信とは何か

『歎異抄講読(前序について)』細川巌師述 より

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 『歎異抄』について新しく講を改めて、四月から五年計画で始めています。毎月一回としまして六十回で全体を終る予定です。今日はその二回目でございます。

 『歎異抄』全体は本文十八章から成っておるのでありますが、序というのがあって一番初めにありますのが前序,後の方にまた少し長い序がありますのが後序、真中にも一つ序があります。前序と中序と後序の三つですね。それで今、前序に入っておるのであります。大体の主旨としましては、『歎異抄』の言葉の意味を明らかにしていくということが一つと、それを通して仏教、特に法然、親鸞というお方を中心とした仏教の考え方を明らかにするということでございます。したがって文字の訳や文章の訳と共に、もう一つそれを敷衍して仏教の精神に触れていきたいと思います。

 今日は一つ一つの言葉に入りまして先ず「先師口伝の真信に異なることを歎き」の先師口伝ということについて。先師というのは私の亡くなられた先生という意味で、著者であります唯円にとって、先師は勿論親鸞というお方であります。したがって、亡くなられた先生親鸞聖人の口ずから伝えられたという意味になるわけです。しかしながら増谷文雄という先生の『歎異抄』によりますと「一応なる程唯円にとって、亡くなられた先師、即ち親鸞の口伝えの信ということであるが、親鸞聖人にとってはその師法然上人のいわゆる先師口伝の真信である。つまり、ただ親鸞聖人が伝えられたということでなしに、法然上人から親鸞聖人に口伝えされ、更に親鸞聖人から唯円に伝えられた真信なのだ」という意味のことが出ております。これはすぐれた御意見であり、なる程とうなずかざるを得ない考えと思います。しかしながらそれを更に遡って考えるならば、法然という人の真信もまた、いわば先師口伝の真信であったわけです。歴史的に、あるいは事実として法然上人の書かれた『選択集』その他の著書にありますように、この法然をして本当に法然たらしめたのは善導大師というお人でございます。この人は今から千五百年程前の唐の時代の浄土門の高僧でした。その人から源信という人を経て口伝されたものである。それが先師口伝となるわけです。ではそれをずっと尋ねてゆくとどうなるか、それはまさしく釈尊である。つまりお釈迦様でございますが、その書かれました『大無量寿経』の本願の教、その教が印度において龍樹、天親という人を経て、中国にそして日本にというふうに、いわゆる先師口伝となるわけです。それで釈尊はどうして『大経』というものを説かれたのかというと、その根本には弥陀の本願というものがある。この弥陀の本願を明らかにされたのが『大無量寿経』で、それによって次々と心が流れ伝わり受け継がれてきた。いわゆる先師口伝の真信なのです。それが伝承ということですね。あるいは歴史と申しますか、それも単なる歴史ではなく、いわば弥陀の本願の歴史、あるいは本願というものを受け伝え、生活し、本当に体験したそういう歴史、それが先師口伝となるわけです。増谷先生のお言葉を更に敷衍して言うならば、遠く弥陀の本願、『大無量寿経』のお心というものが、次々と相承され伝承を経てまいったということです。このことは非常に大切です。というのは、次に述べる真信の証明ということに、このことが係わってくるからです。

 真信、これは真実信心という。真実信心というものには真実であるという証明がなければならぬ。しかしその証明というのは難しいことでございます。そこで、それがもし出来るとするならば、方法は二つあるであろう。一つは他ならない私自身が本当にそうだとわかることである。それを自証といいます。私において納得せざるを得ないものがあるということです。しかしながら単なる自証は主観的で独断に陥るという弊害があるのでございまして、自証だけでは不十分である。そこで自証と共に、も一つ客観的にこれが証明されておることが大事である。ではその客観的な証明は何であるかと申しますと、一番大事なものはやはり伝承ということである。それは時間という,即ち何千年の時の中に耐えて、あるいは何千年の歴史の中を生き抜いて、現在ここに伝わってきているということ、それは大事なことであると思います。たとえば白金という金属がある。これが白金であるという証明は色々あるわけです。しかし根元を追求していくと証明のしようがなくなってくる。最後にそれが本当に白金だということは、客観的に証明されねばならん。まあ、どんな火事の中でも燃えない、色が変らない、変化がないということ、何千年埋めてもさびもこないし、色も質も変らない。そういうふうになりますと白金自身で証明しているわけですね。本当のものはあらゆる時間を潜り抜けて、それもただ長いのじゃない、様々な人生の変動、社会体制の変革、経済状態の変り、あるいは環境の変化、そういうものに耐えてそこに流れてきている。そういうことが強いものを持っているのです。そういうものが証明の一つになるわけですね。伝承と自証という。曾我量深というお方に『伝承と己証』という書物がありますのは、そういう主旨によるのだと思います。

 現在色々な宗教がございまして、その中に新興宗教があります。新興宗教というものはたくさんあるもので、私は福岡におりますが、福岡の方でいわゆる宗教法人会というものがあります。それは単立宗教法人と申しまして、福岡に本山があるものが、実に三百いくつあります。福岡県だけです。びっくりしましたですね。何々稲荷、何々会、何々社とかがたくさんありまして驚きました。その新宗教の人達は良いことを言っているわけです。しかしそれが本物かということが、残念ながら全くわからない。決して私が批判を申しているわけではないのです。今例をあげてみると、三五(アナナイ)教という。なぜこう読むのかわかりませんが、私がこの宗教を知りましたのは、私の大学で文化祭をやりまして何年かに一遍宗教会をやります。いわゆる宗教の紹介をやるわけです。そうして色々の仏教、神道、キリスト教、天理教、金光教、その他色々なところに案内状を出しまして、一つのところが二十分に時間を限りまして、私のところの宗教はこういうものだと紹介してもらった。学生のためにですね。その中でこの人が飛び入りで来ました。三五教と申しますと言いなさるから、これはどういう宗教でございますかと聞きましたら、世界に三大宗教がありまして、仏教とキリスト教、マホメット教でございます。その次の五大宗教にヒンズー教、神道何とかと五つ言われました。その三大宗教と五大宗教の真髄をとり、エッセンスを集めましてここに作ったのが三五教でございますと言われたんで僕もびっくりしまして、大変な宗教が出来たと驚いた。そこで十分間に時間を制限してお話を承ったわけですが、日本海の稲佐の浜というところにあります海岸の石、これを鎮魂の石という。これを三宝の上にのせて座禅を組み、そうして心をしずめるんだという話でございました。それが世界の三大宗教と五大宗教を集めた宗教かなと思って、僕もうーんとうなったわけです。それが本当かどうかというとみんな危ぶまざるを得んわけです。なぜかというとそれには客観的な証明がない。即ち文学で申しますと古典、それは長い歴史の中で世界の色々な人に読まれ、この本は良い本だというのが古典である。古典というものはそういう意味でありましょう。いわば人類の持つ文化財ですね。それが歴史に耐えてきたわけで、そこでおのずから客観性というものがあるわけである。そういうものがないというと普遍性がない。ないというと言い過ぎである。けれどもそれに乏しいと言える。納得させるものに乏しいということですね。そういうところが新興宗教の一番弱いところですね。欠点とは申しません。弱いところでございます。それでは長く伝わっておりさえすれば本当のものかというと、そうはいかん、伝承と自証というものが大事である。横道にそれましたが、先師口伝ということはいわゆる伝承ということを表わしている。

 伝承とは何かというと、単に受け継ぎ伝えたというものではない。一器の水を一器に移すという事がある。一つの器の水を次の器に移して、その水が次々と受け継がれてきた。それを一器の水を一器に移すと申しますが、それだけでは不十分だと思います。それでは単に受け継がれたにすぎない。そうではなしに、時代と環境の中でそのことが本当であると証明される必要がある。即ち時代と環境の中で真実さを顕わす、顕真実という歴史が伝承なのである。そのことを少し申しておきます。

 そこで上の方から申しますと、釈尊の『大無量寿経』の中心は弥陀の本願というもの。それから七百年後に現われました龍樹、この人をナガールジュナといいまして、インドの生んだ大天才、大乗仏教中興の祖という。この人は『十住毘婆沙論(十住論)』というものをあらわした。『十住論』を読みますと単に釈尊の言われることを受け継いだというものじゃないんです。受け継ぐということ、いわば口移しという。一人の人が言いなさったとおりを次の人がいう、そういうのが口移しですね。そういうものではありません。弥陀の本願の心というものを頂いて、乱れきった時代、精神的に非常に混乱をきたしておったインドの中で仏教はすでにおとろえて地をはうような時代になっておった。そしてたくさんの思想が入っていた。一つは西洋、また従来ありました古代インドの色々の哲学、そういうふうなものが起って色々の説がとかれていた。九十五種の外道ということですね。この思想的に乱れた中で本当に人間が生きてゆくには、弥陀の本願しかないんだと言おうとしている。それが『十住論』です。くわしく申す時間がないですが、その『十住論』は、釈尊が『大無量寿経』で言われたことが本当だということを、いわば新しい時代新しい環境の中で証明していった。釈尊の教を受けて実行しそれを生活することによって、弥陀の本願の真実であることを明らかにした。それを顕真実と申します。単なる伝承でなしに真実であるということの証明。そういうことが伝承という意味だと思うのです。

 同様に天親という人はインドの生んだ龍樹に並ぶ大天才であって、今日その書物の残っておりますものは、実に卓越したものでございます。この人は『浄土論』というものをあらわしましてそこに「世尊我一心に尽十方無碍光如来に帰命し、安楽国に生まれんと願い奉る」弥陀の本願の真実ということを明らかにされた。単に受け継いだというものではない。法然と親鸞という人も同様である。増谷先生が言われるように、真に法然上人から口伝えられたのが親鸞聖人でありますけれど、それは単に受け継いだというものではありません。法然という人は『選択本願念仏集(選択集)』を書いた。その『選択集』は非常に読みやすい書物でございますが、この最後に自分は一人善導という人を師匠としていただいているんだということが述べられている。「偏依善導一師」という。その『選択集』が非常に大きな誤解を受けたのです。遂に最後は法然は土佐の国に流されました。(実際はそこまで行かなくて済みましたが。)罪を負うて門人の何人かは首を切られ、親鸞も越後に流されるという悲劇があって後にようやく許されました。けれども法然の墓をあばいてその骨を辱かしめようという比叡山の動きが出てきて押し寄せて来るんです。そこで門人達は法然上人の骨を堀おこして、それを負うて逃げて行くというようなひどい目に逢いなさった。この『選択集』の原本は集められて燃やしてしまわれた。親鸞は『教行信証』というものを書いて、この『選択集』が本当のものであるということを明らかにし、法然に報いると共に弥陀の本願というものを明らかにしていった。それが伝承ということである。それが先師口伝ということである。

 唯円は『歎異抄』を著した。そうして単に親鸞の信仰を受け継いだということではなく、そのことによって親鸞の本当の趣、即ち『教行信証』の内面と申しますか、それを明らかにされた。それと共に弥陀の本願を顕らかにしている。伝承とはそういうものである。藍より出でて藍より青しということがある。それはこの弟子がますます師よりも更に深く具体化してゆくことを申すわけでございます。こういうふうなものを伝承と言います。

 これは余談になりますが、和辻哲郎というお方は御存知と思いますが東大の文学部の先生でありましたが、この人に小さな書物で『孔子』というのがございます。薄い書物でありますがそれを読んで見ますと、人類の教師の一人はキリスト、一人は釈尊であり、一人は孔子であると、これらの人々に共通なところは、この人達自身はその土地のごく一隅で、わずか狭い範囲で死んでいった人であるけれども、この人達が人類の教師になって、今日三千年も後に多くの人達の心をうるおしている。それはなぜかというと、その弟子によるのである。その弟子達が何代も何代もかかって師の教を明らかにしていった。それが人類の教師としてこの人達があるゆえんである、ということが名文章で書いてある。さすが和辻先生ですね。卓見のお方だと感じました。伝承ということはそういうことです。ただ受け継ぎ伝え守ってきたというもんじゃない。それによって明らかにしていった。それによって真実を証明していったのである。その真実を証明していったそういう歴史がなければ本当のものと言えない。それが伝承という意味だと思うんです。先に申しました新興宗教は今後、百年、二百年、五百年という後にどうなるかが問題である。その間に本当にそれを受け伝えていく人、それを明らかにしていく人があらわれるかどうかが問題なのである。そういうことが課題であると思います。

 もう一つ真信というのは真実信心です。そこで信心という言葉が私は今日非常にむずかしい言葉だと思います。みんなの思っている信心、いわゆる常識で思っております信心は、ここでいう信心とは違うのでございます。そこでこの信心という言葉をはっきりさせておかないと先に進めない。信心とはどういうものかといいますと、キリスト教と仏教では一般常識と違うところがあります。キリストの方は勿論私の専門でございませんが、キリスト教大辞典というのを引いて信とか信ずるというところを調べると、大体信心というのは信頼、即ち神のみことの正しいことを信頼してそれに従っていくということを信、あるいは信心という。faithという言葉がある。 faithfulという言葉がありまして、これは誠実だとか信頼するという意味に使ってあります。faithということになると信頼あるいは信用ということです。信心ということは信頼である。信頼というのは何かというと、これは向こうの言われることが正しいと信頼して、それに従って生きていくことが信頼心、即ち信心である。これは適確な言葉で我々にわかりやすい言葉である。

 しかしながら普通常識的には信心というのは信じこむ、疑わないということ。信じこむということは盲信あるいは狂信になりやすい。盲信というのは、その道理も何もはっきりわからないのに頭からがぶりと信じ込むわけである。鰯の頭も信心から、溺れる者は藁をもつかむという言葉がありまして、鰯の頭も信心からというのは、ある時病人があって、そこで鰯の頭をまつっていたら治ったというので鰯の頭を信じたということですが、これはまぐれかも知れません。要するに道理はわからないが、超神秘的なものをがぶりとうのみにして信じ込むことを盲信という。これは神様仏様を信頼するそれとは違いますね。

 仏教では信というのはどういう意味か、これをはっきりしなければならない。それは仏教に定義があるわけです。仏教の言葉の定義が書かれたのは一つは『倶舎論』で、言葉の意味を大体字引のように書いてある。『倶舎論』は先に言いました天親菩薩という人が著者であります。たくさんの経典の中から抜き出して、その言葉がどう使われているかということから、その信という意味の定義がしてある。後に大乗義章というのがあります。大体これらをみると信という言葉は、仏教ではどう言っているのかということが明らかになります。したがって我々が常識的に信というのはこういうものだと言ってもつまらない。原典にかえりまして本来の意味はこういうことを本来いうのだということを知っておかなければなりません。信は信頼とか信じこむという意味ではありません。仏教でいう信、信心というのはこういうのと違う。『倶舎論』によりますと、心清浄と申すのであります。あるいは『十住論』には信清浄、清浄というのがついています。それを信心というのである。清浄というのは何かというと、清らかにするということです。清らかなというのをサンスクリットではPrasadaというのだそうでございます。Prasadaという時には煩悩の入らない、煩悩の心のまじらない純粋な心をいう。信心というのは煩悩がまじらない煩悩を離れたものである。さらに寂滅といって、これは涅槃、ニルバーナという。あるいは仏の心、仏の世界ということを申すのであります。仏の世界といえば、仏とは何かとまた言わなければならないが、それはあと回しにして今は仏の世界とこうしておきましょう。人間を超えた大きな世界を寂滅あるいは涅槃という。信清浄というのは心であります。したがって心であるということになりますと、人間の上に成立するものなのです。人間の上に成立する心であるが、それは人間の煩悩を離れた仏の世界に属する心、即ち純粋無雑という。それは純粋で無雑である。盲信というのは信じこむという。疑わないというのはやはり人間のはからいで、人間の煩悩が入りこむわけです。それ故信じこむというのも煩悩の一種です。信清浄というときには要するに寂滅ということをいうのである。したがって大きな世界をいうのです。

 仏教では信心というものは道のはじめ、即ち仏教を求め出発しようという人にいうのではない。信心というのを出発点では要求しないのです。それは最後に成立すべきものとする。

 信心というのを現代語でいったらどうなるだろうか。古い言葉の意味を明らかにすることが大事です。本当は古典なら古典を読んで、それを現代語に訳さなくても、古典を読むことにおいてそれがぴったりとくることが本当ですね。ドイツ語ならドイツ語でも,英語なら英語でもそれをいちいち日本語に訳して読む必要はないわけで、本当に読む人は読むのがそのままでわからなければならないわけです。けれども一度これを現代語に訳してみるという作業もまた、ものを明らかにするという意味がある。現代語に訳したらどうなるであろうかというのは、物事を勉強していくのに大切だと思われます。現在浄土真宗あるいは仏教をやる人は、仏教専門語をやたらと使いますね。私どももそういう傾向になりがちですが、それだけではいけない。やはり専門語を私の言葉でいうとどうなるだろう、そういうことが大事な作業ではないかと思うのです。そこで信心というのを私の言葉でいうと、真の認識とかめざめということでしょう。またまごころということです。

 純粋無雑ということもあげておきます。純粋無雑とは何かといいますと、我々の雑心、雑多な心がはいらない。雑多な心とは何かというと、我々の心にはいってきますものは、いわゆる名聞、こういうことを言えば人はどう思うだろう、いやこういうことを言って人によく思われたいというもの、こういう名誉心、そういうふうなもの、また自分の懐を肥やすことにつながらせたい。さらに勝他、競争心、こういうふうな色々なものがはいるわけですね。つまり煩悩という。そういうもののはいらない、それを純粋無雑という。

 真実とはまごころ、まごころですね。現在我々は意識するとしないとにかかわらず、まごころを求めているのだと思います。政治にしましても、この人は本当に我々のことを思ってしているのか、本当にまごころがあるのかというのを問題にしている。失敗は仕方がない。世界的なインフレの中で政策がうまくいかないことがあるだろう。けれども本当に政治にまごころがあるのかということが一番聞きたいですね。我々はこれを求めていると思います。それを仏教の言葉では信という。現代のようないわゆる全地球的な時代に、自分の派閥だとか言ったって仕方がない。そうではなしに、本当に人類を思う心がいるのではないか。これがまごころですね。更に加えるともう一つ広大な永遠の心、これは広大無辺といい久遠永遠というようなものです。広い心です。広い広い心でものを包めるような、そして小さな対立を超えて全体を見渡していけるような、今の目先のことではなしにずっと長い人生を考えていけるような、いわゆる広大にして永遠なる心、そういうふうなものを仏教では信心と申すのであります。足りませんが一応そうしておきます。

 かねて申しますように人間我々は、たとえて言えば卵のようなものである。殻の中に入っているわけである。

 仏教で信というのはどういうことかというと、その殻はひとことで言えば自己中心である。その自己中心の殻の中にいる者は、どんなに心の中をあれやこれやと考え、あるいはつくね合わせてみても、自分を離れて大きなものを考えることはできないのです。自分中心に考えるしかないのである。仏教は何を言おうとしているのかというと、そういう殻の中に閉じこもっている我々に、たった一つ殻を出る世界がある。それは親鶏の熱がはたらきかけて目玉ができ、くちばしが生え、毛並が揃って、遂にこの殻を破って卵がヒヨコになる。そのヒヨコの上にはじめて広い世界、大きな心、真実まごころ、いわゆる純粋無雑なるものがそこに生きるのである。それを信というのである。仏教はこういうふうに申すのである。信というのは先ずはっきり定義しておかないといけない。

 そこで真実信心という広いところに出て、はじめて人類を考え社会を考え、そして自分自身の立場というものを超えて「ひそかに愚案をめぐらしてほぼ古今をかんがふるに先師の口伝の真信に異なることを歎き後学相続之疑惑あることを思うに」と、はじめていわゆる古今ということを考える。そして後学相続即ち自分のあとに来るその人達が疑いまどうていくことを考える。

 我々は自分を考えるのが精一杯である。しかしながら広い天地に出たならば、必ず次なる代というものを考えるようになる。それは必ず考えるようになる。これが後学という問題です。これには広い世界永遠の時というものを考える力がいる。それを信心という。それを真実信心という。

 真実に到る途中の段階を権仮と申します。中途の段階とはどういう段階かということになりますが、殻の中に入っている状態ですね。その中での信心をいいます。それを親鸞聖人の表現で権仮の信という。常識でいう信心よりは上等であります。けれども真実信心でない。権仮の信の特色は一言で申しますと恩ということがわからない。御恩というものがわからない。仏恩深遠、恩徳広大という、こういうことがわからない。これはまた後ほど申します。その人の信心が本当にあるかどうか、それはあなたが御恩ということを思うかどうかということでわかる。親鸞というお方は、如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべしといわれた。それがまことにそうである。まことに親鸞聖人のおっしゃる通りだとはなかなかわからない。それを中途半端という。それを権仮の信という。それはもう一つの殻に入っている。殻に入っていると第一に他を見くだす。それを憍慢と申します。信心のない人、あるいは信仰に無関心の人を軽蔑する。あんな奴は宗教心がなくて駄目だよとこういうことになる。それが殻に入っている信である。第二に常に名声を気にする。人からよく見られたいとかよく言われたいとか、そういうものに気をとられる。これは殻の中に入っているのである。また第三によき師よき友に近づかないということも殻の中に入っていることである。殻の中に入っていればよき師やよき友はいないのである。それが大体の特色でございます。まあたいへんこむずかしいことを申し上げましたが、先ず信心にいくつかの段階がある。全然間違った信心は、我々が普通常識的に考える、信じこむということですね。しかしながら求道によって別の殻の中に入るとお山の大将になる。そして人を見てはけなすということになります。いつも自分の名誉を気にする。そして他を見くだす。人の悪口を言う。人の悪口を言っているうちは駄目なんです。信心だ安心だといったって、人の悪口を言うようじゃつまらない。しかし、やはり批判をいうことが必要ではないか。そうです、しかし批判と悪口は違う。どこが違うかというと、悪口というものは相手をけなすことによって自分を高めようとする一面がある。批判というものは必ず願いを持っているわけである。そこに、どうか本当にしっかりやってくれという深い願いを持っている。そこにきびしい批判がある。そういう願いがなくて悪口を言っているのは中途半端の信心です。要するに今は先師口伝の真信とは何か。それは長い伝承の中から伝えられてきた。伝えられたその真実信心、それを私の言葉で言うならば純粋なまごころ、そして広大な心。そういうふうなものが先師口伝の真信です。

一、有縁の知識

 「先師口伝の真信に異なることを歎き後学相続の疑惑有ることを思うに幸いに有縁の知識に依らずばいかでか易行の一門に入ることを得ん哉」次に有縁の知識ということで申し上げたいと思います。有縁と申しますのは、普通は因縁の有ると申します。縁があるということは、出合いという言葉がございますが、邂逅と申します。たくさんの先生がおられるわけだけれど、たまたまそこに出合いというものがありましたのを有縁と申します。知識というのは、知は私を知ると申します。私の性格、私の環境、私の経歴、そういうふうなものをよく知って、よく理解して、私に適した道を教えて下さる人それを善知識と申します。

 善知識というものは三種類ありまして、一つを師主善知識あるいは教主善知識といいます。私のために教を説いて下さる人をいいます。次に同行善知識と申しますのはよき友であります。友といいます。私と同列にいまして、私の後になり先になり、一緒になり、共々に道を歩いてくれる友達をいいます。もう一つは外護善知識といいます。「げご」と読みます。普通漢音で読みますと「がいご」ですが、呉音で「げご」と読みます。外護の善知識といいますのは私を間接にまもって私の求道を助ける、そういう人をいいます。何という像だったか忘れましたが、菩薩が一生懸命求道している、その下を何人もの人が支えている。みるからにいやしい服装をした人達が支えている。そういうふうに支えてくれる人をいいます。

 善知識という人の役割は何かというと、勧証護讃といいます。勧というのはすすめる、はげますといいます。よき師よき友は我々をはげましてくれるのであります。「幸いに有縁の知識に依らずばいかでか易行の一門に入ることを得んや」。そこによき師よき友というものがなかったら、どうして我々は本当の道に進むことが出来ようか。それは必ずすすめて下さる人があり、はげまして下さる人をもたねばならない。そういうものを勧励という。宗教は書物を読んでわかるということになかなかならない。なぜかと申しますと書物というものは、そこにすすめはげましてくれるものがない。その役目を勧励といいます。次は証(誠)と申します。まことのあかしを立てると申します。あかしを立てるというのはそれが本当だということを身もって証明してくれる、その人がその人の生活の上で証明してくれる。その人を見たならば疑えない。やっぱりこの道は確かなんだなあということが疑えない。そういう人、それをよき師よき友といいます。人というものを得ないと、どうしても観念的になって具体的なことがわからない。具体的によき人によって、ああすればああなるのかということがわかる。それを証誠と申します。

 そして護といいますのは、まもり念ずるといいます。私がもし横道にそれていく、まちがった道に引きずりこまれているとそれをまもって、それは間違っている、そっちに行ってはいかんといって止めてくれる、そういうのを護るという。

 讃と申しますのは、本当にほめてくれる、讃嘆と申します。人は叱られるということが非常に大事でありますと共に、何才になってもやはりほめてくれる人があるということは大事であります。このほめるということには理解ということがありまして、たとえ万人は「お前のやることは間違っている」と非難しようが、本当に私をよく理解していない人、すなわち誤解している人ならば問題にならない。それよりも本当の一人の理解者が「あなたの言うことは正しい」と言ってくれるならば、そこに大きな力を感ずるだろう。ある書物の中に、○は大きく×は小さくということが書いてありました。実に適切な言葉です。子供の教育のことですけれど、我々にも関係があります。それを讃といいます。その役割を果す人をよき師よき友といいます。

 どういう人がそういうよき師よき友となるか、あるいはなれるかというと、それには四つあると『十住論』に出ています。

 一つは求道者に対して賢友のおもいをもつ人、賢友というのは賢い友ということ、良い友、尊敬する親友としてのおもいを持つ人である。道を求めている人、それは、あるいは男性あり女性あり、あるいは年寄りあり若い人あり子供あり、あるいは職業の千差万別、学歴のいろいろ違った、そして顔つきのおだやかな人、そうでない人、それらの人に対して区別をしない。そしてその人達に親友というおもいを持つということであって、逆にいいますと区別をしないと共に深い尊敬の心を持っている。求道の人を尊敬し、尊重する心、それは自分が高いところに上がって上から見おろして、「迷える者よ」というような指導者意識ではない。尊重の心である。

 第二はいわゆる説法者に対して尊敬心を持つ、仏法を説いてその心を伝えて下さる人に対して、尊敬の心を持つということである。これは当然のことのようでありますが、なかなかそうはいかない。私は只今福岡の方の大学に勤めています。そしてまた、仏教の会で色々な人に接触する機会があります。それらを通じて思いますのは、世の中で一番むずかしい人は、一つは大学の先生、その次は坊さんではなかろうかと思います。学者というのは本当にむつかしい。ある人が言いました。「大学の先生と話すと本当にたいくつだ。はじめの三十分間は自分の現在やっている研究をペラペラしゃべる。あとの三十分は人の悪口を言いはじめる」。それは少し極端ですが、確かにそういう面がありますね。私は毎年、学会発表をやりますが、特に若い頃痛感したことがあります。学者というのはむつかしいなあと思いましたね。新しい事実を発表すると、「そんなことはあるものか」とやられる。辛抱して、一生懸命さらに検討して発表すると「そうなるのがあたりまえである」ということになって、少しもほめてもらえない。

 それからお寺のお坊さん、これもほめることはありませんね。大体人の説教には文句をいう。法を説く人に尊敬を持ちにくいのです。皆さんは大多数の方々が法を説く側になくて、法を聞く方のかたですから違いますが、もし法を説く側にいたら、法を説く人に対してまきおこってくるのは、一つは競争心、あるいは嫉妬心です。なんとかけちをつけたいという気持ちが先にたつんですね。実に妙なものですね。これは僕は経験があるからわかるんです。本当の人というのは、たとえばどんなに自分より若い者が話そうと、どんなに学歴のない者が話そうと、それがもし本当のことであるならば「南無阿弥陀仏」と念仏がでてくる。そういうことが説法者に尊敬の心を持つということでありましょう。

 第三に自ら求道する人、前進あるいは進展する人です。自分が進展していくためには、努力し精進していくことが大事なのであります。私が一番自ら戒めますことは、言うことが三年前と同じ、五年前とかわらないということでは全く申しわけないのであります。「日々新たに」という言葉があるが、やはり自分が進展させていただいて少しでも去年よりは今年、三年前より今年の方が、少しは深いところがお話出来ねばならないと思うのであります。これは私の戒めでありますが、本当の善知識というのは自ら前進ある人のことをいいます。そして自ら仏、菩薩を尊嵩する人をいいます。これを四つありますので四種善知識と申します。

 もう一つ私流で付け加えたらはっきりするんではないかと思いますが、「仏法に命をかけた人」と思います。命をかけるとは命がけといいますが、仏法に命をささげた人だと思います。

 われらは遠く親鸞という人を善知識とあおぐ、その人はこういう四つの条件と申しますか、資格と申しますか、そういうものを考えたとき、誠にこのような四つのものがそなわった人ですね。『歎異抄』の九章をいただくと、唯円という若い求道者に対して、深い親鸞の心が出ている。すなわち「念仏申候えども踊躍歓喜の心おろそかに候ふこと又いそぎ浄土へ参りたき心の候はぬは如何にと候ふべきことにて候ふやらん」。これが唯円の疑惑です。これに対して実にこまやかなる親鸞のお答がでている。それを見ると、この若い求道者を心から尊重されたというものを拝することができる。

 また、親鸞聖人は兄弟子達にも深い尊敬の心を持って、聖覚(せいかく)の書かれた『唯信抄』を自ら解釈して、これを読みなさいとすすめられた。そこに誠に説法者への心が出てくる。勿論自ら求道精進して、ついに法然の心を明らかにされた。勿論自ら仏を尊重する一生を終られた人です。そしてもう一つ仏法に身を捧げられた人である。

二、仏教方法論

 次に仏教方法論です。仏教方法論というややこしい名前を出しましたのは、仏教の精髄、仏教の本当の精神を私達が明らかにし、仏教の真精神に到達する方法です。この方法それが大切です。どうしたらそこまで、本当のところまで行けるかという。「どうしたら」ということを方法論と申します。勉強をしようとしても、どういうふうに勉強すればいいのか、どういうふうに努力していったらいいのかということがはっきりしないと進展しない。この有縁の知識という問題が実は仏教方法論なのだといわれた人がありました。前回申しましたが、高原覚正という人の『歎異鈔集記』の上巻にのせられてある。これを読んで私の考えをまじえて申すことにします。

 何物にもあれ、いわゆる方法論ということが大切、仏教の本当の心に到るにはどうしたらよいか、それは我々が勝手に決めるべきものではない。即ち方法論は目標自体が決定するのである。ここのところをしっかりしておかなければならない。方法論というのはくり返しますと、どうしたらよいかということです。どういう順にしたらよいか、どういう道を行ったらよいか。今このすぐ裏に多摩川があって、あそこで魚釣りをしようとすると、その方法論はまことに簡単なんであります。つっかけでもはいてバケツと餌を持っていけば釣れるだろう。どうしたらよいかというのは何が決めるかというと、多摩川という川に行くならば多摩川という川自身が教えてくれまず。なぜかというとそこは浅い川で、岸もけわしくないし、むずかしい岩場があるわけでもない。大きな波が寄せるわけでもない。したがってごく簡単な方法でよろしい。が、日本海の岩場の怒濤の打ちつけるところで鯛でも釣ろうとしたならば、つっかけをはいてバケツを持って行くというわけにはいかない。その方法はかなりきびしい。よく知りませんが、防寒具を持ち足ごしらえも充分し、懐中電燈、小浮き袋、充分な食糧のほかに海に落ち込んだ時の用意という具合で、大変なものだろうと思います。多摩川に行くのにそんな恰好して行ったら人が笑いますね。しかし「いや、俺は日本海へ釣に行くのでもつっかけで行くんだ」と言ってみても、行けばつぶれるだけの話です。方法や準備は向こうで決まってしまうのです。「いや仏教を学ぶのも、俺が考えたやり方でやるんだ」と言ってもですね、それでは困るんです。「いや俺は何でも俺の流儀でやるんだ」と言っても、それはちょうどヒマラヤに登るのに高尾山に登る気持ちで行くようなものである。それは違うんです。それじゃ出来ないんです。仏教が決めた方法があるので、それによらなければならないのです。

 仏法における方法とは何か。それは一つしかないのです。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」というようなそういう世界、そこに達する方法は決まっているのです。その方法は我々がきめたのではなしに仏法によって教えられているのです。それによってやらなければならないのです。それは本願成就と申します。本願成就を説かれたものを本願成就文と言います。それは本願の成就によって成し遂げられていくわけである。それによりますと「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜」とあります。今の問題は何かというと「先師口伝の真信」ですね。その信心に至る道は「諸有衆生、聞其名号」三ついわれているのです。そうしなければならないというのが本願成就文の持つ意味です。本願成就文というのは、本願成就はどうして出来るか、言い変えると信心はどうしてできるかということが述べられているのです。

 最初からいうと聞くということです。聞法、言い変えると聞き抜くということである。聞くというのは何かといいますと、聞いて考えて実行する。こういうことが聞思修ということです。その中の聞ということを言ってある。聞というのが一番大切なのですね。聞いて聞きっぱなしにするのでなく、聞いて考えてそして実行する。先に申しましたように自分の我流ではいけませんよ。ピアノをただ弾くにしてもやはり指の立て方あるいは弾き方だと、洗練されたものがあるわけであろう。これはいらん話ですが、私は化学の実験をやるわけですが、試験管を振るということがあるんです。なんでもないようですが、本当にわかっているのといないのとでは大分違います。肩、(ひじ)、手首に関節がありますね。試験管というのは手首の関節、手首のスナップで振るのです。要するに人はやはり指導を受けなければならんのです。聞くということ、聞きぬくということがあるのです。蓮如上人は「仏法は聴聞に極まることなり」と言われた。そう言われたのはここに根拠がある。「いかに不信なりとも聴聞を心に入れ申さば御慈悲にて候ふ間信を獲べきなり」と申された。聴聞の聴とは、耳をそばだて聞くということ、いわゆる聞き抜くと言うことを言っているのです。それには読書というものも入っているのです。読書は書かれたものを聞くわけですから、これも入れて聞というのです。

 何を聞くのかというと其の名号を聞く。其というのが非常に大事なのです。そこがいわゆる善知識という問題です。それはよき師、よき友を通してということです。其というのは代名詞ですがこのすぐ前に「十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃歎したまふ」という文章があります。その十方諸仏を受けているのです。現代流に言うと、よき師よき友のということです。そこでよき師、よき友を通してということ、これが非常に大切なことなのです。これが抜けると仏法の方法論にならないのです。禅宗におきましてはさとりというものが重んじられているわけで、座禅が中心である。けれども禅宗では、先生あるいは指導者というのを厳しくいうのだそうです。師を老師と申しますね。あなたの老師はどなたですかと必ず聞かれるんだそうです。禅でもやはり指導者というのは非常に大事なのである。要するに仏教においては、禅宗に限らず必ずよき師というものがいるのです。それが大事なのです。それが仏教方法論なのです。「いや俺は俺のやり方でやるんだ」。これじゃ仏教方法論にならんのです。つっかけをはいてヒマラヤに登るようなものです。「いや俺には俺のやり方があるんだ」それじゃ困るのです。それは仏法の方法論を用いなければならないのです。それはなぜか、できればそれは後で申し上げます。

 もう一つ諸有衆生、これは姿勢をいっておるわけです。罪悪深重という言葉があります。あるいはキリスト教で言えば罪人という言葉がありますが、その罪人として頭を下げていくという姿勢を諸有衆生と申すのです。これを現代流に申せば、頭を下げてよき師、よき友を通して教を聞きぬくということです。それを仏教方法論というのです。仏教方法論というのは高原覚正氏の言葉を借り、内容は私が敷衍しました。「幸に有縁の知識に依らずばいかでか易行の一門に入ることを得ん哉」というのは誠に正しい言葉でして、これは仏法の方法論を示している。この根拠は本願成就文にあるということを申しました。

 先に善知識の役割について申しました。勧証護讃ということで申しましたが、もう一つ『華厳経』によれは、それを「畢竟軟語、畢竟呵責」と申します。畢竟というのは、徹底的に、あるいは最後までということです。軟語というのはやさしい言葉ということです。私に理解出来るような、私にピ夕ッとくるたとえをあげ順々に筋道を立て、そして私にわかるように言ってくれるのを畢竟軟語と申します。

 それに対して畢竟呵責ということは、私を徹底的に叱るということである。呵というのは大きな声で叱るということで、大喝一声というものです。責というのはせめる、つまり厳しく批判するということです。我々は順々と解き明かされるという大事な一面があると共に、もう一つ叱られるということが大事なんです。悲しいかな我々は年と共に叱る人をなくしてゆく。しかしながら人には本当に自分の間違いを指摘してくれる人が必要です。それがよき師というものなのです。それを畢竟呵責というのです。もう一つ軟語呵責という言葉があります。柔らかな言葉で厳しく叱るということです。小さな声、やさしい言葉で、しかも厳しく叱られておるということがある。それが軟語呵責です。我々はそういう人を持ちそれを聞き通していくということが大切なのです。

 仏教方法論をまとめてみると、一つには聞きぬく、すなわち継続一貫である。これは最後までやりぬくということです。これが先ず仏教方法論の出発点です。いいかげんの所でやめるのでなしに、最後までやりぬくということです。信仰には危機というのがあるのです。それは一つは外からです。外から「そんなものはやめてしまえ」という声が聞こえてきます。「信仰なんて、君それはもう……」といって外から聞こえてくるのです。必ず皆そういう目に遇う。また自分の信頼している先生が意外な事件を引き起こす。それによりがっくりする、そういうこともいろいろある。信仰の危機というものは、もう一つは内から「私のようなものはとても駄目じゃないか」、「私のようなものは何回聞いても同じじゃないか、何の進展もないし、前進もないし……」という自分の中で自分を危ぶむ心が出てくるのです。そこで人はこの内の声あるいは外の声に引きずられて途中でやめていく。どれほどの人が途中でやめていったか、私は大体三十年間聞かしていただいて、そういうことを痛感するのです。最後まで頑張らなければいかん。これは意地でも頑張らなければいかんですね。仏教というのは意地の強い人でなければ出来ない。余程根性の悪い人間でないと出来ないんですよ。やりぬくというのは大変ですからね。内で私の心の中がどんなに「お前やめとけ」と言っても、「お前はそういうけれども俺は行くんだ」と言って頑張らなければいかんのです。これが聞きぬくということです。

 もう一つはよき師よき友を持つということです。この二つが大切だと思います。先に頭を下げてと申しましたが、これは最後に結果として、結論として出てくる。したがって始めからそれを要求するのは無理ではなかろうかと私は思うのです。人間は、初めは頭を下げてというようなことは出来ないのです。やはり批判的に、あるいは好奇心あるいはなんとなくというようなことで出発するのであって、みな初めは疑問を持ちながら聞いているわけです。したがって諸有衆生ということは今は省略しまして、先ずこの二つだと思うのです。それを仏教方法論というのである。現在いろいろな『歎異抄』の書物が出ておりますが、私はこの前の席でそういう書物を推奨しなかったのは、ここに問題があるんですね。よき師よき友を持たない人だなあということを、読んで私は感じるのです。なぜ感ずるのかということを申して最後にしたいと思います。

 先般亡くなられましたが、評論家として活羅された亀井勝一郎という方があります。親鸞の宗教について深い造詣を持たれたお方で私もその書物をかなり読ましてもらいました。その中に暁烏敏という先生についてのことが出ております。この方もずっと前に亡くなられましたが、御承知の方もあろうかと思います。大変立派なお方で、その遺弟の方は現在も会を続けられているということです。暁烏敏先生に亀井勝一郎氏がお遇いになって、いろいろ話をされて帰られる時に次のように言われた。「亀井さん、あんたは先生を持たん人間じゃの」と言われた。それから先は書いてないんです。なぜ言われたかも書いてないのです。そこで私は、先生を持たない人というのはどこが違うのかなと考えた。逆に本当によき師を持った人はどうなるかと申しますと、大きな特色がある。一つには柔軟、柔軟とは何かというといわゆる剛直あるいは強情ということの反対です。では強情剛直とはどういうことかと申しますと、自分の主張を貫き、人が「ああ」言えば「こう」言う、「あなたはそういうけれども私はこう思うんだ」と言って譲らない。「そういうのもディスカッションと言っておもしろいじゃないか」。そりゃおもしろいですよ。悪い事ではありませんが、もし向こうの言うことに道理がある場合でも、こっちは言い張るということがある。それに対して柔軟というのは、道理が道理とわかれば「なるほどそうでしたか」と一言って頭を下げる軟らかさを持っていることです。この軟らかいということが大事なのです。亀井さんにはそこの所が足りなかったんじゃないかと思いますね。暁烏敏先生が帰りに言われた言葉はそういう意味だと思います。その人の言うことにいつも「はい、はい」言っていたのではつまらんですね。しかし、道理が道理だとわかれば「そうですか、わかりました、ありがとうございました」という謙虚さ、軟らかさが大事だということです。それは弟子としてよき師よき友を持った人に、必ず共通して表われる性質です。

 二つには忍ということです。忍とはしのぶということです。しのぶということはどういうことかというと、それは「願い」だろうと思います。じっと長い目で物を見る心だと思うんです。たとえば、私事になって恐縮ですが、私は寮を建てまして、二十人程の寮生を置いて一緒に生活をしております。そこでどうか早く仏教というものを理解してもらいたいと思う。しかし大体自由にさせております。しかしながら恐ろしいもので、一年生二年生の時はわからないですが、三年四年になるとだんだんと仏法を聞いてくれるようになりますし、卒業の頃には一生仏教を続けていこうという人が出来る。今ここに苗を植えたとする。するとその苗が着いたか着かないか気になります。御承知の通り苗が着いたというのは、根から白い新しい根が出て、初めて着いたのですね。苗を時々つまみ上げて、着いたかな、着かんかなと確かめていたら、決して着きはしません。これは放っとくしかない。しかし、放っておくにはものすごい力がいります。我慢出来なくなるようなこともあります。しかし、私自身もまた私の先生のお心で育てられたのです。そういう先生のお心を思うと、そう簡単につまみ上げてみるわけにはいかんのです。人間というのは、長い長いよき師よき友の忍によって生まれてくるのです。それがわかると私は、短気を起こさないでじっと見守ろうという気持ちになる。これは大分いらん話になりましたが、今は本当に師、友を持った者はこうなるんだということを申しました。今日は「有縁の知識」というところで、いわゆる仏法の方法論が述べられているのです。それが「幸に有縁の知識に依らずば(いか)でか易行の一門に入ることを得ん哉」と挙げられているのです。初めに申しましたように、出来るだけ全文を暗誦していただけるようになると幸せであります。

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