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「人生とは」と問われたら、私はいつも「教化である。」と答えて来た。
動物の集団と、人間の社会との相違は、かかって教化の有無にあるがゆえに、教化のない社会が、動物本能のまる出しや、悪逆の罪業そのままであることは当然のことである。
真実の教化がない世界では、人は必ず悪い教育を受ける。人生に動物の世界よりもっと悪い一面を持つのはそのためである。
尊い人、知恵のある人、道の人は必ず正しい教育から生まれた。であるから聖人が、教えを何よりも問題とせられ、教えを、虚偽と、権仮と、真実との三つに分けられたことは、まことに当然のことである。
人生において、真剣に生きることを考えたほどのお方は、皆、身をもって、衷心の願いとして、教えを求め、教えを聞き、全我をあげ、一生を貫いて教えに生きられた方であった。
生まれた日のある我らは死なねばならない日がある。いつそれが来るか知れない。それを思う時、厳粛な声として、如来聖人の教えがせまってくる。もとより我らは微塵大の存在ではあるが、たった一つみ教えに生きさせていただくというだけは許されている。ありがたいことである。
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