突き出す力
 「教員タルモノハ常ニ寛厚ノ量ヲ養イ中正ノ見ヲ持シ就中(なかんずく)政治宗教上ニワタリ執拗矯激(きょうげき)ノ言論ヲナスナドノコトアルベカラズ」
 冷たき九寸五分は三方(さんぽう)の上にのせられてわが前におかれてある。
 「教職にいたければ、念仏の宣伝をやめよ! 光明団を続けるならば、教職を去れよ!」
 九寸五分をとって、みごと腹を切ってみ光のために生きようか?
 光明団を瓦壊して、静かにして平安なる教育界にいようか?
 村の一部落に忽然(こつぜん)として、少数の社会意識を代表する一青年は村当局に迫った。
 苦しい村当局を救うために、一週間の暇を願って帰って来た。
 誰もいない日暮れ近い音楽室にはいって、椅子(いす)にもたれてじっと深く考えに沈む。仰いで天井を見るともなしに見つめれば、笑った悪魔の顔のような模様がみえる。雨漏りのためにできたシミである。
 尊い菩薩のような像、花、雲、死人の顔………種々なる思いがそれについて沸く。
 さびしいさびしい心が灰色な空のように、深い山奥に一人はいったように続く。
 「人生は孤独だ!」
 たった一人なのだ。最後という時たった一人なのだ。
 「どちらを行こうか」
 どちらかを選んで進まねばならぬ。この人生の岐路に立った時、人はいちばん、たった一人だということを深く体験する。
 誰が定めようもないではないか。もし人間が、よせかけよせかけ迫って来る人間苦をいいかげんにごまかさずに、まともに見つめて行くならば、もっと人生のほんとうを知ることができる。
 そうだ。苦は、ある意味において人間に与えられた尊い実なのだ。苦の取扱い一つで豚にもなれば親鸞にもなるのだ。
 精神生活を忘れた人たちは、この実を惜しげもなく捨てているのだ。
 「教職を捨てようか。」
 無限の執着がわいてくる。この生活のために十五年を費やしてきた。そうしてこの道を行けば(もちろん光明をすてて)平安な、のんきな一生涯かも知れぬ。
 教育界で雄飛する。ちょっと十年前、今まさに教育界に出るというころ若い功名にあこがれる自分を見出した。
 教職を捨てる、自分の生活の革命である。かねて覚悟していたことではないか。それが今来たのだ。
 子供。子供。子供のかおが一度に見える。先生先生とさわぎたてる教室の様が、皆桃色の心を持ち、桃色の声を出し、桃色の世界に住み、桃色に笑う子供がいっせいに私の心をひっ捕えてしまう。
 どうして、彼らを捨てて去られようぞ。
 無限の愛執がわいて、うるんだ心になる。思わず涙はゆかに落ちる。
 この学校を去る。
 満七年間、学校の隅々の木までが皆私のものであった。四年前に郷里から持って来てさした(はし)くらいなポプラはもう三(げん)にもなっている。
 一生涯を捧げようとした学校のすベてはほとんど僕の手を要している。それを今捨てるのか。
 光明団を捨てようか。そして、
 念仏を教壇の上に生かす。それがほんとうの念仏行者の生き方ではないか。
 それに私は何ゆえに名利に人師をこのむのだ。小慈小悲もなき身ではないか。
 牛ぬす人とは見ゆるとも後世者、仏法者とは見られるなと教えられているではないか。
 たった一人永久に静かにあの桃色な子供の純なあざやかな生命の音波を念仏のこのむねに受けて生きようか。
 それに、おれはパンの資を失うではないか。忙しい生活を捨てて、ほんとうの人間らしいゆとりのある生活、午後二時には授業がすむ、三時まで事務をとる。そして平和な家庭にかえって読書する。平安な生活ではないか。
 何! 何! 何?
 (なんじ)は平安な生活なら、どんなに生命のない生活でも去勢された生活でも、妥協の生活でもいいのか。
 汝は、平安な生涯を求めて、言いわけをつくろうとしているではないか。
 「パンがなければ生きてゆけぬと?
 それがお前のほんとうの声だったのか!」
 おお。おお。
 「お前が生まれて出た時、
 生まれる先に、
 お母様のふところには暖かい乳が用意されてあった。
 大空と、太陽と、縁の大地とが用意されてあったではないか。
 それから二十九年間。
 生きねばならぬ生命の前に、食うことを拒まれた一日の飢えさえあったか。
 生きねばならぬ間、食わされてある。食わされる間、生かされる。
 生かされる間、食わされる。」
 それがお前の信念ではないか。
 善と悪。平和と荒波。
 物質と生命。子供と同胞。
 魂の破産か! 世界がクルグル回る。
 何も見えぬ。何も考えられぬ。何もわからぬ。わが魂は、体をはなれて高く高くまい上がるのか。………夢か………うつつか!……‥お前はお前を信じて下さったたった一人。たった一人のさびしい魂を持った同胞の胸に信じられたお前までが、その感じ易い胸に、妥協とソロバンのほか知らぬ万人にもまさる人の世の宝玉のような、その若人の胸に、お前までが、焼鏝(やきごて)をあてて、人一人殺すのかの……………
 夢か! うつつ!
 おお、み仏様。このたった一人の私に、今も現に、この私を見て泣いて下さる。
 南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
 書もほしからず。悪もおそれなし。
 すべての情実、批判、理論、そんなことのすべてまにあわぬ生命のみの踊り、ほとばしり、不退に生きんと燃える、つき出す力。突然、
 「生きよ! 突破せよ! 大死!
 町の裏には、さびしい魂がふるえながら、永遠の生命を得たさに、震えているではないか!
 山の奥の若人は、真実を真実をと、学問よりも教えよりも名前よりも、もっと高価な、何かを得たいと青白くやせているではないか。
 死より忙しいことがあるか。
 仏のみ胸に誕生するほど大きなことがあるか!
 立てよ!
 何でもふるい落して、猛進せよ!」
 そうだ。私は自由を願う。この煩悩の中から、飛び出す力、その力の権威をどうすることもできない。
 学校を去る。
 自由に如来の大悲を叫ぶのだ。
 それが善か、それが悪か、そんなことを問うほど心のひまはない。
 弥陀の本願力によって、
 すべての苦悩をつきぬけて、つき破って、野こえ、山こえ、三悪道
(*62)を越えて、安養浄土に生まれることのできる、不退の魂の前には、
 その行くところ諸神諸仏は、我を守り鬼神は首をたれて尊敬する。
 魂の底からふき出す力、自然にほとばしり出る、どうすることもできぬ、絶対命令。
 「念仏とともに自由に生きよ!」
 学校をやめるのだ。もう一週間の後に返事すればいい。
 何らの重荷も、苦痛もない心で、音楽室を出た。
 私はこの学校を去るのだ。
 さっき五時すぎであった時計は、六時すぎになっていた。(六月十五日)



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