歎異抄 第十六章
第一回目 平成2年1月24日講義
「歎異抄講読 異義篇3(巌松会)細川巌講述」より

一、自力廻向の意義 二、自力の心とは 三、断悪修善

【第十六章】
一、信心の行者自然に腹をも立て悪しぎまなる事をもをかし、同朋・同侶にもあひて口論をしては必ず廻心すべしといふこと。
 この条、断悪修善のここちか。一向専修の人に於いて廻心といふことただ一度あるべし。その廻心とは日ごろ本願他力真宗を知らざるひと、弥陀の智賛を賜わりて「日ごろの心にては往生かなふべからず」と思ひて、本の心をひきかえて本願をたのみまいらするをこそ「廻心」とは申し候へ、一切のことに朝夕に廻心して往生を遂げ候ふべくば、人の命は出づる息、入るほどを待たずして終わることなれば、廻心もせず柔和忍辱のおもひにも住せざらん前に、命つきば摂取不捨の誓願は虚しくならせおわしますべきにや。口には「願力をたのみたてまつる」といひて、心には「さこそ悪人をたすけんといふ願不思議にましますといふとも、さすが善からん者をこそたすけたまわんずれ」と思ふほどに、願力を疑ひ他力をたのみまいらする心欠けて辺地の生を受けんこと、もとも嘆き思いたもうべきことなり。信心定まりなば往生は弥陀に計らわれまいらせてすることなればわが計なるべからず。悪からんにつけてもいよいよ願力を仰ぎまいらせば、自然(じねん)の理(ことわり)にて柔和忍辱の心も出でくべし。
 総て万の事につけて往生には賢き思を具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること常におもひ出(いだ)しまゐらすべし。しかれば念仏も申され候、これ自然なり。わが計らわざるを自然と申すなり。これ即ち他力にてまします。然るを自然といふことの別にあるように、われ物知り顔に言う人の候うよし承る、浅ましく候。

一、自然廻向の異義
 この十六章も前の続きで、聞違った信心「異義」を表すものである。その内容が冒頭の「…といふこと」の中に入っている。この文章はわかりにくい。中心は「自然に腹をも立て」でなしに、「信心の行者、自然に必ず廻心すべしといふこと」です。一つは「必ず廻心すべしといふこと」で、廻心のあやまり。もう一つは「自然に必ず廻心すべしといふこと」で、自然のあやまりである。 ちょっとややこしい文である。
 主語は「信心の行者」で、ここではいわば間達った考えの人達なのである。けれどもそういう人が、「自然に必ず廻心するということが本当なのだ」と言うが、これが間違いなのである。
 腹をもたて、これは心の問題で意業。悪しぎまなることを犯し、これを身業という。行いである。口論をする、これを口業。ことばで身口意の三業、生活業をいう。
 信心の行者が、日頃の生活の中でを立てたり、悪いことをしたり、口あらそいをしたりして、心、行い、ことば、そういうような身口意の三業、日常の生活の中で、お粗末なことがおこったならば、そのときには自然に必ず廻心する。それが正しいいき方であるというのである。 廻心とは心をひるがえす。廻心懴悔(さんげ)と申す。天にはじ、地にはじるのが懴悔、人に詫びる場合は慚愧(ざんき)という。こういうていたらくな、即ち心の中で腹が立ち、また行いも悪しざまなることを犯し、ことばで口争いをして、信心の人でありながら、そういう聞違った行ない、ぶざまなことがおこったならば、その度に私が悪かったと如来にお謝りすることが大事である。それを必ずすべしという、そういうのは非常に大事なことのように見えるが、それは誤りで異義である。本当の信心ではない。本当の信心は、悪いことをした度に、如来に謝るのではない。
 また「必ず」、「自然」と使ってあるが、必ず廻心するのが自然であるというのはおかしい。私が悪かったと如来に謝る。悪いことをした度に謝るのではない。廻心というのはただ一度である。また廻心懴悔するのは自然。それを自然というのではない。自然とは如来の働きを自然というのである。自然と廻心この二つが間違っておる。廻心にあやまりがある。自然があやまり、そういうことである。この章は文章からいうとややこしい。 口語訳でいうと、 信心の行者が腹を立てたり、悪いことをしたり、友達や仲間にあって言い争いをしたり、そうなったときには自然に必ず廻心するのがあたりまえである。そういうところに自然が出てくるのはいかん。必ず廻心することが自然。そういうのが自然にでてくるようにならないかん。こういっているのはあやまりである。これは断悪修善。われとわが悪をたち切って善いことを実行しようというそういう心であろうか。
 一向専修の人。本当に信心一つと定まりて念仏申す、そういう信心の人においては、廻心ということはただ一度である。それは信心のはじめを廻心というので、たびたび廻心するのではない。
 本当の廻心というのは、まだ聞法の浅い本願他力真宗を知らなかった人が、本当の信心がひらけたとき本当の智慧を賜って、私の日頃の日常の世間心では往生がなかわないと思って、もとの心、即ち私の自力の心、日常の世間心を捨てて、本願他力をたのむ道、そういうようになることを廻心というのである。そうであるのに一切のこと、悪いことをするたびに、朝晩に廻心して往生をとげるのであれば、人間の命は出る息、入る息を待たないで終わることがあるから、それほどにまだ廻心しないうちに、まだ柔和忍辱のおもいに任せないうちにいのちが終わったら、もはや往生できないということになって、摂取不捨の誓願はむなしく実をあげないことになるであろう。
 口には願力をたのみたてまつるといって、心では、悪人をたすけようという願は不思議というても、それでもやはり善い人こそたすけられるにちがいないと思う。それはともに、願力を疑い、他力をたのみまいらす心かけて、報土の往生をとげず、辺地、懈慢の生を受けることになって、もっとも、全くなげきかなしむべきことである。
 信心定まったならば、往生は弥陀に計いまいらすべきことであるから、私が悪いことをしてもそれをなおそうというような自分の計いで往生するのではない。悪ければ悪いほど、いよいよ他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけりと願力を仰ぎまいらせて、願力自然。如来のお働きで柔和忍辱の心もでき、またよろずのことにつけても往生には賢き思いも具せずして、ほれぼれと弥陀のご恩の深重なることをつねに思い出せば、念仏も申されて、それが願力自然というのである。
 わがはからわざるを自然というのである。それが他力である。それであるのに悪いことをするたびにあやまる、そういうはからいを自然という、自然というのがそれ以外にあるというておるのは、あさましいことである。だいたい、そういうふうにいうておると思います。
 信心の行者が腹を立てたり、悪いことをしたり、同行に対して口論をする。そういうことがおこると、そのたびごとに自然に廻心しなさい、というのはあやまりである。
 賢善精進の異義としては、三つ紹介されている。一つは第十三章で「本願ぼこりとて、弥陀の本願不思議に在しませばとて悪をおそれざるは(23−7)」、悪をおそれないのはいけないという。いま一つは第十四章で、「念仏滅罪」。罪をつくるごとに念仏申し、その念仏で八十億劫生死の罪を除くという。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と一声の念仏で八十億劫の重罪を滅す。悪いことをして念仏をして罪を滅ぼしていく。そしてこの第十六章の「廻心滅罪」、廻心して罪をなくすということ。
 どこが違っているのか。悪いことをしたら念仏で消そうとする。廻心懴梅して消そうとする。いわゆる賢(かしこ)げに善を励み念仏申そうと努力精進していく姿、これは大変まじめな人で、自分の罪に堪えかねて、なんとかこれを滅したい。罪をつくらないように。一方では念仏で、一方では廻心懴悔で、そこに罪をおそれてそれを滅そうとする。それは大変殊勝な心であって、いわゆる異義として、これを批判することは厳しいように思われる。しかし、これらは、自力のはからい、定散二善の世界である。定善はこころ、散善は行い。定善は廻心懴悔、散善は念仏。廻というのはひるがえす。私の心を、如来の方向に向きをかえて、如来に対して廻心懴悔していく。南無阿弥陀仏と口に念仏を称えて滅していく、そういうのを散善という。これらを自力のはからいという。

二、自力の心とは
 自力のはからいとはどういうことか。自力疑惑、自力疑惑というのは、自己中心。これをみていこう。 『唯信抄文意』二十の六はたびたび出るところだが、終りから八行目。ちょうど真ん中ぐらいに「自力の心をすつ」とある。
「自力の心をすつ」といふはやうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫のみづからが身をよしと思ふ心をすて身をたのまずあしき心をさがしくかへりみず、また人をよしあしと思ふ心をすてて、一向に具縛の凡夫・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の誓願・広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。
 そこで、すてるというのを除くと自力のこころになる。
 ようようさまざまの大小の聖人、大乗小乗の聖者・菩薩、善悪の凡夫、善人の凡夫・悪人の凡夫、それぞれすべての人、自らが身をよしと思うこころをすて、すてを除くと自らが身をよしと思う心である。即ちそれが深い自己肯定、私は正しいという自己肯定のこころである。身をたのむ。わが身をたのみ、なんでもやれる。やればできると自己を過信しておる。また、悪しきこころをさがしくかえりみる。悪いこころがおこるとこれではいけないと自己卑下に陥り、人をよしあしという。自分は高いところにおって人を裁く、冷たい批判をする。そういうようなものを合わせて、自力という。自己中心である。これらを自力のはからいという。
 疑惑とは何かというと、疑惑というのは仏智疑惑という。自力というのが根本である。仏智疑惑、如来無視という。如来のことなどは全く無視して、おれがおれがと思うておるこころ、そういうのを、自力疑惑という。
 今、悪をおそれる。悪いことをしたらいけない。悪いことをおそれておる。それはより正しいこころ、正しい行い、そういうようなものを問題にしているようでもあるが、本当は自力疑惑で、よいことができるはずだという深い自己肯定と、自己過信をもっている。そういうところにおちこんでいるわけで、私が悪いことをしても如来がおいでになって、私を見まもっておって下さっておる、というようなことばつゆほども思わない。そういうものを自力という。自己中心という。
 私が念仏して罪を滅す、弘が廻心して罪をなくすという。私中心になっていて、如来のことなどは毛頭思わない。そして自分でやれると自己中心になっているのを自力という。自力疑惑の働きをはからいというのである。はからいは、自力疑惑を根底にもって働きかけてくるもので、はからいは必ず如来無視である。廻心して罪を滅そうとするところには深い自己中心があって、如来がどう思われているかという事は出てこないわけである。
 如来の大悲を知らず、自己自身のおもいの中で処理していこうとするところに、深い自力疑惑があり、本当に南無阿弥陀仏におあいしていない。本当に如来の本願におあいしていない姿がある。
 そこで異義とは、これら自力のはからいである。如来の本願を全く領解していない。如来の本願を知らない姿である。これを異義というのである。善いことをやって自分の悪いところを補っていこう、悪いところはなくしていこう。そういう姿が如来本願を知らず、如来本願をおもわず、全く深い自力疑惑、はからいなのである。それを賢善自力の異義という。間違っている。
 本文、二十三の十、十六章にかえると、「この条、断悪修善のここちか」この間遭いは断悪、われとわが悪を断ち切って、自分で善をやっていこうという自力疑惑、いわゆる断悲修善、そういう立場であろうかと言っている。先ずこれがはじめである。

三、断悪修善
 断悪修善。断悪は悪をやめる。修善、善を行なう。これは非常に大事なことで、子供の教育、あるいは一般的にいって幼い者の出発点では、是非言わなければならない大事な教えである。即ち「善いことをしなさい、悪いことはやめなさい」といって子供は育てなければならない。「善いことはしなさんな、悪いことをしなさい」というわけにはいかない。そういうことはあり得ない。
 特に母親は子供に善いことと悪いことを、いわば瞬間的に言ってやらなければいけない。
 子供の教育では、子供がやったことを、すぐそれはいい事、これはいけないよと、教えてやらねばいけない。近頃は、子供をやりたい放題にほったらかしている親が多くて困る。私はJRで福岡に帰る。また、バスなんかに乗っていると、小さな男の子が土足のまんまで、シートの上に乗る。昔はそんなことはなかった。必ず靴をぬがせて、それで座るなら座らせる。立たせるなら立たせていた。間違いを平気で見ておるなんてのは実にけしからんと思うけれども、何ともいいようがない。しかめ面して見ているしかない(笑)。何ともいいようがない。そういう母親もおる。
 それから、反対に子供が一生懸命母親に言う。あれが見えた、これが見えたと言っているのに、母親は知らん顔して相手をしない。まあなんちゅうことかと思う。子供が可哀想である。必ず応対してやらないといかん。また一方では、子供がせがむとバッグの中からビスケット、チョコレート何でも取り出す。まあ子供にあんな甘いものを食べさせてから…と、思って見ている(笑)。甘いものは子供の敵であって、歯は悪くなるわ、体の血液は酸性に近よるわけで、ろくなことはない。情緒不安定になってすぐ泣きわめく、それは甘いものを食べるからカルシウムを取られて情緒が不安定になる。いやまあ、いろいろあるが、要するにもうちょっと子供をしっかりしつけなければいかん。それは悪い、それは善いとしつけなければいけない。善いことと悪いことをはっきり教えておくことである。
 では、なぜ断悪修善をとがめておるのか。それは、大事な大切な教えであるけれども、これを強調していくと、出来ることと出来ないことがあるものである。出来ることも、努力してやりぬくと優越感あるいは偽善、そういうことかおこる。出来れば驕慢、やれないと劣等感で偽善。やりぬいたら、人間は良かったということになるかというと優越感、お前たちは出来ないではないか、わしは出来たんだぞという、エリート意識。そして形だけであって、やるのはやったけれども、内容、心の中はいわゆる虚栄心、名聞、利養、勝他といわれるような自己の外側をかざるだけになる。結局、打算と名聞、利養、勝他でやっておる、そういうことがある。
 本当にそれが善なのか、悪をやめたといえるかというと、それは外側だけの問題に終わる。やれない人は劣等感に陥りやすい。俺は駄目だということになる。外側だけを飾って内側はすっからかんなのである。いよいよ虚栄心で塞がっておる。そういうことがあるわけである。外側はできているけれども内側が崩れておる、これはなんとか無理して虚栄心で、できたような格好をするということになる。外側だけを塗りたくっておるにすぎない。そういうことになりやすい。結局、一応できたのはできたけれども、ほんとうは内容を伴わないものなのである。
 『口伝鈔』、二十五の四はじめから五行目
一、善悪二業の事。「上人親鸞仰せにのたまはく『某はまたく善も欲しからず、また悪も恐れなし。善の欲しからざる故は弥陀の本願を信受するに勝れる善なきが故に、悪の恐れなきといふは弥陀の本願をさまたぐる悪なきが故に』、然るに世の人皆謂(おも)へらく『善根を具足せずんばたとひ念仏すといふとも往生すべからず』と、また『たとひ念仏すといふとも悪業深重ならば往生すべからず』と。このおもひ共に甚だ然るべからず。もし悪業を意に任せてとどめ、善根を思いの侭(まま)にそなへて生死を出離し浄土に往生すベくば、あながち本願を信知せずとも何の不足かあらん。そのこと孰(いず)れも意に付せざるによりて、悪業をば恐れながら即ち起こし、善根をばあらませども得ること能はざる凡夫なり。かかる浅ましき三毒具足の悪機としてわれと出離に途(みち)絶えたる機を摂取したまはん為の五劫思惟の本願なるが故に、ただ仰ぎて仏智を信受するに如かず。然るに善機の念仏するをば決定往生とおもひ、悪人の念仏するをば往生不定とうたがふ。本願の規模ここに失し、自身の悪機たることを知らざるになる」。
 前の方は歎異鈔の文章とよく似ておりますね。「善人なほもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」とよく似ておる。
 大事なのはちょうど真ん中で、 もし悪業を意に任せてとどめ、廃悪、断悪、悪をやめることが私のおもいどおりにでき、善根をおもいのままに具えて、即ち善根を自分のおもうとおりにやって、そこで我々が断悪修善ということが充分にできるのであれば、あながち必ずしも本願を信知しなくても何の不足があろう。それで充分であろう。
 善いことをやり悪いことをやめ、それで充分である。が、そのことがいずれも意に任せざるによりて、両方とも、善を行うことも悪をやめることも、こころに私の思うとおりにどちらもいかない。そこで実際には「悪をも恐れながら即ち起こす」。おそるおそる悪いことをやっているのであり、よいことをあらませども、ありたいと思うけれども得ること能わざる凡夫なりとこういうようになっておる。できないことはない。やれることはやれるだろうが、形だけにおわる。形だけやっても優越感がおこる。いわんや、ほんとうはやれないのである。やれないのである。なかなか続かない。継続一貫ついにやり抜くことができない。
 断悪修善の教えは我々を道に立たせる、出発させる第一段の数えである。第一段階の教え、倫理的、道徳的宗教、そういうものを断悪修善という。断悪修善だけでは宗教じゃないが、宗教の要素が入っておる。
 神様があなた方のやっておるのをいつもじっと見ておって、善いことをやったならば一つ丸をつけ、悪いことをやったら一つかけをつけ、これを誰知らずとも、すべて天の神様の帳面にのっているのである。そしてあなたが死んだときにその全体を合計して善い行いが多ければ天に、悪ければ地獄におとす、そういうような倫理的宗教、裁きの宗教である。これを審判という。最後の審判があるという。いろいろの宗教、マホメット教にしても何にしてもだいたい最後の審判というものがあってそして悪いことをした者は結局、神によって追放されるということになっておる。
 そこには善いことをやっていくという非常によい段階はあるが、本当にそこにやすらぎ、神に救われていくというやすらぎ、そういうものよりも、裁かれるという恐れ、最後の審判ということへの恐怖がある。そういうような宗教であって、本当に人間が独立して往く、そういうことが欠けておるものがある。やはりどうしても形式的なものになりやすい、偽善的になりやすい。本当の宗教は、悪も救われていく宗教、めざめの宗教、目がさめるという宗教でなければいけない。
 目がさめるというのは何か、それは大きな進展、大きな進展の宗教である。進展とは何か、卵からひよこへ、どんぐりから苗木へ、そういう宗教、人間が進展していく宗教である。
 断悪修善の宗教、悪いことば決してしない。良い一面もあるが、本当の宗教に比べると甚だ型式的である。神様に最後の審判を受けて、地獄に堕ちるとか堕ちないとかそういうことになる。そうではなしに人間の進展。卵があって、その卵が殻の中にいる。親鳥から生み出されるわけである。この卵が善いことをやり、悪いことをやって、善いことを積み上げて、最後に総計してみると、善いことをやったからこれは天国、悪いやつは地獄に、そういう宗教とちがったもう一つの宗教がある。善い悪いは一つの出発点ではあるが、私がこの自己中心の殻というものを出る。出るためにはこの殻をなくせばいいというものではない。この卵がかえっていく、親鳥の熱をうけて進展していく。目玉ができ、くちばしがはえ、足がはえて毛なみがそろって卵がひよこになって、本当の道理を見る目ができ、本当のことが言える口ができ、本当のところへ進んでいける足ができて、全体がきれいな毛なみに覆われてくる。そういう存在。そしてそこに殻か破れてこの親鳥と共なる世界に出る。そういう宗教を浄土真宗という。仏教という。
 卵は、我々が生まれたばかりの凡夫、ひよこを菩薩という。この菩薩からついに仏となる。仏が親鳥、そういうのが宗教、それを浄土真宗というのである。
 大事なのは何か、その熱をうけること、熱をうけて私が育っていくこと、親鳥の熱、それを教えという。教えをうけて殻の中で育つ、それが第一、殻の中にいる間に目ができ、くちばしがはえ、足がはえてくるわけである。そしてとうとう殻が割れて、そして出る。その殻が割れて出るところを廻心というのである。廻心というのは、その殻を出るところをいっておる。それを廻心懴侮というのである。殻の中で育つところを十九願、二十願というのである。
 これはまあ自力の段階である。その自力の段階でだんだん育っていくわけであって、そこを出るところが十八願の成就というのである。そういうような段階がある。はじめの段階では善いことをやって、悪いことをやめる。それが非常に大事な教えである。
 そこで異義というのは、いわば途中の段階、異義は途中の段階でとまっておるわけである。異義とはまだ殻の中の途中の段階、何の途中か、即ち本当の信心の天地にはいるその途中の段階、殻の中の、そこではやはり自分でやらなければならんということにこだわっているのである。まったく救われないのではない。救われる途中にいるのである。
 本文にかえってみると、「一向専修の人に於いては廻心といふことただ一度あるべし」そこが大事なところである。一向専修の人に於いて廻心ということ一たびあるべし。先ずはじめに、廻心ということについてとりあげておる。問題は二つあるわけで、廻心と自然である。彼の方は自然のことで、廻心ということただ一度あるべしとある。廻心というのは殻が破れるところをいっておる。それはたった一回である。廻心は廻心懴悔と続くのである。廻心とは、廻は方向が変わること。回ともいう。心がかわる。廻心とは心の方向がかわること、それを廻心というのである。
 どういうように変わるのか。人間の心の方向は理想主義の方向である。これは先にもあるように定善、散善である。善をし悪を断ずるという、断悪修善の方向である。
 自力の方向なのである。それが一番根本にある。いま、私の心というものを、教えを聞いてだんだんと掘り下げていく。だんだんと私の心が深くわかってくるということ、それが教えを聞くということである。いろんな人が仏法を聞いている。今まで自分が言うていたことは、本当に、愚痴だったなあ、子供のことをああも言い、親の言うことを聞かんといい、主人のことをいろいろ言うて来た。自分は当然正しいことを言っていたと思っていたけれども、実は愚痴だった。自分が高いところに立って、人を裁いておったわけで、本当に高あがりをしていたということになると、自分の言うたことが驕慢であったということかわかるだんだんこのようにわかってくることが大事なことである。教えを聞くとだんだん深くなって自分の心が深くなってくるか、最後はどうなるのであろうか。教えを聞いた最後には、きれいなきれいな信心、玉のようなひかり輝くような立派なものが心にあるだろうと思う。信心をそういうように考えているからである。信心ができて、立派な心ができる。立派な心になると思うが、実際にやってみると、仏法を聞くとだんだん心の中にきれいなものがなくて、何かそこに非常に変なものかあることかわかる。
 そこでわれわれはどういう方向に向くかというと、「これではいけない」、「自分が落ち着きのない喜びのない心、醜い心を持っているなどとは今まで考えもしなかった」となる。やっぱりピカッと光るものがいるのじゃないかと思うのを理想主義の方向という。そこで、もう一遍教えを聞き直してみる。きれいな心ができるように期待しておるわけである。しかし、そうではない。そこで、もう一遍やりなおしてと、ゆきつもどりつしてしまう。人間の心の方向は、自分の心の中に立派なものができないと承加できないのである。やはり本当のものをつくろうとする。理想主義をゆきつもどりつしていく。
 廻心とは何か。廻心とは、本当に教えを聞いて、このお粗末な心が本当の私だと目がさめて、もう一度やりなおすという人間の心の方向がかわること。理想主義の方向がかわること、そして断悪修善でなしに、私の心の現実をこれが本当の私、私の本当の姿と抱きとめる。そして念仏する。今までは私の内なる心というものは、これではいけない、これではいけないと思っておった。これをなくしてと考えておったのであるが、廻心とは何か、これが本当の私、これが私の本当の姿とこの現実をだきとめて、その前に頭をさげて念仏する。それを廻心というのである。
 その方向が変わったのである。後もどりしていったのではない、変わった。これが私とわかった。それを廻心というのである。そういうように、一つ何か立派なものを求めておったものが変わること。また廻心とは如来の方向に変わることである。われわれがこれではいけないというところに深い自己執着、自己中心がある。そこには如来というものは一つも登場しない。これではいけないんだ、これではいけないんだ、ほんとにやり直すんだというところには、人間中心で如来は少しも登場しない。そこに如来の方向がみえてきたというか、如来の方向に心が変わって、他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけりとなる。南無阿弥陀仏となる。そのことを廻心という。これは思いもかけないことであって、如来がはじめて登場してきた。如来の方向に、はじめて心が向いた。そういうものを廻心というのである。
 先にも書いた。にわとりが卵になるという話をしたが、卵の中におったひよこの殻が割れて、外に出たとする、それを廻心というのである。その時に何がわかるかというと、このひよこが発見するものは、一つは殻である。深い自己中心の殻を発見する。それが殻の発見。それを自己自身を知るというのである。これが本当の私とわかる。もう一つの発見は、ここに鶉烏がおるということの発見である。この二つが殻を出たときに見えるものである。この二つのものを廻心という。
 今まで自分の殻をこれではいけないと考えておった。それがこれが本当の私の殻とわかる。も一つは、今まで全然気がつかなかった親鳥というものに気づく。他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけりと、如来の方向に変わる。それが、いわゆる廻心の方向である。廻心というのは内容である。廻の内容である、廻は自分がひるがえされる、如来の方に眼が向くのである。それを廻心という。廻心は必ず懴悔(さんげ)である。懴悔とは如来にあやまる。如来に対して深くお詫びをすることをいっておる。
 懴はいわゆるサンスクリット、インドの古いことばで、サンマという。サンマというそのサンをとった。悔は後悔ですね。
 サンスクリットのサンマというサンは、これに相当する中国の漢字がなかったからである。なぜかというと、サンというのは如来に対してお詫びすることをサンというのである。そういうのが中国になかった。なぜなかったかというと、中国には如来というのがなかった。仏というのはなかった。だからその如来にお詫びするということは訳しようがなかった。訳せないからそのままことばを音でとって、懴という文字を使ってサンと読ませて字をあてた。悔という、お詫びするというのは中国にもある。これはゲと読んである。これはくいる、なせしことを憎むという。なせしことを憎み、どうしてこういうことをしたのかとにくみ、それを後悔することを悔という。それを一緒にして懴悔という。内容としては、私か本当にまちがっておったと如来にお詫びをし、この罪は背負っていきたい。それを懺悔(さんげ)という。地獄におちるのならば地獄の底までおちていきたい。再びなさじ、もうこのようなことはなさじ、することは毛頭ない。如来よ私は本当にまちがっておったのでございます。この智は私が背負っていきたい。再びなさじという。こういうものを懴悔という。
 人は自己の殻を見いだし自分の深い自己執着を見いだし、如来を無視しておったことを見いだして、それをまちがっておったと如来にお詫びをする。そして私がこの咎を背負っていきたいという。再びこのようなことがないようにと願うわけである。それを懺悔悔という。廻心は必ず懴悔である。
 これが私の本当の姿と懺悔する。わかる。そして如来に詫びることになる。廻心は必ず懺悔。廻心懺悔を信心のはじめというのである。信心の一番はじめを廻心懺悔というのである。略すと廻心というのである。
 廻心というのはなぜおこるのか、どうして廻心ができるのかというと、如来の心がとどいておこるのである。如来の心を南無阿弥陀仏という。これを本願という。この南無阿弥陀仏は光明無量、アミターバーという。寿命無量、これはアミタユースという。如来の心を光明無量、寿命無量、アミターバー、アミタユース、南無阿弥陀仏という。これが私にとどく。これがとどかないと、一生本当の自己はわからない。光明無量は私を照らし、私の殻を照らすといってもよい、これが私と知らせる。私がこれが私とわかるのは、如来の光明無量がとどけばこそである。寿命無量は、照らされた弘を摂め取って、南無阿弥陀仏と念仏にして下さる。それが廻心懴悔というものの内容なのである。
 廻心懴悔というのは、われわれが廻心懴悔するのであるけれども、とどくべきものがとどかないと私は廻心懴悔できない。とどくものがとどくというのは、私の迷いを照らし破るわけである。私の迷いは理想主義である。自力、仏智、疑惑である。私の自力を照らし破るわけである。照らし破って、「これが私」を知らせる。「これが私」とは何かというと、自力に執らわれておる私、理想主義の私、現実をいつもこれではいけない、これではいけないといっている私、これが殻、理想主義、自力、「これが私」と知らせることによって、照らし破るのである。
 そしてそこに照らし出された私が南無阿弥陀仏となる。それが如来の寿命無量の働きそのままが照らされて、南無阿弥陀仏になる。それを廻心という。自己がわかる。そして如来がわかる。そして念仏になる。それが南無阿弥陀仏になる。つまり仰ぎみる世界を持つ。これが私と知らせるめざめは、光明無量に照らされて自己にめざめる。南無阿弥陀仏になって、その南無阿弥陀仏を仰ぎみる世界をもつ、それを廻心というのである。
 それを信心というのである。信心は必ず自己へのめざめである。仰ぎみる世界をもつ、そういう内容を信心と言うてある。自己かわかることを「機の深信」、仰ぎみる世界を「法の深信」という。その一番はじめを廻心懴悔という。
 金太郎飴というのは長い飴であるが、どこを切ってみても金太郎が出てくる。一番はじめに出てくる金太郎、それを廻心という。次々と切ってくるけど全部金太郎。何か、信心は自己へのめざめである。南無阿弥陀仏である。そして仰ぎ見る世界である。他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけりと仰ぐ、それが法の深信、信心はいつも機の深信、法の深信である。どこでも金太郎、金太郎のいちばんはじめが廻心である。従って、自分で懴悔するのではない。自分で懴梅するのでなしに、信の世界というのは、廻心懺悔をはじめとして、それが続いていく、如来の働きがとどいて、自然に続いていくことを信心というのである。
 一つ一つのことを自分がやらなきゃならないのではない。ことにぶつかるごとに自己を知って、これが本当の私、南無阿弥陀仏になり、他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけりになっていくのが信心である。南無阿弥陀仏の中に廻心懴悔がはいっておる。自然に出てくるようになっている。
 それはいい線までいっておるけれども、自分でやらないかんというところ、「必ず廻心すべしということ」がまちかっている。「信心の行者は必ず廻心すべし」がまちがっておる。そんな必要はない。廻心ということを考え違いしておる。信心そのものの働きなのである。それは金太郎飴のように生涯を尽くして、一貫して廻心懴悔していくようになっておる。われわれがやるのではない。信心そのもの、如来の働きがとどくのである。如来の働きなのであるから、他力の信ともいう。それを自分でやろうというところにまちがいがある。
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