが阿弥陀という内容である。
 南無は願、願いという。南無はかえれという。われにかえれ、如来の世界へかえれという願である。その願がとどいて南無阿弥陀仏になる。そうすると発願廻向、如来の世界へかえりまつらんという野心、それを願生心という。如来の世界へ帰っていく心、如来の岬界に帰っていくというのは、親心の中に帰っていくのである。子心、そういうものが南無である。如来を忘れず、如来の世界に生きていく、それを即発願廻向という。略すると願心という。また、願生心という。従って、南無阿弥陀仏と申すことが懺悔であり、感謝であり願心である。
 南無阿弥陀仏、その短いわずか六文字の中にそのような深い愚昧がこもっておる。そこで念仏申すということが大事なのである。
 暁烏敏という先生は、「雀はチュンチュン、烏はカアカア」と言われた。雀は悲しい時もチュンチュン、うれしい時もチュンチュンである。情けないときもチュンチュン。人間は南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏の中に感謝があり、懴悔があり、野心かあり、如来を憶う心があり、申し訳ないという心かあり、ありかとうございますがあり、すべて即ち南無阿弥陀仏になるのである。
 「雀はチュンチュン、烏はカアカア、人間は南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とおっしゃったというのである。実におもしろい表現である。念仏申すのが大事である。非常に大事なことで最後に浄土真宗というのは南無阿弥陀仏になる、南無阿弥陀仏を申すということが一ばん中心になるのであって、南無阿弥陀仏の内容を今話したことになる。廻心というも懴悔というも、南無阿弥陀仏である。
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